私は沖縄に住んで7年目だが、このところ演劇・写真展・映画鑑賞が重なった。1月24日那覇の琉球新報ホールで、劇団トルの「キャラメル」(キム・キガン脚本・演出・出演)、1月25日石垣市の市民会館で、比嘉康男・上井幸子写真展「ときがみつめる八重山の祭祀写真」、2月Ⅰ日那覇の桜坂劇場で、映画「ちむぐりさー菜の花の沖縄日記」(平良いずみ監督)、2月3日名護市民会館大ホールで、映画「米軍が最も恐れた男 カメジロー 不屈の生涯」をみた。
1月24日・25日は運良く日程が連続し、2月Ⅰ日は車を走らせる人がいたから、那覇まで行けたのだ。地元で行われたのは、2月3日のカメジローだけだが、これとても自主企画が行われたから行けたわけだ。企画関係者の皆様に感謝だ。
ここでそれぞれの作品について論評するつもりはないが、これらの作品は、普段の生活の中でなかなか考えたり、反芻できないことを想起させてくれる文化作品だった。それは、自分を見つめるということだったり(「キャラメル」、「ちむぐりさ」)、過去・現在・未来に繋げる力(「八重山の祭祀」、「カメジロー」)だったり、歴史の中から学び取るものだったり(「キャラメル」、「カメジロー」)するが、要するに今、如何なる人間関係の中で生きているか、いくのかを見つめ直すことになる。
私自身フォトグラファーであり、日常の撮影を越えた作品を作り出すためには、日常に埋もれず、この日常を掘り返していくことが不可欠だと考えている。常に新たな視点の構築である。だからこそ、日常以外の空間での撮影と、文化的な刺激がもっともっと必要なのだ。
特に今日の政治が余りにもデタラメな言い逃れで、開き直るやり方を見させつけられていると、これを簡単に克服することは不可能だと、私は思わざるをえない。短期決戦で変えられるとは思えないのだ。没論理の権力に対抗することは、我々自身が「王様は裸だ」と鋭く見抜いていなければ、彼らへの支持を引き剥がせない。これは受け身では不可能だ。かなりのレベルの能動性が求められる。
カメジローをみて痛感したことがある。高等弁務官によって那覇市長の職を奪われたり、市財政を止められたり、メチャクチャな弾圧を受けながら、圧倒的な市民の支持を受け、反撃していく姿は眩しい。こうしたことはカメジロー人気が高かったばかりか、多くの市民が自治を進めなければ生きていけないという勇気と覚悟をもち、ともに歩み出したからだろう。当時のカメジローの人民党は自治ということを正確に弁えていたのだ。文化による自治の喚起が素晴らしい。これは、自分の課題でもあるのだ。