ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【拡散願いま】下地島・伊良部島・宮古島から帰宅して、考えていること(20240224)

2024年02月24日 | 沖縄暮らし

おはようございます。2024年2月24日(土)曇

 今回は、那覇空港から下地島空港への往復でした。19日、下地島空港から伊良部島を徒歩で半周。そして宮古島にバスで移動。下地島・伊良部島には昨年4月の陸上自衛隊のヘリ墜落事故で、私は連続して2回行きました。あれから早くも10ヶ月ぶりになっていた。20日は野原(空自第53警戒隊)と千代田(陸自対空・対艦ミサイル部隊)へ。21日は宿の移動で一休み。夕方、地元の団体の皆さんの街宣行動を撮りました。22日弾薬庫のある保良へ。そして23日帰路へ。

 やはり島の軍事化の密度が確実に上がってきています。保良弾薬庫の区域に小型の演習場が造成されつつあります。空自のPAC-3弾道弾迎撃ミサイルが持ち込まれており(野原基地)、空自と陸自の連携した軍事作戦の幹が造られていると感じます。今回、宮古島飛行場周辺で連日軍用機はこないかと撮影態勢を取っていましたが、私が見ている時間帯にはゼロでした。また、平良港にも軍の影を見ることはなかった。

 19日夜、沖縄島の友から電話が入り、長電話に。改めて沖縄島と宮古島の軍事連携を意識していかなければならないと痛感。点としてのうるま市・名護市、点としての宮古島・石垣島・与那国島ではなく、軍事ネットワークに繋がれて動いていくのです。昨年4月の事故の時は、ホワイトビーチや佐世保の掃海艇が宮古島・伊良部島の海域で「捜索活動」を行なっていました。こうした繋がりを私達がどこまで見ていくのか否か。

 私達は、より広域的に、線として面として見ていかなければ、なりません。海上保安庁は、尖閣海域などで自衛隊(日本軍)と共に、行動しているようです。伊良部島の海保の拠点長山港に接岸している巡視船は数隻だそうです。多数が尖閣方面に出張っているようです。領土・領海争いを始めてしまった両国は、これからどうなっていくのか、予断を許しません。問題は「台湾有事」という大問題のみならず、日中両国は触手を伸ばしているのです。

 権力政治は、利益と軍事力によって、両者をダブらせて考えており、「争いを辞さず」の国に先祖帰りしている日本国。争って利益を得るのは、上流階級のみです。軍人、住民に出血をしいながら、再び「栄華」を極めたいようです。

 私は頭を柔軟に動かしながら、何処にいても、余所のことも、ビビッドに動くようにしていなければならないのだと、痛感。ひとつ嬉しかったことは、沖縄島から来ていた知人から保良を歩いていると、「山本さーん!」とお声が掛りました。どちら様かと思いました。宜野湾市在住の方でした。やはり自分の現場を意識している方は、一般論として「島を戦場にさせない」を超え、具体的な繋がりを見通しながら、共に、連携していく事が重要です。「沖縄本島」と称し、「周辺離島」などと見ていては、絶対に相互の信頼関係を作り上げることは不可能です。

 こういうと「やまとんちゅうのお前に言われたくない」と一蹴されるのが落ちですが、今最も自戒すべきことだと、私は考えます。水平な人間関係づくりは、難しい。夫婦関係、親子関係etc。だからこそ「統一協会」などは、こうした水平な関係を否定した縦の支配の頭を日曜の「常識」・教義にしているのです。ここに、歴史的な天皇主義家族観とがっちりと重なっている。だからこそ、私達は日常の意識を常に問題にしないとだめなのです。

 本日は新基地建設を問うた県民投票から5年目。早いものですね。結果は、この国の「辺野古が唯一」を変えることはできていませんが、問い詰めていくことなしに変えられない。めんどうがったら、私達がますます酷い目にあわされる。下手をすれば、再び私達は「加害者」にもさせられていく。苦しいけれども、踏ん張り時です。



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