これは昨日のことだ。昨日は午前中に、名護市議会を傍聴してきた。大城松健議員が犬猫等の飼育環境を如何に改善していくのかを問うた。初めての質問だったので、基本の基の応答であり、これからの質問に期待している。久しぶりの市議会傍聴であり、私は何をどうしたらいいのか、焦ったが無事に終了。
帰りに買い物をしたのだが、1個忘れた。コーヒー。そろそろアイスコーヒーにしようかと思っているが、まだ早そうだ。夕方食事の支度としてお米を研ごうと思ったら、ごはん茶碗の底がきれいに抜けていた。おいてあったのだが、音もなく分離していた。茶碗の替えがない。そんじゃと、もう一度買い物に出かけた。コーヒーも買ってきた。茶碗110円。安いが、味も素っ気もない。今度ちゃんとした陶器の茶碗を買ってこよう。ただの容器ではない、プラスの道具を。
それにしてもきれいに分離したものだ。不思議と言えば不思議。食べる前の茶碗だったから、異状を視て、触って確認。たいしたことではなかった。そういえば、1980年代の秋のこと。40年前か。山梨県の茅が岳(岩稜)登山中に、ザックの底が抜けた。これは焦った。しかし細いロープをもっており、これで底を押さえて、無事完登。底が抜けるのにも色々あるものだ。
「安保3文書」も底が抜けた状態だ。これをどう評価するのかは重要問題だ。文書に書かれたことは、物質とは言いにくいが、その意図するところは物質的なものであり、軍事と政治と経済の姿を変えていく。権力の手法に追いついていないのが、我々だ。
茶碗の底が割れるなど、目に見える事態なら、わかりやすい。軍事を見抜くのは、認識論では不可能だ。軍事特有の存在論を研ぎ澄まさなければならない。えらいこっちゃ!