2020年12月13日に私が遭遇した案件が、本日一件落着した。私の主張が認められ、会社から謝罪と改善策が示された。完璧な解決なので、ここでも事案を明らかにすることはしない。
ただ暮している中で遭遇したことを如何に社会化するのか、この問題について触れておきたい。感情的に怒ったことを社会的な問題だと気づき、整理し指摘しない限り、もやもやが募るだけだ。ほっぽっといたら、釈然としないままに終ってしまう。
先ず大切なことは、そのとき何があったのか、この記憶をひとつひとつ洗い出し、何が起きたのか、何が問題なのかを整理する。無論相手があることなので、相手の内情を調べ、如何したら最適なアプローチができるのか、これを考えることが重要だろう。具体的なことを書けないので、よくわからないかもしれないが、会社内の問題と、社会的な問題とをダブらせながら、整理する。こう書けば簡単に見えるが、感情が先行していれば、頭が濁って整理できない。こうしたときに支えてくれる友人や団体があれば、全然違うはずだ。
ある意味、今回の私の屈辱は、ささいなことだろう。もっともっと悔しい思いをしながら、言葉にならず、泣いている人がいるのだと再認識させられた。その典型は、セクハラの被害者だろう。これ、記憶を思い起こすことだけで、泣くしかないだろうと思う。記憶を思い起こし、整理しない限り社会化できないし、相手と向き合えない。
孤立していたら、社会化する、それ以前の言語化することじたいが難しい。今の日本社会は、正にその最悪の孤立化を人々に強要している。だからこそ、労働者的な団結などというはるか以前の段階で、対策を考えなければならない。
菅政権が言う「自助・共助・公助」は、この孤立化を前提にしている発想だ。この限りでは社会化できない。社会化できなければ、「公助」を求めることじたい浮かんでこないのだ。
こうした発想に抵抗するグループが、今様々に作られているし、もっともっと創るべきなのだろう。既成の組織も自己変革が問われているだろう。お互いに学び合うことが重要だ。
これは沖縄でもそうだろう。色々と考えていかなければなるまい。私の小さな案件から、思い浮かんだことは大きいようだ。