おはようございます。
今年ももう半年が過ぎていきました。
私も7月3日で77歳となりました。
元気で長生きは良いですが、介護や寝込んで長生きしたくありません。
自分でも今までの元気がなくなり食事も少食になりました。
家内もこちらに来た時に比べますとよくなってきていますが、何をするにも補助が必要
大変ですよ!
一人でゆっくり風呂に入りたいと思います。
自分勝手な愚痴につき合わせてごめんなさい。
今日の写真は昭和39年12月と40年1月のものです。
(7)の写真の右側の小屋が蒲生信号所です。
助役一人が24時間勤務をしていました。
今はコンピュータで自動で信号を現示しますが、このころは上下列車を1列車づつ信号を取り扱っていました。
昭和41年8月3日に下り普通列車がB線から本線にポイントを渡っているときに下り急行列車が居眠り運転で
普通列車の側面に衝突 翌日初発まで運休になってしまいました。
私 衝突された列車の1列車前を運転して淀屋橋について後守口まで運転すれば勤務終了でしたのに最終列車まで
淀屋橋―天満橋間折り返し列車の運転をしていました。
その夜は天満橋3番線に留置した1700形のシートで仮眠しました。
40年務めていろいろありましたが、この事故が一番思い出の残っています。
今回は自分のことばかり書いてしまいごめんなさい。
次回も京阪の続きを見てもらいます。
(1)2202 新車 守口車庫 まだスカート未整備 S39.12.
(2) 2202正面 守口車庫 S39.12.
(3)2202側面 守口車庫 S39.12.
(4) 2252 守口車庫 S39.12.
(5)1904 特急淀屋橋行 (京橋―野江間) S40.1.
(6) 2252 下り試運転 京橋―野江間 S40.1.
(7)2202 下り試運転 右手にある建物が蒲生信号所(京橋―野江間) S40.1.
(8)2051 普通萱島(黄色角板) 京橋―野江間 S40.1.
(9)1920 特急淀屋橋行 京橋―野江間 右側先に野江駅あり S40.1.
(10)2202 上り試運転 京橋―野江間 S40.1.
(11) 2252 上り試運転 京橋―野江間 S40.1.
2001年の京阪電車
今回の写真も大和田駅での撮影です。
(1)1501 準急樟葉行 大和田 2001.(H13.)11.
(2)1502 普通出町柳行き 大和田 2001 (H13.)11.
(3)1503 普通萱島行 大和田 2001.(H13.)11
(4)1504 上りB線回送 大和田 2001(H13.)11.
(5)1505 上りB線回送 大和田 2001.(H13.)11
(6) 2209 普通出町柳行 大和田 2001(H13.)11.
(7) 2211 上りA線回送 大和田 2001(H13.)11.
(8)2218 普通萱島行 大和田 2001(H13.)11.
(9)2219 上りA線回送 大和田 2001(H13.)11.
(10)2221 準急樟葉行 大和田 2001(H13.)11.
鉄婆の写真
今回も名鉄の写真です。
(1) 2208 特急中部国際空港行 国府宮―奥田間 H29.4.
(2) 3167 普通須ヶ口行 国府宮―奥田間 H29.4.
(3) 1131 特急豊橋行 国府宮駅―奥田駅間 H29.4.
(4) 3703 急行豊橋行 国府宮駅―奥田駅間 H29.4.
(5) 3153 普通須ヶ口行 国府宮駅―奥田駅間 H29.4.
次回は旅行に行ければ遠州鉄道に行きたいと思っています。
先月は体調が悪く中止になりましたので今回は体調に十分気を付けていきたいと準備しています。
蒲生信号所の追突事故は私が5歳頃の出来事です。リアルタイムで事故を知ったのではありませんが、後にNHKが「鉄道事故総まとめ」としてニュースの特集コーナーで放映していました。大きな鉄道事故が頻発した頃だったようです。
空撮で「3扉改造直後の1700系」が脱線して「くの字」になっている画像が5歳の頭の中に焼き付いていました。後に図書館で新聞の縮刷版を調べてみたりしたのですが結局見つかりませんでした。偶然にも先日ネットで検索してみたところ当時の記事と画像(毎日新聞社取材)を見つけました。
クリックhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%92%B2%E7%94%9F%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85#mode%3Ddetail%26index%3D6%26st%3D0
鉄パパ様は事故直前の列車を担当されたとの事。驚きました。これからも奥様と共に健康にご留意下さい。
おはようございます。
先日の愛知県は激しい雨だったようで
鉄パパ様のところは、大丈夫だったでしょうか
なるべく被害が少ないようにと願います。
私のところも、5年前床下浸水になりました
役所に使い物にならなくなった、家電や
家具など引き取りに来てもらい、掃除も大変でした
こんな時、平凡に一日暮らせるのがありがたいです。
画像の、蒲生信号所ですが、なんとか記憶に残っています
助役さん一人で24時間勤務は大変ですね
部外者からは分からないご苦労もあったかもしれませんね。
また次回の更新を楽しみにさせていただきます。
コメントありがとうございます。
あの事故のあったのは私が運転士になって1年が過ぎた頃でした。
そのころ一年過ぎると特急を運転することができるので楽しみにしていましたが、この事故でもう一年延びました。
今は責任事故はほとんどないようになりました。
またコメントお願いします。
ありがとうございます。
コメントありがとうございました。
旅行の帰りにラジオの速報で大雨による浸水が絶えず放送されていましたので途中で切り上げてきました。
幸い私の住む稲沢では被害はなかったようです。
愛知県は海抜0メートル地帯が多いようです。
旅行は行く時から時々大粒の雨が降ったりしていましたが、長くは降っていませんでしたので助かりました。
その時に大阪でも大雨が放送されていました。
最近の雨は思いもよらないことが多いので気を付けなければなりませんねぇ!
遠州鉄道ではみその中央公園駅ホームから撮影しました。夏草が伸びていて困難だったのでホームからの撮影でした。
天竜浜名湖鉄道も駅撮影で撮影しました。
またブログで見てもらいたいと思います。
ありがとうございました。
かつてこの辺りは国鉄との交差が面白く、京阪の急行の車窓から城東貨物線のD51牽引の貨物列車が複々線を跨ぐのが見えたり、京橋が近づくと、淀川電車区や淀川貨物駅に繋がるデルタ線を京阪の複線が跨いだりしていました。
スカートが無い2200系の写真は珍しいです。
正面に(臨)(鳩-特急)(臨)のマークを掲げて特急運用されていた姿には凛々しいものがありました。
コメントありがとうございます。
蒲生信号所での事故のため特急運転が1年延びてしまいました。(現在はわかりませんが、当時は1年間は普通~急行までしか運転できませんでした)。
京橋―野江間では城東貨物線から淀川電車区(片町線電車と貨物駅があり貨物列車も走っていました。)が国道1号線を踏切で越えて京阪の下を通っていたし、蒲生信号所の野江駅方の高架上をSLが走っていました。
懐かしいことを思い出させていただきありがとうございます。
これからもコメントお願いします。
ありがとうございました。