壊れた花瓶は捨てるしかないのでしょうか。
このような事は書くべきではないのでしょう。
このような想いを持つべきでもないのでしょう。
しかし、「治癒」のためには、自身を見つめ直す時間を確保することが大事かとも思います。
ある日突然、
自分から、一番大事なものが消えました。
「登山」。
大好きで、掛け替えのない行為。
今でもなお全てを忘れて没頭したいもの。
それが、出来なくなりました。
「鬱病(適応障害)」のせい? です。
「自分は癌患者だ」
と言われる方がまだマシだと言ったら、非難轟々でしょうね。(ちなみに、私の叔父は癌で亡くなっています)
ただ、
「自分は鬱病(適応障害)だ」という状態に、自分自身がいざなってみると、
それが長期に渡ると、
そう思わざるを得ない時もあります。
癌ならば、
「あぁそうか。治すためにこうこうあれこれの手段を投じていこうね。」と具体的施策もしていくのに対し、
日本という国では、
何故か、「精神系」の病というだけで、
「あぁ軽いね。楽だね。」という風潮がまだまだあります。
都市部ではなく、田舎の医院だと尚のこと。
よく言われるのが、
「鬱病は、単なる思い込みの病」
「病気ですらない(すぐ治る)」
「心の持ちよう次第」
「これまでの考え方を改めろ」
「身体上の重大な疾患を負った者と一緒にするな!甘すぎる」
というご意見。
いずれも間違いではないのでしょう。尤もなご意見だと思います。
ただ、こういう意見でしばしばあるのが、
個人個人の「特性」を無視した暴力的一般論の押し付けです。
人間の数だけ生き方があり、
その特性・性格も異なり、
環境も異なり、
当然、健康状態も、治し方も異なります。
日に日に増大する頭痛。
船酔い状態のような意識の不明瞭さ。
たまにですが、自身が何を言っているか意識が飛ぶこともあります。
言葉がうまく出てこない。
記憶力の減退。
疲労感。
休みを増やし、なるべく仕事以外のことを考えないようにしたいですが、
勤務日数が減る=出勤時にそのリカバリーに追われる、という負の連鎖が募り、休んでいる感じが全く無い始末。
療養と回復に努めるも、あの大好きだった「登山」には「何故か」行けず。
行きたいのに行けない。憧れるのに行けない。
無理して山に行っても、多分、「想定以上に」シンドさが増して更に日常が大変になりそう。
さぁ、どうするか。
思考をリセットしないといけないが、どうするか。どうするか。
そのリセットの仕方すら、消えてしまうのです。
たまにこういう思い直しで、現状をまず見ることからしていこうと思います。