意識がどこから来てどこまで行くのか?
そもそものことだけれども、意識というのは有って無いようなモノだと思う。
身体そのものが自然の中で誕生し消滅していく。
その過程の中でとりあえず一定を保とうとする。
それが、ただの意識である。
エントロピーが増大して混沌から統一へと導くもの。
ひょっとしたら意識とは自然を壊すものかもしれない。
本来あるべきものを壊していこうとするそういうブラックホールのようなものかもしれない。
本来は始まりがあり終わりに向かっていこうとする。
それが自然の摂理だろう。
それに対して抗がっていこうとする働き。
それが意識なのかもしれない。
そう考えると意識は本来は有ってはならないものが誕生していると感じる。
言い換えればこの世の本来あるべき姿を善とするならば意識は悪として存在する。
では、なぜそういうものが存在するのか。
それはやはり右があれば左がある、上があれば下がある、前があれば後がある、善があれば悪がある、という理屈。
まぁ、屁理屈か。
BIGBANGで始まった宇宙の存在は、BIGBANGの非常に大きな集積の塊から、ほとんど何もない希薄なものへと導かれていく。
その過程を時間という。
空間であり、時間であり、光の成長そのものだあろうか。
つまり存在があれば消滅がある。
そういった具合だろう。
自分というものが始まりだとするならば他人というものが終わりである。
私が私と言う意識を持ちながらそして私ではない何者かとして無意識に消え去る。
私という意識は最後には私とは感じられなくなるのが本来の私の終焉地点であるべき。
つまりは始まりがあれば終わりがあるのと同じ道理なのだ。
消える前に何を感じ取れるのか。
しかしながら感じ取ったとしても最後は消えるのだ。
一体なぜ?
理由なんかあるものか。
あるからある。
消えるから消える。
歴史は始まり、そして終わりに向かって進んでいく。
宇宙の始まりが巨大な比重の塊であるならば終わりは何もない希薄なもの。
つまりは、そういうことだろう。
それ以上でもそれ以下でもない。
つまり、そのものだ、と言う。
言葉には矛盾がある。
正しいことを言おうとしても必ず嘘がある。
どうしても嘘がある。
正しい事を発音してもそのままでは存在しない。
それも嘘だと言うのが言葉の本質である。
つまりはそれをどう受け取るかは受け取った側の本意である。
言葉を馳せられたもののために所有されていない。
受け取った側で言葉は変化する。
発言したものは虚しいから、それは意味をなさないのだろう。
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