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150年目、「明治維新」が問い直される根本理由 ~保阪正康氏が語る「賊軍」側からの見直し 2018.1.09 東洋経済ONLINE 

2018-01-09 23:13:39 | 歴史  歴史歪曲

150年目、「明治維新」が問い直される根本理由

保阪正康氏が語る「賊軍」側からの見直し

ノンフィクション作家の保阪正康氏に、「明治維新」を問い直す意味を聞いた(撮影:風間 仁一郎)
 
 今年2018年は、明治維新からちょうど150年目となる。政府は記念事業に積極的で、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室が設けられた。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
だが、その一方で、明治維新のありように異議を申し立てる書籍が相次いで刊行されている。書店の歴史コーナーでは『明治維新という過ち』『明治維新という幻想』『偽りの明治維新』『明治維新という名の洗脳』『明治維新の正体』『東北を置き去りにした明治維新』といった批判的なタイトルが目立つ。
いまなぜ、こうした歴史常識の見直しともいえる動きがでてきているのか。『賊軍の昭和史』(半藤一利と共著)の著者でもある保阪正康氏に聞いた。

「薩長史観」によりつくられた通史

――なぜ、明治維新の「常識」を覆すような書籍が次々と刊行されているのでしょうか。

よく用いられる「薩長史観」という言葉があります。明治維新の際の勝者である薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということです。要は「勝者が歴史をつくる」ということで、以下のような単純な図式で色分けされた歴史観だともいえるでしょう。

薩長土肥(官軍)=開明派(正義)
旧幕府側(賊軍)=守旧派(悪)

 

明治維新以来、日本の歴史教育は、基本的にこの薩長史観に基づいて行われてきました。歴史研究者なども、薩長政府の意向を忖度して「通史」を形作ってきた面もあると思います。われわれの歴史認識も知らず知らずのうちにこの薩長史観の影響を大きく受けてきたのではないでしょうか。

ところが、150年という歳月を経て、ようやく客観的に明治維新を見直す時期になったのかもしれません。

そもそも、勝者がすべて正しいはずがなく、敗者の側にも正義があったはずです。地域ナショナリズムの高まりのようなこともあり、その事実に真正面から目を向けるようなったのかもしれません。

そうした流れの中で、反「薩長史観」的な書籍が次々と刊行されるようになったと見ることもできるでしょう。書籍だけでなく、2013年に放映された大河ドラマ「八重の桜」なども、ずいぶん反「薩長史観」的な内容だったと思います。

――薩長史観には、見直すべき誤りがあるのでしょうか。

幕末に幕府が、意外に現実的な開国策や近代化策をとっていたことはもっと評価してもいいのではないでしょうか。薩長は「攘夷」を掲げて政局を動かし、そのくせ権力を奪取した後はあっさりと「開国」に転じています。

また、何よりも旧幕府側を「賊軍」として貶(おとし)めたことは見直すべきかと思います。とくに会津藩などは、賊軍の筆頭として討伐され、徹底的に蹂躙されました。しかし、史実を見れば明らかなように、会津は、律儀に天皇に忠誠を尽くして職責を果たしただけだったのです。謀略に明け暮れた長州や薩摩にくらべ、純粋に「尊王」藩だったという見方もできます。

旧幕府側にも正義はあった

――天皇も会津に対して絶大な信頼を寄せていたようですね。

孝明天皇は長州を避け、会津藩主の松平容保(かたもり)を深く信頼していました。このため孝明天皇は毒殺されたという説がささやかれているほどです。

一方、薩長は、天皇を「玉(ぎょく)」と呼び、おさえて利用しようとするきらいがあったように思います。

鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」が出たことにより、旧幕府側は戦意を喪失するわけですが、そもそもこの「錦の御旗」は薩長が作った偽物だともいわれています。同様に「討幕の密勅」も偽勅だったようです。薩長は自らの権力奪取のため、徹底的に天皇の権威を利用したともいえるわけです。

――「賊軍」とされた側は、明治維新以後も苦労したようですね。

たとえば会津藩は、23万石から3万石に家禄を減じられ、辺境の地である斗南(となみ・青森県)に追いやられました。寒冷不毛の地で、会津藩士とその家族たちは、塗炭の苦しみを味わいます。

後に薩長閥の中で会津出身者として白眼視されながらも陸軍大将に上りつめた柴五郎は、このときまだ少年でした。食べるものにも事欠き、塩漬けの野良犬を20日も食べ続けたこともあったと記録に残しています。会津藩は、薩長と戦った戊辰戦争後、生死に関わるような懲罰を科せられたわけです。

奥羽越列藩同盟軍に属し会津に味方したほかの「賊軍」藩も、家禄を減らされるなどしました。さまざまな差別もあったといわれ、賊軍藩出身者は、政官界などでなかなか出世できなかったといいます。

『賊軍の昭和史』で半藤さんがおっしゃっておられるのですが、昭和の戦争で活躍した石原莞爾(庄内)、米内光政(盛岡)、山本五十六(長岡)なども、賊軍藩の出身であったため、ずいぶん苦労したようです。

このように明治維新以降の近現代史についても、今まで語られなかった「賊軍」側の視点から捉え直すことができるのではないでしょうか。

――映画『日本のいちばん長い日』などで有名な、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も、賊軍藩の出身者だったのですね。

鈴木貫太郎さんは、賊軍である関宿藩(千葉県)の出身です。鳥羽・伏見の戦いが始まったころ、藩主が幕府の大坂代官だったため、大坂で生まれています。

その後、海軍に入り日清戦争で大殊勲を上げます。「鬼の貫太郎」といわれるほどの大戦果を上げたんです。

ところが、薩摩閥の系統の後輩たちに、出世では先を越されます。こんな不公平な人事をする海軍にはもういられないと、辞めることを決意しました。けれど、お父さんに手紙で「おまえは出世するために海軍に入ったのか」といさめられ、踏みとどまりました。

彼がここで辞めていたら、後の日本は太平洋戦争を終結させることができず、破滅へと向かっていたかもしれません。

――『賊軍の昭和史』では、「官軍出身者が始めた戦争を賊軍出身者が終結させた」というユニークな見方が展開されていますね。

終戦時の海軍大臣の米内光政のほか、戦争終結を強く望んだ海軍大将の井上成美も賊軍(仙台)出身ですからね。そもそも、この2人とともに戦前「左派トリオ」といわれ、日独伊三国同盟に強硬に反対した山本五十六は、会津に味方し官軍に頑強に抵抗した長岡藩の出身です。

反対に、日独伊三国同盟に前のめりだった陸軍や海軍の軍人は、官軍の流れを汲む人たちだったと見ることもできるでしょう。

ですが、何よりも私は、「勝てば官軍」的な「官軍的体質」をもった人たちが昭和の戦争を始めたと思っております。

それに対して、「賊軍的体質」を持った人たちが戦争を終結に導いたと。彼らは「負け方」を知っている、それで戦いを収めることができたのではないかと……。

 

鹿児島での「薩摩と長州はまったく違う」という声

――反「薩長」的な主張が目立つようになってきたことに対して、鹿児島県(薩摩)や山口県(長州)の方たちはどう思っているのでしょうか。

鹿児島に行ったときのことです。『賊軍の昭和史』を読んだ方から、こんなことをいわれました。

「先生は“薩長”という言葉で簡単に一緒にするけど、薩摩と長州は全然違うんですよ」

薩摩は1877(明治10)年、それこそ「西郷どん」の西南戦争で負けて「賊軍」になってしまいました。賊軍の立場も知っているわけで、ずっと官軍できた長州とは違うというわけです。

会津(福島県)などからすれば「薩長」と一緒にしがちですが、たしかに薩摩と長州はまったく異なります。価値観も大きく違うように思えます。

――確かに、ひとくくりにはできない、地域ごとの歴史があるわけですね。

『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

最近の明治維新の見直しは、地域の歴史ということに思いをはせるいい機会かもしれません。

日本の歴史といっても、地域ごとの歴史がありますし、それぞれの歴史観があるわけです。薩摩や長州からの歴史観と、会津からの歴史観は違って当然ともいえるでしょう。昨年はスペインのカタルーニャ独立運動が大きく報道されましたが、この背景にも地域の歴史観ということがあるはずです。

地域ごとの歴史の多様性を認めたうえで、歴史の教訓を生かすことがいま求められているのかもしれません。

地域性なども含め、明治維新を改めて問い直すことで、日本の近現代史をより深く解析できるような気がします。そうした意味で最近の薩長史観の見直しは、薩長の人々にとっても意義あることといえるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 


神戸灘中学校:歴史教科書の採択をめぐり批判のはがきが寄せられた~「なぜ採択した」問い合わせ人物判明 〔神戸新聞 2017.8.4〕

2017-08-05 02:40:20 | 歴史  歴史歪曲

【関連記事】

必読!いまこの国で起きている「歴史情報戦」】いわれのない圧力の中で ーある教科書の選定についてー 和田孫博(灘校の校長)
http://blog.goo.ne.jp/koube-69/e/4e3a33b28c8278a550e72741ef1c82ea


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歴史教科書の採択をめぐり批判のはがきが寄せられた
灘中学校
=神戸市東灘区魚崎北町8

歴史教科書の採択をめぐり批判のはがきが寄せられた灘中学校=神戸市東灘区魚崎北町8

 

神戸新聞https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201708/0010432190.shtmlより転載

2017/8/4 06:40神戸新聞NEXT

「学び舎」の歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」
「学び舎」の歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」
 
 

 私立灘中学校(神戸市東灘区)が採択した歴史教科書を巡り、自民党の盛山正仁衆院議員(63)=比例近畿=や和田有一朗・兵庫県議(52)=神戸市垂水区=が同校に「なぜ採択したのか」などと問い合わせていたことが3日、分かった。インターネット上でも「政治圧力ではないか」と問題視する声が上がっている。

 同校が採択したのは、「学び舎(しゃ)」の歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」。教科書は現役教員やOBらが執筆し、他社で記述がない慰安婦問題に言及。1993年に河野洋平官房長官(当時)が元慰安婦へのおわびと反省を表明した「河野談話」を載せ、併せて「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない」と現在の政府見解も取り上げている。

 県教育委員会などによると、同校は2016年度から同社の歴史教科書を使用。同教科書を使っているのは県内では同校だけという。同委員会義務教育課は「(教科書の使用は)適正に行われている」としている。

 同校の和田孫博校長が昨年、同人誌に寄稿した「謂(いわ)れのない圧力の中で」と題した文章で「自民党の一県会議員から『なぜあの教科書を採用したのか』と詰問された」「本校出身の自民党衆議院議員から電話がかかり、『政府筋からの問い合わせなのだが』と断った上で同様の質問を投げかけてきた」と明かした。

 また、採択を批判する「文面が全く同一」のはがきが200通以上届いたといい、和田校長は「はがきはすでにやんだが、圧力を感じた」と振り返る。現在も和田校長の文書がネット上で引用され、論争となっている。

 盛山、和田両議員は神戸新聞社の取材に、批判のはがきとの関連を否定。その上で、盛山議員は「灘中の教科書について、OBとして周囲から疑問の声を聞いたので、校長に伝えただけだ」と強調。「『政府筋からの問い合わせ』と言った覚えは全くない」とする。

 和田議員も会合で校長に採択理由を尋ねたことを認め、「私個人は学び舎の歴史教科書に疑問があり、さまざまな会合で口にしている」と主張。「私立学校の特色ある教育は理解しており、圧力などではない」と話している。

 

 

 

 

 


必読!【いまこの国で起きている「歴史情報戦」】いわれのない圧力の中で ーある教科書の選定についてー 和田孫博(灘校の校長)

2017-08-03 00:05:04 | 歴史  歴史歪曲

 

 
 
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謂れのない圧力の中で
̶ ̶ ある教科書の選定について ̶ ̶
和田孫博
 
 謂れのない圧力の中で ̶ ̶ ある教科書の選定について ̶ ̶ 和田孫博 本校では 、本年四月より 使 用 す る 中 学 校 の 歴 史 教 科 書 に 新 規 参 入 の「 学 び 舎 」 による『ともに学ぶ人間の歴史』を採択した。本校での教科書の採択は、検定 教科書の中から担当教科の教員たちが相談して候補を絞り、最終的には校長を 責任者と す る 採択委員会で決定するが、 今回の歴史教科書も同 じ 手続きを踏ん で採択を決めており、教育委員会には採択理由として「本校の教育に適してい る」と付記して 届けて いる。

 ところが、昨年末にある会合で、自民党の 一 県会議員から「なぜあの教科書 を採用したのか」と詰問された。 こちらとしては寝耳に水の抗議でまともに取 り合わなかったのだが、年が明けて、本校出身の自民党衆議院議員 か ら 電 話 が かかり、「政府筋からの問い合わせな の だ が」と断った 上 で同様の質問を 投げか け てきた 。今 回 は 少 し 心 の 準 備 が で き て い た の で 、「 検 定 教 科 書 の 中 か ら 選 択 し ているのになぜ文句が出るのか分かりません。もし教科書に問題があるとすれ ば 文 科 省 に お 話 し 下 さ い 」と 答 え た 。「 確 か に そ う で す な 」で そ の 場 は 収 ま っ た 。
 
 しかし、 二 月 の 中 頃 から、今度は匿名の葉書が次々と届きだした。そのほと んどが南京陥落後の難民区の市民が日本軍を歓迎したり 日本軍から医療や食料 を受けたり している写真葉書で、 当時の『朝日画報』や『支那事変画報』など から転用 し た 写 真 を 使 い 、「 プ ロ デ ュ ー ス ・ 水 間 政 憲 」と ある。それに「何処の 国の教科書か」とか「共産党の宣伝か」とか、ひどいのはOBを名乗って「こ んな母校には一切寄付しない」など の添え書きが ある。 こ の 写真葉 書が約五十 枚届いた。そ れが収まりかけたころ 、今度は差出人の住所氏名は書かれている ものの文面 が 全く同一の、おそらくある機関が印刷して(表書きの宛先まで印 刷してある)、賛同者に配布して送らせたと思える葉書が 全国各地から 届きだし た 。
 文面を要約すると、
「学び舎」の歴史教科書は「反日極左」の教科書であり、将来の日本を担っ ていく若者を養成するエリ ー ト校がなぜ採択したのか? こんな教科書で学 んだ生徒が将来日本の指導層になるのを黙って見過ごせない。即刻採用を中 止せよ。
というものである。
 
  この葉書 は未だに散発的に届いており、総数二百枚に も 上 る 。 届く度に同じ仮面をかぶった人たちが群れる姿が脳裏に浮かび、うすら寒 さ を 覚えた。
 担当教員たち の 話 で は 、この教科書を編集したのは現役の教員やOBで、既 存の教科書が高校受験を意識して要約に走りすぎたり重要語句を強調して覚え やすくしたり しているの に対し、歴史の基本である読んで考えることに主眼を 置いた 教科書 、写真や絵画や地図など を見ることで疑問や親しみが持てる教科 書を作ろうと新規参入したとのことであった。これからの教育のキーワードと もなっている「アクティブ・ラーニング」は、学習者が主体的に問題を発見し、 思考し、他の学習者と協働してより深い学習に達することを目指すものである が、そういう意味ではこの教科書はまさにアクティブ・ラーニングに向いてい ると言えよう。逆に高校入試に向けた受験勉強には向いていないので、採択校 の ほとんどが、私立や国立の中高一貫校や大学附属の中学校であった。それも あって、先ほどの葉書のように「エリート校が採択」という 思い込みを持たれ たのか もしれない 。
 
 三月十九日の産経新聞の一面で「慰安婦記述 三十校超採択 ̶ ̶ 「学び舎」 教科書 灘中など理由非公表」という見出しの記事が載った。 さすがに大新聞 の記事であるから、「 共産党の教科書 」と か「 反日極左 」というような表現は使 われていないが、この教科書が 申請当初は慰安婦の強制連行を強くにじませた 内容だったが検定で不合格となり 、 大幅に修正し再申請して合格した こ と が 紹 介され、本年度採用校として本校を含め七校が名指し になっていた 。 本校教頭 は電話取材に対し 、「検定を通っている教科書であり、貴社に 採 択 理由をお答え する筋合いはない」と 返 事 をした のだが、それを「理由非公表」と記事にされ たわけである。 尤も、 産経新聞がこのことを記事にしたのには、 思想的 な 背 景 以 外 に 別 の理由もありそう だ 。 フジサンケイグループの子会社の「育鵬社」 が 『新しい日本の歴史』 という教科書 を出している。新規参入の 「学び舎」の 教 科 書 が 予 想 以 上 に 多 く の 学 校 で 、し か も「 最 難 関 校 と 呼 ば れ る 」( 産 経 新 聞 の 表 現 )私学や国立大付属の中学校で採択されたことに、親会社として危機感を持 っ た のかもしれない。
 
 しかし これが口火となって 、 月刊誌 『Will』の六月号に、近現代史研究 家を名乗る水間政憲氏(先ほどの南京陥落 写 真 葉 書 の プ ロ デ ュ ー サ ー )が 、「 エ リート校―麻布・慶應・灘が採用したトンデモ歴史教科書」という二十頁にも 及ぶ大論文を掲載した。 また、 水間政憲氏が CSテレビの「日本文化チャンネ ル桜」に登場し、同様の内容を講義した という情報も入ってきた 。 そこで、こ の水間政憲氏のサイトを 覗いて みた。 すると 「水間条項」というブログページ があって 、記事一覧リストに「緊急拡散希望《麻布・慶應・灘の 中学生が反日 極左の歴史教科書の餌食にされる;南京歴史戦ポストカード で対抗しましょう 》」 という項目があ り 、 そこを 開いてみると次のような呼びかけが 載っていた 。
 
  私学の歴史教科書の採択は、少数の歴史担当者が「恣意的」に採択してい るのであり、 O B が「今後の寄付金に応じない」とか「いつから社会主義の 学校になったのか」などの抗議によって、後輩の健全な教育を護れるのであ り、一斉に声を挙げるべきなのです。 理事長や校長、そして「地歴公民科主任殿」宛に「 O B 」が抗議をすると 有効です。
 
 そして 抗議の 文例として「 インターネットで知ったのですが、 O B として情 けなくなりました 」と か「 将来性ある若者に反日教育をする目的はなんですか。 共産党系教科書を採用しているかぎり、 O B として募金に一切応じないように します 」が挙げられ 、その後に採択校 の 学校名、学校住所、理事長名、校長名、 電話番号が列挙されている。本校の場合はご丁寧に「 講道館柔道を創立した柔 道の神様嘉納治五郎が、文武両道に長けたエリート養成のため創設した学校で すが、中韓に媚びることがエリート養成になるような学校に変質したようです。 嘉納治五郎が泣いていますね … … 」という文例が付記されている。あらためて 本校に送られてきた絵葉書の文面を見ると、 そのほとんどがこれらの文例その ままか少しアレンジしているだけであった。どうやらここが発信源 のようだ。
 この水間氏はブログの中で「明るい日本を実現するプロジェクト」なるもの を展開 し ているが、今回のもそのプロジェクトの一環であるようだ。ブログ中 に「 1000 名(日本みつばち隊)の同志に呼び掛け一気呵成に、『 明るい日本 を実現するプロジェクト 』 を推進する 」とあり、いろいろな草の根運動を発案 し 、全 国 に い る 同 志 に 行 動 を 起 こ す よ う 呼 び か け て い る と 思 わ れ る 。ま た 氏 は 、 安倍政権の後ろ盾組織として最近よく話題に出てくる日本会議関係の研修など でしばしば講師を務めているし、東日本大震災の 折 には日本会議からの依頼を 受けて民主党批判をブログ上で拡散した こ と もあるようだが、日本会議の活動 は「草の根運動」が基本にあると言われており(菅野完著『日本会議の研究』 扶 桑 社 )、上 述 の「 日 本 みつばち 隊」もこの草の根運動員の一部なのかもしれな い 。
 
 このように、検定教科書の選定に対する 謂 れ のない投書に関しては経緯がほ ぼ解明できたので、後は無視す るのが一番だと思っているが、事の発端になる 自民党の県会議員や衆議院議員からの問い合わせが気になる。現自民党政権が 日本会議を後ろ盾としているとすれば、そちらを通しての圧力と考えられる か ら だ。ちなみに、県の私学教育課や教育委員会義務教育課、さらには文科省の 知 り 合 い に 相 談 し た と こ ろ 、「 検 定 教 科 書 の 中 か ら 選 定 委 員 会 で 決 め ら れ て い る の ですから何の問題もありません」とのことであ っ た 。そうするとやはり、行 政ではなく政治的圧力だと感じざるを得ない。
 
 そ んなこんな で 心 を煩わせていた頃、歴史家の保坂正康氏の『昭和史のかた ち 』( 岩 波 新 書 )を 読 ん だ 。そ の 第 二 章 は「 昭 和 史 と 正 方 形 ̶ ̶ 日本型ファシズ ム の原型 ̶ ̶ 」というタイトルで、要約すると次のようなことである。
 
 ファシズムの権力構造はこの正方形の枠内に、国民をなんとしても閉じこ めてここから出さないように試みる。そして国家は四つの各辺に 、「情報の一 元 化 」「 教 育 の 国 家 主 義 化 」「 弾 圧 立 法 の 制 定 と 拡 大 解 釈 」「 官 民 挙 げ て の 暴 力 」 を置いて固めていく。そうすると国民は檻に入ったような状態になる。国家 は四辺をさらに小さくして、その正方形の面積 をより狭くしていこうと試み るのである。
 
 保坂氏は、満州事変以降の帝国憲法下の 日本で は 、「 陸軍省新聞課による情報 の 一 元 化 と 報 道 統 制 」「 国 定 教 科 書 の フ ァ シ ズ ム 化 と 教 授 法 の 強 制 」「 治 安 維 持 法 の 制 定 と 特 高 警 察 に よ る 監 視 」「 血盟団や 五・一五事件など 」がその四辺に当 たるという。
 
 では、現在に当てはめるとどうなるのだろうか。第一辺については、政府に よる新聞やテレビ放送への圧力 が 顕在的な問題となっている。第二辺について は 、 政治主導の教育改革が強引に進められている中 、今回のように学校教育に 対して有形無形の圧力がかかっている。第三辺については、安保法制に関する 憲法の拡大解釈が行われるとともに緊急事態法という治安維持法にも似た法律 が取り沙汰されている。
 第四辺に関しては流石に官民挙げてとまではいかない だろうが、ヘイトスピーチを振りかざす民間団体が幅を利かせている。そして 日本会議との関係が深い水間氏のブログからはこれらの団体との近さがにじみ 出ている 。 もちろん現憲法下において戦前のような軍国主義やファシズムが復 活するとは考えられないが、多様性を否定し一つの考え方しか許されないよ う な閉塞感の強い社会という意味での 「正方形」は間もなく完成する、いやひょ っとすると既に完成しているのかもしれない。

 

 

 

 

 


4/20 「朝鮮人虐殺」含む災害教訓報告書、再掲載とのこと。 一時、内閣府HPから削除 /安倍政権が関東大震災「朝鮮人虐殺」の史実を削除! ヘイトデマを正当化する“ネトウヨ脳”に唖然〔リテラ〕

2017-04-20 16:23:50 | 歴史  歴史歪曲

追記2017.4.20 【朗報】

過去の災害資料、閲覧できず=今月中にHP再掲載-内閣府:時事ドットコム 

 

 たくさんの意見が寄せられた成果かも知れません。。「削除するな」の声が届いた。
https://twitter.com/01sep1923/status/854576917957156865...

自動代替テキストはありません。

 

 

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 4/19

「朝鮮人虐殺」含む災害教訓報告書、内閣府HPから削除:朝日新聞デジタル

www.asahi.com/articles/ASK4L66HXK4LUTIL04K.html
 
  一部に関東大震災時の「朝鮮人虐殺」についての記述が含まれており、担当者は「内容的に批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をした」と説明している。 削除されているのは、同会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」(2003~10年度)が作った報告書。過去の ... 09年に作成した関東大震災についての報告書の第2編では、「殺傷事件の発生」(計15ページ)として朝鮮人虐殺を扱っている。
画像に含まれている可能性があるもの:1人


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http://lite-ra.com/2017/04/post-3090.htmlより転載

安倍政権が関東大震災「朝鮮人虐殺」の史実を削除! ヘイトデマを正当化する“ネトウヨ脳”に唖然

2017.04.19


 南京大虐殺、従軍慰安婦……日本の負の歴史を次々となかったことにしている安倍政権の歴史修正主義は以前から目に余るものがあるが、今度は関東大震災時の朝鮮人虐殺も闇に葬り去ろうとしている。

 内閣府がホームページから、関東大震災時の朝鮮人虐殺に関する報告書を削除していたことがわかったのだ。問題の報告書は、江戸時代以降の災害の教訓を継承するために、政府の中央防災会議の専門調査会がまとめたもの。

「災害教訓の継承に関する専門調査会」では2003年から2010年にかけて、過去の災害に関し、被害や政府対応、国民生活への影響などを整理し教訓をまとめ報告書を作成したのだが、当然ながらそこには関東大震災についての報告があり、朝鮮人虐殺についても扱っていた。だが朝日新聞の報道によると、内閣府は、この朝鮮人虐殺の件について「なぜこんな内容が載っているんだ」と苦情や批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をしたと説明しているという。

 なぜこんな内容が載っているのか、って、過去の災害の教訓を活かし同じ悲劇を繰り返さないために決まっているだろう。「7年も経っている」などとワケのわからないことを言っているが、同報告書がまとめられたあとも、2011年の東日本大震災、昨年の熊本大地震をはじめ、日本では数々の災害が頻発しており、今後も大きな地震の発生は懸念されている。東日本大震災では東北地方で古くから伝わる「津波てんでんこ」という言葉が注目を集めたように、災害にまつわる教訓は7年で古びるようなものではない。

 何より“朝鮮人虐殺”は、1923年9月、マグニチュード7.9の大地震発生直後の数日間で、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒をいれた」「放火している」等のデマが広がり、日本人らによる大規模な朝鮮人のジェノサイドが行われたという厳然たる史実である。

 しかも“朝鮮人虐殺”は決して過去の話などと片づけられるものではない。災害時のパニック状態でデマが発生しやすいことは現代でも変わらず、さらに現在の日本は在日韓国人・朝鮮人に対する差別、ヘイトスピーチが蔓延っており、災害をきっかけに朝鮮人虐殺のようなヘイトクライムが起きてもおかしくない土壌がある。実際、昨年の熊本大地震でも〈熊本の井戸に朝鮮人が毒を入れて回っているそうです!〉という、極めて悪質なデマツイートが出回るという事態が起きた。言うまでもなく、これは明らかに関東大震災発生時に朝鮮人虐殺を引き起こしたデマの再現を狙ったものだった。

「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などというヘイトスピーチが口をつくのは、歴史を直視していない証拠であり、あまりにも浅薄で恥知らず。クズ同然の行いだ。だが、ネット右翼やネトウヨ系まとめサイトは、このヘイトデマに便乗して「関東大震災時の朝鮮人虐殺こそ、悪質なデマです」などとがなり立てている。

 おそらく内閣府に批判や苦情を入れたのも、こうした言説に感化されたネトウヨたちだろう。本来ならこうしたデマをただすためにも、今回削除された朝鮮人虐殺に関する報告書は非常に意味のあるものだったはずだ。しかし安倍政権はデマをただすどころか、お仲間のヘイトデマに基づいた「苦情」「批判」を口実に、明らかな史実をなかったことにしようとしているのだ。

 ここ数年でネトウヨや極右界隈で盛んに叫ばれるようになった「朝鮮人虐殺はなかった」なる歴史修正の物語の典型である。しかし、何度でもいうが、朝鮮人虐殺は当時の記録や市民の目撃証言も無数に残されており、また治安出動を指揮した警視庁官房主事の正力松太郎自身も認めている厳然たる事実だ。

 以前、本サイトは、当時の大人だけでなく子どもたち証言や、公式・私的を問わない数多の記録を詳細に取り上げた『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)という本を紹介したことがある。

 以下にその記事を再録するので、安倍政権がその事実を葬り去ろうとしているいまこそ、もういちど、じっくりと関東大震災と“朝鮮人虐殺”に直面した人たちの声に耳をすませてほしい。ヘイトデマに感化されて「なぜこんな内容が載っているんだ」などとクレームを入れた連中にこそ、ぜひ読んでもらいたい。
編集部

 

 

ヘイトスピーチの原点、関東大震災「朝鮮人大虐殺」の実像に迫る

 路上やネットに響き渡るヘイトスピーチ、本屋に山積みにされる嫌韓本、毎週のように週刊誌を飾る嫌韓特集……。これらの主張をひとつひとつ見てみると、そこにあるのはもはや歴史認識や主義主張の問題ではないことがよくわかる。捏造妄想によって韓国・朝鮮人に対する憎悪、恐怖が煽られ、グロテスクな差別感情が一気に噴き出しているだけだ。

 この風景を見て想起させられるのが91年前の9月1日のできごとだ。1923年9月1日午前11時58分。マグニチュード7.9、震度7の巨大地震、関東大震災に乗じて、日本でもジェノサイド「朝鮮人虐殺」が起きたのである。

 倒壊・焼失家屋約29万3000軒、死者・行方不明者10万5000人以上に及ぶ壊滅的被害が広がる中、始まりは、人々の間で「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」「放火している」という不穏な噂が駆け巡ったことだった。

 この噂は何の根拠もないデマだったが、瞬く間に広がりを見せる。そして噂を信じた日本人は自警団を組織して、朝鮮人たちを襲い、次々と虐殺していったのだ。民間人だけではなく、警察、軍もそれに加わり、当時の警察が立件しただけで233人、実際は少なく見積もっても1000人以上の朝鮮人・中国人が虐殺された。

 ところが、ここにきて“嫌韓ブーム”にのってネトウヨ、保守派の間で、こんなストーリーが出まわり始めている。

「当時、実際に朝鮮人の暴動があったのは間違いがない。その暴動を鎮圧する過程で虐殺にエスカレートした」
「共産主義の国際団体のコミンテルンが日本で革命を起こすために、朝鮮人に暴動を煽った」

 日本人だけが悪いわけではない、虐殺には正当な理由があったという謀略論である。さらには、虐殺そのものを否定する『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男/ワック)なる嫌韓本まで登場した。

 歴史修正主義者やレイシストたちが侵略戦争の次に、このジェノサイドまでをなかったとことにしようと企図しているわけだが、一方で、こうした状況に危機感を抱いて一冊の本が出版され、話題になっている。『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)だ。

 この本の中心をなしているのは、虐殺事件の解説や歴史的分析ではない。著者は読者に「現実」を感じてもらうため、ひたすら当時の証言や記録を集め、事細かにそれを紹介していく。しかも、それは、公文書や軍の資料、戦後の検証記録はもちろん、被害者の朝鮮人、目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、多岐にわたったものだ。

 そうした資料からは、無抵抗な朝鮮人たちが虐殺されていった様子が想像以上に生々しく浮かびあがってくる。たとえば、当時、文芸評論家・中島健蔵が神楽坂で目撃した虐殺はこのようなものだ。

「(震災翌日の9月2日、群衆でごった返す神楽坂警察署前で)突然、トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭にふりおろしたのである。
 ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしは(中略)目をつぶってしまった。
 ふしぎなことに、その兇悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男たちを、(中略)警察の門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりした男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関に投げ入れた。」(『昭和時代』) 

 人々は朝鮮人と見るや、鉄線で縛り、家や列車から引きずり、集団で暴行した。それを止める人はほとんどいなかったという。人々は万歳、万歳と言いながら、朝鮮人という理由だけで集団で虐殺をしていく。その多くはどこにでもいる日本人———。同書は『風よ鳳仙花の歌をはこべ』( 教育史料出版会)に収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取りを紹介しているが、そこには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。

「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」
「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」

 さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた越中谷利一はこう記している。

「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」(『関東大震災の思い出』)

 先の四ツ木橋付近の聞き取りでも、軍による朝鮮人虐殺の証言がいくつも出てきている。

「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」

 もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。

「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)
「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」(同1年女児)
「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)
「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」(横浜市尋常小学校4年男児)

 虐殺は東京だけでなく、横浜、埼玉、群馬、栃木と広がり、朝鮮人だけでなく中国人も間違えて虐殺された。

 まさに自分たちの先祖が犯した罪に慄然とするが、そこには保守派や歴史修正主義者が唱えるような「朝鮮人の暴動」や「謀略」の客観的証拠はまったくない。あるのは「日本人が何の罪もない無抵抗な朝鮮人を集団で虐殺した」という膨大な証言と記録だ。

 朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に広めたことがわかっている。

「九月、東京の路上で」でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけていた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。

 だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんなくだりがある。

「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
 
 普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ。

 翻れば、90年後の現代日本も韓国、北朝鮮に対し、民族差別と恐怖とを同時に持ち合わせているように見える。社会に対する閉塞感、鬱憤を、分かりやすい弱者へと向けていく。歴史は今、まさに繰り返されようとしている。

 8月20日未明に広島市を襲った集中豪雨と土砂災害もまた、甚大な被害を出したが、最近になって震災現場で空き巣被害が出たことで「外国人による犯罪」と指摘するネット上での書き込みがあり、それが拡散しているのだ。その噂の広がりから広島県警では「外国人が逮捕されたとの話は聞いていいない」と否定しているが、しかしネットの拡散は今も続いている。

 嫌韓、外国人排斥がこれほど広がりを見せる今だからこそ、91年前に日本人が起こしてしまった忌まわしい、そして恥ずべき自らの歴史を直視すべきではないだろうか。


教育勅語を現代語訳してみた結果…小説家・高橋源一郎さんのTwitterが話題に 〔buzzfeed 籏智 広太〕

2017-03-19 15:55:52 | 歴史  歴史歪曲

 『教育勅語』は、現人神であり主権者であり軍隊の統帥権をもっていた明治天皇が臣民に与えた道徳です。民主的倫理ではありませんので、主権が国民へと180度変わった戦後の『日本国憲法』の基本理念とは矛盾します。そのために1948年6月、衆参両議院で廃止の決議がなされたのです。

 その「戦前思想・教育」を裏から復活させようという言動は、思想犯罪であり、ドイツでは厳しい取り締まりの対象です。主権在民の民主政とは背反する思想を現実化させようとするのは、憲法おび公務員法違反です。到底許されません。

「森友学園問題」は、憲法に反する思想犯罪であり、主権者を市民=国民とする民主政国家の存立を脅かす大スキャンダルと言えます。...
            武田康弘(元参議員行政監視委員会調査室・客員調査員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)


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https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni20?utm_term=.yyv69G5RD#.mr9Bbadl4

教育勅語を現代語訳してみた結果…小説家・高橋源一郎さんのTwitterが話題に

「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください」

大阪・豊中市の土地取引での疑惑に揺れる森友学園。運営する塚本幼稚園が園児たちに教育勅語を暗唱させるなどの教育方針に注目が集まりました。

大阪・豊中市の土地取引での疑惑に揺れる森友学園。運営する塚本幼稚園が園児たちに教育勅語を暗唱させるなどの教育方針に注目が集まりました。
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そもそも教育勅語とは、明治天皇の名のもとに、1890(明治23年)に発せられた「教育ニ関スル勅語」のことを指します。

そもそも教育勅語とは、明治天皇の名のもとに、1890(明治23年)に発せられた「教育ニ関スル勅語」のことを指します。

戦前の教育方針を表したもので、広辞苑によれば、「御真影とともに天皇制教育推進の主柱」だそうです。

戦後の1948年、国会で「根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる」として、排除、失効確認が決議されています。

良くわからない言葉が多いですよね。小説家の高橋源一郎さんも「いま話題の教育勅語」を読んだといい、「意味がよくわからない。なので、一時間ほどかけて、訳してみました」と、自らの現代語訳を公開しています。

良くわからない言葉が多いですよね。小説家の高橋源一郎さんも「いま話題の教育勅語」を読んだといい、「意味がよくわからない。なので、一時間ほどかけて、訳してみました」と、自らの現代語訳を公開しています。
 

「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください」

高橋源一郎 @takagengen 2017-03-15 14:46:31

教育勅語①「はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね」
 
高橋源一郎 @takagengen 2017-03-15 14:48:22
教育勅語②「きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです」
 

 「父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」

 高橋源一郎 @takagengen 2017-03-15 14:51:19

教育勅語③「その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと」
高橋源一郎 @takagengen 2017-03-15 14:53:33
教育勅語④「そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません」
 

「はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください」

 高橋源一郎 @takagengen 2017-03-15 14:55:23

 「というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください」

 
 
 

明治神宮の公式サイトに載っている口語訳はこのようなもの。高橋さんの訳とは少し、違っていますね。

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~

 高橋さんは自らの訳し方について、こうもつぶやいています。

国会で籠池泰典理事長との関係を問われている稲田朋美防衛大臣が「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」と答弁しています。

 
時事通信

3月8日、参議院予算委員会で社民党の福島瑞穂副党首に、教育勅語について問われた稲田防衛大臣。

「日本が道義国家を目指すというその精神は今も取り戻すべきだと考えている」「教育勅語自体がまったく誤っているというのは私は違うと思う」などと発言し、野党だけではなく、与党・公明党からも批判を呼びました。

また、「教育勅語が戦前、戦争への道あるいは国民の道徳の規範になり問題を起こしたという認識は」と問われると、こうも答えました。

「そういうような一面的な考え方はしておりません」