私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりで す。(ローマ人への手紙1章16、17節)

「宗教改革500年」の記念すべき年が始まりました。この年、宗教改革を記念 する様々な行事や書物を通して、その歴史的・神学的・実践的考察がなされることでしょう。その発端となったマルティン・ルターという改革者の魂をとらえた 中心的な御言葉こそが、ローマ人への手紙1章16〜17節だと言われます。この特別な年を始めるにあたり、まずはこの御言葉を御一緒に思い巡らしてみま しょう。

「私は福音を恥とは思いません」

イエス・キリストの福音は、恥ずかしいものでした。
ユダヤ人にとって、キリストは天的な力をもって地上の王たちをなぎ倒し神の民の支配を確立する方であるはずでした。
ところが、武器も取らなければ戦うこともせず、あげくの果てに木にかけられて神に呪われた死を遂げたメシアなど冒涜もいいところです。かく言うパウロ自身が、かつてはこのような冒涜者たちを抹殺するために献身していた、キリスト教迫害の急先鋒でした。
他方、ギリシア人など異邦人にとって、極悪人として死刑にされた者が救い主とはとんだお笑いでした。まして、一度死んだ人間がよみがえったと触れ回るキリスト者たちは愚か者の代表のような人々でした。
しかし、この「福音」こそが「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」だとパウロは言うのです。生けるキリストに出会ったからです(使徒9章1〜9節)。あのナザレのイエスこそが、人間の常識を覆す神による救い主であることを悟ったからです。
そもそもこんな馬鹿げたことをいったいどこの誰がわざわざ考え出すでしょうか。「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリ ント1章25節)。愚かさの中の知恵、弱さの中の力。この大いなる神の逆説(パラドクス)こそ、キリストの十字架なのでした。
パウロは、それまでの“自分”の賢さ、強さを恥じました。そんなものを人前で誇っていたこと自体が、恥ずかしいことでした(ピリピ3章8節)。むしろ、こ んなわたしを救ってくださるために愚かになってくださった方、弱くなってくださった方、その方をこそ誇ろうと、パウロは言っています(Ⅰコリント1章31 節)。
冒頭の言葉は、したがって、悲壮感あふれる決意表明なのではなく、今やこの「福音」に生きる者とされたパウロの力強い喜びの告白なのです。

「義人は信仰によって生きる」

パウロが引用しているこの言葉は、ハバクク書2章4節の言葉です。預言者ハバククが語る信仰は、迷いの中での信仰でした。自分がそれまで信じてきたことが 次々と覆されていったからです。神の律法が無力となり正義が曲げられているにもかかわらず、神は助けてくださらない。何が正しいのか、何を信じればよいの か、ハバククはわからなくなってしまったのです。
けれども、きっとこうするはずだと私たちが決めつけた神は、生ける真の神ではありません。それは、偶像です。私たちにとって不都合なことが起ころうが何が 起ころうが、神は神です。神を信じるとは「神」を信じることであって、私たちの狭い考えや業を信じることではないのです。義人は、そのような信仰(信頼) によって生きる。それが、ハバククのメッセージでした。
この神は、しかし、驚くべきことに、すべての罪人を滅ぼすことによってではなく、罪人を赦すために御自分の御子を裁くことによって正義を現わされました。 それは愛による犠牲的な正義です。人間を生かすことも殺すこともおできになる全能の神が、人を“生かす”ために自ら犠牲を払われた。私たちはただそのよう な神を信じることによって生きる、生きてよいのだと、パウロは言うのです。

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この「福音」に目が開かれた時、まるで天国の扉が開かれて行くように感じたと、ルターは書いています。そのルターが記した『ローマ書序文』を耳にして、ジョン・ウエスレーは回心しました。神の「福音」が、世界を変えて行ったのです。
宗教改革を記念するとは、プロテスタントの正統性を記念することではありません。想像を絶する仕方で私たち罪人を救ってくださる生ける神、その驚くべき恵みを全身で喜び感謝しつつ、この「福音」に生きて行くことです。それが、この年にふさわしい歩みでありましょう。

〈2017年1月1・8日合併号〉