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私は「ネット右翼でした」 沖縄に暮らし、記者になって思うこと 2018.4.2 琉球新報style

2018-04-03 13:16:36 | 沖縄

 

「ネット右翼でした」 沖縄に暮らし、記者になって思うこと

 
 
2018年3月25日、琉球新報に掲載された1本の記事がインターネット上で話題を集めました。公式サイトに掲載された訳ではありませんが、新聞記事の写真がツイッターやフェイスブックで拡散され、個人ブログなどで紹介する人も続出し、賛否両論を巻き起こしたのです。
編集局内にある文化部教育班のブースで原稿を書く塚崎昇平記者=3月27日午後、那覇市天久の琉球新報社

話題となった記事は、入社2年目の塚崎昇平記者(26)が書いた「ネット右翼でした」というタイトルのコラム。琉球新報の記者が「ネット右翼」だった過去を告白する内容は、ネットでの反応を見る限り大きな関心を呼んだようです。「記者ですが」というコーナーは2017年6月4日から毎週日曜日に掲載している記者のコラムです。記者たちの素顔を垣間見ることができると好評で、開始以来42回を数えます。

なぜ「ネット右翼」だった彼が琉球新報の記者になったのでしょうか。どのような心境の変化、葛藤があったのでしょうか。「伝えきれなかった思いがまだあるはずだ」と思い、塚崎記者にインタビューしました。


 


ネットで考えを固めていた高校時代


―なぜコラムに「ネット右翼だった」ということを書こうと思ったのですか。

題材については教育担当(当時)として教科書問題のことなど幾つか候補がありました。その中で自分にしか書けないことは何だろうと考えました。そういえば、琉球新報社内で「自分はネット右翼だった」と公言しているのは私ぐらいだなと思ったんです。であれば、なぜ自分が「ネット右翼」だったのか、そして、考えが変わったのはどうしてなのか、ということを伝えたいと考えました。

―「記者ですが」は冒頭、「学生時代、私は『ネット右翼』だった」と書き出しています。なぜ、自分を「ネット右翼」と定義したんですか。

「ネット右翼」という言葉も定義はきちっと定まっているものではないと思います。ただ私が思う「ネット右翼」の定義としては、現場に行かないで、例えばインターネット上の情報で自分の考えを固め、「右」的な考えをネットで発信するというものではないかと考えました。そういう意味で、自分は「ネット右翼」だったと思っています。例えば、ネット上などでよく言われているように「中国や北朝鮮を抑えるため、沖縄には基地が必要だ」という意見などです。日本政府はそう説明しますが、私も過去、それを無批判に受け入れていました。


 


ファクトチェックされていない情報うのみに


―影響されたネット上の情報というのはどのような内容ですか。

ファクトチェックを受けていない根拠のない情報や、個人の考えがそのまま載ってしまっているブログなどです。ある意味、事実と反する情報でもネットではそれなりに影響力を持つ場合があります。ネットだけでなく、本を読む際にも自分に都合のいい情報だけを集めていたように思います。

元防衛大学校の方が書いた本や防衛省が発行している防衛白書なども読んで、自分の考えをまとめていました。ネットだけで情報を得ていたわけではありませんが、自分の考えを補強するために本なども読んで「私の意見は論文に基づいた考え方だ」と誇示していた、ということに近いかもしれません。


 


「ミリタリー好き」が入り口に


「ネット右翼でも変わることができるんだということを示したかった」と話す塚崎昇平記者=3月27日午後、那覇市天久の琉球新報社

―自分が「ネット右翼」だと感じたのはいつごろからですか。

小学生のころはイラク戦争に反対していた覚えがあります。明確なきっかけはありません。高校時代までは大分県で暮らしましたが、今考えると高校の後半ぐらいからいわゆる「ネット右翼」のようなことをしていたと思います。自衛隊の航空ショーに出向くなど戦闘機や戦車などミリタリー(軍事)に関するものに興味がありました。いわば「ミリタリーおたく」です。「ミリタリー好き」から安保への興味につながりました。「ネット右翼」になったのも、自分の場合はミリタリー好きが関係していたのかと思います。

―「沖縄には基地は必要だ」という考え方を持っていたと言っていましたが、「沖縄に基地は必要ない」という意見があることは知っていましたか。

それはもちろん把握していました。私が琉球大学に入学するために沖縄に来たのは2010年4月で、現在8年目になります。米軍普天間飛行場の県内移設に反対する県民大会(2010年4月25日)の前後だったと思います。その当時は民主党政権で、いったん白紙にされた米軍普天間飛行場の移設先について、数日ごとに新たな候補地が示されていくような時期でした。

せっかく自民党政権が苦労して名護市辺野古に移設先を決めたのに、なぜひっくり返すようなことをするんだろうと感じていました。


 


「沖縄には米軍基地が必要だ」を確かめるため


―進学を機に沖縄へ。琉球大学に進学した理由は何ですか。

「沖縄には米軍基地が必要だ」と思っていたので、それを自分の目で確認したいという気持ちがありました。政治や国際関係を専攻し、最初は「ネット右翼」のスタンスを維持していました。自分なりに正しいと思っていた国家論を振りかざしていましたね。

友人からは「地に足が付いていない」とよく言われていました。「おまえは沖縄に根ざしていない。沖縄にいる意味はないのではないか」というような内容のことを言われた記憶もあります。大学時代の友達に会うと今もからかわれますね。「あのおまえが琉球新報に?」と言われることも少なくありません。


 


琉球新報の論調に怒りさえあった


―琉球新報に入社しましたがメディア志望だったんですか。

なんとなくマスコミに入りたいと思っていました。イラク戦争の時、米軍と共に行動しながら取材している記者のテレビ番組を見た時に、マスコミに興味を持つようになりました。いろいろな人に話を聞くことは楽しいだろうなと思い、新聞記者になりたいと考えるようになりましたが、直接のきっかけは思い出せません。ただ当時、琉球新報への入社は考えてもいませんでした。

―当時、琉球新報についてはどのように思っていましたか。

ちょうど大学時代に東日本大震災があり、米軍の「トモダチ作戦」に共感を覚えていました。琉球新報は「トモダチ作戦」について米軍が自分たちの宣伝活動に使っているのではないか、と思われるような論調で報道していると受け止めていました。「現場の人たちは頑張っているのに何を考えているんだ」と怒り、そういう思いを自分のツイッターに書き込んだ記憶があります。


 


「論破してやろう」と辺野古・高江へ


工事資材を搬入する車両にプラカードを掲げ抗議する市民ら=2018年2月16日午前、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前(塚崎昇平撮影)

―「記者ですが」に、「考えが変わり始めたのは友人と訪ねた辺野古や東村高江の現場を目の当たりにしてからだ」とあります。大学時代には辺野古や高江の現場をよく訪ねたんですか。

はい。大学3年だった2012年の夏、ヘリパッド(ヘリコプター発着場)造成に対する反対運動が行われている東村高江の現場に足を運びました。座り込んで反対運動をしている人たちが何を考えているんだろう、ということに興味がありました。ただ、あわよくば、座り込みをしている人たちの考えを論破してやろうという思いもありました。

座り込んでいる人に声をかけ、活動をしている理由について尋ねると「生活を守るためにヘリパッドを造らせない」ということでした。米軍が沖縄に駐留していることについて、座り込んでいる人が「米軍の力に頼るのは疑問がある」と言ってきました、それに対して私は「中国の公船が尖閣諸島の近くに入ってきているし、北朝鮮もミサイルを打ち上げている。米軍の力があるからこの程度で済んでいるのではないか」と反論しました。そうしたら、後方で話を聞いていた高江に住む男性から「おまえは違う」とぴしゃりと言われました。

自分が考えていることを主張して、「間違っている」と面と向かって指摘されたことは友人以外では初めてでした。その後のやりとりは覚えていませんが、現場に向き合い続けている人の言葉だったからこそ、心に突き刺さったのだと思います。もんもんとしたものを抱えたまま現場を離れました。


 


現場を知り、見えてきたこと


「止めよう新基地建設!みんなで行こう、辺野古へ。8・23県民大行動」に参加した琉球大学大学院在籍当時の塚崎昇平記者=2014年8月23日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前

―それが変わるきっかけになったということですか。

それをきっかけに時々、辺野古の現場にも行くようになりました。新基地建設に反対する集会にも足を運びました。男性から指摘された後は、もんもんとした思いを持ちながら授業などで沖縄の歴史を学ぶことになりました。住民が名護市辺野古に米軍キャンプ・シュワブを誘致したわけではないということにも気づくことができました。

ただ、大学3、4年だったこの時期は、人に指摘されたからといって自分のスタンスを変えるのは嫌だなとも思っていました。その頃、ちょうど、自民党の安倍政権が誕生し、特定秘密保護法や集団的自衛権などの政策を次々と進めていきました。それらは日本の国の形を、比喩ではなく、「戦争ができる国」にしてしまうのだろうなと思うようになりました。そして、そのような流れの中にある「沖縄」について考えるようになりました。

それと同時に安倍政権は沖縄県民が強固に反対している米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について、県民の声を無視する形で強引に推し進めようとしていました。こんなに沖縄の人たちがあらがい続けているのにそれが通らない、県民が反対しても強行するというのはおかしくないか、と思い始めました。この頃になると、自分のスタンスを維持し続けるのが論理的なことだけでなく、精神的にも苦しくなってきました。それなら、考えを変えた方が自分に正直ではないかと思いました。

そんなとき、2014年8月25日に米軍キャンプ・シュワブゲート前で開かれた県民集会(止めよう新基地建設!みんなで行こう、辺野古へ。8・23県民大行動)に足を運びました。琉球大学大学院人文社会科学研究科1年のころでした。その際、琉球新報の記者に取材され、記事として掲載もされました(2014年8月25日付21面)。振り返ると、いわゆる「ネット右翼」というスタンスから完全に離れたのは大学院生時代だったと思います。


 


「反対」の根底にある沖縄戦


ヘリコプター発着場(ヘリパッド)建設に反対し、抗議の座り込みをする市民らを囲む機動隊員=2016年10月20日、東村高江の米軍北部訓練場メーンゲート前(塚崎昇平撮影)(画像の一部を処理しています)

―学生時代に沖縄戦のことを学んでいたんですか?

大学では安全保障などを研究していたので、沖縄戦は教養の講義で学ぶ程度でした。ちょうど高校1年生のころ、文部科学省の高校歴史教科書検定で、沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述削除・修正された問題で、教科書検定意見の撤回を求める県民大会がありました。

当時は大分県の高校生だったので、あまり記憶にはありません。その後の文科省と県内の対立ややりとりにも特段関心はありませんでした。ですが、大会で高校生の代表2人が「この記述をなくそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじい、おばあがうそをついていると言いたいのだろうか」と言っていたことだけはテレビで見て、鮮明に覚えています。同世代の訴えだったからこそ、沖縄に特段関心のなかった当時の私にも、響いたのかもしれません

沖縄戦のことをきちんと知るようになったのは入社してからです。入社後に教科書検定があり、文化部の教育担当になった私が沖縄戦に関する記述について、記事を書くことになりました。当時の教育担当キャップに原稿を見せたら、「君は安保のことは詳しいかもしれないが、沖縄戦のことは何も分かっていないな」と言われました。がつんときました。

入社二年目には、ちょうど教科書検定の県民大会から10年ということで、「集団自決」(強制集団死)のおきた渡嘉敷島に出向いたり、東京で教科書執筆者や編集者を取材したりして、当時を振り返る記事を書きました。当時の新聞記事や資料を読み込んでから取材をしましたが、その取材の原動力となったのも、当時の教育キャップの言葉だったと思います。

辺野古の現場などに足を運ぶと、座り込んでいる人が沖縄戦について話してくれることがあります。沖縄戦の記憶は、体験した人の記憶だけではなく、ある種世代を超えて共有されているのだろうと思います。それが脈々と残っているということが、私を変えた一因にもつながっているような気がします。


 


現場でデマだと実感


―「記者ですが」には県民大会に参加した際、「ネット上のデマが現実離れしていると感じた」と書いています。

「反対運動をしているのはお金をもらった人々」というデマです。現場に足を運ぶと、現場を見ていない人が言っているんだなということが分かりました。現場には家族連れも普通の学生も、いろいろな立場や世代の人がいますから。

辺野古のゲート前で一日取材をして記事を出すと、どうしても内容は抗議行動をしている市民らが警察に排除されるというようなことを伝える内容になりがちです。ですが実は現場はずっと緊迫している訳ではありません。大学の講義で「座り込みの時間の多くは暇だ」と言われたことを思い出しました。楽しげに歌を歌ったり、踊りを踊ったりして楽しげな雰囲気に包まれることもあります。


 


中国の人に会ったことない


資材搬入を阻止しようと座り込み、警察に強制的に移動させられる市民ら=2017年6月7日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前(塚崎昇平撮影)(画像の一部を処理しています)

―お金をもらっているから反対運動をしている、というネット上の言説に対しては間違いだと思いますか。

はい。むしろ現場に来るためにガソリン代やバス代などの負担は大きいと思います。ネットではよく中国などの勢力がお金を出して運動を扇動し、日米安全保障体制を崩そうとしている、とか、現場には中国人や韓国人がいっぱいだ、という記述をよく目にします。実は私もそのように思っていた時期もありました。でも、私自身は辺野古や高江の現場に足を運んで中国の人に会ったことは一度もありません。もし、いたとしても一市民として、この状況が問題だと思って参加しているんだと思います。

「ニュース女子」(東京MXの番組)で高江の現場について「中国人はいるわ、韓国人はいるわ」と伝えていました。番組を見て「本当に現場に行ったことがあるのか」と怒りを感じました。ただ、昔だったら信じてしまっていたのではないか、もしかしたら喜んでその主張に飛びついていたのではないか、とも思います。

両論併記についても昔は双方の意見をしっかり書くべきだと思っていました。でも今は、圧倒的に力の差がある中で両者の中間に立つということが本当に公平なのか、ということだと考えるようになりました。


 


批判は真摯に受け止める


―今回の「記者ですが」はかなり反響がありますね。どのように感じましたか。

「記者ですが」について意見が書いてあるツイッターなどSNSを数多く見ました。「こいつは何も反省していない」「自分は変わることができて良かったね」などという批判もたくさんありました。「ネット右翼で多くの人を傷つけていたことについての反省はないのか」という内容の指摘もありました。

確かに私は「ネット右翼」だった当時、特定の個人を「極左だ」とかレッテルを貼って周りの人に話をしていたことがありました。人を殴ったり、お金を盗ったりした訳ではないので、コラムが紙面に掲載されて、そうした指摘があるまで、私に罪の意識は正直ありませんでした。人を傷つけたという意識もありませんでした。だからこそ、「反省はないのか」などの批判は真摯(しんし)に受け止め、胸に刻みつけておかなければいけないと思っています。

ただ今回、批判も予測しながらも「ネット右翼でした」というタイトルでコラムを書いたのは、こんな私だからこそ、伝えられることがあるのではないかと思ったからです。

―「ネット右翼」と呼ばれる人たちからの反応もあったとか。

「『ネット右翼』だったと言っているのは嘘だろう」というような批判もありました。それに対しては「はい。ネット右翼でした」と答えます。「シールズの元メンバーだ」というような指摘もあります。私は大学院生時代、「ゆんたくるー」(若い世代に基地問題の現状を知ってもらおうと活動している県内の大学生らでつくるグループ)の集まりに参加したことはありますが、メンバーではなかったし、シールズのメンバーになったこともありません。ただ、もしシールズの元メンバーだったとしても特に問題はないと思います。

「実名を書いて言うことは勇気のいることだと思う」という内容の反応もあり、救われた思いもしました。いろいろな反応の中で、「『対話は意味がないものではない』と気付かせてくれたのはありがたい」という内容のものもありました。

人の思想を「左」「右」にレッテルを貼って分けることには違和感を覚えています。自分と違うスタンスにいる人に対しても意見を言ったり、意見を聞いたりすることは意味のあることだということを感じてくれた人もいたようです。


 


互いの〝レッテル〟を乗り越えたい


―「記者ですが」掲載後の反響などを踏まえ、今どう感じていますか。

批判はあると思いますが、書いたことを後悔はしていませんし、別の題材で書けば良かったとも思っていません。4月から北部報道部に配属されますが、北部に行くに当たっての決意表明でもありました。

―「記者ですが」では、「かつて私のような人たちに現場の状況を理解してもらえるか、考え続けている」と結んでいます。

どんな立場や考えの人であっても、事実に基づいた力ある記事なら、人の心にちゃんと届くと思います。記事をきっかけに、例えば「一度ぐらいは辺野古の現場に足を運んでみようか」とか「現場に行った人に話を聞いてみようか」など、少しでも何かしらの行動につながればいいと思っています。

〝現場〟に行くことなど考えてもいなかった人や、「ちょっと怖そう」と思って敬遠している人も多いかもしれません。私が現場に行ったのは逆に、座り込みしている人を論破しようと思っていたということもあります。残念ながら、「琉球新報は左だ」などというレッテルが貼られているのも事実です。そのレッテルに邪魔されて、書いたことが真っすぐに届いていないと感じて苦しくなることもあります。

そんなレッテルは、私たちから打ち破る必要もあるかもしれません。そして、もしかしたら異なる立場から打ち破ってくれる人もいるかもしれません。

今さらですが「ネット右翼」という表現も、一つのレッテル貼りなのでしょう。そんな言葉こそが、対話の機会を遠ざけている要因の一つなのかもしれません。私が『ネット右翼だった』と自認すること自体も、過去の私にレッテルを貼る行為なのかもしれません。いつの間にかつくりあげてしまった〝レッテルの亡霊〟に邪魔されて、対話ができないような事態を飛び越えられるような記事を書いていくことができれば、と考えています。

そのためには私自身も、レッテルの亡霊から解き放たれる必要があるのだと考えます。今回のコラムがいろいろな論議を呼んだことも含めて、私自身がレッテルの亡霊から離れる一歩になったと考えています。


飛来したオスプレイにプラカードを掲げて抗議する市民=2016年12月23日、東村高江の米軍北部訓練場メーンゲート前(塚崎昇平撮影)

 


~ プロフィル ~

塚崎 昇平(つかざき・しょうへい) 琉球新報社北部報道部記者。1991年、大分県生まれ。大分県内の高校から沖縄県の琉球大学に進学。2016年に琉球大学の大学院を修了し同年琉球新報社に入社。2018年3月まで文化部で教育を担当。同年4月1日から米軍普天間飛行場の移設問題などを抱える名護市を管轄する北部支社に配属となった。


 

 


〈インタビューを終えて〉

同僚に1時間30分近くインタビューするなんて約20年の記者生活の中で初めての経験でした。日米安保に詳しいことは入社当時から聞いていましたが、かつて「ネット右翼」だったということは最近初めて知りました。

新聞記者も一人一人、いろいろな考え方を持っています。細かい点では言い合いになるほど考え方は多種多様です。そのような記者が取材相手と向き合うことでいろいろなことを学びます。塚崎記者は入社2年目。私も同じですが、沖縄戦や基地問題だけでなく、まだまだ取材などを通して知らなければいけないことが山積みです。

自分の考え方が変わってしまうような瞬間に接することが、記者には幾度となくあります。「ネット右翼」だったと自認する塚崎記者だからこそ、異なる立場や考えの人々と語らい、多くの人の心に届く記事を書いていけるはずだと信じています。



 


 

~ 聞き手 ~

宮城 久緒(みやぎ・ひさお) 1996年琉球新報社に入社。編集局付。写真部、社会部、運動部、政治部、北部報道部、東京報道部などを経て4月からデジタル編集担当。


 

 


2018年3月25日 オピニオン面掲載

〈記者ですが〉 ネット右翼でした

文化部 塚崎昇平 26歳

 学生時代、私は「ネット右翼」だった。辺野古や高江で米軍基地建設に反対して座り込む人々に、ネット上の言説を根拠に「反日勢力」とレッテルを貼った。琉球新報など、権力にあらがう人々を伝える報道には、自分なりの国家論を振りかざして反論した。持論がネット上で賛同されるのを見て、悦に入っていた。

 考えが変わり始めたのは友人と訪ねた辺野古や高江の現場を目の当たりにしてからだ。座り込む人たちに、自分の意見をぶつけたが「君は間違っている」とぴしゃりと言われた。対話を重ねるうちに、抗議を続ける動機に「生活を守る」という意識と、沖縄戦の記憶が流れていることに気付いた。ネット上の情報だけを信じていた自身の浅はかさを痛感した。

 その後も戦後史を学ぶにつれ、辺野古新基地建設に対して強い疑問が生まれた。「自分も意思表示したい」。そう思うようになり、新基地建設に抗議する県民大会に足を運んだ。家族連れら、さまざまな人が集まった様子を見て「反対運動はお金をもらった人々」というネット上のデマが現実離れしていると感じた。その中で「より多くの人に現場の状況を知らせたい」と思い始め、記者を志望することにした。

 教育担当記者となった今も、辺野古取材班に加わっている。4月からは北部報道部に配属となる。ゲートに座り込む市民を取材する機会も多くなる。「ネット右翼」だったかつての私のような人たちに、どうすれば現場の状況を理解してもらえるか、考え続けている。

 

 

 

 

 


天皇ご夫妻が沖縄訪問…「対馬丸」の生存者が思うこと 20178.3.26  琉球朝日放送 / 初めて!自衛隊が那覇の国際通りをパレード

2018-03-28 00:04:23 | 沖縄

天皇ご夫妻、沖縄訪問を祝し、自衛隊が国際通りをパレード!初めてのこと!!

〔天皇の軍隊〕~平和を願う現天皇ご夫妻の思いとは裏腹に・・・やはり天皇制と軍隊は切り離せない、ということか

沖縄訪問ーー琉球処分の日をあえて選んだのは誰か?

この記事をみる君はどう思う?

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3月27日夜、那覇で行われた天皇奉迎パレード、先頭には陸海空自衛隊音楽隊。

 


Qプラスリポート 「対馬丸」の生存者が思うこと

あすから3日間の日程で天皇皇后両陛下が沖縄を訪問されます。過去10度の訪問で両陛下は、戦地を訪ね平和訴え、沖縄に思いを寄せられてきました。

しかし一方で、地上戦を経験した沖縄では、戦後73年が経った今も、天皇への複雑な気持ちを抱える人もいます。学童疎開船で多くの友達を失った女性は、あすの訪問を前に何を思うのでしょうか。

Qプラスリポート 「対馬丸」の生存者が思うこと

平良さん「(天皇陛下に)お会いする気持ちは今もありません。天皇のために死ぬと教えられた子たちが帰って来ないからね」

国頭村出身の平良啓子さん。国民学校4年生のころ、疎開船対馬丸に乗り遭難しました。今も忘れることができない、悲惨な体験を語る活動を続けています。

平良さん「不意打ちに波がぶつかってくるんです。その時時子は手が外れて重なっている死体やモノの中にガラガラと引きずり込まれて流されて行ってしまったんです時子どこ行くのよって私は一生懸命呼びました」

一緒に疎開した、同い年のいとこ、時子さんは真っ暗な海の中で別れたきり、戻って来ませんでした。

Qプラスリポート 「対馬丸」の生存者が思うこと

ここ、那覇港をあとにし、沈没後は時子さんや家族と離れ、6日間漂流し生き永らえた平良さん。生まれ故郷に帰った時、ある言葉が胸に刺さります。

平良さん「(時子さんのお母さんが)『あんたは生きて帰ってきたのにうちの時子は置いてきたの?』となるでしょ。それが悔しいんですよ」

心に傷を負った平良さんを、更に地上戦の惨劇が襲います。家も、家畜や食糧もすべて焼かれました。かけがえのない人や、帰る場所を奪っていった戦争。思い起こされるのは、あの頃の教育です。

平良さん「御真影室に向かっておじぎをするというふうに教えられるし教室に入ると『天照大神』というのがあってそれに向かって大麻を拝む」

平良さんは国民学校令が施行された1941年に入学しました。その頃、沖縄の教育関係者らが発行していた雑誌からは、方言を封じて標準語励行を行い、天皇への忠誠心を育む軍国主義教育を徹底することで日本への同化をすすめていったことがわかります。

Qプラスリポート 「対馬丸」の生存者が思うこと

平良さん「大きくなったら従軍看護婦、男は特別攻撃隊になって敵の軍艦を撃ち殺す、飛行機を打ち破る、それが憧れの夢ですよ、みんな。命が自分のものじゃない、天皇のもの。神にささげるという、そういう憧れを植え付けられた洗脳教育。おそろしいですよ

戦後、平良さんは戦争の悲惨さと命の尊さを伝えようと、教師として39年間教壇に立ち、その後も県内外で平和を発信し続けています。4年前、天皇皇后両陛下が対馬丸記念館を訪れた際には、参列者として招待されましたが、そこに平良さんの姿はありませんでした。

平良さん「(両陛下が)人間としては平和に対する想いや沖縄に対する謝罪のような気持ちを持っているのはわかるからある程度心許すけれど天皇制というのがある限りまたどういう事になるかわからないからそれが嫌なの。天皇って何者だったのかな、こんなに尊いものだったのかな、命を惜しみなく投げるだけの価値のある天皇だったのかと思うと心が複雑になるんです。」

戦争の歴史に向き合ってきた陛下の姿に心境の変化を持ちつつも、天皇制については今なお不安と恐怖を拭えません。

Qプラスリポート 「対馬丸」の生存者が思うこと

平良さん「(皇民化教育は)徹底して植え付けられた『修身科』。最近、道徳が教科化されると聞くとまた始まった、大変だと思っている。こわいですよ、まず教育の統制から始まるという。戦争したいときには教え子や子や孫たちが、この子たちを不幸にさせるというのは許されないし、生きている間に平和の日を見つめていきたいと思っている」

現在83歳になる平良さん。天皇制が再び、戦争に利用されるのではないか、その恐怖心がある一方で、現在の天皇陛下が平和を発信し続ける姿勢には心強いものを感じると話しています。

 

 

 

 


<社説>沖縄戦始まりの日に 島嶼防衛で戦場にするな 2018.3.26 琉球新報

2018-03-26 21:51:18 | 沖縄

 ※政府は軍事で対抗するのではなく、外交努力にこそ力を注ぐべきだ!

<社説>沖縄戦始まりの日に 島嶼防衛で戦場にするな

 73年前のきょう、沖縄戦が始まった。1945年3月26日、慶良間諸島の阿嘉島に米軍が上陸した。その後、米軍は座間味島や渡嘉敷島などを制圧し、4月1日の沖縄本島上陸につながっていく。

 島での戦闘は多くの犠牲者を出した。米軍の砲爆撃に加えて、日本軍による強制と誘導で「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた住民500人余が命を奪われた。
 今、防衛省は「島嶼(とうしょ)防衛」を掲げ、南西諸島の軍備強化を一段と進めている。島が戦場になると住民の生命が危険にさらされるのは明らかだ。
 私たちは沖縄戦の未曾有(みぞう)の犠牲から「軍隊は住民を守らない」という教訓を導き出した。政府はそれに学び、沖縄の軍事基地化をやめるべきだ。
 27日には、陸上自衛隊の離島防衛専門部隊「水陸機動団」が新設される。部隊運用を一元的に担う陸上総隊と合わせ、54年の陸自発足以来最大の組織改編になる。
 島嶼防衛は、国の「防衛計画の大綱」で打ち出されている。中国の軍拡、海洋進出を名目に、今年末に見直す次期大綱でも「南西地域の防衛強化」を盛り込む見通しだ。
 2017年版防衛白書によると、島嶼防衛の「基本的考え方」はこうだ。
 敵の侵攻は陸海空自衛隊が一体となって阻止・排除するが、侵攻された場合には「航空機や艦艇による対地射撃により敵を制圧した後、陸自部隊を着上陸させるなどの島嶼奪回のための作戦を行う」。
 島での戦闘は守るより攻める方が有利なので、侵攻されたら敵に島をいったん占領させる。その後、陸自部隊が逆上陸して武力で島を奪い返す。要は、敵に奪われることを前提とした作戦である。
 住民の存在はまるで視野に入っていない。尖閣のような無人島ではなく、有人島で戦闘が起きれば、間違いなく住民が巻き込まれてしまう。
 そもそも離島奪還とは、領土・領海を防衛するのが主目的で、住民の安全は二の次でしかない。
 想定そのものが「第二の沖縄戦」である。沖縄を再び戦場にし、国策の犠牲に追い込もうというのか。絶対に認められず、敢然と拒否する。
 27日発足の水陸機動団は「日本版海兵隊」とも言われ、南西諸島での離島奪還作戦に当たる。長崎県佐世保市に2個連隊約2100人態勢を配備するが、3個目の連隊を米軍キャンプ・シュワブやハンセンに置く構想もある。米軍基地に加え、自衛隊の新部隊まで配備されると、過重な負担がさらに増大する。
 昨年の与那国への陸自配備をはじめ、宮古島や石垣島、沖縄本島への配備計画など、南西諸島は軍事強化が進む。
 沖縄戦では小さな島に多数の日本軍が駐屯し、軍民混在となったために、軍人より多い住民の死者を出した。
 政府は軍事で対抗するのではなく、外交努力にこそ力を注ぐべきだ。

 

 

 

 

 


【沖縄】山城博治さんらに不当判決「何ら中身を問うていない!」 2018.3.14 レイバーネット

2018-03-15 16:52:17 | 沖縄

山城博治さんらに不当判決 しかし私たちは、負けない!


速報・山城博治さんらに不当判決「何ら中身を問うていない!」

LNJ Logohttp://www.labornetjp.org/news/2018/1521045171184yumo

動画(3分44秒)


3月14日、那覇地方裁判所は、沖縄平和運動センター議長の山城博治さんら3人に、一部無罪を認めたものの威力業務妨害、公務執行妨害で不当な有罪判決を下した(柴田寿宏裁判長)。
しかしこの判決は、この間の名護市辺野古への連日200台を超える基地建設資材の搬入の強行、座り込む市民に対する沖縄県警の暴力行為などの状況については何らふれることのない、「中身にまったく触れない判決」であった。
辺野古問題については、過去の選挙、国内での反対意見、国際的な関心などが少なくとも新基地建設是認という状況ではないことを証明してきている。那覇地裁は今回の判決で、辺野古新基地建設の是非については一切触れずに、「形式的な判断のみを行った」(弁護団)。この判決が今後の基地建設強行、憲法改悪へとつきすすむ安倍政権の悪政に与える影響は、大きい。(湯本雅典)

 

 

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【関連記事】

辺野古新基地抗議の山城議長ら3人に有罪判決 那覇地裁 - 沖縄タイムス社

山城博治氏ら一審判決後の裁判報告集会 | IWJ Independent Web Journal
 - 2018年3月14日(水)18時より、沖縄県那覇市の沖縄県市町村自治会館にて、山城博治氏ら一審判決後の裁判報告集会が開催された。


 

 

 


 <2月28日(水)の辺野古>国頭、本部、高江、そしてシュワブの工事用ゲート --- 各所で抗議行動が続く // 今日も目立った違法ダンプ 2018.2.28 〔チョイさんの沖縄日記 〕

2018-03-02 05:28:27 | 沖縄

 【辺野古から】護岸造成急ピッチ 名護市長選後、工事車両300台 - 共同通信

2018/2/28

米軍キャンプ・シュワブのゲート前では砕石を積んだダンプカーなどが数珠つなぎに並ぶ=2月21日、沖縄県名護市辺野古 this.kiji.is
 
 
 

 

チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
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<2月28日(水)の辺野古>国頭、本部、高江、そしてシュワブの工事用ゲート --- 各所で抗議行動が続く // 今日も目立った違法ダンプ

2018年02月28日 | 沖縄日記・辺野古

 2月28日(水)、辺野古へ。今日は風が強く、海上行動は中止となった。ゲート前の座りこみに参加する。午前9時前に機動隊が出てきて、強制排除が始まった。

 今日は水曜日の集中行動日。午前9時前から100名近い人たちが集まっているので、機動隊も簡単には排除できない。結局、ゲートが開くまでには1時間近くもかかった。その間、国道は渋滞が続く。正午頃の2回目の搬入の際は、140人ほどが座りこみ、さらに時間がかかっている。

 今日は、国頭の採石場、本部の塩川港、さらには北部訓練場メインゲートで抗議行動を行っている人たちも多かったので、シュワブの工事用ゲート前の座りこみはあと一歩、人数が足りず、搬入を阻止することができなかった。あともう少し、なんとか200名ほどが座り込めば工事車両の進入を阻止することができる。是非、工事用ゲート前の座りこみにかけつけてほしい。 

 強制排除した後、機動隊は歩道に設置した「檻」に県民らを閉じ込める。何故、こんな拘束ができるのか? とんでもない人権侵害だ。

 

 私は工事用ゲートに入る車両の監視を続けた。目立つのは積載オーバーのダンプトラックだ。国土交通省のパンフでも、「荷台から石材・土砂が盛り上がった状態は積載オーバー」と指導している。今日もこうした積載オーバーの車両が目立つが、県警の警察官らは全く問題にしようとしない。

 また道路運送法違反のダンプトラックも多い。一時は少し減っていたのだが、最近、車両の数を増やすために手当たり次第にかき集めているのだろうか? また、不正改造車が目立つ。昨秋には、市民106名が告発まで行っているのだが、防衛局はこうした違法車両を使用し続けている。

 こうした全く溝がないタイヤの車両も、道路運送法違反である。昨秋、私たちの訴えにより、所管の沖縄総合事務局は車両所有者や防衛局に注意をしたのに、こんなツルツルのタイヤのダンプトラックやミキサー車が今も使われている。

 

 工事車両は、工事用ゲートから出入りすることになっているのだが、今日の第2ゲートから出てくるかもしれないというので、第2ゲート前での監視の座りこみも行われた。

 結局、今日は、工事用ゲート前の座りこみ集会、メインゲート前の本部テントでの集会、そして第2ゲート前での座りこみの3箇所で、マイクを持ち、工事の状況や昨日の活断層についての防衛局長交渉の報告等をした。