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5月第2日曜日『母の日』の由来をご存知ですか?・・・諸説ありますが、本格的に母の日を祝いたい本物志向のあなたへ

2018-05-13 22:11:30 | 紹介

母の日はキリスト教由来の行事―本格的に母の日を祝いたい本物志向のあなたへ

https://ameblo.jp/justincase/entry-11582871920.html

Sat, May 10, 2008

 
2008年5月10日(土)の記事を転載

5月第2日曜日の「母の日」は、キリスト教的生活の中から生まれた教会行事暦の1つである。その起源には諸説あり、詳細の点で微妙な差異はあるが、概ね次のようなものである。

英国、ならびにアイルランドではキリストの復活日(イースター)の3週間前を「母の日」または「母の日曜日」と呼ぶ。その起源は16世紀にまで遡る。当時、若い奉公人や奴隷として働いた若い女性らは、年に一度、主人からその週末に休暇をもらい、自分たちの母親を教会に訪ねることが許された。その時、教会に家族一同が会したという。母にとって子供たちと再会できるこの日曜日こそ最高の贈り物であった。

英国の教会で生まれた母の日は米国の教会にも影響を及ぼすこととなる。

「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ-080510a1905年5/9、アナ・ジャーヴィス(1864~1948年)の母アン・ジャーヴィス(1832~1905年)が天に召された。アンは1852年、ウェスト・ヴァージニア州の小さな教会の牧師と結婚。社会活動家としても活躍し、1858年に「母の日ワーク・クラブ」を結成し、病気で苦しんでいる人たちを助けるための募金活動や、病気予防のため牛乳や食品の検査など、公衆衛生に努めた。南北戦争(1861~65年)が始まると、「母の日ワーク・クラブ」は中立を宣言して、南北双方の負傷兵の看病をした。戦争も終結に近づいた頃、彼女は戦争で傷ついた人々の心を癒そうと、今度は「母の友情の日」を企画。政治に関係なく南北双方の兵士や地域の人たちを招き、お互いに敵意を持つことを止めさせようとの狙いがあったこのイベントは、大混乱の恐れがあったにもかかわらず、大成功を収めた。
※写真はアナ・ジャーヴィス

アンは戦争や病気で8人も子供を失っている。2人残された子供の内の一人がアナで、もう一人は盲目であったそうだ。彼女は早くに夫を亡くし、女手一つで娘たちを育て上げ、自分の子供のみならず、教会学校の教師としても多くの子供たちに愛情を注ぎ込んだ。アンが召された時、悲しみに包まれた子供たちは、「アン先生が召された日に教会に集まろう。そしてその時に娘さんのアナさんを呼ぼう」と相談した。そして、アンの死後2年経った1907年5/12、子供たちは集まり、娘のアナも母の好きだったカーネーションを飾花し、母を偲んで記念礼拝をささげた。アナの母アンへの想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、翌1908年の5/10には同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アナは参加者全員に、母が好きであった赤いカーネーションを手渡した。

アナは、自分の通うフィラデルフィアの教会にも働きかけ、5月第2日曜日に「母の日」礼拝が行われた。このことが列席者一同に大きな感動を与え、デパートという販売法を考案した実業家で後にデパート王と呼ばれ、郵政長官も歴任し、教会学校運動の推進者であったジョン・ワナメーカーの賛同を得、同氏の店頭で母に感謝する会が盛大に催された。その後、法律家であったアナは、ジョン・ワナメーカーと共に大統領・議員・企業家たちに働きかけ、「母の日制定キャンペーン」を開始。その甲斐あって1911年頃には殆どの州で「母の日」が祝われるようになった。1913年、議会で母の日制定が満場一致で可決され、1914年、第28代大統領ウッドロウ・ウィルソン(1856~1924年)により5月第2日曜日を国民の祝日「母の日」と制定した。ウィルソン大統領は1919年ノーベル平和賞を受賞している。

このほか、母の日の起源として、米国の南北戦争終結直後の1870年、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がった奴隷廃止主義者で女性参政権運動家のジュリア・ウォード・ハウ(1819~1910年)が、反戦と武装解除を訴える「母の日宣言」を発したことに見る説もある。しかし、ハウの平和運動としての「母の日」は、アン・ジャーヴィスの「母の日ワーク・クラブ」にヒントを得たものであったが結局普及することはなかった。ただし、ノーベル平和賞受賞者であるウィルソン大統領が母の日を制定したことは興味深い。

「MGF牧仕のキリストバカ一代」補完ブログ-080510b日本には早くも1912(大正1)年には教会経由で導入され、翌(大4)年、当時のキリスト教系大学青山学院教授であったファニー・W・アレキサンダー女史(1862~1940年)が学院内のチャペルで「母の日記念礼拝」を行ない、その後「日本キリスト教婦人矯風会」(1886年設立。日本で最も古い婦人団体)等キリスト教関係団体が中心になってこれを広めた。
※写真はファニー・W・アレキサンダー

昭和に入ると“皇后をもって日本の母”とするという考えから、1927~1945(昭2~20)年まで、香淳皇后(昭和天皇の后)の誕生日3/6が「母の日」(地久節)とされたが(戦前まで女学校では休日とされた)、第二次大戦後、1949(昭24)年頃から再び5月の第2日曜日に戻された。

また、一般に広く知れ渡ったのは、1936(昭和11)年、当時クリスチャン企業であった森永製菓が日本に「母の日運動」を広め、定着させる諸活動を推進するため、「森永母をたたえる会」に発足したことによる。翌1937年、「第1回森永母の日大会」を東京・豊島園に20万人の母親を招待して開催したのを皮切りに、「私のおかあさん」図画・作文募集などの催しを開始し、さらに全国各地で「森永母の日大会」を開催して、日本に「母の日」を定着させる大きな原動力となった。

ちなみに日本では「母の日」は祝日には制定されていないが、法律上の母の日にあたるのは5/5の「こどもの日」である。祝日法によれば「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日」とある。しかし、こどもの日に感謝される母は殆ど皆無と言ってよい。さらに日本の母の日の市場規模は、5000億円(2002年度データ)と言われている。この数字は年末に盛り上がるクリスマス商戦(2002年度は4000億円)の1.25倍多い数字。即ち母の日は、バレンタインよりもクリスマスよりも市場規模の大きい日本最大のギフトイベントだと言えるのだ。

実はかつて、母の日提唱者であったアンも早くも消費文化の中で歪曲されてしまった母の日を嘆いた。1923年の母の日フェスティバルにおいて、アナは母のシンボルだった白いカーネーションが1本1ドルという当時では信じられないほど高値で売られているのを目にし、「貪欲のために母の日を侮辱している」と怒り、行事差し止めの裁判を起こした。しかしアナは敗訴し、以来彼女は世間から皮肉屋として白眼視されるようになってしまった。その後、母の日の商業化はますます加速化していったのは言うまでもない。

残念ながらクリスマスをはじめとした日本に渡来したキリスト教行事の殆どが商業化されている。母の日は本来、母を与えて下さった造り主なる神に感謝し、教会で礼拝を持つことがその起源であった。そして、親から子への信仰の継承の大切さも教えるものであった(テモテ1:5)。この理念を忘れてはならない。そして、私たちクリスチャンは決して福音をこの世うけする売り物にしてはならない(マタ10:8)。

イエス・キリストは、聖書の十誡の第五誡「あなたの父と母を敬え」という言葉に忠実に生き、極限状況の中、十字架の上からさえも年老いた母マリヤを想い、その行く末を愛弟子のヨハネに託された(ヨハネ19:26,27)。

十字架の愛を知る者(クリスチャン)の母を愛する愛が、母の日を世界に浸透させた。ちなみに、赤いカーネーションの花言葉は「熱烈な愛」。聖母マリアの涙から生まれた花という伝説もある。カーネーションの語源は、諸説あるが、ギリシャ語”コロナ”(王冠=花の形状)やラテン語”カーン”(肉=花の赤色)といったものがある。「王冠」は十字架上のキリストの頭に食い込んだいばらの冠を、「肉」は受肉されたキリストを連想させる。両者とも十字架の愛を想起させるものだ。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
(新改訳 ヨハネ3:16)

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
(ヨハネ4:7~11)
本格的に母の日を祝いたい人は、まずキリストの十字架の愛を知ってほしい。本物志向のあなた、是非教会で本物の母の日を祝ってほしい。
 
 
 
 
 
 
 
 

「リスクがデカすぎるから悩んだ」元ほっしゃん。星田英利が国会前デモに参加した理由 2018.5.1 abematimes

2018-05-03 07:13:22 | 紹介

「リスクがデカすぎるから悩んだ」元ほっしゃん。星田英利が国会前デモに参加した理由

https://abematimes.com/posts/4120786
 
2018.05.01 09:15
 
 

 5月1日はメーデーだ。全国各地で様々な活動が行われているが、海外のデモが日本と違うのは著名人の政治的発言だ。

 

 今年1月、デモに参加した女優のスカーレット・ヨハンソンは「女性であるということだけで私は不利だった。なぜならあまりにも長い間、女性が礼儀正しく、人を喜ばせ、人に迎合するよう教えられてきた」、女優のナタリー・ポートマンは「(13歳の時)私に届いたファンレターは、男性がレイプの空想を書いたものだった。私の胸について語る映画評論家もいた」などと発言した。

 

 また、歌手のレディーガガは「アメリカの混乱はトランプの責任」、元サッカー選手のデビット・ベッカムは「EUを支持する」など、海外では多くの著名人が自らの政治的な立場を明らかにしている。

 

 しかし日本では、著名人がデモに参加しただけでニュースになってしまうというのが実情だ。元ほっしゃん。こと、お笑いタレントの星田英利もその一人だ。

 

 星田は3月、自身のTwitterに「よし、満開の民主主義を見てこよう」「"サクラ"ではなく自分個人の心で集まった、想像を遥かに超える数の憤った一般市民が咲き誇っていました。民主主義は決して散らない」と投稿、デモに参加したことを明らかにした。

 「Twitterに書く必要はなかった。すごく考えた。リスクがデカすぎるから。会社に相談したら、僕のことを思って止めたと思う。だから黙って行った。嘘を世の中がつき続けた結果、子どもの世代に、"それをよしとしたパパの世代があったから続いてきた"と言われるのは嫌。自分の子どもにも、"デモに足を運ぶくらいのこと、なんだよ"と分かってほしかった。俺のようにリスクを抱えている人が足を運んでしまうようなのが現状なんだと分かってほしかった」。

 

 デモや政治状況についてTweetすることもあった星田だが、デモに対しては「怖いイメージがあった」という。

 「ちょっと見てみたいというのもあった。サイレントエリアという、声を出すのが恥ずかしい人のためのエリアもある。自分に合った表現方法ができるので、足を運ぶことに意味があると思った。僕みたいにパッと参加する人もいるので、まとまりがないとも言えるし、本当に自分の意思で集まってきたと感じた。楽しくはないと思う。みんなデート行きたいし。でも、自由に堂々と思ったことを表せるのが民主主義だと思う。"安倍さん頑張れ"というデモをしてもいいし、それに対して"なんでそんなデモするねん"とは言わない」。

 

 自分がデモに参加したからといって、それを他の人にも勧めたいというわけではないという。

 

 「後輩に行けとも、連れていこうとも思っていなくて、行ったらこうだったよと言いたかっただけ。デモを広げたいということでもなく、行こうと思った人が足を運べばいいと思う。そして、若い子が行ったことに対し、"賛同されてないのによく行った、それだけ思いがあるんだ"と言ってあげないといけない」。

 星田の話を受け、水道橋博士は「星田は一人で映画を観に行ったのと同じ。人が集まっている所に、興味があるから行った。行ったことがないから行った。それだけのこと」と擁護していた。(AbemaTV/『 AbemaPrime』より)

 

 

 

 

 


訃報「アベ政治を許さない」のスローガンの揮毫(きごう)でも知られた俳人・金子兜太さん98歳 2018.2.21 毎日新聞/ インタビュー「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」

2018-02-22 18:05:21 | 紹介


金子兜太さん98歳=俳人 前衛俳句、戦後をリード

 金子兜太さん 98歳=俳人(2月20日死去)

 前衛俳句の旗手として活躍し第二次世界大戦後の俳壇をリードした俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんが20日、誤嚥(ごえん)性肺炎による急性呼吸促迫症候群のため、埼玉県熊谷市内の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営む。後日、お別れの会を開く。喪主は長男真土(まつち)さん。

 

 埼玉県生まれ。1937年、旧制水戸高校在学中に俳句と出合い、加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。太平洋戦争下の43年に東京帝国大を卒業後、日本銀行に入るが、すぐに海軍へ。主計中尉として南洋のトラック島へ赴任し、同島で終戦を迎えた。捕虜生活を経て46年に復員。戦後は日銀勤務の傍ら、俳誌「寒雷」「風」を舞台に活躍を開始した。

 思想性と方法意識に富む作品から、「社会性俳句」「前衛俳句」といった新潮流の代表と見なされた。作者が主体性をより強く意識して自由に作句する俳句造型論の提唱など、自らも積極的に論争に参加。同時代の短歌などにも影響を与えた。56年、現代俳句協会賞を受賞。62年、同人誌「海程」を創刊した(のち主宰)。83年、現代俳句協会会長に就任するなど後進の指導にも努めた。2000年から同協会名誉会長。

 90年代以降も旺盛な創作を続け、96年に句集「両神」で詩歌文学館賞、02年に「東国抄」で蛇笏賞、08年に文化功労者に選出された。10年には句集「日常」に至る長年の業績で毎日芸術賞特別賞を受賞。他の句集に「少年」「暗緑地誌」など。種田山頭火や小林一茶の研究でも知られた。「彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン」「暗黒や関東平野に火事一つ」などが代表句。

 11年秋に胆管がんの手術を受け、今年初めから体調を崩して入院していた。99歳(白寿)を迎える今年秋での「海程」終刊を予定していた。晩年は現政権への批判を強め、「アベ政治を許さない」のスローガンの揮毫(きごう)でも知られた。

 

 

「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 俳人・金子兜太さんインタビュー
 
インタビューに答える俳人の金子兜太さん=埼玉県熊谷市で2015年6月15日、喜屋武真之介撮影
 

トラック島で「捨て石」体験

 戦争における生と死の実態とはどのようなものなのか。そこに皇軍の誉れはあったのか。帝国海軍主計将校として、南洋のトラック島に“捨て石”とされた体験を持つ俳人、金子兜太(とうた)さん(95)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 敗戦を迎えたトラック島での1年3カ月の捕虜生活を終え、日本への引き揚げ船となった駆逐艦の甲板上で、詠んだ一句です。最後の引き揚げ者200人とともに、島を後にしました。小生の所属部隊を含め、戦死者はらくに1万を超していた。その人たちを思い、復員後の生き方を決意した一句です。

 海軍を志願したのは功利主義からでした。どうせ戦争にとられるなら、一兵卒は嫌だった。東京帝大経済学部在籍時に海軍経理学校の試験にパスし、1943年9月に入学します。その3カ月後が学徒動員でした。同輩、後輩が、随分と死んでしまいました。翌年2月に卒業し、配属されたのが、海軍の拠点が置かれたトラック島。第4海軍施設部の最年少の甲板士官(中尉)でした。

 軍隊は身分制の世界です。上からは将官、将校、下士官、兵卒。さらに募集・徴用で集められた民間の工員がいました。ある日、工作部が手製の手りゅう弾を製作しました。実験をすることになったが、将校・下士官はもとより、兵卒にやらせるわけにもいかない。そこで、工員にやらせろと。ところが、工作部は機械製造などが仕事で、熟練工が多い。貴重だ。施設部は道路工事などの単純な仕事だ。役に立つかどうかでも、命の価値に差があった。「金子中尉、お前のところでやれ」と。1人の工員を選びましたよ。

 ボーン。発火させた途端、手りゅう弾が爆発してしまった。その工員、田村の右腕は吹っ飛び、背中に白い穴がカアーッと開いた。隣にいた落下傘部隊の少尉も海に吹っ飛ばされて、即死でした。ところがね、それを見ていた工員仲間たちが田村を担ぎ上げ、「わっしょい、わっしょい」と病院に駆けだした。

 人間への認識が変わりました。もともと、一旗揚げようと南の島に来た工員ばかりでした。聖戦とか、大東亜共栄圏とか、そうした意識は薄い。けれども、明らかに死んでいても、仲間は放っておかない。俺は人生を甘くみていたんじゃないだろうか。人間って、いいもんだ。「わっしょい、わっしょい」の声は今も耳に残っています。

 サイパン島が陥落したとき、矢野兼武(海軍主計中佐。詩人で、筆名・西村皎三=こうぞう)という元上官が戦死したんです。この人が「金子、句会をやれ。(戦況悪化でトラック島は孤立し)今に食糧が逼迫(ひっぱく)する。皆が暗くなる」と言っていたことを思い出した。その遺言に従い、句会を開きました。

 すると散文詩をやっていた西沢実(戦後、放送作家)という陸軍戦車隊の少尉が、同僚将校を4、5人ほど連れてきた。最上級は少佐です。こちらは工員10人ほどですから、驚いた。しかし、西沢は「関係ねえ。おんなじ人間だ」。たったの3カ月でしたが、すっかりと打ち解けた。無季(季語のない句)も気にしなかった。ただ、戦場は戦場。神経は張り詰めていた。

  空襲よくとがった鉛筆が一本

 その時に詠み、今でも覚えている一句です。

 この句会が打ちきりとなったのは食糧不足が原因。周辺の島々に部隊を分散させ、食糧生産に従事させることになった。工員と事務職員が中心の200人を率い、日本名「秋島」に渡りました。年3回は収穫できる「沖縄100号」というサツマイモを持ち込み、自活するはずだった。ところが、これを食う虫がいることを誰も気付いていなかった。机上の空論でした。「南洋ホウレンソウ」と名付けた青草を海水で煮たりしました。ただし、これは食べ過ぎると腹を下し、体力を奪った。

 官僚組織とはひどいもんです。「栄養失調による病死」にしてしまう。実態は「餓死」。しかし、皇軍に「餓死」は禁句だった。はったりをきかせていた工員たちがみるみると弱っていく。やせ細った餓死者の顔は仏様のようなんですよ。本当に可哀そうでね。他の島との連絡にポンポン船を出せば、見回りの米軍のグラマンが機銃掃射してくる。ズタズタにされる。

 ところが、「あと何人か死ねば、残りを生かすだけの食糧はあるな」などと冷静に考えている自分がいた。人間なんて、浅ましいものです。幹部将校たちはサイパン島が陥落した時点で、この戦争はもう駄目だと思っていた。そうなると女房と子供の顔を見るために内地に帰ることしか、考えていなかった。

 「虚無の島」でした。軍事的価値を失っていましたから、米軍の主力は素通りし、友軍が増援部隊や物資を送ってくるはずもない。工員たちは「捨て子」と自嘲していました。軍事教練などなく、日々の仕事は食糧生産ばかり。やることがない。人間が無感動になっていく。生きる意味を見いだすことができない。レイテ沖海戦で海軍の象徴たる戦艦武蔵が沈没しても、沖縄が陥落しても、仕方がないとの気持ちだけです。

 この島での11カ月間、俳句を一句も詠まなかった。無意識にです。なぜだろうか。それ以前も、その後も、そんなことはなかった。幼少時から、七五調の「秩父音頭」を聞いて育ちました。実家では父が水原秋桜子(俳人、俳句雑誌「馬酔木」=あしび=を主宰)と知人で、句会の支部を作ったりもしていた。俳句がアイデンティティーとして、私は存在している。それがまったく失われていたのに、島では気付きもしなかった。それが戦争なのでしょうか。

  椰子の丘朝焼けしるき日々なりき

  海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 終戦の詔勅を聞いた後にやっと、俳句が自然と湧いてきた。米軍の収容所では食糧がきちんと与えられましたね。米軍に没収されないように句を書いた小さな紙を丸めて、配給されたせっけんに押し込んで内地に持ち帰りました。

   ◇     ◇

 戦後は日本銀行(従軍前に3日間在籍)に復職しましたが、組合活動をやるなどして、にらまれた。課長にもなれずに退職しました。しかし、東大を頂点とする学閥を軸に作り上げられた人事体制は身分制そのものであり、半封建制だと思った。トラック島で共に過ごした工員たちの生々しさに比べ、この官僚たちは何なのかと。日本は戦争に負けたのに近代化されていなかった。

 
トラック島の麦倉俊三郎31軍司令官は米巡洋艦上で、ムーレイ海軍中将と降伏調印=1945年9月27日

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン

 日本人は何を学んだのでしょうか。長崎支店時代の一句です。

 戦後を共に生きた仲間たちも徐々に鬼籍に入っています。皆の名前を毎朝唱え、皆に向き合う「立禅」を続けています。振り返るに戦場での死のむなしさ、異常さを考えずにはいられません。それは「自然死」ではない「残虐死」です。

 集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい。

 トラック島に残した部下たちには実は墓碑などなかった。個々人が生き延びるだけで精いっぱいの中で、できるのは小高い丘の上の穴に埋めることだけでした。国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢できません。無理に生きる必要のない、自由な社会を作っていく。それが俺の思いです。

 かねこ・とうた 1919年、埼玉県生まれ。東京帝大経済学部卒。日本銀行在職中の62年に俳誌「海程」創刊。2008年文化功労者、10年毎日芸術賞特別賞。現代俳句協会名誉会長。

 

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【動画】世界初!ドローン、海で溺れそうな少年ふたりを救助・・・空から浮き輪を落とすだけで  2018.1.18

2018-01-24 07:51:40 | 紹介

new japanese 2018/01/18 公開

 

ドローン、海で溺れそうな少年ふたりを救助!

Image: Little Ripper Lifesaver/Facebook

© ギズモード・ジャパン 提供 Image: Little Ripper Lifesaver/Facebook


空から浮き輪を落とすだけで人命救助に!

1月18日のこと、オーストラリアのニューサウスウェールズ州にて、34万ドル(約3千770万円)の巨費を投じて開発した救助用ドローンが、溺れた少年たちを助けてその効果を発揮したとBBCが報じています。

同州のベン・フランクリン政務官がThe Sydney Morning Heraldに語ったところ、「救助までかかったのはたった70秒でした」とのこと。“リトル・リッパー”と呼ばれるこのドローンは、海で溺れかけている十代の少年ふたりの元にひとっ飛びし、上空から畳まれたポッド(棒状の浮き輪)を投下。着水するなり膨らんで、彼らの生命を救ったのでした。

ドローンは現地のライフガードに与えられたもので、カメラも搭載されていることから、一連の救助活動を撮影しています。

ライフガードのジェイ・シェリダン監督は「いつもなら、ガードたちはこれより数分かかることでしょう」と語っています。リトル・リッパー君は浮き輪を落とすだけですが、人間より高速移動ができるのはかなりの強みです。

政府によるドローン導入は、2015年に発表した1300万ドル(約14億円)を使うサメ対策の一貫で、リアルタイムで海を監視する目的でほかのドローンたちも宙空を飛んでいるようです。少年たちが救出されたレノックス・ヘッドもまた、その地域だったので発見が早かったのでしょうね。

世の中には火炎放射するドローンもある中、人命救助という崇高な目的を持ったドローンもいるわけです。十人十色ならぬ、十ドローン十色ですねぇ。

Image: Facebook

Source: BBC, The Sydney Morning Herald

Melanie Ehrenkranz - Gizmodo US[原文]

(岡本玄介)

 

 

 

 


【書籍紹介】コミック本で異例の大ヒット中、「君たちはどう生きるか」 2018.1.20 / 80年前の歴史的名著が話題に!ーダ・ヴィンチニュース 

2018-01-22 01:22:30 | 紹介

但馬問屋‏ @wanpakutenshi 12 時間12 時間前

 
 
 
 

 

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糸井重里、池上彰も絶賛する、80年前の歴史的名著『君たちはどう生きるか』が話題!

ダ・ヴィンチニュース https://ddnavi.com/review/403043/a/
 
2019.9.27
 
『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎:著、羽賀翔一:マンガ/マガジンハウス)
 

 最近、世間には学級委員や風紀委員がずいぶん増えたなあ、と思う。言っていることの善悪はさておき、そんなに正義や倫理にがんじがらめだと苦しくないのかな、と。

 そんなとき「ほぼ日の読書会」で糸井重里さんがこんなことを言っていた。「自分はこれまであまり人に本を勧めてこなかった。何故なら、本を読む人は自分のことをいいと思いすぎている気がする。あいつは本を読まないから、という言い方で、人間の優劣をつけている風潮を、苦々しく思っていた」と。

 善悪や優劣にとらわれず本について語り合いたい、という糸井さんが持参していたのが『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎:著、羽賀翔一:マンガ/マガジンハウス)。

 原作は、戦中に書かれ今なお読まれ継がれる歴史的名著で、著者は岩波少年文庫の創設にも尽力した、編集者であり児童文学者の吉野源三郎。池上彰氏が「子どもたちに向けた哲学書であり、道徳の書」と序文を寄せたことで話題の新装版とともに、80年の時を経てマンガ版が刊行された。

1982に刊行 新装版

 

 主人公は中学2年生のコペルくん。亡き父のかわりに導いてくれるおじさんと、日々の悩みや疑問を語り合 ううち、彼は人生の本質を見出していく。だが頭ではわかっていても、できないことがある。ある日、友達に対して犯してしまった裏切りは、それまで培ってきたはずの自分も、おじさんも裏切るものだった――。弱い自分に向き合 い、大人への一歩を踏み出していくコペルくんを通じ、生きていくことの本質を教えてくれる児童小説であり思想書だ。

 思想だの哲学だのと紹介すると、こむずかしく押しつけがましいものと感じるかもしれない。さらに書かれたのが戦中ともくれば、若い世代にとっては敬遠しがちな存在だろう。

だが、だからこその新装版でありマンガ版なのだ。枠にとらわれずに手にとってみると、生きていくうえでぶつかる悩みや疑問、人間関係で生じる葛藤など、人が乗り越えなくてはならない壁に、世代も性別も関係ないのだと知ることができるのだ。時代が違うとか、児童書だからとかいう思い込みは捨てて、若者もそうとは呼べなくなった人も、ぜひ手にとってみてほしい。現に、読み終えた読者からはこんなコメントが寄せられている。

【原作読者のコメント】

幾つになっても読んで学ぶことがある。子供向けに書かれているから読みやすいけど、内容については年齢を重ねるとともに深く理解できそう。

現在にも通用する価値観に感銘を受けるとともに、書かれた時代、社会情勢を考えると一層驚きを覚える。ぜひこどもたちにも読ませたい名著。

【マンガ読者のコメント】

君ではなく「君たち」であること。「こう生きるべき」という断定ではなく「どう生きるか」という問いかけであること。定期的に読み返し、自分のものにしたい。きっとこの本からはこの先ずっと大切にしたい生き方の指針が見つけられる。

 物語の冒頭、アパートの屋上から行き交う人々の姿を見ながら「分子みたいにちっぽけだ」と呟いたコペルくん。「目をこらしても見えないような遠くにいる人たちだって 世の中という大きな流れをつくっている一部なんだ もちろん近くにいる人たちも おじさんも僕も」。「人は一人として単体で生きているわけじゃない」というコペルくんの発見が本書全体に沁みとおっており、それを高い位置から俯瞰して眺めたことで発見したというところにおもしろさがある、と糸井さんは語る。

 だが、どんなに知識をたくわえても、物事の全体像や正しさを理解したつもりでも、失敗してしまうことはある。とんでもない過ちを犯すこともある。自分のとほうもない弱さに直面したとき、自分を救ってくれるのは、これまでと同じように俯瞰して物事を考える力であり、「抽象化することが生きる武器になる」(糸井)。生きていくことはその連続であり、自分なりの武器をそなえてどう立ち向かっていくのか。君たちは、私たちは、どう生きていくのか。深く考えさせてくれる、まぎれもない名著なのである。

文=立花もも