異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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前川氏授業への圧力議員・赤池誠章が、ちびまる子ちゃんポスターに「国家意識がない」とトンデモ圧力! 2018.3.21 リテラ

2018-03-21 17:37:48 | 戦前回帰 明治 国家思想

「ポスター ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年」の画像検索結果

赤池議員がアップした映画『ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』ポスター


 やはりと言うべきだろう。自民党政治家の直接的な圧力があった。前川喜平・前文科事務次官による公立中学校での公開授業に対し、文科省が名古屋市の教育委員会を通じて学校側に授業内容の確認や録音データの提出を求めた問題で、自民党の議員二人が文科省に「照会」をしていたことが判明したのだ。

 その議員とは、赤池誠章参院議員と池田佳隆衆院議員。2人は自民党の文部科学部会長と部会長代理を務めていた。

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圧力議員・赤池誠章は徴兵制論者で『ちびまる子ちゃん』にもトンデモ圧力

  http://lite-ra.com/2018/03/post-3889_2.html

2018.03.21

「自民党の部会の中で先輩議員もおっしゃっていましたが、近代国家の民主主義において一番の肝心要、根幹を成しているのは徴兵制で『自分の国は自分たちで守ろう』というのが原点です。武士や貴族に守ってもらうのではなくて、自分たちの国は自分たちで守ろうというのが根幹です。それは教育にも反映されなければならない」

 これだけでも頭がクラクラしてくるが、問題はその“極右教育観”だけではない。実は、赤池議員は今回の前川氏授業圧力問題以前にも、文科省にトンデモとしか言いようのない圧力をかけた事実がある。それは『ちびまる子ちゃん』圧力問題だ。

 いや、なんでいきなり国民的アニメの話に? と首をかしげる人がほとんどだと思うが、当の赤池議員自身が、2015年12月3日のブログでその一部始終を得意げに開陳している。

 まず、赤池議員はブログで、同年公開の映画『ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』のポスター画像を貼り付ける。実はこの「ちびまる子映画」は〈国民に広く国際教育に対する理解・普及を図るため〉(文科省公式サイト)との目的で、文部科学省が配給の東宝とタイアップしたもの。そのためポスターにも「国際教育×ちびまる子ちゃん 文部科学省」と銘打たれ、「友達に国境はな〜い」というキャッチコピーがついていたのだが、なんと、赤池議員はそのコピーをこんな無茶苦茶なことを言って攻撃したのだ。

〈私は、このポスターを見て、思わず仰け反りそうになりました。同省政務官時代に、国家公務員として、それも国家の継続を担う文科行政を担う矜持を持て。国際社会とは国家間の国益を巡る戦いの場であり、地球市民、世界市民のコスモポリタンでは通用しないと機会あるごとに言ってきたのに・・・〉

「友達に国境はな〜い」のフレーズがあるというだけで、「思わず仰け反りそうに」なって「国際社会は国家間の国益をめぐり戦いだ」などとわめきだす……ちょっとトンデモすぎて理解が追いつかないが、ようするに赤池議員は「国境を越えた友情」を打ち出すだけで、反国家行為だと言いたいらしい。

 仰け反りたくなるのはこっちのほうだが、しかし、問題は「ひとり大東亜戦争」状態のこのバカがただのバカでなく、政治家として権力をもっていることだ。赤池議員はこのポスターについて、なんと文科省に圧力をかけたのだという。

 

ちびまる子ちゃんポスターに「国家意識がない」「日本という国家がなくなってしまう」

 赤池議員は先のブログで「文科省の担当課に確認しました」として、こう続けている。

〈ちびまる子ちゃんが言う分には目くじら立てる程のことはないと思ったのですが、東宝株式会社からいくつかのキャッチフレーズの提案があり、わざわざこれを文科省の担当課が選んだとか・・・ 誰も異論を挟む人はいなかったとのことでした。
 たかがキャッチフレーズ。されどキャッチフレーズ。一事が万事で、言葉に思想が表出するものです。国家意識なき教育行政を執行させられたら、日本という国家はなくなってしまいます。
 文科省の担当課には、猛省を促しました。〉

 繰り返すが「友達に国境はな〜い」というフレーズだけで、「そんな教育を続けたら日本という国家がなくなってしまう」なんてクレームをつけたようだ。赤池議員は「猛省を促しました」とサラっと言ってのけているが、これは明らかに文言の変更を求める圧力をかけたということではないか。

 はっきり言って異常としか言いようがないが、まったく悪びれるどころか誇ってすらいるところを見るに、赤池議員や自民党は、このような圧力を日常茶飯事で行なってきたらしい。

 ちなみに、前述の「WiLL」06年10月号所収の新人座談会では、赤池議員が教育勅語を礼賛したのに続けて、稲田議員が教育勅語を子どもたちに暗唱させる森友学園の方針をもち上げながら、文科省が新聞の取材に「教育勅語を幼稚園で教えるのは適当ではない」とコメントしたことを批判。「文科省の方に、『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました。すると、『教育勅語が適当ではないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという主旨だった』と逃げたのです」と文科省に圧力をかけたことを自慢げに語っている。

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(引用元:リテラ http://lite-ra.com/2018/03/post-3889.html 前川氏授業に圧力の安倍チル・赤池議員が『ちびまる子ちゃん』にも圧力!「友達に国境はな〜い」のコピーに「国家意識がない」

 

 【関連記事】

『映画ちびまる子ちゃん』とタイアップ - 文部科学広報 - 文部科学省

文部科学省は、国民に広く国際教育について理解・普及を図るため、12月23日(水)公開の『映画ちびまる子ちゃん~イタリアから来た少年~』とのタイアップ企画を実施しました。 この映画では、まる子たち日本の小学生が、海外から来た小学生と交流し友情を ... タイアップ企画の一環として、『映画ちびまる子ちゃん~イタリアから来た少年~』とのタイアップバージョンのポスターを作成し、全国の小学校及び特別支援学校等に配布しました。

  

映画ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年」と国際教育:文部科学省

どうしてちびまる子ちゃんと文部科学省なの 文部科学省は、国民に広く国際教育に対する理解・普及を図るため、12月23日(水)公開の映画『ちびまる子ちゃん~イタリアから来た少年~』とタイアップを行うことで東宝株式会社と合意し、国民に広く国際教育に対する理解・普及を図るため、タイアップ企画を行うこととしました。 映画では、まる子たち日本の小学生が海外から来た小学生と交流し友情を深める姿が描かれており、国際理解の魅力・大切さを伝える内容となっています。

 

 

 

 


安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感…明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな 2018.1.30 東洋経済online 武田 鏡村 

2018-01-31 22:54:46 | 戦前回帰 明治 国家思想

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安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感

明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな

 
安倍晋三首相は「国の力は人に在り」と、山川健次郎の発言を引用したが…(写真:つのだよしお/アフロ)
 
 
1月22日、安倍晋三首相は施政方針演説の冒頭、会津藩(福島県)の白虎隊(びゃっこたい)出身で東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(1854~1931年)を引き合いに出し、「あらゆる日本人にチャンスをつくることで、少子高齢化も克服できる」と1億総活躍社会の実現に意欲を示した。
長州(山口県)出身の安倍首相からすればいわば「敵方」である会津出身者をなぜわざわざ施政方針冒頭で紹介したのか。『薩長史観の正体』の著者である武田鏡村氏に解説していただいた。

まったく「寛容」ではなかった明治新政府

安倍首相は1月22日の施政方針演説を、「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」と始めた。

これだけ聞くと、長州と薩摩(鹿児島県)が中心となってつくられた明治新政府は、たいへん寛容で、すばらしい人材登用策を実行したと思われるのではないだろうか。敵方であった会津藩士を許し、平等に活躍のチャンスを与えたのだと……。

しかし、史実はまったく逆である。後に述べるように山川健次郎は例外中の例外であり、ほとんどの会津藩士とその家族たちは極めて重い懲罰を課された。

そしてそれを主導したのは、長州の木戸孝允(桂小五郎)だった。

会津藩は、戊辰戦争で降伏した翌年の明治2年(1869)9月、没収された23万石の代わりに3万石を与えられ、本州北端の下北半島に追いやられた。辺境の地に封じ込めることを強硬に主張したのが木戸孝允である。

木戸は、幕末京都での経緯からか、病的なほどに会津藩士を恐れ忌み嫌い、根絶やしさえも考えていたようである。会津藩側も皆殺しにされることを覚悟していたようで、会津人の血を絶やさぬよう、降伏後の謹慎中、最も優秀な2人の若者を逃がした。このうちの1人が山川健次郎なのである。

一方、会津藩士とその家族たち1万7000人は、下北半島に斗南藩3万石が与えられて移り住んだ。

だが、その地は、寒冷不毛で、実質7000石あるかないかと危ぶまれた。木戸は何が何でも生死にかかわる懲罰を会津藩士に下したかったようである。

薩長閥の中で会津出身者として異端視されながら陸軍大将にまで登りつめた柴五郎は、少年期に斗南藩で悲惨な生活を体験した1人である。

柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、それでは足りない。救米に山菜を加えたり、海藻を煮たりするだけでは飽きたらず、馬に食べさせる雑穀など、食べられるものは何でも口にした。

塩漬けにした野良犬を20日も食べ続けたこともあった。最初はのどを通らなかったが、父親から、「武士は戦場では何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長(さっちょう:薩摩と長州)の下郎(げろう)どもに笑われるぞ」と言われて我慢して口にした。

住まいの小屋には畳はなく、板敷きに藁(わら)を積んで筵(むしろ)を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹きつける寒風で炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で藁にもぐって寝るが、少年・五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるかわからない病状になった。

こうした困窮の生活で病気になって亡くなる人も少なくなかった。藩の権大参事の山川浩(山川健次郎の兄)は、明治政府や会津の旧庁に救済を願い出たが、はかばかしい結果ではない。「これが天子さまの寛典なのか」といった憤激の声が洩れる。廃藩置県で斗南藩は消滅し、やがて旧会津藩士とその家族は四散していく。

「寛容」とは正反対の、明治政府による「会津処分」であった。

「賊軍」出身者に対する差別

『薩長史観の正体』で詳述したように、武力によって強引に推し進めて勝ち取った明治維新は、薩長側の暴力と強奪、人身毀損の数々の凶行で成り立つものであった。

そうして誕生した明治新政府も、「薩長政府」といわれるように、薩摩と長州の出身者に牛耳られた。当初は、薩摩のほうが力をもっていたが、「西郷どん」の西南戦争で薩摩が賊軍となると、長州のほうが優勢になっていく。長州出身の伊藤博文が初代首相になって以来、長きにわたり首相はほとんど長州と薩摩の出身者で占められている。

ちなみに明治維新150年目の今年、首相は長州出身の安倍晋三だが、50年目は寺内正毅、100年目は佐藤栄作と、節目の年は、すべて長州出身の首相で占められている。

一方、会津など「賊軍」出身者は、政官界で差別され、立身出世の道を閉ざされた。長州陸軍、薩摩海軍といわれるように軍部でも薩長閥は強く、賊軍藩出身者は出世などで差をつけられた。この辺は半藤一利氏と保阪正康氏の対談集『賊軍の昭和史』に詳しいが、賊軍差別の傾向は昭和の時代にまで続いたという。

安倍首相は、施政方針演説での冒頭の言葉の後、山川健次郎が東京帝国大学の総長に登用されたことなどにふれ、「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代~」と、人材活用の面でも優れた時代だと位置づけている。だが、以上のように明治は、「1億総活躍社会」のお手本にするような立派なものではけっしてなかったのである。

にもかかわらず、安倍首相、おそらくは周辺の人たちは、なぜ白虎隊出身の山川健次郎のことをことさら引き合いに出して、強引に明治時代を賛美するようなことを言うのか。

その背景には、今年、「明治維新150年」を迎え、その記念事業に政府が前のめりなことがあるのではないだろうか。

政府は記念事業にたいへん積極的で、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室が設けられた。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。昨年8月には、明治維新150年のロゴを決定したと政府は発表した(選考会座長:佐藤可士和)。安倍首相も、今年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛している。

『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

だが一方で最近は、逆に、明治維新のありように異議を申し立てる書籍が相次いで刊行されている。書店の歴史コーナーでは『明治維新という過ち』『明治維新という幻想』『偽りの明治維新』『明治維新という名の洗脳』『明治維新の正体』『東北を置き去りにした明治維新』といった明治維新に批判的なタイトルが目立つ。

薩摩と長州がつくりあげた歴史観――薩長史観に疑問を投げかける声が大きくなっているのだ(参考:なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)。1月9日のテレビ朝日「グッド!モーニング」“池上彰のニュース大辞典”でも、薩長史観に異議を唱える本がよく売れていると報道されていた。

このような状況下では、政府もさぞや「明治維新150年記念事業」をやりにくかろう。

「薩長史観」に異をとなえた山川健次郎

そこで、会津藩の白虎隊出身でありながら、会津藩士・秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔に預けられ、後に国費留学生に選ばれて東京帝大総長にまで登りつめた山川健次郎のことを、ことさらに引き合いに出したのではないだろうか。

そして、人材登用にも公平な、すばらしい「明治」と美しく飾り立てようとするのではないか。

確かに長州藩士でありながら彼を預かった奥平のことは高く評価すべきだろう。だが、こうしたことはごくごくまれな例外であり、会津藩やその他賊軍とされた側には多くの血涙史があったことを忘れてはいけない。

山川自身も、後に兄・浩が残した『京都守護職始末』を完成させ、天皇に忠義を尽くした幕末会津藩の立場を明らかにした。薩長史観に異論を唱える嚆矢(こうし)となったのである。

明治維新とそれに続く明治は、安倍首相が施政方針演説で述べたような美談だけで済ませられるものではないのだ。

 

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半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」~「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す 2018.1.27 東洋経済オンライン 

2018-01-30 00:00:08 | 戦前回帰 明治 国家思想

半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」

「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す

本来は官軍も賊軍もないのです(撮影:風間 仁一郎)
 
 1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)などではすでに記念イベントが始まっているが、今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。
だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた。

(聞き手:加納則章)

「明治維新」という言葉は使われていなかった

――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。

私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。

漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。

明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。

そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。

調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。

明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。

半藤一利(はんどう かずとし)/作家。昭和5(1930)年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て作家。「歴史探偵」を自称。『漱石先生ぞな、もし』(正・続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)、『日本のいちばん長い日』、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇』(毎日出版文化賞特別賞)、『幕末史』、『山本五十六』、『日露戦争史』(全3巻)、『「昭和天皇実録」の謎を解く』(共著)など著書多数。保阪正康との共著に『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(対談)などがある(撮影:風間 仁一郎)

薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。

確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。

薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。

歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました。

「薩長史観」はなぜ国民に広まったのか

――どのようにして薩長史観が広まったのでしょうか。

そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。

困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。

そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。

さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……。

――子どもの頃、半藤さんのルーツである長岡で「薩長史観」の誤りを感じられたそうですね。

私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。

「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」

いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。

また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。

そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります。

 

「明治維新」の美化はいかがなものか

――幼少期の長岡でのご経験もあり、「明治維新150年」記念事業には違和感があるのでしょうか。

「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。

「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。

司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。

本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。

そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。

私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。

にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。

そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです。

 

――賊軍となった側は、具体的にはどのような差別を受けたのでしょうか。

宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。

これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。

たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。

新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。

県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。

また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。

いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。

 

立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者

――中央での人材登用でも、賊軍の出身者はかなり厳しく制限されたようですね。

賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。

ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。

また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。

政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです。

――2013年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別されたわけですね。

例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。

こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです。

――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。

前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。

いちばん典型的なのは松山藩です。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。

その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。士官学校はタダですからね。あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。

弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、兵学校ももちろんタダでした。

この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。

賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。

その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。

『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。

 

敗者は簡単には水に流せない

――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。

私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。

『賊軍の昭和史』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)


長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、私の世代にも影響していました。

私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、海軍で大変苦労しているのです。

「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。

いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。

「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて 忍苦まさに幾星霜~」

勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。

 

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~保阪正康氏が語る「賊軍」側からの見直し

2018/01/09 - なぜ、明治維新の「常識」を覆すような書籍が次々と刊行されているのでしょうか。よく用いられる「薩長史観」という言葉があります。明治維新の際の勝者である薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということ…

 

なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか
~150年目に「明治維新」の見直しが始まった
2017/09/08 - 薩長史観――明治維新から太平洋戦争の敗戦まで日本人の心を支配し続けてきた歴史観のことである。・・・

 

 

 


靖国神社の徳川宮司が退任意向 明治維新巡る歴史認識で波紋 2018.1.24/ 靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋

2018-01-24 09:18:12 | 戦前回帰 明治 国家思想

 靖国神社の徳川宮司が退任意向 明治維新巡る歴史認識で波紋

 靖国神社の徳川康久宮司(69)が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日、分かった。定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している。
 徳川幕府15代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が16年の共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀の動きを誘発した」と徳川氏を批判、波紋が広がっていた。

 明治維新のため幕府と戦って亡くなった人々の顕彰という創立の理念に絡んで発言した徳川氏が早期に退任すれば、来年創立150年を迎える靖国神社の合祀の在り方を巡る論議が活発化しそうだ。

 
 靖国神社の徳川康久宮司
 
 
 
********************:
 

靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋

NEWSポストセブン http://www.news-postseven.com/archives/20160620_422520.html?PAGE=1#container

2016.06.20 11:00

◆「大村益次郎像を撤去せよ」

「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。

 その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで、騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや、意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。

「明治維新当時、東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問わず、当時ありもしなかった言葉に置き換えて流布するのはおかしい。また、靖国の持つ歴史観を見直さないのは欺瞞です。“官も賊もない”と言うならば、まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」

 そんな意見が飛び出すほど、今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は、「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行なう考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。

 宮司は150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。

※週刊ポスト2016年7月1日号

 

 

 


なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか ~意図的に作られた「薩長史観」=「皇国史観」そして国家神道体制〔武田 鏡村 東洋経済ONLINE〕

2017-09-11 12:42:23 | 戦前回帰 明治 国家思想
 薩摩・長州が起こした「明治維新」を正当化し、彼らの権力支配を絶対化するために意図的に作られた「薩長史観」=「皇国史観」、そして「国家神道体制」(弓矢健児氏)
 

http://toyokeizai.net/articles/-/187322より転載

なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか

150年目に「明治維新」の見直しが始まった

敗者となった会津藩をはじめとする「旧幕府側」からの、「もう一つの幕末維新史」とは?(写真は会津若松城:shira / PIXTA)
 
最近よく聞かれるようになった「薩長史観」という言葉がある。明治維新を成し遂げた薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということである。要は「勝者が歴史をつくる」ということであり、「薩長=官軍=開明派」「旧幕府=賊軍=守旧派」という単純な図式で色分けされた歴史観だといわれる。明治以来、政府の歴史教育はこの薩長史観に基づいて行われ、国民の「通史」を形作ってきた。

ところが、ここにきて、この薩長史観に異議を申し立て、旧幕府側にこそ正義があったとする書籍が相次いで刊行されている。原田伊織著『明治維新という過ち』を皮切りに、『三流の維新 一流の江戸』『明治維新という幻想』『明治維新という名の洗脳』『大西郷という虚像』『もう一つの幕末史』『明治維新の正体』といった書籍がさまざまな著者により刊行され、ベストセラーになっているものも多い。雑誌でも『SAPIO』(小学館)9月号が「明治維新 150年の過ち」という大特集を組んでいる。
来年の「明治維新150年」を前に、反「薩長史観」本がブームになっているわけだが、そもそもこの「薩長史観」とは何なのか。なぜここに来てブームになっているのか。このたび『薩長史観の正体』を刊行した武田鏡村氏に解説していただいた。

「薩長史観」により偽装された幕末維新史

『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)


薩長史観――明治維新から太平洋戦争の敗戦まで日本人の心を支配し続けてきた歴史観のことである。それは、薩摩と長州が中心となって成しとげた明治維新は、頑迷な徳川幕府を打ち破って文明開化をもたらし、富国強兵によって世界に伍する国家を創り上げた、とするものである。

だが、薩長史観は明治新政府がその成立を正当化するために創り上げた、偽装された歴史観であることは、意外に知られていない。

それは、薩摩や長州が幕末から明治維新にかけて行った策謀・謀反・暴虐・殺戮・強奪・強姦など、ありとあらゆる犯罪行為を隠蔽するために創られた欺瞞に満ちた歴史観である。

そこには、天皇が住む御所を襲撃したという事実や、あるいは天皇を毒殺したのではないか、といった疑問がいっさい封印されている。

それにもかかわらず、明治新政府は、かつて自分たちが蔑(ないがし)ろにした天皇を絶対化し国民に忠誠を誓わせることで、血にまみれた犯罪の数々から目をそらさせ続けたのである。

しかも薩長史観では、日本は現人神(あらひとがみ)である天皇が治める神の国であり、天皇への絶対的な忠誠を示す愛国心こそが日本人の誇りであり、死をもって天皇に仕えることが日本人であるとする。これを徹底させたのが「教育勅語」であった。


靖国神社には「賊軍」兵士は祀られない

さらに薩長史観は、起こす必要のなかった国内戦争である戊辰戦争を、薩長などの「官軍」が行った正義の戦争と見なし、反抗した者を「賊軍」として排除し続けた。

偏狭な愛国心と排外主義は表裏するものであるが、それを象徴するのが薩長によって創り上げられた「靖国神社」である。

靖国神社には「官軍」の戦死者は祀られたが、「賊軍」は排除されて、今日に至っている。

薩長は靖国神社を、愛国者を祀る「死の祭壇」とすることで、官軍の戦死者だけではなく、近隣諸国への侵略によって戦死した兵士たちを誇らしく祀り、国民皆兵による軍国主義の拡張を正当化したのである。それは太平洋戦争の敗戦まで続く。

ちなみに昭和天皇は、A級戦犯として処刑された東条英機らが靖国神社に合祀されたことを不興に感じられて参拝を取りやめられたが、薩長史観の信奉者たちは天皇の意向を無視して、相変わらず参拝を続けている。

これは、明治維新のとき、尊皇といいながら孝明天皇の意向を無視して武力討幕に走った薩長の軌道と重なるものがある。

では、明治維新から現代に至るまで「薩長史観」によって欺かれている歴史とはどのようなものだったのか。薩長にとって都合が悪く、あまり表立って語られることのなかった歴史の真実とはどのようなものなのか。

以下に象徴的なものを挙げる。

●吉田松陰は松下村塾でテロリストを養成して、近隣諸国への侵略主義を唱えていた。
●高杉晋作は放火犯で、テロの実行を煽(あお)っていた。
●木戸孝允は、御所の襲撃と天皇の拉致計画を立てていた。
●初代内閣総理大臣の伊藤博文は殺人者で、放火犯であった。
●西郷隆盛は僧侶を殺めた殺人者で、武装テロ集団を指揮していた。
●西郷隆盛は平和的な政権移譲を否定して、武力討幕の謀略を実行した。
●三条実美(さねとみ)は天皇の勅許を偽造して、攘夷と討幕運動を煽っていた。
●薩摩と長州は何食わぬ顔で攘夷を放棄して、代わりに尊皇主義を旗印とした。
●岩倉具視は女官を使って孝明天皇に砒素(ひそ)を飲ませて毒殺させたとうわさされていた。
●大政奉還でなされた「慶応維新」は評価すべきものだったが、薩長による武力討幕の前に粉砕された。
●「討幕の密勅」といわれる天皇の宣旨(せんじ)は完全に偽造されたものである。
●坂本龍馬の暗殺は、薩摩の大久保利通らが指令を出していた可能性がある。
●西郷隆盛は「薩摩御用盗(ごようとう)」を指揮して江戸市中を騒擾させ、軍用金を強奪させた。
●鳥羽・伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」は偽造されたものであった。
●戊辰戦争は薩長によって強引に引き起こされたものであった。
●大村益次郎は上野にいた彰義隊を不意に砲撃し、「官軍」は戦死者の肉を食ったとうわさされた。
●「官軍」は国際法を無視して捕虜や負傷者を惨殺した。
●「官軍」は会津などで強奪と強姦の限りを繰り返していた。
●帝国陸軍に君臨した山県有朋は、越後長岡戦争では裸同然で敗走していた。
●明治維新がなければ日本は外国の植民地になっていたというのは完全なうそである。

 

薩長史観は、こうした真相を隠蔽し続けて、現在に至っている。

なぜ「反薩長」本がブームになっているのか

ここにきて、薩長史観に異を唱える反「薩長史観」本ともいうべきものが続々と出されている。これは、明治維新から150年という時間が経過し、ようやくタブーなく歴史の真実を語れるようになったためかもしれない。ようやく国民が、明治政府の「洗脳」から解放されてきたといえるのだろう。

そもそも、上に挙げたような「真相」の数々は、特に異説でもなんでなく、歴史の事実を追えば容易にわかることなのである。

それが、明治以来の歴史教育により、知らず知らずのうちに「薩長=官軍=開明派」「旧幕府=賊軍=守旧派」という“刷り込み”が国民になされてきた。いわゆる「司馬史観」でさえもその呪縛にとらわれており、薩長史観の影響は現代に及ぶと指摘する声もある。

ところが、最近続々と出される反「薩長史観」本により、ようやく反対側(旧幕府)からの歴史観に初めてふれることになり、多くの人々が新鮮な驚きとともに共鳴しているのではないだろうか。それまで「明治維新」に対してモヤモヤ感じていた疑問が、すっきり解消したという人も多いようである。

また、イギリスのスコットランド独立投票に見られるような、世界的なローカリゼーションの流れも関係あるかもしれない。

今まで「賊軍」側とされてきた東北や新潟の人々が、官製の歴史観とは違った、自分たちの郷土の側に立った歴史の見方を知り、溜飲を下げたのではないだろうか。そして、自分たちの郷土に、それまで以上に誇りを持つようになってきているように思える。実際、会津や仙台などで、こうした反「薩長史観」本の売れ行きがいいと聞く。

本来、歴史の見方は多様であるはずである。戦争の勝者=権力者の側からの歴史観だけが正しいわけではない。地域ごとの歴史の見方があって然(しか)るべきではないだろうか。

いまはやりの地方創生も、こうした地元の歴史に対するリスペクトといったソフトパワーを抜きにしては語れないと思う。

今後、地域ごとの歴史の見直しの動きは、ますます加速していくのではないだろうか。

「薩長史観」の呪縛から解き放つ

そしてもう1つ、近年の歴史修正主義的な動きも背景にあるのではと思う。

明治維新から太平洋戦争の敗戦まで日本人の意識と思想を形成していたのは、薩摩と長州を中心としてつくられた絶対的な天皇主義、軍国主義、愛国心であった。それが、身の丈を超えた侵略主義、帝国主義へとつながっていく。そして、そのバックボーンとなったのが「薩長史観」なのである。

それはやがて日本を壊滅的な敗北に導いた。その反省から日本は徹底した民主主義と平和主義に徹するようになったのである。

だが近年になって、教育勅語の見直し論に見られるように歴史修正主義が台頭し、またぞろ薩長が唱えていた国家観が息を吹き返しているようである。いずれ稿を改めて書きたいが、歴史修正主義的な傾向の強い安倍晋三首相は「長州」出身であり、その言動には「薩長史観」が深く反映されている。

そんな風潮に対して、そもそも薩長が行った明治維新とはいったい何であったのか、という根源的な疑問が提示されるようになってきた面があるのではないか。そこを解明しないかぎり、日本の近現代史を正確に認識することはできない、という考えが「反薩長」本ブームの背景にあるように思えてならないのだ。

今、明治維新の歴史の事実と向き合うことは、薩長史観の呪縛を解き放つことにつながり、自由で活気ある平和な民主国家を追求する一歩となるのである。

そんな思いから今回、『薩長史観の正体』を刊行した。来年、「明治150年」を迎えるのを機に、新たな歴史の見方を知っていただきたいと思う。