いばらの道が続こうと、平和のためにわれ歌う (美空ひばり)
http://www.tapthepop.net/day/13548より転載
TAP the DAY
一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く、一本の鉛筆があれば八月六日の朝と私は書く
2017.08.06
その歌が誕生したのは平和をテーマにした音楽祭が、広島で新しく始まったことがきっかけだった。
幼少時に父が徴兵された美空ひばりは、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中を生き延びてきた。
横浜大空襲のときには避難した防空壕で、生き地獄のような恐怖も体験している。
”世界に平和を発信したい”という広島テレビ放送の企画に賛同した美空ひばりは、音楽祭への出演を快諾して課題となった新曲「一本の鉛筆」に取り組んだ。
一本の鉛筆があれば
私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと 私は書く
この真っ直ぐなメッセージ・ソングを作詞したのは脚本家の松山善三、音楽祭の総合演出を引き受けた映画監督である。
そして黒澤明監督の映画音楽で知られる音楽家、佐藤勝がメロディとアレンジを担当して新しい歌が完成した。
一本の鉛筆と一枚の紙があれば、たった一人でも反戦を訴えることができる。
美空ひばりは1974年8月9日に開かれた第一回広島平和音楽祭で、初めてこの歌を人前で歌うためにスタンバイしていた。
その日も暑い日になった。
会場の広島体育館には冷房設備がなく、出番を待つための場所に指定された体育館の用具置き場のようなスペースには、氷柱が一本立っているだけだった。
そこで早くから出番を待っていた美空ひばりに、広島テレビのディレクターが暑さをを気遣って声をかけた。
「ここは暑いですから、冷房のある別棟の楽屋でお待ちください」
美空ひばり誰に言うでもなく、こうつぶやいた。
「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」
その日から、美空ひばりは「一本の鉛筆」を数多い持ち歌のなかでも、大切な曲の上位に入れて歌うようになった。
10月1日にはシングル盤が発売された。
それから14年後の1988年に、美空ひばりは再び広島平和音楽祭に出演した。
大腿骨頭壊死(えし)と肝臓病で入退院を繰り返していた美空ひばりは、もう再起は絶望的と伝えられていたにもかかわらず、その年の4月11日に開かれた東京ドームにおける「不死鳥コンサート」を成功させて、見事に復活をアピールしたばかりだった。
しかし東京ドーム公演後を境に体調はひどく悪化し、一人で歩くことさえ困難な状態になってしまった。
その日も会場となった広島サンプラザの楽屋にはベッドが運び込まれて、彼女は点滴を打ったままずっと横になっていた。
ところがひとたび舞台に上がって観客の前に立つと、美空ひばりは笑顔を絶やさずに「一本の鉛筆」を歌い切った。
そしてステージを降りた時、「来てよかった」と微笑んだのだった。
一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと 私は書く
翌年の6月24日、美空ひばりは52歳の若さで逝去した。
しかし美空ひばりによって生命を与えられた「一本の鉛筆」は、浜田真理子ほか多くの女性シンガーたちに歌い継がれて、今ではスタンダード・ソングになっている。
<注>本コラムは2014年8月4日に初公開した「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」の改題、改訂版です。
美空ひばり『一本の鉛筆 (MEG-CD)』
<これは美空ひばりさんとも親交のあった坂本九さんの長女、大島花子さんの「一本の鉛筆」です>