友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

金木犀はまだ咲かない

2007年09月30日 13時50分33秒 | Weblog
 一昨晩も昨晩も寝ていて、左目が痒いなと思った。いよいよ秋になってきたのだ。暑い夏が過ぎて、さわやかな秋になると、皆さんは「気持ちのよい日になってきましたね」と言う。ところが私はこの季節になると、左目が無性に痒くなる。稲花粉によるアレルギー眼炎症である。丁度、秋の運動会の頃だから、本当にバツが悪い。「目が真っ赤ですよ」と言われる度に、「アレルギーなんです」と説明しなくてはならない。

 いつごろから始まったのか良く覚えていないが、花粉症は20代の頃からあった。朝、目が覚めると途端に「ハクション」とやる。義父に「風邪か」とよく言われた。熱もないし、しばらくすれば治まるから、それほど気にしていなかった。40代の頃が一番ひどかったように思う。テッシュ箱がすぐ空になってしまう。鼻の周りは赤くはれ上がるほど、鼻をかまなくてはならなかった。その頃になって、「アレルギー」という言葉が一般的になってきたように思う。

 お年寄りの薬剤師さんが言う。「アレルギー反応があるということは、若い証拠です。年寄りになったら、反応はゼロですよ」。でも、最近ではお年寄りでも花粉症の人がいるから、一概に言えなくなってきているのかなと思う。いずれにしても、現代病であることは間違いないだろう。私は小学校4年生までは、鯖を食べると蕁麻疹が出た。しかもどういうわけか顔に出た。ブツブツの顔で学校へは行きたくなかった。食べなければよいのだが、鯖は美味しいおかずであったし、それ以外に食べるものは無かったから、結局は食べてしまい、朝になって憂鬱な気持ちになった。学校へは行きたくない。でも、誰も「行かなくてもいいよ」と言ってくれなかった。

 昨日はこの学区の小学校の運動会が開かれていたが、雨模様で気の毒だった。雨の日のほうが、痒みが無いので私は助かるが、一生懸命にがんばっている子や応援するご家族にはいやな日であっただろう。運動会といえば、金木犀が甘い香りを漂わせる季節なのに、今年の我が家の金木犀はいっこうに花が咲く様子がない。花芽が全く育っていないのだ。お彼岸の頃に咲くヒガンバナも今年は余り見かけないなと思っていたが、今日の中日新聞に半田市の新見南吉記念館の北側にある小川の堤のヒガンバナの写真が掲載されていた。少し遅れていても、自然は咲く時期を忘れていないなと思った。

 南濃町の津屋川堤のヒガンバナの群生は、もう満開の時期は終わってしまっただろうか。「紅葉はどこがキレイですか」と聞かれたことがある。このあたりなら足助の香嵐渓か、美濃の大矢田神社もいい。けれども探せばまだまだキレイなところはいくらでもあるだろう。でも結局は誰と行くかではないだろうか。一人で出かけても、アアイイネで終わってしまう。素敵な人、一緒に行きたい人と行けば、どんなところも素晴らしい場所に思えてくるものだ。

 さて、今日はクラス会だ。これから出かけるのでゴメン。
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大和塾代表の逝去

2007年09月29日 23時02分29秒 | Weblog
 中学高校からの友人と一緒に飲むはずだった。朝早く、電話をいただき、大和塾の代表・山田栄久さんが亡くなったと聞いた。ショックだった。身体の具合がよくないことは知っていたけれど、それはこの夏の暑さのせいで、秋になれば元気を取り戻されるだろうと思っていた。山田さんが待ち望んでいた金美齢さんの講演会はもうすぐだ。ポスターもチラシも来週には出来上がる。11月11日(日)、山田さんには舞台の上で、金美齢さんを紹介し、二人が並んだ写真も撮ろう。

 余りにも早い。早すぎる。「金美齢さんの講演会を行った後は、これからも少し有名人を1年に1回は呼びたいね」と言われた。いつも先のことを考え、我武者羅に突っ走るから、奥さんは「大変よ」と言われたが、それはそれで後始末をしてくれる奥さんの存在があったから出来たことかもしれない。

 山田さんは、身体が大きな割には細やかな心配りの人だった。家業の家具屋を受け継いだが、いつも先を見ていて、どこで何をすればよいのかと考え、商売の仕方や店舗のあり方など、次々と発展させてきた。私が地域新聞を作っていた時も、本当にお世話になった。お店に行き、お茶をいただきながら、山田さんのお話を聞いているだけで、何か力が湧き与えられるような気がした。それは多分、いつも「夢」を語ってみえたからだと思う。

 山田さんから電話があったのは昨年の夏だった。それから山田さんが何を考え、何をしたいのか、そのためにはどうするのか、具体的な形になっていったのが9月で、仲間を集めて10月には「大和塾」が発足した。「市民のための勉強会をつくろう」。これが山田さんの夢だった。山田さんは「政治家の驕りと不透明なお金の授受、公務員の怠慢と無責任、事業家の不正な金儲け、親が子を子が親を殺害する凶悪な事件や無差別な殺人、弱者への虐待などなど、どうしてこんな世の中になってしまったのか」と嘆かれ、「昔の日本は、隣の家との垣根も無く、旅人には飲み水ばかりか宿も貸すほどおおらかだった」と言われた。「豊かな暮らしの中で、忘れてきたもの、これまでの何がよくて何が悪いのか、これからはどのような社会を築いていくべきか、みんなで考えていく塾をつくりたい」。

 山田さんの熱い思いで出来上がった「大和塾」が1年を経て、これからさらに大きくしていこうという時に、逝ってしまわれた。残された私たちは大黒柱を失ったような思いでいる。それでも、私たちは山田さんの呼びかけを無にしてはならないと思っている。山田さんが望んだ大きな夢、山田さんが礎を創られた「市民の手による市民のための勉強会・大和塾」を発展させることが私たちの役目だと思っている。少しはにかんで「幕末に吉田松陰が開いた『松下村塾』のように、この大和塾から、北名古屋市を背負って立つ人を育てたいね」と山田さんは言った。私たちはその遺志を受け継ぐ。
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自分史?

2007年09月28日 23時41分49秒 | Weblog
 明日は、大和塾の第5回市民講座を開く。明日のテーマは「『自分史』を生きるパワーに」である。昨今の自分史ブームを受けてこのテーマを設定してみたが、「文章なんか書けん」とか「自分史なんて自分には関係ないから」と言う人が多い。どうやら明日の講座の参加者は少ないかもしれないと心配している。私は書くことに余り抵抗が無いが、多くの人が書くことには躊躇するようだ。

 絵もそうだが、うまく描こう、そういう気持ちが「自分はかけない」と言わせているように思う。誰でも人間は絵が描けるし、文章が書ける。けれども「うまく」という意識が強く働くと、途端に「できない」と言い出してしまう。私も文章は、書くことを仕事としてきたので比較的抵抗無くできるが、絵は自分が専門としてきただけに返って「うまく」描きたい気持ちが強くて、描けなくなってしまっている。

 文章の場合は、上手いとか下手とか、どういうわけか余り意識が無い。自分が見たものを見たようにわかりやすく書く、あるいは自分が思ったことを平易な言葉で伝える、それだけを課題にやってきたので、書くことにそれほどの抵抗が無いのかもれない。新聞を作っていた時、部下に明らかに「うまい」文章を書こうという意識が働いている人がいた。何度読み直してもそういう文章はおもしろくない。30から40字以内で、終わるような文にしなさい。60から80字で改行しなさい。そんなことを指導してきた。新聞ではわかりやすいことが一番大事だと思うからだ。

 明日、講師の平岡さんがどのように講演されるのかわからないが、その資料を読んでおもしろいなと思った。資料の中で、作家の色川大吉は「人は誰しも歴史をもっている」「その人なりの歴史、個人史は、当人にとってはかけがえのない“生きた証し”であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである」と述べている。「自分がどのように生きてきたのか、私たちは時々振り返ります。生きてきた過程を振り返ることで、今の自分を確認するのです。前向きに生きる作業です」と、私はこの講座へ参加を呼びかけるチラシに書いたが、なかなか的を射ているなと思った。

 「過去など振り返るな!」と言い切る中学高校の友人がいる。過去にこだわる必要は全くないけれど、過去をとらえ返すことは自分の足元を見つめることであるような気がする。皮肉屋の友人なら「足元を見つめてどうする?」と言うのだろうが、確かにそうではあるが、逆に先に進もうとするためにはただ身体を動かすだけでいいのか?と聞きたくなる。進むためには少なくとも方向を定めなくてはならないだろう。そんなことを考えていたなら、それも本当はどうでもよいことではないか、そんな気がしてきた。

 過ぎ去った時間を取り戻すことはできない。やってしまったことは書き直しできない。私たちに許されていることは、これからどうするか、明日は何をするか、それしかない。1秒先の時間、1分先、1日先のことは考えられるし、考えたことは実行もできる。それなのに人はどうして過去にこだわるのか、過去から抜け出せないのか。私がこうして毎日綴っているブログは、正しく自分史だ。いや、私だけでなく多くの人々が行っているブログは全て自分史と言ってよいだろう。ということは、人間は自分を語りそして人に伝えたい気持ちが強い生き物だといえるようだ。
私はそんな典型かもしれないし、それでよい気がしている。

 大和塾の第5回市民講座「『自分史』を生きるパワーに」は、9月27日、北名古屋市福祉センター・もえの丘で、午後2時より開催します。入場は無料。誰でも参加できます。
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名演「明石原人」を観る

2007年09月27日 23時03分02秒 | Weblog
 昨夜は名演の日で、劇団民芸による『明石原人』を観た。劇団民芸では珍しい(?)象徴的な舞台づくりにはちょっとビックリした。しかし、観終わってみると、舞台の転換を実にうまくやっていたと思った。戦前から戦後の40年間ほどを淡々と描きながら、2時間50分があっという間だったから、やはり演出がうまかったのかなと思う。劇団民芸は伝統的なリアリスム演劇だから、小細工はせずにストレートに見せてくれる。古いといえばそうだが、それだけにわかりやすいともいえる。

 実際の歴史上の人物名が出てくるから、実際にあった話なのかもしれないが、私はそんなことがあったことを知らなかった。明石でナウマウ象の化石が見つかった話は知っていても、人骨の化石が出たとは知らなかった。その人骨の化石を発見したのは、小学校しか出ていない素人考古学者だ。彼はひょんなことから、自分の小学校の時の先生で、今は明石の女学校の教師の女性と結婚する。11歳も年上であるばかりか自分の先生であったので、結婚しても彼の書く論文は彼女のチェックが入る。おそらくそれで彼も大いに助かったのであろうけれど、度々となればうっとうしくもなる。激しい夫婦喧嘩が描かれていたが、納得出来ることである。

 私の母も年下の父と結婚した。母も女学校の教師をしていた。父は母のおかげで最終的には師範学校を卒業し、小学校の教師になった。父の夢は小説家になることで、小説家になるためには医師になり、お金と時間を稼ごうとしていたようだ。母はそうした父を支えていたという。これは姉から聞いた話なので、本当かどうかは定かではない。父が世間知らずの夢想家というのは、多分本当だろう。父の残した日記を読むと、人の世のわずらわしさを嘆くが、どうするかは見えてこない。悪いヤツや卑怯なヤツがいると分析しているのに、ころりと騙されてしまっている。

 生活のことや親類づきあいのことなど、うっとうしいことは全て母に押し付け、自分は同じ職場の若い女性教師に多大な関心を寄せている。『明石原人』の主人公夫婦に似ているが、明石の年下の主人はひたすら化石掘りに夢中している。それだけに罪はないし、最後には大学の先生にもなり、博士号を取得している。妻としてはどんなにか誇りに思っただろう。自分の身体がボロボロになるまで働き、夫を支えてきたことが報われたのだ。母はどうだっただろうか。父は校長にもなり、自分のためにのみに金を使うことはなかったと思う。その父に比べると、私は全くカミさんに依存している。自分勝手に生きてきて、カミさんからも「あなたはいいわね。自分の好きなことができて」とまで言われている。

 明石の主人公は「自分は世間に何も役立たないことをしてきた」と言う。考古学での発見は、化学や物理や医学の発見と違って、社会に役立つわけではないというわけだ。彼の妻は「社会に役立つことだけが人の価値ではない」と諭す。「好きだというだけでやってきてしまった」と彼が告白すると、妻は「好きでやることに意味があるのよ」と言う。そうだよね。好きなことに没頭できる人生なんてそうあるものじゃーない。歴史では好きなことをしてきた人がいたことで大きな進展があった。たいていの人は生きるために生きる人生で終わる。そういう人は社会の役に立たなくても、家族やその周りの人の役には立っているものだ。いや、生きていて価値のない人生なんかあるはずがない。神は価値のないものを生かされているはずはないのだ。

 ところで、主人公が「私は自分の功名心のためにやってきた」と言ったことが気になった。功名心のない人はいないだろう。誰もが人に認めてもらいたいと願っている。できることなら、人から褒めてもらいたいのだ。そのために努力をすることは当然であろうし、「名を上げたい」と願うことは「力」にもなる。功名心は密かに自分の胸の中に収めておくべきで、功名心が過ぎて、人を陥れたり、偽造をしたり、そうした負の面があることも事実だろうが、それはその人の心の問題のように思う。

 それよりも気になったのは、関東で旧石器を発見した、同じ素人考古学者の若者を主人公が諭す場面だ。若い素人考古学者も「先生は変ってしまわれた」と言い返していたが、あれだけ学歴にそして学閥に苦しめられてきた主人公も、大学の先生という地位を得てしまうと、苦しんできたことでさえ忘れてしまうのかと思った。権力を手にした者が腐敗していくのと同じだ。人はそういう運命なのだろうかとさえ思った。

 71歳で総理大臣のイスに座ることになった人もいれば、63歳にして3度結婚し3度離婚し、「波乱万丈の人生でね。にっちもさっちもいかなくなってしまった」と開き直る人もいる。その同じクラスメートに「上品な生き方、納得できなくても気品有る生き方をしたい」と言う人もいる。30日のクラス会では、そんな自分たちの生き方論に花が咲くのかな?
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福田康夫総理の誕生

2007年09月26日 22時51分12秒 | Weblog
 福田康夫さんが総理大臣になった。「総理になりたいと思ったこともない」と発言していた福田さんも、河野衆議院議長が憲法の規定により、「福田康夫君を総理大臣に指名する」と言った時は、嬉しそうに少し笑った。71歳でまさか総理大臣のイスに座ることになるとは、思いもしなかったであろう。福田さんはテレビで見ている限り、サラリーマンのような政治家だ。与えられた仕事はキチンとこなすが、自分からは欲を出さないタイプに見える。

 今のところの福田さんは自分の役割を心得ていると思う。だから自分で「背水の陣内閣」と言ったのだろう。このままでは自民党は政権の座を失うことになる。できる限り引き伸ばすことが第一の目標だ。それがダメなら、いつでも復活できるように、できる限り数を温存することコレが第二の目標だと思う。いずれにしても自民党の後退は避けられないが、衆議院の解散権は福田さんが握っている。だから、どこで解散・総選挙を行うことが自民党にとって有利なのか、その判断をすることに全神経を集中させているのだろう。

 もし仮に、衆議院選挙で自民党が負けなければ、その時はたとえネジレ国会が続くとしても、福田さんも少しは色気が出てくるのかもしれないが、こんな難しい国会で命を削るような使命感に燃える人ではあるまい。当面の課題である「テロ対策特別措置法」の問題、多分新法で民主党に揺さぶりをかけるのだろうが、石破茂防衛大臣をその矢面に立たせたことからも、福田さんの性格が見える。高村正彦外務大臣と一緒になって「頑張ってください」ということなのだろう。年金問題は引き続いて、舛添要一厚生労働大臣にお任せしておけば、票の減少を食い止められるとの判断だろう。

 新鮮味がないとか、派閥の復活だとか、世間がなんと言おうと、とにかく衆議院選挙までの内閣なのだから、この「緊急避難」内閣は自民党の全ての派閥が参加する挙党一致を内外に示さなくてはならないわけだ。福田さんにとっては世間の揶揄などどうでもよいことだろう。「総理の息子」と言われながら、政界に出たのが遅かったから、総理になれるとは思っていなかった。思いがけないタナボタである。コレで自分も父親と同じになった。しかも、日本の憲政史上初めての親子での総理が実現できたのだ。充分に満足していいと思っていることだろう。

 二世三世議員はたくさんいるが、親子で総理を務めたのは福田家だけだ。この自負だけでも71歳の皮肉屋の政治家には大きな力になっている。福田さんがこれから、どんな発言をするのか、どんな行動をするのか、しっかり見たい。何しろまだ福田ビジョンというようなものは何もないのだから。今度の施政方針演説で福田さんは自分の思いを語るのであろうが、安倍晋三前総理と変らないような総花的なものなら、やはり短命で終わるような気がする。

 民主党は妥協することなく、自民党政治の悪癖を暴き出し、追求し、国会解散に追い込めるかが問われる。そんなわけで、これから先は目が離せない事態が続くかもしれない。戦後62年、やっと何かが変ろうとしている。いや多分、変らざるを得ない状況になってきているのだろう。
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中学のクラス会が近づいた

2007年09月25日 22時59分07秒 | Weblog
 9月30日に中学の時のクラス会を開く。担任の先生が亡くなってから、ちょっと出席が少ないかなと思う。中学3年生の時、担任は30歳で「月給が1万円を超えたので結婚することにした」とみんなの前で話したことをよく覚えている。それから、新婚旅行で九州へ出かけ、満開の霧島ツツジをバックに二人の旅行の写真などが後の掲示板に貼られていた。確か、1枚10円で売られていたような気がする。今ならば、新聞沙汰になるような出来事だ。

 短気でいつも竹の棒を持っていて、生徒を叩いたりしていた。あるいは、授業中に私語やコソコソしていようものなら、チョークが飛んできた。私は叩かれたこともなければ、怒られたこともなかったので、怖い先生とは思ったことはなかったが、1年生の時に受け持ってもらった同級生は「恐怖の毎日だった」と告白する。私とこの担任との出会いは3年生になってからだが、2年生の時に事件があった。

 この先生のクラスの女の子で、名古屋に引っ越していく子がいて、私に渡すものがあるから駅まで来てくれと伝言があった。私は小学校でも同じクラスになった女の子だから、なんとなくわかってはいたが、友だちも連れて出かけた。女の子から、縦笛をもらいそうになった時、たまたま同じ学校の先生が通りかかり「何をやっているのだ」と言って、職員室へ連れ戻された。その時、この先生は私に縦笛を渡そうとした女の子ばかりか、この先生のクラスの子で私が好きだった女の子まで、職員室に呼びつけると言い張っていたことを覚えている。

 なぜ、私が好きだったというだけで、その女の子まで呼びつけられなくてはならないのか、私には理解できなかった。私が何もしゃべらないでいると、職員室のどこかから「こういう子が将来怖いんだよね」と言う声が聞こえてきた。成績がよいのに反抗的な子は、将来何をするかわからないぞという意味で言っていることはよく理解できた。その場は、私の方の担任が納めてくれたが、まさか3年生になって、その先生が担任になるとは思いもしなかった。ところが担任となって1年間を過ごしたおかげで、自分が先生になった時は、この先生と同じことを私は行っていた。

 クラスの子どもたちが訪ねてきてくれれば、ご馳走をした。教室外で、あるいは卒業してからも、私の担任がしていたように、子どもたちとの付き合いが続いた。私が大学に入った年、高校の新聞部の仲間で合宿を計画した。新聞部の仲間だけでなく、今も付き合いのある中学校の同級生、つまり3年生の時の友人も呼び、私が最も信頼していたこの担任も呼んだ。先生は泊まりこそしなかったが、わざわざ来てくれた。どうして呼ばれ、何をしてよいのかわからなかっただろうけれど、とにかく参加してくれた。

 この先生のおかげで、中学3年生のクラスは仲の良いクラスだった。中学校を卒業した4月に、もうクラス会を開いていたし、本当に何度もクラス会を開いてきたと思う。みんな仲が良かった。もちろん、50数人もいたクラスだから、それぞれに人生はある。私が小学校1年の時に同じクラスだった男の子は、私よりも読み書きができた。私は彼を尊敬していた。中学3年生で同じクラスになったが、おとなしい普通の子だった。けれども、卒業とともに行方がわからなくなった。ヤクザの世界でやっているとウワサを聞いたことがあるが、とてもヤクザにはなれない優しい子だった。

 クラスで一番成績のよい子は女の子で、やせていて手足が長く、切れ長の目をしていた。東京の大学にいっていた彼女が帰った時、一度夜遅くまで話したことがあったが、何を話したのかは覚えていない。彼女はいわば、われら男子生徒のマドンナで、私には手の届かない存在だった。私が一番よい成績の時でも、彼女は私の上にいた。ところが先日、同級だった友人が「オレは彼女よりも成績がよかったことがある」と言う。これはショックだった。

 今晩、今まで全く音信不通だった友人から電話があった。「クラス会にいけなくなった」と言う。急な用件なら仕方ない。「これからは減る一方なのだから、できることなら出席してくれ」とお願いする。「なに!少ないのか!」と言うから、「いや、亡くなることはあっても、増えることはないからさ」と答える。どうやら都合をつけて出席してくれることになった。これからは、余り間をおかずにやるほうがいいなと幹事として思う次第だ。
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アゲハチョウの幼虫

2007年09月24日 23時39分58秒 | Weblog
 ルーフガーデンにあるミカンの木にまた7匹のアゲハチョウの幼虫がいた。そこで、昨日は保護のためにと思って、ミカンの鉢を北の部屋に入れ、鉢の下に新聞紙を敷き、見守ることにした。夜、私がパソコンに向かっていると、バサッという音がした。ちょっと気になったが、まだ緑色の幼虫になって2日間ほどしか経ていないから、あの幼虫がサナギになるためにはまだもう少し時間が必要なはずだと思った。

 ところがしばらくして、見に行くと3から4センチほどになっていた緑色の幼虫が2匹、いくら探してもいない。やはり、サナギになるためにミカンの木を離れたのだ。インターネットで調べてみると、アゲハチョウの幼虫はサナギになる時には、木から離れて他に移ると書いてある。そうか、前の時も幼虫が床に落ちてきた。あの時はすぐに拾い上げ、再びミカンの木に戻してやったけれど、今回はまだまだ先だと油断していた。

 先回の時に比べると、今回のミカンの木は葉の数が少ない。それも若い新しい葉が少ない。まだ小さな幼虫も含めて、7匹が食べていくには足りないなと思った。それを緑色の幼虫も感じていたのだろうか。これから先もしっかり食べて大きくならなければならないのに、このままではダメだと感じたのか、先に大きくなっていた緑色の2匹の幼虫が先を争うように、ミカンの木を離れたのだ。申し訳ない気がして、周りを探しまわったが見つからなかった。

 今朝、カミさんが「窓の枠のカーテンのところにサナギがあるわよ」と言う。確かにサナギがへばりついている。まだ、幼虫に近い形をしているから、ここに来て間がないのだろう。それにしても、ミカンの鉢から2メートル以上は離れているし、しかも床から90センチはある壁を這い上がって、どうしてこの縁でサナギになろうとしたのだろうか。とにかく、1匹は見つかったがもう1匹はどこへ行ってしまったのか、未だにわからない。1匹だけでも無事が確認できたのだからと思うものの、あとの1匹の行方が気にかかる。

 アゲハチョウは、サナギになる時は木から離れることはハッキリした。いつもたくさんの幼虫がミカンの木に見られるのに、いつの間にかいなくなることが不思議でならなかった。鳥が来て食べてしまうのだろうか、それとも他の昆虫が来て食べるのか邪魔をするのだろうかと、ズーと考えてきた。どうやらアゲハチョウは幼虫からサナギになる段階で、ミカンの木から離れ、その時に他の昆虫か鳥でも食べられてしまうかもしれないが、何匹かは近くのどこかでサナギになる。その時期が遅ければ、一冬越さなくてはならないし、越冬できたからといって羽化できるとは限らない運命だ。

 自然の仕組みはよくできているなと思う。中学高校時代からの友人が、差し上げた本を送り返してきた。もし、手紙が入っていなかったら文句を言ってやろうと思っていたが、キチンと手紙が入っていた。「納得はできなくても、気品有る生き方 ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の宿命)という努力する生き方をしたいと思っています」と書いてあった。衝撃だった。昨日の映画『ショート・バス』は最後に「人は人生の最後で、心の中の悪魔が親友だと知る」と歌っていた。翌日の今日、私の友人はこれを完全に否定している。えらいヤツだなと敬意を覚え、みだらな自分を恥じ入った。
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映画『ショートバス』を観て

2007年09月23日 23時15分40秒 | Weblog
 孫娘が「パパちゃん、ブログが間違っているよ」と、教えてくれた。井上真央さんについての私の記事だ。「えっ、そうなの?」と思って、ブログを見ると、コメントが2つ寄せられていた。多分、二人とも井上真央さんのフアンなのだろう。確かに、まず『キッズウォー』をキッズワアーと書いてしまった。戦争を日本語で書けば、ウオーの方が正しいのかもしれない。私はワアーと発音してきてしまったので、情けないことにその知識のなさを吐露してしまった。

 それから、孫娘が言うには、「ふざけんじゃーないよ」ではなく「ざけんじゃねーよ」だと言うので、それもここで訂正しておきたい。そしてもう一つ、『ファースト・キス』は先週の月曜日に最終回を終えたということだった。最後の場面は、孫娘が「見て、見て!」と言うので、見たように思ったが自信がなかった。今晩、「もう一度観ようか」と言うので、一緒に見て、そうそうこんな結末だったなと思い出した。

 コメントを寄せてくださった井上真央ファンの方には申し訳ないが、最終回を見直してもやはり井上真央ファンにはなれなかった。否定したり、中傷したりする気は全くないが、こんな女を好きになることは、私はない。真央さんが演じている女は、私の歳が63歳というせいだろうが、全く魅力を感じない。自分勝手で、自己中心で、私と同じ種類の女に恋などするはずがない。人が憧れるものは、自分に無いものなのだろう。自分が本当はそれを求めている、けれども自分には無い、そういう人に、人は恋するのではないだろうか。

 今日、『アエラ』で紹介されていた映画『ショートバス』を観てきた。初めから強烈なSEXシーンの映画だったが、私は途中からアクビが出てしまった。私の感想は「ああ、アメリカは終わったな」だった。アメリカ人はこんなにもSEXに悩んでいるのか、と思うと情けなくなった。SEXで人は救われるのか。『チャタレー夫人の恋人』ではSEXはどういう時が最高か、すでに明らかにしているのに、まだSEXに幸せを求めているのか。人類に未来は無いね。SEXは男女の性の交わりをいう。

 しかし、人類は男女だけでなく、男と男、女と女、をもSEXと認めてきた。私はとても男とキスしようとは思えないが、そういう人もいることは知っているし、それを咎めようとは思わない。同じ性で愛し合い、それで満たされるならそれでいいのではないか、私はそう思っている。映画では、アメリカではゲイというかホモというのか、その違いも私にはわからないが、固定概念を超えた性的関係が多いということは知識では知っている。日本だって、戦国時代の小姓は男色のためだったという。だから男が男をSEXの対象にすることもあるんだということは知識としてはわかる。

 でも私は、男を相手にSEXすることは想像できないし、気持ち悪くて反吐が出そうだ。女の柔らかな艶のある肌だからこそ、口付けできるし、甘美な世界に到達できると思う。そうは思わない人はそれでいい。人はそれぞれに好き嫌いが違うのだから、違いは認めればいい。私のブログを読んで、「今の日本を象徴しているようだ」と書いてくださった方が、どういう日本を想像しているのか、私にはわからないが、私自身は、果たして人類は50年後100年後も存在できるのか、心配している。孫娘がおばあさんになった時、地球はまだ存在できているのか、彼女のために心配している。たとえ私の力ではどうすることもできないとしても。

 今晩は、孫娘が記事をチェックしてくれたので、このまま掲載することにしよう。「あのネ、内容がちょっと濃すぎる」と孫娘が言うが。
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井上真央が好きがわからない

2007年09月22日 23時16分05秒 | Weblog
 孫娘は、女優の井上真央さんが好きで、真央さんが出ている番組を探し出して見ている。見ているといっても、家では見られないので、我が家のテレビで録画し、1週間分をまとめて見ている。月曜日に最終回を迎えた『ファーストキッス』と、再放送の『キッズワアー』だ。真央さんの「ふざけんじゃーねーよ」という男言葉がどうにも気になって、私は好きになれないが、孫娘は「そこがいい」と言う。『キッズワアー』は6年くらい前のドラマのようだが、真央さんの演技は全く変らない。だから大根役者だと思うのだが、孫娘は「真央ちゃんて、ホント演技うまいよね」と言うから、いったい何が基準なのかと思ってしまう。

 真央さんの口の形も私は好きになれない。男だから、女ならば誰でも好きになれるのかというと、そうではないところがおもしろいと思う。見ていると、たくさんの人から好きかれる人がいる。女優とか男優で人気の高い人はそういう要素をたくさん持っているのだろう。特別な人を除けば、人はそこそこ皆同じだ。相手の中によさを見つけるから「好き」になるのだ。この地球には60億人の人がいる。しかし、人が出会える人の数は知れている。出会いは運命であり、必然といっていい。あばたもえくぼというようなことがなければ、恋愛なんて成り立たない。

 ところで、孫娘はこうして我が家で井上真央主演のテレビドラマを見ていることは、母親には一切内緒だ。だから母親もこのブログを見たからといって、自分の娘を問い詰めるようなことはやめてもらいたい。なぜ、母親にテレビドラマを話題にできないのか、まずそのことをよく考えて欲しい。私も昔はテレビドラマを子どもたちに制限なく見せなかった。それでも、子どもたちは親の言うことを聞いて、それを守っていたわけではない。「ダメだ」と言っていた私も、自分の知らないところで、見ていたことまで咎めたりはしなかったと思う。子どもはいずれ、親に内緒で行うことが増える。これは大人になっていくからだと思う。

 いつかは、対等に親子が話し合う時が来るし、親の経済力がなくなった段階で、親も子どもに従うものだ。昔から言うではないか。「老いては子に従え」。私はそれでよいと思っている。私が「自分は政治の世界で表に立つことはない」と言うのも、自分の年齢を知っているからであり、たとえ不満であっても、若い人たちに任せる他ないと考えるからだ。ある面では、私のほうが若い人たちよりも「考えが若い」かもしれないが、それゆえ自分では歯がゆい気持ちではあるが、だからといって年寄りが表に立つことは間違っていると思う。自分の考えを表明することは最後までやめないが、それ以上の行為はやめておこうと決めている。

 孫娘が次にどんな俳優を好きになるのか、いや俳優ではなく、現実の世界で心惹かれる人がいずれは出てくるだろう。どんな人なのか、楽しみであり、ちょっと不安でもある
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孫娘の体育大会

2007年09月22日 00時00分10秒 | Weblog
 孫娘が楽しみにしていた体育大会が昨日終わったのに、ご機嫌が悪い。「どうした?」と尋ねても返事もしない。「リレーはどうだった?」と聞くと「ビリ!」とそっけない返事が返ってきた。そうか、なるほどねと合点する。孫娘はこの体育大会に大きな期待をしていた。体育大会の前から、「バトン渡しがカギだから」とリレーのメンバーに話し、そのための練習を提起していたが、結局は天候が悪くて、大会当日の朝しかできなかった。それでも早くから起き、午前7時には家を出て、みんなで広場で練習を積み重ねた。それだけ周到な練習をして挑んだのに、結果は出せなかったのだから、機嫌が悪いのも無理はない。

 「でもママは、バトン渡しは一番上手だったと言ってくれた」と言う。少しだが気がほぐれたのだろう。「他のクラスはみんな速い子ばかりだったから」と負けた理由も教えてくれた。孫娘がこの体育大会で目標にしていたものが2つある。その1つが女子400メートルリレーで優勝することだった。しかし結果は惨敗だった。もう1つは、母親もこの中学校の卒業生だが、母親が20年以上も前に出した100メートル走の記録が未だに破らず、毎年の体育大会プログラムに名前が載っている。

 孫娘は「絶対に私がママの記録を破る」と宣言していた。ところが、小学校の6年生の時、100メートル走では勝っていた友だちに負けた。水泳の孫娘と違い、その子はバスケットボール部だというから、毎日が練習のようなものだ。「チーター」とあだ名されている孫娘は、走る時も首をすくめていて、本当にチーターのようだが、身体も小さくて見た目ほど速くはないのかもしれない。しかし、この結果については大変ショックだったようで、不機嫌になっていたのだろう。

 私は小さい時から怠け者で、目標を設定しコレに向けて努力するということが苦手だった。いつもなりゆき任せだった。50代になって初めてで最後になるが目標を置いた。これからは市民が主体の自治であるべきで、情報公開と市民参加を徹底的に推し進めた自治体を実現するために首長になろうと思った。私は努力が足りなかったが、孫娘は「努力すれば結果は出せる」と信じている。4歳から水泳に取り組んできた成果である。水泳のコーチから常に目標を設定し、これに向かって努力することを教えられた。

 人はこうして努力を重ねることで成果を得る。「努力すれば報われるが、努力しなければ成果は出せない」ことを身体で習得しているのだ。だから彼女は、運動だけでなく、勉強についても努力を惜しまない。本当にエライやっちゃと感心する。しかし、不安な面がないわけではない。確かに人は努力することが大切だ。けれども、努力にも限界はある。どんなに努力しても超えられない壁があるものもある。そこをどのように見抜いて、次へ進むかだ。人にはいろいろあって、それでいいのだと理解するとともに、だからこそ努力しようとする人間になって欲しい。

 みんながみんな、東大に入れるわけでもないし、東大に入れれば幸せが約束されているわけでもない。学者は必要だが、同じように寿司職人も必要だし、社会を支えている様々な業種が実は必要なのだと知って欲しい。だから、私たちの前の人々は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言い、「職業に卑賤の差別なし」と言ってきたのだ。お金持ちがいるではないか、貧乏人がいるではないか、現実を見よと言う人がいる。確かにそのとおりだ。それが間違っているなら正せばいいし、正せないのなら正しい方に近づければいい。

 人の社会は、人自身が作り出したもの。神のご加護の下に正せばよい。
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