友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

職業に貴賤なし

2016年04月30日 18時58分46秒 | Weblog

 「看護婦さんがいちばん偉い」というエッセーを読んで、これを書いた人の気持ちはよくわかった。私も長期入院したことがあり、看護婦さんの笑顔に助けられた。今、看護師や介護士あるいは保育士が足りないと言われている。労働時間の問題もあるが、仕事がハードなのに賃金が低いことが最大の原因である。私も少しの期間だったが、介護施設の手伝いをしたことがある。働く人は世話をすることが嫌いでは絶対に勤まらない。

 「医者や法律家や一等航海士…それぞれ難しい試験に合格した人だから偉い。しかし、看護婦さんはそれ以上に偉い。この世で最高の地位と収入を約束してあげてもいい」と筆者は言う。私も看護師や介護士あるいは保育士の賃金は引き上げるべきだと思う。商品を生産しているなら、原価がいくらで投入された金額がいくら、儲けがいくらと計算は出来るだろう。けれどもサービス業は決めようがない。

 商品だって同じだろうが、結局は需要と供給のバランスで報酬も決まっていく。首長や議員や公務員の給与は、まあこのくらいでと感覚で決まってしまう。給与はそれぞれが生活できればそれでいいはずだ。人間社会の営みが富を生み出しているわけで、高額の給与の人もいれば低い人もいる。それでも富の配分を上手に行えば、みんなが生きていくことは可能である。福沢諭吉の「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を聞いた時、これが人間社会だと感銘を受けた。

 だから、「職業に貴賤なし」も福沢諭吉の言葉とばかり思っていたが、実は福沢より前、江戸時代の石田梅岩という学者の言葉だった。梅岩は町民出身の儒学者で、「士農工商の階層は社会的職務の相違であり、人間の価値の上下・貴賤に基因しない」と述べた。「武士が治め、農民が生産し、職人が道具を作り、商人が流通させる」という訳である。商人の役割を評価したのは、商人は自らの手で何かを生み出すこともせず、金銭のやり取りだけで儲けていると卑しむ風潮が支配的だったからだろう。

 どんな職業も、人間が必要としたから生まれた。得る金に差はあっても、職業に「偉い」「偉くない」は不適切な表現なのだ。職業で得る金に「差」が生まれるのは仕方がない。問題は「差」をどのようにして小さくするかにある。みんなが生きていくための工夫、仕組みをどうするかにある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地位やお金がつくりだすもの

2016年04月29日 17時02分57秒 | Weblog

 スノーボードの男子選手2人が昨年、アメリカのコロライド州での合宿中に大麻を使用したとして、日本スキー連盟は「ほぼ除名と同じ」処分を行った。スノーボード競技はスキーとは違ってかなり危険を伴うアクロバットな技が多い。1歩間違えれば死ぬかも知れないような大技を競い合う。だから逆にお金を払ってでも見たい人がいる。そんな命知らずな種目を争う大会があるそうで、賞金金額も高いという。

 スポーツ競技は選手が持てる力を出し切って戦うからこそ人気が高い。その最大の祭典・オリンピックを見ていると、金がいくつとか銀がいくつとか、メタルの数ばかりが問題にされる。「参加することに意義がある」などはもう死語でしかない。メダルが獲れる「強化選手」を育てることが連盟の最大の課題である。だからわずか0.01の差であってもクリアできなければ派遣しない。一体何のためのスポーツの祭典なのかと思う。

 「スポーツ選手は小さい時から鍛えられ、世間の常識を知らない」と言う人がいるが、そうしてしまったのは「スポーツは金になる」風潮を作ってきた世間であろう。東京都の舛添知事が公用車で湯河原の別荘へ通っていたことや、海外視察にメチャクチャお金を使っていたことが問題になっている。在野にいたなら「絶対ダメでしょう」と言うであろう舛添知事は「ルール通りなので何の問題もない」と言う。

 テレビ局が街の人たちに聞くと、「本人の問題」と答える人が結構多かった。大麻にしても賭博にしても公用車の使用にしても、ルールに反していなければあとは本人の倫理の問題という冷めた意見だ。スポーツ選手は有名になれば高額のお金が手に入る。政治家はトップに立てばどのようにでもルールを作られる。驕りが普通の人々との間に大きな乖離を作り出す。本人の問題であるが同時に社会の価値観の問題でもある。

 今晩は長女の一家がご飯を食べにくる。カミさんに「お酒はなしだよ」と宣告してある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

看護婦さんが一番偉いというエッセー

2016年04月28日 17時27分26秒 | Weblog

 友だちが「私の知人が出したものなの」と言って1枚のコピーを差し出した。それは朝日新聞の3段広告で、『心のエッセーシリーズVOL.1』とあった。タイトルは「看護婦さんがいちばん偉いと思うから」というエッセーである。私の長女が看護師で、その娘も母親と同じ看護師を目指していることを知っている友だちは「ぜひ、お孫さんに読ませてあげて」と言う。ちょっと長いが全文を載せてみる。

 「あなたは人のオシッコを採ってあげる事ができますか。あなたは人のウンコを拭いてあげる事ができますか。あなたは身動きができなくなったお年寄りをお風呂に入れてあげる事ができますか。あなたは物事の分別もつかなくなった人とひと晩中話してあげる事ができますか。あなたは一日中流れでる、人のヨダレを拭いてあげる事ができますか。あなたは大きく口を開け、苦しみ悶えている人へ、割り箸の先のしめらせた脱脂綿で昼も夜も乾きをとめてあげる事ができますか。

 私たちには大切な人がたくさんいます。それは親であったり兄弟であったり親戚であったり、友であったり、愛する妻子であったりするわけです。その大切な人がもし病気や怪我や心の病で入院した時、それこそ天使のように優しく接してくれるのが看護婦さんです。死に接しては最後まで諦める事なく勇気を与え続けてくれ、誕生に際しては親にも勝るべき愛情をもって、新しい生命を育ててくれるのです。

 私は拙文をもって、私の心情を書きたい。否、書かなければと思うに至ったのは、看護婦さんになりてがいなくなり病院はその存立すら危うくなっているという記事を、テレビのニュースで見たり新聞で読んだりする事が多くなったからです。このままではいけない。看護婦さんをめざす人が多くなってもらわなければ、そう思ったからなのです。

 私たちの想像をはるかに超えるハードな状況の中で頑張ってくれている看護婦さんたち。私は彼女たちに最高の地位と収入を与えるべきではないかと思うのです。長いあいだ、私たちは彼女たちが持っている、「奉仕」つまりボランティアの心に甘えに甘えてきたのです。病院に行けば看護婦さんがいる。看護婦さんは何でもしてくれる。それは当たり前の事なんだ。そんな気持ちで今日まで甘えぬいてきたのです。お医者さんや大学教授、法律家や一級建築士、一等航海士、公認会計士…それぞれ難しい試験に合格した人だから偉い。それはそうでしょう。確かに偉い。しかし、看護婦さんはそれ以上に偉いと私は思う。この世で最高の地位と収入を約束してあげてもいいと思うのです。

 私は幸いまだ若く元気です。しかし先日、友人を末期ガンで亡くしました。また現在、私の恩人がガンと闘っています。看護婦さん、その節はありがとうございました。またどうか私の恩人を元気づけてあげてください。この拙文は、私という個人と同じ気持ちを持っている人が例え一人でも読んで、その通りだと思ってくれれば、それでいいのです。それから、もしこの拙文を読んで、一人でも看護婦さんになろうと思ってくれたら、最高の幸福です。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団・新感線の『髑髏城の7人』

2016年04月27日 18時00分44秒 | Weblog

 名演劇場で劇団・新感線『髑髏城の7人』を観てきた。『薔薇とサムライ』と同じく作者は中島かずき、演出はいのうえひでのり、劇団・新感線の最もよく知られた作品と言われている。先に、『薔薇とサムライ』を観たためなのか、なぜか物足りなかった。主演も同じ古田新太なのにどういう訳なのだろう。同じ作品で、キャストが異なるものが他にもある。1つは市川染五郎で、もうひとつは小栗旬が主演する。できればどう違うのか、観てみたい。

 『髑髏城の7人』はきっと黒沢明監督の『七人の侍』を意識したものだろうが、アメリカ映画の『荒野の7人』とも違う筋書きだった。織田信長にはふたりの影武者がいた。本能寺の変で信長は殺されたが、影武者のひとりは関東で髑髏城を築いて天下をねらう。この影武者を成敗するのがもう一人の影武者という凝った芝居だ。古田が2人の影武者を演じて、そうか最後はこうなるのかと感嘆させられるという訳である。

 九州で降っていた雨が午後からこちらへ移ってきた。地震はまだ続いているようで、いったい何時になったら収まるのかと現地の人は「不安でいっぱい」と言う。先の見通しが立たないからイライラする。地震の不安と先への苛立ちが大きくなっていく。もし、自分がその境遇であったならどうする、何が出来る、と考えてみるが何も出てこない。20代の頃、ベトナム戦争のニュースを見て、何というひどいことをすると思った。けれども何が出来る?と問っても「ベトナム戦争反対」と叫んでデモすることしか出来ない。

 地震は人間が起こしたものではないが、戦争は人間が行っている。人間が行っているなら、人間が止められないハズはないのに、どうして人間は止められないのか。信長の家来たちは無念だっただろう。復讐を企てる者がいても不思議ではない。けれども芝居の結末は、7人のそれぞれが個人の幸せに戻っていく。それでいいのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

挫折

2016年04月26日 18時49分41秒 | Weblog

 このところよく電話をくれる先輩がいる。先日も新聞に載っていた姜尚中さんのことを話してくれた。「どこの新聞ですか?」と聞くと、「毎日新聞だよ」と教えてくれたので、図書館に行って4月分の毎日新聞を眺めてみた。私の記憶では、毎日新聞がこれまでの常識を覆して、他社に先駆けて斬新な割り付けを行った。すでに他社でも見慣れた今日のスタイルである。

 私が高校生の頃、毎日新聞で『教育の森』という特集が組まれていて、私は新聞記者になりたいと思った。その特集の組み方が今日もなお続いていると、私は新聞を眺めながら思った。新聞はニュースではテレビに勝てないが、読者に考える時間と材料の提供では負けない。そこを敏感に受け止めている。面白い特集を組み、読者を引き付ける工夫を凝らしている。

 今日までの4月分しか見ていないが、特集ではないが「団塊の世代」に関する記事があちこちにあった。私は団塊世代より少し上に属する。大学生になって読んだ小説で感銘を受けたのは、柴田翔の『されどわれらが日々』と、高橋和己の『邪宗門』だった。高校時代の仲間とこの2冊を議論した。『されどわれらが日々』は大学の弁論大会でも取り上げて演説したが、何を話したかまでは覚えていない。

 私が大学生になった頃は、60年安保の敗北感が社会に漂っていた。「挫折」という言葉をいろんなところで見かけた。何もしなくても成績がよかったのに、私は高校生になって、「挫折」した。なにくそ!とは思わずに、アホみたいに勉強していると自分を正当化した「挫折」であった。60年と70年、学生たちは先鋭化し武闘に走った。そのくせ、長い髪を切り背広に着替えると再び組織のために我武者羅に働き出した。私には受け入れらないことで、また「挫折」した。

 団塊の世代が切り開いた価値観は戦後世代に共通する。個人の自立、自由を尊ぶ個人主義だ。上からの命令に従うのではなく、自ら考える人間になろうとしたはずだが、組織を背負うようになると、組織人になっていくことに躊躇なかった。いったいどうしてなのか、考えると「挫折」しかなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日の選挙

2016年04月25日 17時37分05秒 | Weblog

 昨日の選挙、やっぱりという気がした。夏の参議院選の前哨戦といわれた衆議院の補欠選挙は大方の予想通りの結果だった。京都3区は育児休暇を提案していた自民党議員が不倫問題で辞職したので自民党は候補者を立てなかったから、野党の乱立となり民進党候補が当選した。これに対して北海道5区は町村前衆議院議長の死去による補欠選挙だけに、自民党としては絶対に負けられない戦いであった。しかも、自民に対して野党が結束して戦う構図だった。

 野党共闘の候補者は、福祉関係の仕事を続けてきた43歳のシングルマザー。北海道を愛して札幌に住居を移し、北海道大学の公共政策大学院に入学し、現在は研究員として地域活性化などの公共政策を研究している。フェイスボックに「池田真紀の演説が凄い」と取り上げられていた。2人共に無名の候補者だが、当選した和田候補は町村氏の娘婿だけに知名度はなくても組織票は硬い。

 事前調査ではほぼ互角と言われていた。選挙結果だけを見れば得票差は小さい。和田候補は町村の姓を名乗っていないが、その前の選挙の町村氏の得票数より多い票を得たから、自民・公明が組織をフルに使ったのだろう。接戦だったので、民進党が「大きな成果だった」と言うのも間違いではないが、小沢一郎氏が言うように「負けは負け」である。

 私が一番気になるのは、接戦だった北海道が57%、京都はわずか30%の投票率にある。私の友だちの市議は、まだ若いのに自分は退いて家族を立候補させたが、最下位での当選だった。4年前は家族2人での立候補だったので、「思い切ったことをするなあー」と感心したが、結果は彼が当選したのに家族の人は落選だった。今回は雪辱を晴らすトップ当選かと期待したが、そうならなかった。

 先回の2人の得票の合計は1500票あったのに、今回は629票しかない。どんなふうに彼がこの選挙を分析するのか、いずれブログに載せるだろうが興味深い。ヨーロッパの人たちは日本の選挙で投票率が低いことに驚いている。首長選挙などは50%以下のところが多い。投票率30%で当選しても本当に民意とは言えないはずだ。投票率30%、これって民主主義なのだろうか?

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケイタイに「わたし!」ってかかってきた

2016年04月24日 18時11分08秒 | Weblog

 昨夜、ケイタイに「わたし!」ってかかってきた。声を聞けばすぐわかる、中学からの友だちだ。「あのねえ、講演と演奏の集いがあって行ったの。ハーモニカの演奏者が刈谷の人というので紹介してもらったら、英語を教えていた医院のつながりの人なのよ」と早口でまくしたてる。その人とのつながりが分からないが、高校の1年先輩がいて、体育館の全校生徒の前で、ハーモニカの演奏を披露してくれたことがある。

 そして今から20年位前に、名古屋の若手経営者の集まりで偶然にもその先輩に出会った。この時もハーモニカを演奏してくれたが、その世界では有名人のようだった。残念ながら名刺交換するほどの人物になれていなかったので、あいさつしただけの出会いだった。私の方はよく覚えていても、先輩が忘れずにいてくれたかは確かでない。話せば、「今何している?」ということになるし、「材木屋はどうなったの?」と聞かれることになる。

 自慢できることならきっと人は胸を張って話すだろう。そうでなければ、人目に触れない場所に移動するしかない。友だちは続ける。「あなたも英語塾、一緒だったわよね」と言う。残念ながら私は彼女たちの小学校区に住みながら、別の小学校へ通っていたので、周りの人たちとは交流がなかった。英語塾があることも知らなかった。「きっと、成績のよかった女の子や男の子たちが通っていたと思うよ」と答えると、「わたし、勉強できなかったから」と言う。

 中学3年になって同じクラスになったけれど、あの頃は1学年が8クラスもあったから、一度も同じクラスにならずに卒業した子もたくさんいる。高校生になってから知ったが、彼女の長兄はトヨタのエライ人だった。彼女の家に遊びに行った時、その長兄の幼い子が、絵本を開くと文字が読めないのに文章を暗記していたから、「この子は天才ですね」と兄嫁さんに言うと、「子どもはそんなものよ」と教えてくれた。

 静岡県の湖西市に住んでいる彼女は、「みんなどうしている?たまにはこちらへ遊びに来てよ」と言う。「日程を決めてくれれば、声はかけるよ」と答えると、「そっちで決めて」と言う。以前、せっかく決めたが、彼女の都合がつかなくて中止になったことなどすっかり忘れている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オバマさんと安倍さん

2016年04月23日 17時33分45秒 | Weblog

 アメリカのオバマ大統領が、5月の伊勢志摩サミットに合わせて広島を訪問すると新聞に載っていた。「遅い!」と思うが、行かないよりはましだ。アメリカには原爆投下で戦争を早く終息できたと言う人が大勢いる。日本に「先の大戦はアジア解放の戦いだった」と言う人がいるのと同じだ。どんな戦争でもあった方がよかったものなどひとつもない。

 オバマさんは大統領に就任した2009年、チェコのプラハで核廃絶を訴える演説を行い、ノーベル平和賞を授与された。けれども核廃絶に向けて何も出来なかった。「被爆地を訪問できれば光栄」と言っていたのに行くことはなかった。「チェンジ」を合言葉に多くの人が彼に期待したしたのに、全く自己保身の政治家でしかなかった。

 アメリカの大統領は大きな権限を持っている。たとえ議会が反対しても、絶対的な国民の支持を後ろ盾に信念を貫いて欲しかったけれど、それは幻想だった。政治はそういうものなのかも知れない。アメリカの貧しい人々のために戦うことも、心に深い傷が負った兵士がいるのに戦争を終結させることも、要するに新しいことは何も出来なかった。

 安倍首相がやっと熊本を訪れた。本当は被災直後の16日に行く予定だったが、さらに大きな地震が起きたので延期になった。直後ならかなり人気回復になったはずだから無念だろう。天皇陛下が被災地を訪れる時と同じスタイルで、床に座り込んで握手して回っていた。安保関連法を成立させ、被災地の手当てを素早く行い、「切れ目のない」政治を進める。これが安倍首相の姿である。

 夏の参議院議員選挙で自民・公明が議席を伸ばせば、安倍首相は憲法改正に動き出すだろう。「時間をかけて丁寧に説明する」と安倍首相は言いつつ、結局最後は「民主主義ですから、決める時は決めなければなりません」ということになる。明日は北海道と京都で、衆議院議員の補欠選挙の投票が行われる。市議会議員選挙に家族を立候補させている友だちのところも明日が投票日だ。どんな結果になるのかで、これから先が少し見えてくる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フリーズしたスマホ

2016年04月22日 17時20分40秒 | Weblog

 カミさんのスマホがフリーズ状態になってしまい、扱いに詳しい長女のダンナに助けを求めた。今日は自動車の点検日だったので、その販売店まで来てもらい、彼が何やらやっているうちにフリーズは解消した。「出始めの頃は、こんなに難しくなかったのに、どんどん複雑になっていますね。セキュリテーのためには仕方ないのでしょうが、秘密文書でもないのに大変ですよ」と言う。

 私もパソコンで2度失敗した。1度目は契約会社を変えた時、それまで行ってきたブログが全て消失してしまった。2度目は、頻繁に送られてくる「無料でダウンロードできます」をめんどいと無視していたのに、ある時、Windows を勝手にWordと思い込み、ダウンロードして操作が出来なくなってしまった。卒業生に助けてもらったが、コンピュータの世界は本当に分からない。

 家に戻るといい匂いがした。部屋にいる時は気が付かなかったが、花瓶のバラが芳醇な甘さを放っている。ルーフバルコニーの鉢植えのバラが咲き出した。アンネのバラが1番先に咲き、今は花の大きな真っ赤なバラが咲いてきた。昨日、切り取ってきた時と違い、部屋の暖かさのせいか、大きく花開いて甘い香りを放っている。アンネのバラは、初めはクリーム色だが次第にピンク色に変わるが、匂いは優しい。

 市役所の担当者からメールが来た。上野千鶴子さんの市民講座のチラシについて、「単色でもカラー印刷でもお値段はかわらないということです。どう致しましょう?」と悩んでいる。「どういう仕上がりになるか、試し刷りをもらって決めたら」と電話すると、「試し刷りはしていないそうなので、決めてください」と言う。コンピュータが進化し、印刷はガラリと変わってしまった。安価になったけれどその分、手間が省かれ一発勝負になった。

 テマとヒマをかけて仕事をしてきた時代は遠い昔になった。考えてみれば私は72歳、相当な年寄りだ。若い頃、年寄りはダメだと思っていたが、今は自分がその歳になっている。ガッカリだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本で地震が続いている

2016年04月21日 17時14分31秒 | Weblog

 熊本で地震が続いている。1週間も揺れ続くなど、不気味な気がする。新聞もテレビも毎日取り上げているが、収まっていく気配がない。そんな中で、現地の高校生・中学生が積極的に配給の品を運んだり、お年寄りに声掛けしたりしている姿があった。若い彼らが、自分も被災者でありながら、他の人のために働く姿はなぜか心温まる。

 品物が足りないとか、避難所が狭いとか、耐えられないことばかりだろう。無料でおにぎりを提供している店もあった。その逆に、「物資が少ないから、ここで売れば絶対に儲かる」とテレビを見ながら言う人もいる。「これからは災害特需で、建材は高くなる。人手不足だから、建設関係で働く人は賃金が上がる」と予想する人もいる。不幸は金儲けになると。

 経済活動だから、誰がどのように儲けようと、違法でなければ自由である。「無料で配給している品物を集めて、品物が届いていない所で売ればボロ儲けだ」と言った人もいたけど、被災者のことを思い、無償で働いているボランティアの人たちに恥ずかしくないのか。大きく報道はされていないが、無人の家に入り込んで金目の物を盗む泥棒もいるらしい。

 極限状態に置かれた時、どういう行為が出来るかで人間の値打ちが決まる。「値打ちなんてどうでもいい。生きていけなければ意味がない。金がなければ生きている価値もない」と言う人もいるだろうが、他の人のために自分が役立っているなら、きっと充実感を味合っていることだろう。他の人のために自分を犠牲にする機会は人生にそれほど多くないから。

 このところよく、古い友だちから電話をいただく。昔のことを思い出すことも多い。懐かしさばかりに浸っていると、これはマズイと思う。前向きに、これから先のこと、何かが出来るわけではないが、それでも、こうしたいああしたいと欲を出さないと活力を失っていく。人が生きていくのは、希望があるからだと誰かが言った。被災地の人たちもきっとそうに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする