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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

大人の考えていることはわからん

2008年11月30日 21時47分52秒 | Weblog
 昨日、今日と中学2年の孫娘が水泳大会に出場するため、私は朝5時30分に起きて彼女をプールへ送った。朝のこの時間はまだ真っ暗だ。こんな時間からウォーミングアップをさせるのだから、それぞれの家庭は当然子どもの安全を考えれば、送り迎えをしなくてはならない。毛糸の帽子にマフラーと怪しげな格好で、孫娘を送っていく自分の姿に自分でも笑えて来る。

 「早くプールに着ければ、早くから練習できるの?」と聞くと、「いや、コーチがいないとダメ」と言う。ウォーミングアップは20~30分で終り、今度は本大会の会場へと送らなくてはならない。これが午前7時までとか、7時30分までとかに決められていて、水泳教室からバスでの送迎の時もあれば、今回のようにそれぞれの家族で対応するケースもある。どうしてそうなるのか私にはわからないが、バスを利用すれば利用料を払わなくてはならないそうで、バスの利用者が少ないと教室ではできないということなのかもしれない。

 送っていく車の中で孫娘がボソッと言う。「大人の考えていることはわからん」。人の批判などしたことのない孫娘だが、最近は少し成長したのか、時々ポロリと漏らすことがある。「どうして?」と聞くと、「コーチはあんなに時間に厳しく言うのに、自分は遅れてきたり、早く連絡してくれればいいのに、ぎりぎりまで放っておいて、早くしろって言うんだから」と大人の気まぐれを批判する。

 「学校でもさ、この前すごく寒い時があったじゃない。それでコートを着ていったら、『まだ、コートを着る期間じゃーない』と怒る先生がいるんだわ。生徒手帳にもそんな期間なんて書いてないよ。手帳には適宜と書いてあるんだよ。それって自分で判断しなさいということでしょう。本当に大人の考えていることはわからん。寒いから着る、暑いから脱ぐ、それでいかんの?」。

 そういえば私も中学生の時、「生徒手帳はお前達のための憲法みたいなものだ」と先生に言われて、どうして自分たちが創ってもいないし、自分たちで改正することもできない生徒手帳に縛られなくてはならないのかと反発したことがあった。大人はいつも自分たちの都合で勝手にものごとを決めて押しつけると思った。先生のための生徒会なんか要らない、先生のために生徒に義務ばかりを押しつる生徒手帳なんか要らない、そう思った。高校で生徒会の役員になったが、結局は高校の生徒会にも何の力もなかった。

 そういう社会の仕組みやその矛盾に孫娘も何かを感じるようになって来たのだろう。あんなに絶対者であった母親に対しても「あの人」と呼ぶ時があるし、「あの人は何考えているかわからん」とボソッと言う時もある。子どもは大人を見ながら社会を考える。大人に反発しながら自分を創っていく。確かな指針が孫娘の中に生まれるようにと願う。
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1/4分の奇跡って何?

2008年11月29日 20時58分05秒 | Weblog
 ドキュメンタリー映画『1/4の奇跡』の上映会と映画の主人公である山元加津子さんの講演会が行なわれ、私も友だちを誘って出かけた。私が高校で教えていた時の卒業生の子もわざわざ来てくれた。映画の題名となった1/4とは何か、ずっと気になっていたが、山元さんがNHKテレビで見た話だったとわかった。

 それは、アフリカでマラリヤが流行って、ある村が全滅するのではないかと思われたけれど、マラリヤに罹らず生き残った人々がいた。赤血球が鎌形の人たちだった。それで調べてみると、1/4の人は障害のある人だがマラリヤに罹らず、2/4の人は障害のない普通の人でマラリヤに罹り、残る1/4は亡くなった(と言われたけれど?)。そこからの論理展開が私にはよく理解できなかったが、山元さんの言葉を借りれば、「障害のある人や病気になった人たちのおかげで、私たちは存在している」。

 山元さんは石川県立の養護学校の先生である。映画で観て講演を聞く限り、とてもいい先生であるし、「すごい!」先生だと私も思った。こういう先生に巡り合えた子どもたちは幸せだと感じた。山元さんは子どもの頃から「変な子」であったようだ。ちょっと変わっていて、犬に話しかけたり、便所に入っても2時間もウンコのことを考えたり、人間のウンコは汲み取りに来てくれるけれど、象やライオンのウンコでどうして野原はいっぱいにならないのか、そんなことを考えることが好きな子だった。

 変な彼女を心配して「頭がおかしいのでは」と言う大人もいたようだ。けれども彼女のお父さんは「人の言うことなど気にしなくてもいい。加津子はとてもいい子だ」と言ってくれたそうだ。桜はなぜ4月に花を咲かせるの、どうして水があり石があり土があるの、色々な疑問がある時、ふと「そうだったんだ」と理解できたと言う。

 この世に要らないものは一つもない。宇宙はうまくできている。それぞれがそれぞれに、大丈夫なように創られている。「生まれてきて本当によかった」「みんな必要があったから、生まれてきたんだ」「人は愛するために、そして愛されるために生まれてきた」。不要なものなどひとつもない。出会った人は必要だったから、出会いがあった。全てのことは必然だ。いかにも偶然の出来事であるが、それは必然であったのだ。偶然の積み重ねは必然の積み重ねだったのだ。

 確かに山元さんが言うように、この世の中はたった一つでも欠ければ全てが成り立たない。だから一つひとつは大切な存在なのだ。「自分は自分でいい」「みんな素敵なんだ」。そんな風に考えれば、生きていることはますます楽しくなる。明日は今日よりもさらによい日になるだろう。そんな気持ちが湧いてくる。「いつかの、いい日のために、人は生きている」。

 山元さんはさらに言う。「心の目と心の耳を澄ますこと。自分を信じること」。彼女の話の多くに共感しながら、でもどうしてだんだんと宗教臭くなっていくのだろうか、まるで船井幸雄さんに近づいているじゃないか、などと思ってしまった。
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クリーニング店の主人

2008年11月28日 23時40分48秒 | Weblog
 久しぶりにクリーニング店の主人と話した。ここの孫娘さんが、中学校の文化祭の合唱コンクールでピアノ伴奏を行なったが、見事な演奏だったと私が話したことから、話が長くなったのだ。コンクールは1年から3年までの全クラスが出演した。ここの孫娘さんのクラスは残念ながら優勝できなかったけれど、ピアノの演奏だけを比べれば、1番うまかったと思う。

 私の孫娘も出演しピアノ伴奏をしているが、残念ながらここの1年生の孫娘さんの方が上ではないかと思う。そんな話をしていたら、主人は「中学1年のこの子は粘り強いが、上の子は高校受験を機にピアノをやめてしまった。娘も子育ての難しさがわかったんじゃーないかな」と言う。その娘さんは長女で、クリーニングの仕事は順調だったとはいえお金に余裕があったわけではないから、「長女にはついつい我慢をさせてしまった。だから長女は『一番下には甘いんだから』とよく言うけれど、確かに下には何でも好きにさせてきてしまった」と、子育てを振り返る。

 その一番下の娘さんは音楽大学へ進み、声楽家になった。また、日本では珍しいリュート演奏者と結婚し、ふたりでコンサートも開催している。リュートはアラビアで生まれた古楽器で、琵琶やマンドリンの原型とも言われている。下の娘さん夫婦のおかげで、フランスに招待されたこと、その道中やルーブル美術館での演奏会のことなども話してくれたのだ。今は、観光船「飛鳥」でも演奏を行なっているそうで、「飛鳥に招待してくれないかなと思っているんですが、ホントにそんなことにでもなったら、何十万いや、母ちゃんも一緒だから百万円は超すだろうからどうしようなんて思っているんです」と楽しそうに話す。

 人生は不思議だなと思う。おそらく主人も子育てしている時は、自分の子どもが声楽家になることも、リュート演奏家と結婚し、自分たち夫婦をフランスへ招待してくれることも、全く考えてはいなかっただろう。どんな子になるかわからないけれど、健やかに育ってくれればそれでいい、親ならきっと誰もがそんな程度の期待で子育てをしている。中には天才教育に全てをかけてきた親がいるのかもしれないが、私はそれは間違っていると思っている。

 「人生はいろいろ」と以前にも書いたけれど、親だからといって子どもの人生を歩けるわけではない。子どもは子どもの人生があり、夫婦であっても同じことで、夫であっても妻であっても別の人生を歩いているのだ。子どもたちが大きくなり、一人前になっていくのを見ていると、私はどうしても「人生はいろいろ」と考えてしまう。
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再び麻生発言について

2008年11月27日 20時32分37秒 | Weblog
 「アソウタロウ」という総理大臣は、なぜ政治家になったのだろう。政治家になるということは政治を行なう人になるということ。それだけに尊い志や信念の持ち主と普通なら考える。けれども、麻生首相の発言を聞くと、本当にこの人は何のために政治家になったのだろうと思ってしまう。

 今朝の中日新聞によれば、20日の経済財政諮問会議で麻生首相は、次のように発言したと報じていた。「私のほうが税金を払っている。たらたら飲んで食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」と。ここまで読んで何もおかしいと思わない人は、もう一度政治とは何かを勉強して欲しい。

 私は政治学を専攻したわけではないので、いつも感性で考えて言うのだが、政治の形ができてきたのは遠い祖先が群れを成して生活するようになってからだろう。群れを成していた方が安全で効率的だったからだ。群れを成せば当然、決まりがいるようになる。そしてまた、生産物を蓄えておくことができるようになれば富を生み、群れはもっと大きな群れとなり、村となり国となる。

 そこで、生産にかかわる者だけでなく、村や国のために働く者が必要になってくる。はじめは多分年寄りがその役目を果たしていたのだろうが、組織が大きくなり複雑になってくると、専門で任務に当たる者が生まれたのだろう。人々の代わりに、みんなに信頼されて、みんなのために働く人だ。役人である。そして、役人と役人を使う政治家とに分離していったのだろうが、出発点はそこに住む人々に代わって、働くということだ。

 生産に余裕ができてこそ、国家は成り立つ。役人や政治家のように働かない人がいても、みんなが暮らしていけるだけの生産力を持つようになったのだ。だから、みんなが負担して、道を造り橋を架け、自分たちの生活を守り、豊かにしてきた。私たち人間は群れを成した時から、全体で負担し合ってきたのだ。生産に携わらない老人や子どもたちの分も負担してきた。ハンディのある人に対しても同じだ。

 政治はそもそも「何もしない人の分をなぜ負担しなくてはならないか」ではなく、みんなで負担して、困っている人を助けることなのだ。それがわかっていない人がどうして政治家を務めることができるのか。野党が正義に徹することができるならば、即刻、麻生首相はクビだろうが、今の野党にその正義がない。麻生首相はますます延命策に打って出るだろう。国民はただ見つめるしかないというのも情けない話だと思う。
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本当に怖い社会ですね

2008年11月26日 21時25分29秒 | Weblog
 私がいつもお世話になっている町の印刷屋さんに、印刷のお願いがあって出かけた。お父さんは私とほぼ同じくらいの歳だから、息子のような若い印刷屋さんだ。「学校の先生の採用もコネがあったんですね」と彼が言うから、「それは昔の話で、今はそんなことはないと思うよ。むしろ、成績の良い人ばかりが採用されるから、勉強がわからない子どもの気持ちが理解できない先生が多くて、現場では困っているそうだよ」と私が答える。

 彼は「そうですよね。田んぼや小川におたまじゃくしや小魚を採りに行くようなことを、やってくれる変わった先生はいないですかね?」と言う。「残念ながらまずいないね。そんなことをしたら校長が『誰が責任を取るのだ』と怒鳴るでしょう。子どものことよりも、身の安全というか、何事もないことが大事にされていますから、つまらなくなりましたね」と答える。

 「世の中全体がおかしいですよね」と彼は私に同意を求めてくる。「ええ、確かに」と、私は昨日書いた“匿名性社会”を思い出していた。「お孫さんは中学生でしたか?」と言うので、「そうですよ。2年生です」と答えると、「塾へ行っていますか?送り迎えはどうしています?」と聞いてくる。「大体、私が車で送っていき、迎えにも行きますが、そうなると食事の時に飲めないので、いやですね」と話す。すると彼は真剣な顔で、「その方がいいですよ。どんなに近いからといっても、子どもの帰りは遅いですから、やはり車で迎えに行かなくちゃーダメですね」と言う。

 「実は昨夜、塾の帰りに娘がひったくりに遭ったのです。ひったくりだけですんだからよかったけど、車にでも連れ込まれていたらと思うと、絶対に親が送り迎えしないといけないなとつくづく思いました。やってあげているのは正解ですよ」と力んで言う。「この辺は田舎で、そんな犯罪とは無縁だと思っていました。治安の心配は要らないと思っていたけど、自分の子どもがそういう目に遭って、都会だからとか田舎だからとか、そんなことはもう関係ないんだと思いました」と話す。

 小学生の女の子が車に連れ込まれた事件もあった。殺されてしまった子どもたちもいた。誰でもいいから殺したかったという事件も多い。いったいこれはどういうことなのだろう。学校では、知らない人から声をかけられても答えないようにと指導している。人に会ったら、元気よく挨拶しましょうと教えていたのに、全く矛盾することを指導しなくてはならない。人と人が仲良く暮らせることが一番大事なことなのに、人を見たら何をするかわからないから注意しましょう、そんなことでは決して仲良く暮せない。

 社会の進歩がこうした現実を作り出したのか、人間そのものがそうした社会を作り出す要素を持っているのか、印刷屋の若い主人ではないが「本当に怖い社会ですよね」で終わっていいのかと思う。
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匿名社会にしてはならない

2008年11月25日 22時13分39秒 | Weblog
 匿名の社会へ移行しようとしている。学校では、クラスの住所録は作られていない。マンションでもかつては住民の皆さんの部屋番号と名前と電話番号の一覧表が作られていたが、今は公開されていない。個人情報を守ることが至上命令となり、隣に住んでいる人の名前も家族もわからない。

 厚労省のOBが殺害された事件から、住所録を綴った本を公開しない動きさえある。図書館は全ての公開された情報を提供する使命を負っている。その図書館が、情報公開に枠を設けるようにと圧力を受けている。殺害という事実を突きつけられれば、図書館といえども公開の権利を盾にできない。そればかりか、あの本はいいけれど、この本はダメだという選択の圧力が現実にかかってきている。

 厚労省OBの殺害事件は犯人が自首してきたが、何のために行なわれたのかよくわからない。秋葉原の無差別殺人事件も、その前のどこかの駅舎での無差別殺人事件も、今度の厚労省OB殺害事件も、匿名性が高いと私は思っている。前の2つの事件は、犯人は殺す相手は誰でもよかったし、今度の事件も34年前に殺されたペットに対する報復だと言っているが、10人ものOBを殺す予定だったのだから、むしろ誰でもよかったに等しい。

 私たちは住所を持たないAでありBである。誰でもいいという特定されない人間になっている。「ヘンな人」でもなければ「個性的な人」でもない、どこの誰だか分からない人間になってしまっている。私たちはAでありBであり、あるいは01か02か、そんな誰でもよい存在になっている。それを社会は安全の名の下に移行しようとしている。

 匿名は誰でもない透明人間のようなものだから、自分とは全く違う。自分ではない人間なのだから、何をしたってかまわない。覗き見だって、詐欺だって、殺人だって、それは匿名の人間がやったことだとなってしまう。自分の顔や名前や住所を明らかにしないのだから、まるで自分とは違う透明人間としての存在でしかない。

 これを恐ろしい社会だと私は思う。自分はどこの誰で、こういう人間ですと、ハッキリ言える社会こそが正しいのではないのか。誰が何を言ったのかわからない社会がよいのではなく、どこの誰が何を言ったのか、ハッキリとわかる社会の方が正しいのではないのか。匿名でなければ意見が言えない社会にしてはならない。誰もがハッキリとものが言える社会にしていくことが私たちの使命だろう。

 無責任な発言を無くすためにも、誰が何を言おうと、言ったことで恐怖を感じるような社会にしてはならないと思う。
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紅葉の京都は人の波だった

2008年11月24日 18時47分23秒 | Weblog
 昨日は20人ほどの友だちと京都の紅葉を見に出かけた。もちろん、京都は自家用車で行くところではないので、チラシ広告のバスツアーに早々と申し込んでおいたおかげだ。近くの駅まで迎えに来て欲しいと交渉したけれど、それは出来ないということだった。それでもルート上の駅ならばいいというので、2つ目の駅から乗ることができた。バスセンターを午前8時では早すぎると考えての交渉だったけれど、結果的には近くの駅からの出発も午前7時30分だったからそんなに余裕があったわけではなかった。

 まあ、それでも2歳の赤ん坊もいるから、近いところから乗ることができたことは幸いだった。さて、高速道路に乗り込むやガイドさんが「今日はお天気もよく、人出も多いでしょうから人の波に飲み込まれないようにしてくださいね」と言う。その時は、多分そうであろうとは思ったが、それでもそんなに大げさには考えてもいなかった。確かに高速道路を走る車は多い。サービスエリアの女性用トイレは長蛇の列だ。京都に近づくにつれ、次第に車の量が増えてくる。大津インターで高速道路を降りたけれど、本線はもうすっかり大渋滞だった。

 私たちのコースは山科から九条へ入るものだったので、混雑しているものの順調に進んでいった。ホテルの日本料理店「たん熊」で、点心をいただく。これまでのバスツアーでは経験のない豪華な昼食だった。さて、ここからが紅葉を求めてのツアーが始まる。見学地が2箇所というのは賢明なコース選びだと感心したが、実際にこれ以上は無理だとわかった。最初に尋ねたのは紅葉の名所、東福寺の隣の泉涌寺でここは天皇家のお墓のある御寺。御座所からの眺める庭園は見応えのあるものだった(写真)。

 次に清水寺に向かったけれど、ホンのわずかな距離なのに車は全く動かない。バスが駐車場に着くまでに1時間以上もかかってしまった。そればかりではなかった。バスを降りて参道を仁王門へ向かう道が人また人で動かないのだ。これにはガイドさんも「初詣の時でもこれほどの混み具合ではなかった」とビックリしていた。「お金は返しますから、ここで解散に致します。これより自由時間としますので、皆さんでお好きなところへお出かけください」と言う。私は2歳の女の子と7歳の男の子とで参加した母娘組と一緒に、比較的空いていた茶碗坂から仁王門へと上がった。

 三重塔までは行けたけれど、その先は長い列が続き、清水の舞台までは行けそうにない。ここであきらめて、買い物に付き合うことにした。7歳の男の子がお土産を買いたいと言うので、「誰に買っていくの?」と聞いてみると、「ガイドさんと幹事さん」と言う。「えっ!どうして?」と不思議に思って聞いてみた。「お世話になっているから」と澄ました顔で答える。なるほどと感心し、「何を買うの?」と聞くと、「たこ焼き」と言う。「わかった、じゃあーたこ焼きを売っているところを探そう」と参道の土産物屋を見て回った。

 帰りもやはり混んでいて、バスを降りた時は午後8時を少し過ぎていた。心配したほど時間はかからなかった。仲間と中華飯店で夜食。紅葉はきれいだったし、天気も良く、いい旅だったと乾杯した。
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子育ては宝探し

2008年11月23日 23時31分47秒 | Weblog
 先日、テレビで近頃よく耳にする脳科学者の茂木健一郎さんを見た。子どもをどう育てるかをテーマに若いお母さんたちに話していた。茂木さんが言うには、子育ては「子どもの中にある宝物探し」だと。子どもはいろんな可能性を持っているからそれを一緒に探してやることが子育てなのだというのだ。そういえば、私が高校1年の時、矢内原忠雄氏の『政治と教育』という本に感動したことを思い出した。

 矢内原氏は教育とは子どもの中の可能性を引き出し育むことだと言われていた。そこで、教育の現場はそのように行なわれているのかというのが私の視点だった。現実は違うのではないか、教師は教育の本来の目的を無視していないか、高校新聞に書けなかったこうした主張を朝日新聞に投稿し、記載してもらったこともある。

 私が矢内原氏の本を買った動機は、もちろん田舎の書店にこの本が並んでいたためだが、最後の方に「ゼントルマンであれ」という見出しがあった。これは母の口癖で、「男はゼントルマンでなくちゃ―いかんよ」とよく聞かされていたから、興味を引いた。矢内原氏は東大の総長で、内村鑑三に教えを受けたキリスト者であると知った。

 そして多分、その頃の私はキリスト教に関心が深かったので、ぜひ読んでみようと思ったのだ。それはまた同時に、60年安保直後に出版されていることから、当時の日本の状況を反映した内容だった。矢内原氏がキリスト者であることから、左への批判はあったけれど、政府に対してもあるいは歴史から何を学ぶかという点でも、高校生の私には魅力的な内容だったと思う。

 矢内原氏への私の思いは高じて、わが高校へ講演に来て欲しいと手紙まで書いた。早速に息子の矢内原伊作氏から返事をいただいたが、理由は忘れてしまったけれど、講演の件は断念しなくてはならなかった。伊作氏からもらった手紙はまだどこかにしまってあると思うのだが、さてどこにあるのか。

 茂木氏は子どもに必要なことを2つ上げていた。1つは自分を客観的に見る能力で、これは大人が「こういうことをしてはダメだ」と叱ることで育つという。2つ目は「自信を持たせてあげること」で、茂木氏はいつも子どもに「お前は天才じゃーないか」と言っているそうだ。小さな成功体験が自信になると言う。カッーとなって腹が立った時、「なんて馬鹿なの!」と言いたいエネルギーを「すごいね。すごいことができるんだ」とまずほめた方がいいと言う。そうすると何とか言うホルモンが作られるからだと説明していた。

 こんな話を大学で心理学を教えている友人に話したら、「ほめるばかりだと、ほめられたいとばかり考えて無理やりにそうしてしまう問題もある」と指摘する。なるほど、それも一理あるけれど、どちらにしても子どもは大人になっていく過程で、大人の価値観を疑うものだ。そうすることで自我に目覚め、自分を形成していくのだから、大人がむしろ自分の価値観をしっかり持つことではないだろうか。

 子育ては宝探しという表現は面白いね。
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それぞれの人生

2008年11月22日 22時35分14秒 | Weblog
 昨夜は時間が無かったから、なんだかよくわからない文章になってしまった。名演の『詩人の恋』はとてもよかったとまず言いたかった。2時間15分の上演だが、これを2人だけで行なうのだから至難の業だ。ところが、2人はピアノもうまいし、歌もうまい。録音とか吹き替えかと思ったが、実際に2人が演じているというのでビックリした。声もオペラ歌手並みによくとおり、それは素晴らしかった。

 夜、宗次ホールで聞いたのはオペラのプロ歌手で並外れた歌唱力の持ち主だから、比較することが間違っているかもしれないが、彼女の次に位置してもよいと思うくらいだった。同じ日に、歌とピアノを聴くという偶然を、しかもそれが極めて感動的な物語であることを、綴りたかったのに、時間に迫られて焦ってしまった。

 それぞれの人生を考えさせられたと書いたけれど、いったいそれぞれと言うのは何かがわからないと読み返してみて思った。『詩人の恋』の方は、ピアノが弾けなくなったかつて天才と賞賛された青年が、不思議な落ちこぼれの教授に出会い、授業を通して次第に自分を取り戻していく物語だ。青年はアメリカ人でプロテスタントだと言うが本当はユダヤ人だ。そして「ユダヤ人収容所はただたくさんの死体がころがっていただけだ」と投げ捨てるように言う教授も実はユダヤ人だったのだ。

 ユダヤ人という、歴史の中で迫害され続けてきた人々のその重さを、私が本当に理解しているかは疑問だけれど、どういうわけか同じ人間でありながら、私たち人間は差別を創ってきた。差別を設けることで何を守ってきたのだろう。日本にもがあり、アイヌがあり、朝鮮人がある。人々は同じ人間に異質なもののレッテルを貼ることで、結束とかさらに下の人々を意識して自らを慰めるとか、してきたのだろう。

 『詩人の恋』には、第2次世界大戦下のオーストラリアでユダヤ人として少年時代を送った者と、大戦の勝利国アメリカで生まれた若い青年のそれぞれの人生が、全く違う世代でありながら結びついていく不思議さを描き、さらに現代の危うさに警鐘を鳴らすようにも見えた。また、宗次ホールでのデュオリサイタルはオペラの古典作品を歌い上げるものであったが、彼女は私の下の娘と同じ歳で同じ小学校へ通っていた。彼女の両親が経営する音楽教室のバイオリンの生徒が娘たちで、付き添っていた私は音楽教室の子どもたちとも顔馴染みだった。

 晴れの舞台で堂々と歌う彼女を見ていて、歳月の流れを感じさせられた。子どもたちが大きくなったということはそれだけ自分が歳を取ったということでもある。彼女や子どもたちの人生が、これからさらに充実していくことを予感できるのに、これから自分自身はどうなっていくのか、「それぞれの人生」を考えさせられたというわけである。
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歌とピアノ

2008年11月21日 23時58分30秒 | Weblog
 午後から、名古屋市民会館中ホールで名演を鑑賞。今日の出し物は加藤健一さんが主演する『詩人の恋』だった。また、夜は宗次ホールで『百々あずさ×高橋紀代デュオリサイタル』に行ってきた。結果的に2つに共通するものは、歌とピアノだと気が付いた。それは全くの偶然に過ぎないけれど、『詩人の恋』は1990年前後のウィーンを舞台にした物語で、デュオリサイタルの方は古典的なオペラを歌い上げるものだったが、多分歌の歌詞はドイツ語だったと思う。

 『詩人の恋』は、ハイネの詩にシューマンが作曲したもので、原作者のジョン・マランスがウィーンで音楽を学んでいた時に親しんだ曲であるようだ。この演劇は、登場人物は2人しかいない。天才ピアニストといわれながらピアノが弾けなくなった青年と、青年が伴奏者となるために学びに来たウィーンの大学の酔いどれ教授だ。全編をこの2人の会話だけで芝居は進行する。それにしても、主演を務める加藤健一さんも相手役の畠中洋さんも、歌はうまいしピアノも上手だ。吹き替えかと思ったが、どうやら2人は地で行なっているという。

 ピアノが弾けなくなった青年に、酔いどれ教授は「君はピアノを好きになった女のように愛しているか」と聞く。そして「愛撫するように、優しく扱いなさい」とたしなめる。また「君は最高のSEXをしたことがあるか」と尋ねる。「最高のSEXをすれば、それがどんなに素晴らしいものであるかがわかる」と言うのだ。

 青年は4歳の時に、チャイコフスキーの白鳥の湖を弾いて天才と賞賛されたのだが、彼は物まねをしてきたに過ぎないと言う。自分を意識してピアノが弾けなくなったのだ。共通の歌とピアノ。その2つの歌を聞いて、それぞれにその人生を考えさせられた。
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