友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

アカデミー賞作品は観ていなかった

2013年02月28日 19時13分19秒 | Weblog

 アメリカのロサンゼルスで第85回アカデミー賞の授賞式が行なわれた。昨年に公開された映画の中から、作品賞とか監督賞とか主演男優賞とか、幾つかの部門で最も優れた作品が選ばれるものだ。ノミネートされた作品はどれも、私は観ていないものばかりだった。作品賞に輝いたのは、『アルゴ』というCIAの活躍を描いたものだった。CIAというと多額のお金を使って、相手国をかき回す映画が多かったけれど、この映画は実際に行なわれたことの映画化だという。

 イランのアメリカ大使館が学生たちに占拠され、CIAは避難した大使館職員6人の救出作戦を立てる。CIAはイランを舞台にした映画製作を持ちかけ、撮影に乗じて6人を脱出させるという映画である。アメリカ人がどのような映画を選ぼうとも勝手で、観てもいない私が言うのは不謹慎だと思うけど、この映画をイランの人が観たならどう思うだろう。奴隷解放を行なったリンカーンを取り上げた映画もあったし、貧しさゆえに罪人となった『レ・ミゼラブル』もあった。老いのあり方を追及した映画もあった。けれども作品賞はCIAの活躍を認めたものだ。

 政治よりも経済は先をいく。文化はやはり後追いなのだろうか。文化の中には時代よりも先をいくものがあったけれど、それと気が付くのは時代を経てからのことが多いと思う。時々とてつもない先人がいるけれど、凡人の私たちにはなかなか理解できなくて、変人や奇人と見てしまう。そんな風に見られた先人は孤独で辛い人生だったのかも知れない。そんなことを考えるとボンクラでよかったと思う。

 長屋形式の借家に住んでいる友人が、玄関の上がり端の板が割れてしまったので、大家さんに修理を頼んだところ、大家さんから「修理代を払って」と言われたそうだ。「家屋の修理は大家さんが行なうものでしょう」と突っぱねると、「それなら出て行ってくれ」と立ち退きを迫られた。私は彼に「居住権があるじゃーないですか」と言うが、「居住権では居座れないと言われた」と言う。世の中は摩訶不思議なことが多い。何の落ち度もない住民が、大家さんの一言で住居を追われてしまう、理不尽が横行する。

 持っている側はやはり力が強い。美しい国も現実はこんなものだ。アメリカは力を見せ付ける。慈悲でしか生きられない人や地域や国は、どうすればいいのか。華やかなアカデミー賞の授賞式が行なわれたロサンゼルスにも路上生活者がいた。豊かな国アメリカに乞食がいるのを見て私はビックリしてしまった。

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イタリアの総選挙

2013年02月27日 19時35分05秒 | Weblog

 イタリアの総選挙の結果を見て、人間の社会は難しいと思った。財政危機に陥ったイタリアは、経済学者のモンティ氏を首相に据えて、財政再建に取り組んできた。退職年齢や年金支給年齢の引き下げ、不動産増税などを行なった。けれども国民は「金の取りやすいところから取っただけだ」と手厳しい。正社員の地位を危うくする労働市場改革は進められたが、政党補助金の削減や議員特権の見直しは進まない。景気は冷え込み、就職難は深刻化した。

 どこの国も、どんな時代でも、既得権益にメスを入れるのは難しい。しかし、今日の世界は革命ではなく、政治でこれを実現しなくてはならない。同業団体、中小企業、労働組合など、それぞれが既得権益を守るために既成政党と結びついている。いや、政党政治という民主主義はそれぞれが利益代表を議会に送り、権益のぶつかり合いを演じている。こうした政治の仕組みから、次への1歩が求められている時代だと思う。

 モンティ首相の財政再建作策が国民にとっては極めて不人気なことは選挙結果が物語っている。買春事件や汚職疑惑など、スキャンダルまみれだったベルルスコーニ前首相が、税金の還元や景気の拡大などのばら撒き策を掲げて、大量の票を得た。国家が立ち直れなくなるというのに、まだ債務超過策を支持したのだ。お金持ちばかりでなく、お金のない人も、「増税だけではたまらない」というわけである。

 だからこそ、「経済、政治。連中がやってきたはすべて失敗した。代償を払うのは庶民ではなく彼らだ」と言う、お笑い芸人が創設した「5つ星運動」に急速な支持が集まった。しかし既成政党の批判だけでは、支持は受けても、事態を変えることにはならない。どのような政策を打ち出すのか、それとも、そもそも、全く違う次元から解決策を提起するのか、注目される。

 またまた、莫言著の『白檀の刑』になるけれど、青島を占有したドイツが北京に向けて鉄道を敷く。日本が満州鉄道を敷くのと同じで、これを梃子に清国での権益の拡大を狙っている。中国の庶民が抵抗するが、袁世凱は民衆の蜂起を抑えようとする。それは軍事力の差を知っていたから、ここで蜂起すればたちまち列強に清国が乗っ取られると見たからだった。けれども、庶民にはそんなものは見えない。

 目先のものだけでなく、もっと先のものまで、人々が見られるようになれば、賢い選択が出来るだろう。その訓練の場に今はあるのだろうけれど、それはいつも、多くの犠牲の上にしか成り立たないのだろうか。

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東浦町の人口水増し

2013年02月26日 19時36分23秒 | Weblog

 愛知県東浦町が、2010年の国勢調査で人口を水増したと新聞で取り上げられていたが、とうとう当時の副町長が統計法違反の疑いで逮捕された。人口の水増しくらいで逮捕なのかと驚いた。ことの発端は、町長を連続8期務めた前町長が、「2012年1月の市制移行」を打ち出したことにあったと思う。2011年は町長選挙の年に当たる。ここで勝利して初代市長になることを望んでいたのだろう。

 逮捕された前副町長は、前町長の右腕と言われていた人で、2008年に副町長に就任し、積極的に市への移行策を推進してきたようだ。2010年12月議会では、「市移行に向け検討委員会を早急に設置したい」と発言している。また、翌年の1月には町内6箇所で住民説明会を開き、市制移行の狙いや利点を説明している。「町から市へ」が東浦町職員の合言葉となっていたようで、その旗振り役を前副町長が果たしていたのだろう。

 しかし、2011年の町長選挙で、連続9期目を目指した現職が敗れて事態は一変したのだと思う。多くの議員が現職を応援したにも関わらず、多選阻止を目指した若い候補が当選した。けれども、いかに大変な選挙だったかはその結果から想像できる。勝利したと言ってもその差はわずか400票ほどだ。県からの指摘(?)を受けて、人口の水増しはなかったのか、新町長は内部調査を行なった。その結果は、職員に理解不足があったが組織的な意図はなかったというものだった。

 それが今回、ひっくり返ってしまった。「町から市へ」を合言葉に取り組まれていたのに、組織的な意図がなかったこと自体が不思議だ。けれども行政を知る人なら理解できるだろう。部下が新しい提案をしても上司は、「もし失敗したなら誰が責任を取るのだ」と言って取り上げない。同期で入った者の中で目立つことをする者が出れば、みんなで押さえてしまう。仲間をかばい合うけれど、だからと言って、落ちていってくれと願っている。「みんなで渡れば怖くない」意識が強い組織なのだ。

 莫言著『白檀の刑』にこんな言葉が出てくる。住民のために、住民を助けようと必死になる役人に部下の老人が言うセリフだ。「役人たるあなたさまは上司の役人であって、民百姓の役人ではございません。役人をやるなら良心など棄てること、良心が大事なら役人などにならぬことです」。国は違っても、時代は違っても、変わらないものなのか。東浦町の新町長がどんな裁きをするのかと注目している。一緒に酒を飲んだ友人だから。

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好きになった方がいい

2013年02月25日 18時54分41秒 | Weblog

 先日、誕生日会に持って行く料理を作るためにスーパーへ買い物に行ったら、選挙の時に応援してくれた不動産屋の社長に会った。市民のための勉強会である市民講座に近頃は来ていない。そのことを話すと、「中国の話は聞きたくない。中国も韓国も大嫌いだ」と言う。社長くらいの年代の人、つまり終戦時が小学1年生以上の人は、「チャンコロとかチョウセン」と呼んで、中国人や韓国人をバカにしているところがある。子どもの頃に、そんな風に教えられたのか、そんな風潮の中で育ってきたからだ。

 誕生日会のメンバーの先輩たちも全く同じだ。みんなで韓国へ旅行に行こうという話が出た時も、「絶対に行きたくない。街はニンニク臭いし、朝鮮人は汚い。教養もなく街中がゴミだらけだ」と嫌がった。とにかく出かけようというので、無理やり一緒に行った。幸いにも、空港は新しくなっていて、ニンニクの匂いなどどこにもない。空港からソウルへの高速道路は日本と変わらない。ところがソウルについてビックリした。名古屋市よりもはるかに大きく、清潔で、ゴミは溢れていない。

 私の14歳年上の姉も同じだ。言葉の端々に、中国人や朝鮮人を馬鹿にしたところがある。中国の重慶から日本に留学していた中国人学生の話を思い出す。彼女が日本の大学へ留学したいと言った時、両親は「日本人は怖い。何をするか分からない。殺されるかも知れないから絶対にダメだ」と止めたそうだ。重慶は日本軍が無差別爆撃を行なった都市だ。その時の恐怖を引きずっているのだろう。無差別に人を殺す残虐非道の国という印象を持っているのだ。相手を知らないというのは本当に恐ろしい。

 私が社長に、「ソウルはとても大きくきれいな街でしたよ」と話すと、「そうかね。一度連れて行ってくれないか」と言う。自分の目で確かめてみることは大事だと思う。日本に留学に来た中国人の彼女も、「初めはとても心配だった」と言う。「日本人は礼儀正しいし、皆優しい」と付け加える。多分、中国の両親にも日本人のことを話しているだろう。竹島や尖閣諸島の問題で、「韓国や中国は信用できない」と社長は言うけれど、韓国や中国の人々もそう思っている。「領土は守らなくてはならない」と、どこの国民も思っている。

 いがみ合うよりは仲良くできる道を探らなくてはいけないだろう。私たちのような年寄りはどんな事態が生まれてもそんなに大差はないけれど、これから何十年と生きていく若い人たちのためになる、そんな国になるような生き方をしなくてはならない。中国へ行けば中国人の、韓国へ行けば韓国人の、友だちが出来れば憎しみよりも親しみが増すはずだから。

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ノーベル文学賞の『白檀の刑』

2013年02月24日 19時12分49秒 | Weblog

 友だちがブログで、ノーベル文学賞を受賞した中国の作家のことを書いていた。先日、彼の家にお茶を飲みに行った時、その作家の本を「貸してもらえないか」と聞いた。彼は奥から文庫本を2冊持ってきった。「へぇー、文庫本になっているのか。それにしても厚いね」と言うと、「上下になっているけど、結構読めるよ」と笑う。「この人のおかげで、村上春樹が受賞出来なかったのだよね」と言うと、「村上春樹は翻訳が多いじゃーない。創作性に欠ける気がする」と今度は不満そうに言う。

 次女のダンナが村上春樹を評価していたのに、私は1冊も読んでいなかったので、話が出来なかった。友だちがそんな風に指摘しても、「そうなのか」としか言えなかった。日本の男性の小説家を読んでみたいという気持ちがなぜ湧いてこないのか、自分でも分からない。芥川賞を貰った西村賢太さんや2年後に受賞した田中慎弥さんの受賞作は読んだ。新聞の人生相談で面白いなと思っていたら、「その人の本なら持っているわよ」と言うので借りて読んだ車谷長吉さんのものくらいしか読んでいない。

 莫言さんの『白檀の刑』は心配とは裏腹に一気に読めた。物語は清国の末期が舞台で、読み進むうちに「義和団の乱」の話かと分かってくるから、中国の小説なのになぜか知っているような気がしてくる。作者の「莫」は、夢を食べるバクにつながっているかと思ったけれど、どうも莫大ということなのかも知れない。『三国志』や『水滸伝』といった中国の歴史小説に近いのかも知れないとも思った。とは言っても、私は横山光輝さんのマンガでしか知らない不埒者である。

 このテンポの良さは何なのかと思う。日本なら講談でも聞くような感じかも知れない。歴史上の人物が大活躍する、そんな展開だ。描写も誠に細かい。これでもかこれでもかと延々と続くのに、どんどん引き込まれてしまう。けれどもぞっーとする。表題にあるように「刑」の話だからだ。「上」の最後は、「凌遅の刑」の場面が26ページにわたって書かれている。殺さずに肉を一片ずつ切り取っていくのだ。5百刀目で息絶えるまで細かく書き綴られていて、気持ちが悪くなってくる。それが作者の狙いなのかも知れないが、中国にはよくもこんな残酷な刑があったものだ。

 さあーて、どんな展開になるのかと思いながら読み進めているが、早く結末が知りたいな、それでいて、結末などは死刑の執行以外にないではないか、そんな思いが絡み合っている。

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言葉遣い

2013年02月23日 15時17分58秒 | Weblog

 小学6年生の男の子と一緒にエレベーターに乗っていたら、途中から同じ学年の女の子が乗り込んで来た。女の子の人数が多かったからかも知れないが、男の子に向かって、「お前さ」と呼びかけている。最近では女の子が男言葉を、男の子が女言葉を使うのだろうか。言葉が時代と共に変わるのは仕方がない。実際、同じ日本語でも古語は意味さえも分からないものがある。日展で「書」を見た時も、ほとんど何が書いてあるのか分からなかった。文字が分かっても読めない。古文をすらすらと読める人の方が少ないだろう。

 昨日、書いた『時よ乳母車を押せ』の中で、高校生が自分の親に向かって、「オマエ」とか「キサマ」とか「ババア」とか言う。言葉が語っているように、家庭崩壊である。私たちの子どもの時代のように、ことさら上下関係を強調することはないと思うけれど、言葉は発する側よりも受け取る側が気持ちよいか否かではないだろうか。子どもたちが、女の子が勇ましく、男の子がなよなよと、言葉を交わしているからと他の人が気にすることはないのかも知れない。夫婦でも最近では「あなた」とか「お前」などと呼ばずに、呼び捨てで言う。せめて名前の後に、「さん」と付けたらよいのにと思うのは年寄りなのだろう。

 「嘘も方便」という言葉がある。目的のためには嘘を言ってもよいと考えられている。元々は仏教の経典に由来するようだ。家が火事となり、それを知らずに中で子どもが遊んでいる。「危ないから逃げなさい」と言っても子どもたちは耳を貸さない。そこで子どもの好きな車が外にあると嘘を言って連れ出したという話から生まれたものらしい。井戸掘り仲間の私の先輩は、「嘘は必ずバレる。嘘をつくくらいならしゃべらないことだ」と人生訓をのたまう。

 その彼が気になるのは、娘の婿が彼を「さん」付けで呼ぶことだ。娘婿にしてみれば、親しみを込めた呼び方なのだろうけれど、私たちの年代の者にとっては対等というよりもバカにされた雰囲気がある。マンションの役員をしていた時、会長だった人が他の役員に向かって、「君」呼ばわりをした。年下なのだからいいじゃーないかと思われていたかも知れないが、ここは会社の職場ではない。年齢に差があっても、役職の違いはあっても、役員としては平等である。

 どのような言葉で話しても相手がどう思うかだろう。逆に、相手のことを考えて話すなら、どんな言葉でもよいのかも知れない。さて、今日は久し振りの「誕生日会」だ。本来なら1月に行なうのだが、メンバーのひとりが転んで前歯を折ってしまったので、延期してきた。やはりこれも相手に対する思いやりだと思う。

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異常な母子愛

2013年02月22日 19時43分07秒 | Weblog

 木曜日の夜は結構忙しい。9時からは朝日テレビ系列の『おトメさん』を見て、10時からはフジテレビ系列の『最高の離婚』を見る。『おトメさん』は途中から見始めたので、よく分からないけれど、主人公の黒木瞳さんの演技に注目している。黒木さんは渡辺淳一原作の映画『失楽園』で、大胆な演技をした女優という印象だった。それも実際は見たわけではなく、そんなことで盛り上がっていたことだけの記憶だから申し訳ない。私は黒木さんの顔が好きだ。

 『おトメさん』という題名の意味はなんだろう。分かっているのは、黒木さんと石田純一が夫婦で、洒落た家に住んでいて、庭には彼女が育てているバラが植えられていることだ。その家もやっとの思いで手に入れたものらしい。物語のテーマは「家庭」で、黒木さんが演じる姑と息子の嫁との確執にあるようだ。どうも一人っ子なのか、黒木さんは息子を溺愛している。嫁がキャバクラ嬢だったことから、家と財産を乗っ取るのではないかと疑っている。

 黒木さんが姑の役をやるとは思えなかったので、生年月日を調べてみたら、1960年生まれとあった。孫がいても不思議ではない歳だ。若い女優さんだとばかり思っていたのは私の間違いだった。それにしても息子を可愛がり過ぎている。子離れが出来ていない。近頃はそんな母親が多いのだろうか。中学生の息子とお風呂に入っている母親がいたけれど、それは小説だけの話だろうと思っていたので、本人から聞いた時は驚いた。

 葉山修平著『時よ乳母車を押せ』は、すさまじい母子愛だった。ひとり息子をなんとしてでもT大に入れたいと願う母親と祖母、そのために家庭から切り離される父親、そして有名高校の2年生となった息子の苛立ち、悲惨な結果は目に見えていた。母親は息子のために高校の先生と肉体関係を持つし、息子のためにと息子とも関係を持つ。そのすさまじさは反吐が出そうなほどだ。母親が母親として、父親が父親として、振舞える環境であったなら、救われたかも知れない。けれども、なぜかT大こそが最大の目標で、そのために全てを捧げている。

 高校生の息子は、中学・高校と進むにつれて、自分の力を知ることになる。有名進学校はテストの日々であり、その結果は逐次発表される。成績の悪い息子にとってはこれほどの苦痛はない。私も高校生の時そうだった。両親は私より少し上の世代だから、私の子どもより息子は年上の設定だ。家庭崩壊とか学級崩壊とかが問題になった時代だったかも知れない。息子の通う高校の様子は、私が通った高校と余り変わらないから、読んでいてもなぜかちょっと昔の気がした。

 むしろ、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』の方が現在に近いかなと思うし、全く違うけれど、こちらの主人公の高校生に似たところを感じている。いや、似たところと言えば、『時よ乳母車を押せ』の息子の苦悩の方が近いのかな。黒木瞳さんの息子を思う気持ちから、とんだ方向へ飛んでしまった。

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自立へ

2013年02月21日 18時34分11秒 | Weblog

 排水口に落ち葉が入らないように、金網で囲った箱型のものを置いている。その端のところにアゲハチョウのサナギがいた。羽化しなかったから、秋にここに辿り着いた越冬するサナギなのだろう。春から夏の幼虫はサナギになっても、そんなに日数をかけずに蝶になって飛んでいく。けれども、秋の終わり頃のサナギは冬を越すものがある。雨風がかからないような場所を選んで身を落ち着かせる。

 サナギは外敵から身を守るために、茶色の植木鉢に身を置くものは茶色の、緑の葉の近くのものは緑に、枝のような鼠色のところには鼠色の、サナギになる。金網を最終の地に選んだサナギは確かに雨風を防ぐ場所にいるけれど、どうして緑色をしているのだろう。果たしてこのサナギは春には蝶になれるのだろうか。雪の積もった日も、風の強い日も、サナギは揺れながらもじっと耐えていた。春には蝶に変身出来ることを夢見たはずだ。

 長女の娘もこの3月で高校を卒業する。一家は長女の職場に近いところに引っ越すようだ。今年の7月で4歳になる次女の方は、ますます賢くなってきた。職場の保育園から一般の保育園に変わるらしい。一家の引越しは高校を卒業する長女の新しい出発のためでもあるようだ。母親である長女は彼女の自立に期待している。しかし、親と子は難しいところがある。自立を強く求めれば、家庭から追い出されると取られかねない。かといって、早く家を出たいと言えば、家庭に不満でもあるのかと取られてしまう。

 親が子どもの自立を考えるのも、子どもが親からの自立を考えるのも、当然なことだと思うけれど、そのタイミングや思いはなかなか一致しない。娘は自立の意味が分かっているのだろうかと長女は心配している。孫娘が小学校の時に、長女は離婚し、孫娘が高校生になる時に再婚した。長女もジジババも彼女が孤独にならないようにと気を遣った。だから甘ちゃんでちょっと世間知らずなところがある。親元から離れて暮らすといくらかかるのか、分かっていない面も確かにある。

 学費は長女が出すと言うから、一人暮らしの生活費だけれど、それがしっかりとつかめていない。「ジジババにお金を出してもらっては自立にならないとママは言う」らしいが、それはこっちがダメならあっちでもいいという孫娘の安易さを叱ってのことだ。子どもたちが結婚するまではいろいろと面倒をみたけれど、それは親としては当然のことだ。孫娘の自立を応援するのも、長女の負担を軽くしてやりたいからだ。家族が助け合わなくて誰が助けてくれると言うのだろう。

 いつまでも親元で暮らせば、孫娘の安直性は改善されない。おそらくそれを長女が一番よく分かっているだろう。春には蝶になれ。サナギのままでは死んでしまうぞ。

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宇宙からくるもの

2013年02月20日 17時56分49秒 | Weblog

 先日、物凄い光を放つ物体がロシアの上空に現れ、爆発した。隕石だと分かって、ホッとした様子だった。何しろよく分からない時は、「ミサイル攻撃か」などと叫んでいた人もいた。被害は結構あったようだけど、死者が出なくてよかった。それでも隕石が落下した地域はロシアの軍需工場地帯とか、原子力発電所もあるとかで、もしそれらの施設に落ちたなら、「想定外」の大事故となっただろう。

 隕石が落下してくることは珍しいことではないようだが、大きなものとなると地球への被害は計り知れないことになる。全盛を極めていた恐竜が絶滅したのは、巨大隕石の落下が原因と言われている。人の力ではどうにもならないことはいくらでもあるのだ。人が作り出した経済の仕組みだって、コントロールは難しい。気候は予報できても変えることは出来ない。人の心の動きも、分かっているようで分からないところがある。

 地球の周りにはたくさんの宇宙ゴミが漂っている。制御不能となった人工物で、ロケットの残骸や、宇宙飛行士が落とした工具や部品、人工衛星同士が衝突して発生した破片などだ。秒速数キロメートルという物凄い速度で飛んでいるから、どんなに小さなものでもその破壊力は大きい。ゴミ同士の衝突もよくあるようで、そんな宇宙ゴミが時々地球に落下することもある。大気圏内で燃焼できないほどの大きな隕石が地球に衝突すれば、地球環境が変わってしまうかも知れない。

 天から火の玉が降ってきたという伝説は各地にある。旧約聖書にも、神の怒りとして書かれている。いずれ、そんな時がやってくるのかも知れない。宇宙のチリが融合して新しい星が生まれる時に、宇宙線が発生するという。宇宙線は放射線物質から出る放射線で、宇宙は放射線で溢れている。幸いにも地球は大気で包まれているので、放射線量は減少しているが、この大気そのものが不変というわけでもないらしい。

 先日の大和塾の講演『宇宙100の謎』で、天文学者の福井先生は「月は毎年4センチずつ地球から遠ざかっている」と話された。子どもの頃、大陸移動説を知って驚いたけれど、今もなお大陸は移動しているようだ。とんでもない不可思議なところで私たちは暮らしている。全てのことが解明されたとしても、解決することは不可能だろう。私はその方が人類にとっては幸せな気がするけれど、どうなるのだろう。

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狭き門より入れ

2013年02月19日 18時22分36秒 | Weblog

 身を切るような寒さである。雪から雨に変わるという季節とは裏腹に、冷たい風が吹き抜けていく。フランスの作家、アンドレ・ジイドが亡くなったのはこんな風に寒い日だったのだろうか。高校生の私にとってジイドの『狭き門』は、青春の書だった。キリスト教に関心のあった私は、伊藤左千夫の『野菊の墓』の初恋に憧れていたものの、余りにも日本的な愛であるように思い、西洋の初恋物語を探していた。ツルゲーネフの『初恋』に続いて、『狭き門』に目が行った。

 『狭き門』は聖書に出てくる言葉である。「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し」。キリストの言葉に共感しながら信仰心を持つことの難しさを感じていた私には、「狭き門より入れ」という言葉はすーと胸に入ってきた。世の中は何事も簡単ではない、その難しさを乗り越えていくことに生き甲斐があるのだ、そう思った。主人公も自分と同じくらいの若者で、『野菊の墓』と同じように、年上の従姉に恋心を抱いていた。

 従姉も彼に好意を持っているけれど、母親の不倫とか妹が彼を好いていることなどから、身を引いてしまう悲恋の物語だ。確かに爽やかで美しい物語であったけれど、恋はこんなにも辛いものなのか、清貧的でなければならないのかと思った。ジイドはキリスト教の禁欲主義を批判していたのかも知れないが、ふたりの潔癖さの方が強く印象に残った。同じフランスの作家、スタンダールの『赤と黒』の方がワクワクする強烈なものがあった。

 『赤と黒』を男友だちで回し読みして、「ジュリアン・ソレルになろうぜ」などと話していた。『狭き門』の主人公とは違って野心家で、出世を夢見て軍人となり、挫折すると聖職者になってなお上を目指そうとする。恋も出世の道具としか考えない。しかし、結末では愛を知って処刑になった。不道徳な生き方であるけれど、魅力的に思えた。ジイドよりもかなり前、『レ・ミゼラブル』の時代ではないだろうか。舞台は同じ時代だったと思う。

 ジイドは第2次大戦の始まる直前の1936年に、ゴーリキーの葬儀のためにソヴィエトへ出かけている。多分、その頃のジイドは共産党員だったのかも知れない。ソヴィエトの人々を称えた紀行文を書いた。ところが翌年には「今日、ソヴィエト・ロシアで強要されているものは服従の精神であり、順応主義である。したがって、現在の情勢に満足の意を表しない者は、みなトロツキストとみなされるのである」と書いている。

 共産主義革命後の在り方に関心があったジイドには、ソヴィエトの現実は虚構と見えたのだろう。「レーニンでも今日のソヴィエトに生き返ってきたら、どんな扱いを受けるだろうか」とも書いている。禁欲的な恋愛を描いたジイドの目は、厳しくソヴィエトの現実を見抜いていた。

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