友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

今年最後のブログです

2009年12月30日 18時32分35秒 | Weblog
 やっと掃除を終え、玄関飾りも行なった。今年のブログも今日が最後である。明日から正月3日までは休み、再開は4日からと決めている。今年は凄く楽しかった。出会いの中に幸せがあると言うけれど、そんな1年だった。もっと長く、もっといつまでもと願うところだけれど、そんな風にいかないのが人生である。

 人生の終末を迎えて、どんどん整理していくつもりでいたけれど、ほとんど何もできなかった。むしろ、大切に残したいと思うものが増えてしまい、これではイカンと思い直している。目標がある人は努力をするし、希望がある人は明日を夢見ることができる。残り少ない自分にはどんな目標があり、どんな希望があるのだろう。

 実は、神様からお叱りを受けそうで口に出して言えないが、だから文章ならいいというものでもないけれど、私はSEXができなくなったら男としては終わりだと決めていた。男として生きている意味がないのであれば、そんな男は社会的な地位を求めてはならない。人の上に立ってはならない。黙って静かに去るべきだと思ってきた。つまり早くあの世へ旅立ちなさいと。

 そういう終わりはいつか必ず来るはずだ。70歳までには、そんなどうでもいいような存在になる時が来るのかもしれないと漠然と思っていた。金子光晴という詩人はいつまでも元気だった。元気な人ならば社会に向かって発信することは意味があるが、どうでもいい人は、そう書いて、どうでもいい人はそもそもそんなことに関心がないと気付いた。

 このブログは、中学・高校からの友だちと「毎日、書こう」と約束したから、それがバネになって書いているけれど、彼のブログを見ても時々ネタが無くて無理に書いているなと思う時がある。私もさてどうしようと毎日悩む。無理にであろうと、毎日書くことが目標だから、それでいいのだと自分に言い聞かせている。

 けれども、ブログを書くことは人生の目標ではないし希望でもない。私にとっては、友人や知人や私を知っている人たち、「ブログを読んでいます」と言ってくれる人たちへの私からの手紙のようなものだと思っている。だからその中身は、誠に勝手な私からの一方的なラブレターなので、流し読みでいいと思っている。

 このブログの閲覧数は280件ほどで、訪問者数はその半数の140人ほどだけれど、日によって増減はあっても大体こんな数だ。それでも私には140人の顔は思い浮かばないが、1年の最後のブログなので、今日も見てくださった方に心からお礼を申し上げて、おしまいとしたい。

 良いお年を!また来年の1月4日にお目にかかります。 good-by.
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そうだったのか

2009年12月29日 18時02分08秒 | Weblog
 私の兄弟は姉、兄がふたり、妹の5人だけれど、すでに兄はふたりとも亡くなっている。すぐ上の兄は生まれて1年足らずでこの世を去った。長兄と私は14歳の年齢差があるので、可愛がってもらった。英語が得意な兄に連れられて、進駐軍の将校らが住む家に行った記憶がある。多分、兄が高校生だったから私はまだ3歳くらいだったのだろう。その兄も40代で寝たきりとなり、50代で亡くなった。

 カミさんは長女で、下に弟と妹がいる。私の両親は私が高校生の時に相次いで亡くなった。カミさんの両親は共に72歳まで生きて亡くなった。10歳違いであったけれど、亡くなった時は同じ歳だった。カミさんの弟が後を継ぎ、そう言っても、義父は警察官だったから、その勤め上げたお金で土地を買い家を建てたので、その土地を受け継ぎ家を建て直した。義父は賢い少年であったけれど、家は貧しく、小学校を出るとすぐに丁稚となって働いた。そんな話を繰り返し聞いた。

 弟が後を継いで、家が新しくなって、再び家に姉妹を呼ぶようになった。毎年暮れに集まり、旅行に行ってきた話や弟がやっているゲートボールや老人会の話を聞く。義父も飲むと話し好きな人であったけれど、その父親にそっくりになってきた弟も話好きだ。無口であまり人と話すのが得意ではないように思っていたが、今、この歳になってみると随分と間違っていたことに気が付く。

 私もそうだけれど、60歳を過ぎたばかりで、地域のゲートボールクラブや老人会に入る人はまずいない。ところが彼はゲートボールクラブに入り、誰よりも早くグランドへ行ってみんなが来る前に整備をするそうだ。老人会の役員も引き受け、皆さんと旅行にも出かけている。彼は大学を卒業し小学校の先生となったけれど、どういう理由かは分らないが、職員旅行や親睦会には参加しなくて、義母が「どうしたらいいか?」とこぼしていた。私は、弟は人と付き合うのが好きではないのだろうと思っていたけれど、それは間違いだった。

 ある時、お酒を飲みながら話していた時に、弟は「自分は早稲田へ行きたかった」と言う。「早稲田の政経に行って新聞記者になりたかった」。そんな話をしていた。カミさんの話では東京の大学を何校か受けたけれど、全部失敗して不貞寝をしていた。元来心の優しい子なので、このままではダメになってしまうと思い、とにかく教育大を受けるようにと尻を叩いた。それで、弟は浪人してでも早稲田を受けたいと思っていたのに、無理やり姉に教員の道を歩かされた。そんなことを話していた。

 そうだったのか。新聞記者になりたかったのか。私とは2つ違いだけれど、そんなに真剣に話し合ったことのなかった弟にそんな思いがあったことをその時初めて知った。義母の兄弟はもう妹である叔母しかいない。その叔母が結婚したのは26歳だったと聞いた。義母が20歳で結婚したのとは大違いであるが、その理由を今日、聞くことができた。弟が「こうしてみんなが集まってきて話す、それがいいことなのだ」と言っていた。
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苛立つことが多くなった

2009年12月28日 18時04分55秒 | Weblog
 年賀状は昨日の午前中に書き上げたので、午後には投函できた。今朝、カミさんが「病院に送っていって欲しい」と言う。先日、大腸ポリープの切除手術を受けたのでその結果を聞きに行くというのである。カミさんを病院で降ろし、私はその足で郵便局へ向かった。バンコクに住む次女夫婦へ、お餅や乾物やら目薬や胃腸薬など頼まれた品々を送るためだ。ところが今日は大変混んでいた。私はいつものように用紙に記入して、重い荷物を両手で抱えて、順番を待った。

 前方を見ると、初めてやってきたのか足の悪いおじいさんがズウーと窓口の隣で立っている。窓口ではそのおじいさんよりは幾分若いお年寄りが長い時間なんだかんだとやっている。たまりかねたのか、そのおじいさんが「まだ、かかるかね」と声をかけた。するとそのお年寄りは「私の言うことじゃあないけど、そこに並んでいてもダメですよ。ちゃんと後に並ばなきゃー」と言う。私は親切でそう言っているのかと思ったけれど、「見て分るでしょ。常識ではないですか」と吐き捨てるように言った言葉が聞こえてきたので、このお年寄りも虫の居所が悪いようだと分った。

 おじいさんはきっと「年寄りだと思ってバカにするな」と怒鳴るだろうと思ったが、「こんなに後に並ばないかんのか」と、独り言を吐きながら、左足を引きずるようにほんの少しずつ移動し始めた。私の前まで来た時、「どうぞ、ここに並びなさい」と前を空けてあげるつもりでいたが、なぜか声が出なかった。私の後にもたくさんの人が順番を待っている。親切でそう言ってもそれを理解しない人もいるだろう。おじいさんには申し訳ないけれど、並んでもらうより仕方がない。

 私の順番が来て、箱と用紙を差し出すと、「foodではなくて、何かを細かく書いてください」と職員は言う。私はおじいさんに順番を譲れなかったことで気落ちしていたから、ムカッとなって、「没収されてもかまいませんので、このまま送ってください」と言ってしまった。親が子に日常の生活用品を送るのに、何が悪い、そう思ったのは私だが、職員にしてみれば、「キチンと書かれていないと中身を調べられ、長時間かかることがあります。お客様にご迷惑をおかけするわけには参りません」という親切心から言っている。ところが私は、私自身を含めて、これ以上後の人をイライラさせたくなかった。

 どうも近頃、怒りっぽくなったり物悲しくなったりすることが多い。明日はカミさんの実家へ出かけるので、何か手土産を買いに行きたいと言うので一緒に出かけた。ところが一向に決まらない。同じ売り場をウロウロ回るばかりだ。「これにしたら」と言っても動かない。「じゃあ、こっちにしよう」と言っても動かない。「そんなに悩むならば、僕は歩いて帰るから、ゆっくり考えれば」と車のキーを渡すと、「うーん、お茶でも飲んでからにしよう」と言うので、「お茶よりも思考停止にはぜんざいがいいよ」とぜんざいを注文する。

 結局、最初に行ったところで買い物をすることになった。「どうして、何でもいいのに」と言うと、「これは店の店長が勧めてくれたとか、広げた時に話ができるものでなくては意味がない」とおっしゃる。「いいじゃない、それなら、1時間も悩んで買ったのと話せば話題作りなるよ」と答える。心を込めた品であれば、自分から話を作ることはできるはずだ。
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涙腺が弱くなっている

2009年12月27日 20時18分32秒 | Weblog
 朝、カミさんはゴルフの練習だったから、孫娘とふたりで朝食をとった。丁度“メ~テレ”で、「30人31脚全国大会」を放映していたので、つい、見てしまった。今日の新聞を見たら、午前6時から9時までの3時間番組だったが、私たちが見たのは午後8時過ぎからだったから、最後の生き残りを賭ける場面だった。毎回、同じことなのに同じように涙ボロボロで見ることになる。子どもたちの一生懸命さには本当に泣かされる。負けた時の子どもたちの言葉にジーンと胸が熱くなる。試合の前の先生の一人ひとりへの思いやりや勝負を終えた後での言葉掛けにオロオロと泣いてしまった。

 お昼に、「NHKのど自慢」を見ようと思ったら、こちらは今年の総まとめをやっていた。馬鹿なことに、この番組を見ていても涙を流していた。基本的に涙腺が弱いのかもしれない。昔から、こういう場面には弱かった。結果はどうであれ、1つの目標に向かってみんなが全力で挑む。のど自慢でもそうで、鐘が3つ鳴るかどうかよりもその歌の思い出とか事情とか、そういうものが人には必ずあって、それが涙腺を刺激するようだ。ひとりの努力はもちろん感動に値するのだろうけれど、今日の子どもたちのように、たくさんの人がみんなで心を一つにしなければ、できないことに挑戦する姿には感動させられる。

 負けた時、彼らは決して人を非難しない。むしろ、ここまでやってこられたことの喜びを分かち合っていた。この体験があれば、決して人をいじめたり馬鹿にしたり非難したりすることはないであろう。政治家になる大人たちにぜひこの30人31脚大会を経験させたい。戦争なんて馬鹿なことをやめて、30人31脚で決めたらいいとすら思う。人を人として尊重し合える体験がないと、人を駒のように考えてしまうのではないだろうか。

 東京都教育委員の将棋の米長が天皇に「全ての学校で日の丸を掲揚させます」と言ったら、天皇は「強制はよくない」とおっしゃったそうだ。天皇は生まれた運命に従っているのだけれど、それでもそんな思いがあるのだから、普通の人になれるのであればそうなりたいと思っているのかもしれない。私はそうさせてあげればいいと思うけれど、そんな風には考えない人がいることも確かだ。それでも、尊敬とか敬愛というものは人の心の中に自然に湧き上がってくるものでなければならないだろう。

 「30人31脚」でも「のど自慢」でも、そこにドラマがあるから泣ける。オリンピックで日の丸が揚がれば、もちろん感動するけれど、それはそこに至る個人の努力やドラマに感動しているのであって、国家を意識したりはしない。オリンピックもそろそろ国家間の競技でなく、個人の祭典にしてもよいのではないかと私は思っている。涙腺が弱くなっている私はその方が心から涙を流して見ていられる。
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さよなら、ありがとう、好きだよ

2009年12月26日 18時53分49秒 | Weblog
 家から外に出る用事がないから、こんな日は顔は洗っても髭を剃る気になれない。テレビをつけていては年賀状が書けないので、FM放送にして、黙々と年賀状を書く。昨年、どんなことを書いたのか思い出せないが、文面が浮ばない時はいただいた昨年の賀状を眺めてみる。賀状だけのやり取りで、このところ何年もいや何十年も会ったことのない人もいる。どうしようかなと迷うけれど、労を惜しんで省くよりも「明けましておめでとうございます」と挨拶することもいいのではないか、そう思うようになったので、ひたすら書き続けている。

 これが文面も全て印刷したものであれば、何も悩まずに投函したであろう、そこに気が付いたので、何を書くかで悩んでいるよりも面倒だと思っていると分ってしまった。それならば、昨年くださった人にはこちらから礼を尽くそうと思った。以前に比べれば、年賀状の枚数は3分の2くらいになった。1枚1枚、相手の顔を思い出しながら書いていると、3から4日はかかってしまう。集中してやっても1時間ほどで、手首が痛くなる。そこで、お茶を飲み、ぼんやりと外を眺め、時には横になり、そしてまた、机に向かう。

 FM放送も会話がうるさいので、それならCDにしようと思ったら、すでにプレイヤーに平井堅のCDが入っていた。中学3年の孫娘が大好きな井上真央さんが出演した映画『僕の初恋を君に捧ぐ』については以前、ここで書いた。その映画のテーマ曲を孫娘がいつも歌っているので、私もいつの間にか覚えてしまった。歌っているのは平井堅で、作詞も作曲も行なっている。映画を観て作ったと語っていた。題名は『僕は君に恋をする』である。平井堅のかすれたような歌い方がいいが、歌詞はもっといい。死んでいく男の子が恋する女の子に送る詩である。特にいいなと思う部分は、繰り返されるところだ。

 「さよなら、ありがとう、好きだよ、好きだよ
  さよなら、笑ってよ、泣くなよ、バカだな
  伝えたい言葉は止めどなく溢れる
  何度も、何度でも、僕は君に恋をする」
 「さよなら、また会おう、ごめんね、好きだよ
  さよなら、笑ってよ、怒んなよ、バカだな
  恋しい、苦しい、愛しいじゃ足りない
  何度も、何度でも、叫ぶよ
  好きだよ、さよなら」

 私はこんな別れをしたことがないけれど、気持ちはよくわかる。このCDを聞いていたら、年賀状が書けなくなってしまった。3度聞いて、歌詞のないCDに取替え、またひたすら年賀状と向かうことにした。何とか明日中には書き終えられそうだ。
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クリスマスのプレゼント

2009年12月25日 21時10分58秒 | Weblog
 中学3年の孫娘のために、「クリスマス会」は午後7時から9時までにしようということであったけれど、終わってみれば午前0時に近かった。長女のダンナが仕事で、午後10時になってやってきた。そこで彼にシャンパンを開けてもらい、再び乾杯をした。ローストチキンも2羽用意していたので、残る1羽を大皿に盛り付けなおして、彼にナイフで切り分けてもらった。

 凝り性の彼はおでん屋のようにしたいと、お店で見かけるおでんを温めておく道具を買い求めてきた。そこに具を入れて、本当におでん屋が出来上がった。テレビはやめてFMを流した。さすがにクリスマスイヴだけあって、クリスマスに関する曲が多かった。さらに目を引いたのは、クリスマスプレゼントの交換だった。私は4ヶ月の赤ん坊のために頼まれていたヨド掛けを8枚買ってきて、それを箱詰めにしてクリスマスの包装紙で包みリボンをかけた。中学の孫娘はその様子を見ていて、「さすがだね」と言う。

 さて、プレゼントだが、中学の孫娘は白いギターだった。えっ、ギターが弾けるの?と思ったけれど、どうやら弾きたいという話はしていたようだ。音楽家の長女のダンナは早速ギターを抱えて、調律を始めた。何でも出来てしまうので感心していると、中学の孫娘が「卒業式には、(彼が)作曲した歌をみんなで歌うことになった」と言う。音楽の先生が作曲を彼に頼んだというのである。「ピアノ伴奏はもちろん、私がやるんだけれどね」と得意満面だ。

 これは昨日の「クリスマス会」の最大の出来事だった。長女のダンナが音楽好きで、家でもよくピアノを弾いているし、凝りに凝って、以前事務所で使っていたところをスタジオにしてしまったくらいだ。彼の家族は、お父さんもふたりの姉も音楽好きだから、そんな中で育った彼は音楽の才能に溢れているのだろう。作曲の仕事で飯が食べられるようになれば最高だろうけれど、今度の卒業式での歌がその第一歩になるのかもしれない。

 「天才だねぇー」と言うと、はにかんで否定していたけれど、遠慮なく羽ばたいて欲しいと思う。孫娘は「私やママは努力型だけど、(彼は)天才型なんだよね」と言う。人はどこでどうチャンスに恵まれるか分らない。人が何を言おうと、才能は本人のものだ。それをどう開花させるか、本人の努力はもちろんだが周りの支援も大切だ。長い目で見ればいいし、焦ることもまた焚きつけることもない。運命が自ずと道を開いてくれる。

 そんな彼へのプレゼントは持ち運びに便利な電子ピアノだった。ますますこれでどこでも練習できるということだ。私たちも手作りのシャンパングラスをもらった。そして、「最後の30分は私に使わせて」と言っていた孫娘の登壇となった。何をするのかと思ったら、クイズで全問正解者には彼女が用意したお菓子を2つ、1問でも正解すれば1つを差し上げるというものであった。クイズは彼女の大好きな井上真央さんに関するものだったので、これはちょっと難し過ぎた。

 でも自分から進んで時間を受け持つとは驚いた。本当に、近頃は大人っぽくなってきたと思うけれど、ここまで成長しているとは思わなかった。ダンナの作曲でみんなが歌うことと孫娘が成長したことが、私には最大のプレゼントだった。
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今晩は我が家でクリスマス会です

2009年12月24日 18時29分22秒 | Weblog
 クリスマスイヴである。昨夜、『無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク』の皆さんと忘年会を駅前で行なったが、久しぶりに12月のこんな夜に賑やかなところに来た。若い男女がたくさんいた。どの人たちも楽しそうだった。昔はヨッパライが騒いでいたりしたが、そんな光景は見なかった。居酒屋の中も、おしゃべりがワイワイと聞こえてくるが、気分が悪くなるような悪酔い姿はなかった。私たちは1次会では収まらず、2次会へと足を運んだ。話しても話し尽きない気持ちのよい人たちに出会えてよかったとつくづく思った。

 さて、今晩は我が家に長女夫婦がやってくる。家族での「クリスマス会」である。上等のシャンパンとワインを用意し、ローストチキンも2羽大皿に盛り付けるばかりだ。これは私の役目になっている。お正月やひな祭りや誕生祝など、できる限りみんなで集まって盛大にやるように務めてきた。家族の絆とか血縁の結束とかいった大げさなものではなく、家ではこんな風にしてきたと子どもたちが受け継いでくれたらいいと思っている。

 私はカミさんの実家へ行くのが好きだった。お母さんの料理が腹いっぱいに食べられる、それも喜びであったことは間違いないが、家族がたくさんいるのが嬉しかった。私の育った家も、祖父母、父母、兄夫婦とそのふたりの子ども、そして私と妹の10人家族だった。でも、カミさんの実家のようにワイワイみんながしゃべることはなかった。祖父は私たちより先に食卓につき、一人でお酒を飲んでいた。祖父のお酒が終わる頃、みんなが食卓につきそれから食事になるが、余り会話を聞いた記憶がない。特に祖父と父は仲が悪かった。やがて、父母と私と妹は祖父たちとは別に食事をするようになった。

 カミさんの実家では、みんなでビールを飲み、ワイワイとおしゃべりをしながら食事をする。お父さんとは生きてきた世界が違うから何を話したらよいのか困ったけれど、そう察していたのかお父さんがもっぱら話し、私は聞き役だった。お父さんの時代は大変だったから、おそらくたくさん困難なことがあったのだろうけれど、立身出世を夢見ながら頑張ってきたことをいつも熱く語った。カミさんよりもお父さんの履歴を覚えてしまったくらいだ。

 お父さんにしてみれば、優秀なわが子をくれてやったのに、私が組合運動をやる赤だったばかりか命までも落としかけた危険人物とは驚いたことだろう。ガッカリしたと思う。病院に見舞いに来てくれた時、義弟に「お前は知っていたのか?」と聞いていたのを耳にした。けれど、お父さんは私を一度も怒りも非難もしなかった。何とか、長女の婿を誇りに思ってもらえるような存在になりたいと思ったけれど、どう思ってみえたのだろう。生きてきた時代が違い、共有するものはなかったけれど、私は私なりにカミさんのお父さんを理解し尊敬もしている。

 親子は年代の差があるから、価値観も生き方も違う。お互いが理解し合うなどということはないのかもしれない。それは仕方がないことだと思うけれど、相手を知ろうとする努力は必要だろう。カミさんのお父さんがしてくれたように、婿さんにひたすら話す以外にはないのかな。
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クリスマスイヴイヴ!

2009年12月23日 23時52分54秒 | Weblog
 中学3年の孫娘が「先生は生徒の気持ちが全くわかっていない」と言う。「でもね、先生もきっと子どもたちのためにはこれが一番いいと思ってやっているのではないのかな?」と言えば、「でも先生は私たちの気持ちなんか分っていないと思う」と言うので、何があったの?と聞いてみた。孫娘が言うには、彼女のクラスの担任は体調不良で、もう長いこと学校に来ていない、そこでクラスのみんなで折り鶴を送った。それで担任の代わりの女の先生が、みんなの写真を先生に贈ったらと提案した。ところが生徒の中にはイヤだという生徒もいた。

 担任の代わりに来た先生は、生徒全員が入るようにと高い位置からカメラのシャッターを切った。すると絶対にイヤだと言っていた生徒が、「どうして写真を撮るのだ」と先生に食って掛かった。先生は「あなたは教室から出て行きなさい」と怒鳴ったので、その生徒は教室を出て家に帰ってしまった。そんな一部始終を話し、先生は生徒のことを何も考えていないと孫娘は断言するのだ。

 教職に付いたことのある私としては、生徒の言い分も分るけれど、おそらくその先生はクラス全員が映っていない写真では不公平だと言われたくない、そんな思いが働くから、みんなの写真を撮ったのだと話した。多分、中学生の彼女も納得できていないだろう。けれども人は日常的にいつもこんな悲劇を繰り返している。自分ではもっと違った意味で言っていたつもりでも、受け止める本人には「お前はどうしてみんなと同じようにできないのか」という叱りとしか受け止められない。そうそう、こんなことは日常茶飯事のごとくよくあることなのだ。

 人が人も気持ちを理解する、あるいは理解できなくても、とにかく聞いたことは大事なことだ。人と人は理解し合う間柄であるけれど、同時に憎しみ合う間柄でもあるので、これが難しい。ここまで書いたら、もう時間がないことに気付いた。さあ、これでおしまいにしよう。おやすみなさい。
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長い目で見て欲しい

2009年12月22日 22時29分48秒 | Weblog
 鳩山政権の来年度予算案が固まった。マニフェストに掲げたものとはかなり違ってきた。小沢一郎幹事長は全国の陳情の窓口を自らに一本化してしまった。そして、「これが国民の声です」などと、よくもシャアーシャアーと言ってくれるわというような、マニフェストに反する内容の要望を鳩山首相に突きつけた。鳩山さんは「最後は私が判断します」とまた記者たちに話した。財政が厳しい中で、マニフェストの実現はきわめて困難だ。そこで小沢さんは助け舟を出したと言う人もいれば、来年には鳩山さんを首相から降ろさせるから、その道筋をつけたのだと言う人もいる。

 小沢さんはしたたかな人なので、助け舟にもなるし、次への布石にもなるように考えているのだろう。私は囲碁をやらないのでわからないけれど、囲碁には布石と言う戦術があり、何気なく置かれた石が後になって大変重要な役割を果すことになるそうだ。囲碁の好きな小沢さんならそういう手も考えられないことではないだろう。中国へ600人もの人々を連れて訪問したのも、アメリカへの圧力だろうと推測できる。普天間基地問題で窮地にある鳩山内閣だが、政権交代した日本はアメリカ一辺倒ではありませんよと、アメリカに見せつけたのであろう。

 鳩山さんにしても、名古屋市の河村市長にしても、なかなか思うような展開になっていかないことに、本人もそして支持した人たちも相当にイライラしている。鳩山さんは公約がそのままスムーズに実現されていかないことに苛立ちはあるのだろうが、よく我慢していると思う。また、河村市長は議会が市長と同等であることを思い知ったことだろう。それでも河村市長は目的どおり市民税の10%減税法を成立させた。天白区の里山保全はお金が絡み、結局は断念せざるを得ないことになったけれど、まだ先行きは不透明な感じがする。

 民主党政権が誕生し、これと言った成果らしいものはないけれど、事業仕分けにしても、名古屋市の議会にしても、まだまだ不十分だと思うけれど、公開したことで人々の関心を呼び、また知らないでいたことを人々が知ることができ、さらに注目を集めた。それだけでも政治が国民の側に開かれたことを示したと思う。私たち「無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク」は、市民の前に全てを公開し、市民が行政(政治)に積極的に参加する仕組みをつくる、それこそがこれからの政治のあり方ではないか、そのように強く主張してきた。

 鳩山さんや河村市長が、初期の志を忘れたりあるいは曲げたりすることは、これまでのふたりの言動からも想像できる。だからこそ、そうさせないためには有権者の支援と監視が必要である。マスコミはいつも面白おかしくネタにするけれど、長い目がそこにはない。もっと先を見越した応援と批判が、新しい時代を築くことになる。ベトナム反戦運動に身を投じていたヒラリー・クリントンに原点に帰るべきだ!と言える日本の政治家を私は期待している。
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友だちのブログを読んで

2009年12月21日 21時09分16秒 | Weblog
 体調不良で、おまけに書くことも思い浮かばないし、今日もやめてしまうつもりでいた。このところ、パソコンを開く元気もなくしていたけれど、中学・高校からの友だちのブログを見ていたら、「たった2行でも3行の文でもいいから更新して欲しい。これは嘘も隠しもない正直な私の気持だ」と書いてあった。中学からの同級生が「ボクもやるよ」と言って、ブログを開設したけれど、何時からか全く更新されていない。私はそのブログを自分のお気に入りから削除してしまったが、彼は「私は相も変わらず、日に一度はそのブログにアクセスしている。なぜなら、ブログを閉鎖したと連絡があるまで、必ずブログにアクセスすると自分に誓ったからだ。たぶん、これからも私はその更新されない中学高校時代のブログにアクセスし続けるであろうし、この歳になるとそんな些細な拘りを後生大事にするものらしい」と続けて書いていた。

 この友だちのブログを見て、私は自分を冷たい人間だなと思った。確かにそういうところが私には存在する。年賀状の件でもそうだ。たかが1枚の年賀状だ。1年に1度、まだ生きているよと伝えることに抵抗がある方がむしろおかしいだろう。無駄なことはしたくない、そういう意識が私にはあるのだと思う。何が無駄なのか、決めてしまうことも難しいはずなのに、断ち切ってしまおうとする。中学から仲の良い友だちの一言に過剰に反応して、「もう、お前とは一切付き合わない」と言ってしまった。相手のことが好きだから、好きだからこそ許せない、自分勝手な一人相撲だと分っていても、上手にやっていこうとは思えない、考えられない。どうしているか、元気でいるか、気になるのに自分から折れることができない。太宰治と同じで、本当は私のような者はこの世に存在しない方がよいのだろう。そう考えることはあるが、自殺する勇気はない。

 私が花を育てたり、人のことをまず考えて行動したり、力のない人や困っている人を見過ごしておけないおせっかい屋なので、人は私を「優しい人」と言うけれど、私自身は感情の激しい自分本位な思考の持ち主である。けれども私は空気を読むことも、人の気持ちを察することもできる冷静さも持っているので、爆発することは滅多にない。つまり逆に、何年に1回くらいはどこかで自制心を失った発言や行動をしてしまう。私はできる限り、自分を抑えて、相手が気持ちよいと思えるようにと努力しているけれど、そこにはやはり自分の物差しという基準にあるから、えっ、どうして、なぜ分らないの、と思ってしまうことがある。残念ながら、人は思いとその受け止めに時々ズレが生まれるようだ。

 相手を思って言ったことでも、相手にとっては自分が馬鹿にされたような気になる時だってある。カミさんは孫娘のために心血を注いでいるけれど、逆に孫娘はそれがうっとうしい時だってある。愛情が強ければ、そのズレも大きい。仕方がないことだ。これは人間が誕生して以来そうだと思う。どちらかが我慢する以外にない。我慢できなければ、太宰治ではないが「グッドバイ」するしかない。出来るなら、一足お先に「グッドバイしたいな」と、私は思う。
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