友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

長生きの秘訣

2012年09月30日 21時01分32秒 | Weblog

 台風が近づいている。午後2時過ぎと午後6時半過ぎに、用事が出来て車で出かけたけれど、「必要のない人は外出を控えて」というテレビの呼びかけが効いているのか、町を歩く人の姿は本当に少なかった。特に台風が接近していた午後6時過ぎは、車も数がうんと減った。近くのスーパーも電灯こそ点いていたけれど、人の姿はまばらだった。東日本大震災から人々は、テレビやラジオからの呼びかけに素直に従うようになっている。

 風は強く、車のハンドルが取られそうになる。雨は強く、フロントガラスが見えない。家に篭ってじっと、台風が過ぎるのを待つ以外ない。台風に備えて、家の周りのものを片付けたり、排水路の掃除をしたり、昔なら雨戸を閉めるかさらにクギで打ち付けて補強したり、出来ることを全て行なって、台風が過ぎるのを待った。自然災害は被害を最小限にする以外に手立てはない。私たちはただ耐えることに徹していた。

 地震でも台風でも、過ぎ去れば再び元のように働いて、戻すことが出来る。私は戦争を知らないけれど、私たちの親の世代はきっと、戦争もじっと通り過ぎるのを待っていたのではないだろうか。地震や台風のような自然災害と戦争は全く異なるものなのに、戦争も自然災害と同じように、自分たちの力の届かないところからやって来た災害のように捕らえていたのかも知れない。戦争の原因が人の力にあることを知っている私たちは、親の世代のようにただやり過ごすだけを願って、じっと耐えてはならないだろう。

 昨日の市民講座に、小学校の時の友だちがわざわざ来てくれて、私のために岡本裕著の『それを止めれば健康になる』の要約を作って持ってきてくれた。過度のスポーツは老化の元だとか、食べ過ぎよりも食べない方が長生き出来るとか、夜更かしをしないとか、孤独は寿命を縮めるとか、そういった注意がまとめられていた。私は、これらのことは実践しているというか、性格だと思うけれど行なっている。

 ところが、薬は飲まないとか、医者を過信しないとか、いい人にならないとか、働かないとかの項目になると、私は守れていない。私は医者の言うことは鵜呑みにする方で、薬はキチンと飲む。いい人になるなというのはストレスを貯めるなという指摘であり、働かないというのは適当に休みなさいということなので、これもまあ自分に合っている。指摘の中で大きく反しているのは、動物性蛋白質を摂らないということだろう。私は野菜よりも肉の方がすきなのだから。

 著書が何を目指しているのか分からないけれど、70歳を目前にして、こんなにまでも生きてこられた私は、これ以上長生きしたいという欲望がない。神様、どうぞお気のままにと願っている。それでも、メモを渡してくれた友だちが「今度こそ会おう」と言ってくれるので、それまでは生きていなくてはならないし、まあ、もう少し、身辺整理をする時間的な余裕も欲しいと思う。それもこれも、私が決めることではなく、神様が決めてくださるだろう。そう信じている。

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今どき、こんな学生がいたのか

2012年09月29日 22時55分53秒 | Weblog

 大和塾の市民講座で「ヒマラヤ登山」の話を聞いた。私は高いところと狭いところが苦手で、高いところにいると下へ吸い込まれていくように思うし、狭いところはどんどん狭くなって身動きが出来なくなってしまう。頂上に立って周りを見渡した時の開放感が、どんなに気持ちよいものかは分かるけれど、だからと言って踏み出した1歩のために奈落の底まで落ちていくのは恐い。しかし、世の中にはそうした冒険が好きでたまらない人もいるから不思議だ。

 講演の後で、とってもいい話を聞いた。登頂に成功した学生に、自分に代わって協力してくれた企業へ、登山の報告書(といっても立派な冊子であるが)を持って行かせたそうだ。その学生は両親を早くに亡くし、妹とふたりで祖母の世話をしている。彼は大学を諦めて会社員になったけれど、やはりこれではダメだと思い直して大学に入った。祖母は認知症のため昼間は施設の世話になっているが、それ以外の時間はふたりのどちらかが見ていなくてはならない。山岳部の彼が山に登る時は妹に頼むことになるので、彼は仲間との打ち上げは早々に切り上げて家に帰るのだそうだ。

 今どきに、そんな若者がいるのかと思っただけで、私は胸が熱くなってしまった。それでどういう話だったのかというと、報告書を受け取った会社の1つは、彼が卒業したら会社で採用しようとし、もう1つは彼に卒業するまで奨学金を支給し、お婆さんの面倒も見させてもらうと申し込んだ。3つ目の会社もぜひウチへ来ないかと告げたというから、やはりこの学生に惚れ込んだのだろう。それだけの価値を見出した会社もすごいが、それだけのものをこの学生が備えているということであろう。

 彼は祖母の面倒も見ると言ってくれた会社から卒業後の内定を受け、外国の大学へも留学させてもらうことになっている。さらにオチがあって、彼に奨学金を出すというのは会社ではなく、社長個人のマネーと社長が言い出してそうなったという。会社のヒモ付きではなく、学生に惚れ込んだ社長の個人的な応援の形にしておこうという配慮だろう。その学生は社長の好意を受け、卒業までの残りの2年間は山岳部に在籍し、後進の指導に当たるという。彼は毎日、午前6時半にその町の小山のふもとにやって来て登山し、それから大学へ向かうという。どこまでもストイックな男のようだ。

 会社に入ってまだ、まともに仕事もしていないのに、自分には合わないからと言って辞めていく若者が多いと聞く。何が天職か、何が自分の生き方なのか、おいそれと分かるものではない。たとえ仕方なく就いた仕事であっても、やっているうちに天職と思えるような場合はいくらでもある。仕事に全力で取り組んだのか、などというものも、人生の終わりにならなければ分からない。そうたやすく物事はわからないように出来ている。やり続けることから何かが見えてくるなら、それは幸せなことなのだと思う。

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どの歌も年寄りくさい

2012年09月28日 18時35分02秒 | Weblog

 先日、一宮市へ井戸掘りに出かけた時、満開の萩を見た。暑い暑いと思っていたが、秋は静かに進行している。お彼岸には必ず花が咲くヒガンバナも、今年は暑さのために遅くなっていると言われているが、見渡せばあちこちで咲いている。我が家の鉢植えの日日草はすっかり背が伸びて、根元の葉は黄色くなってきているから、やがて限界に達するのだろう。サルビアは咲き終わった花を何度か切ったので、10月末までは咲き続けると思う。未だに貰い手のないナンキンハゼはもう葉の色が一部赤くなってきた。

 そういえば、心なしか虫の音が弱くなってきたように感じる。今は余り見かけなくなったけれど、土手にアザミが咲いていた。アザミは高地の花なのだろうか。そう思ってしまうのは、『アザミの歌』の出だしが、「山には山の 愁いあり」で始まるからだ。しかし口ずさんでみると、その次の歌詞は、「海には海の 悲しみや」とあるから、どうやら切ない気持ちを表しているということなのだろう。作者は野のアザミに恋人のことを思ったのだろうか。

 最近の『短歌』に、恋の歌はどんなものがあるかと探してみるが、社会批評や自然描写はよく見かけるけれど、恋を歌ったものはないようだ。いつだったか、20年くらい前だったか、北海道の19歳の女性が作った短歌集を読んだ。なかなかいいなと思ったのに、その本は人に貸してあげたまま戻ってこないので、どういう書名で誰だったのか、わからないのが気になって仕方ない。私には俵万智さんの『サラダ記念日』と同じくらい衝撃的だったのになあー。

 角川の『短歌』10月号は、「口語歌のすべて」が特集されていたので買ってみたけれど、やはり恋の歌は俵万智さんくらいしかない。私は俵さんの歌は好きで、読めばなぜか、ニンマリしてしまう。ただ彼女の歌は明るくて肯定的で、人の底のドロドロしたところがない。恋や愛を短歌で表すことが出来にくい時代になってしまったのか、題材としては扱いにくいのか、どうしてなのだろうと思いながらいろいろ短歌を見ていたら、こんな歌が目に留まった。

 「なつかしき あだ名でわれは 呼ばれつつ レモンサワーで しゆわしゆわと酔う」

 「いま少し 飲みたかりしが 友はもう 向こうの岸まで さしかかりたり」

 「亡き母に 似て来し素顔に 眉を引き 近・乱・老の めがね馴染ます」

 「あれこれを 味はひ尽しし 来し方か 賞味期限の 過ぎしを捨てむ」

 「抱きしめて 白き乳房に かぶりつき 稚児のごとに われ頬張れり」

 若い人は短歌など作らないのだろう。どの歌も年寄りくさい。

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何事にも積極的な女性たち

2012年09月27日 22時08分17秒 | Weblog

 NHK学園で学んでいる80歳の女性の話を聞いた。彼女は東京生まれだが、両親と一緒に満州に渡り、大変な思いをして帰国した。平和な時代を迎え、これからは勉強が出来ると期待していたが現実は厳しく、17歳で結婚し、18歳で子どもに恵まれる。普通ならそれで平凡な日々を送って一生を終わる。けれども彼女は、勉強したいという気持ちを抑えることが出来なかった。

 ラジオで英語の勉強を始め、英検の3級に合格するとすぐに2級に挑戦し、これも合格してしまう。とにかく前向きで、いつも何かにチャレンジしているそうだ。新聞は読むだけでなく、投書して、いくつもの欄に掲載されている。今度のNHK学園の論文も、これまでの自分の生きてきた道をまとめ上げたものだ。それが学園に認められて、東京での表彰に招待されることになったという。

 そんな彼女が親しくしている近所の女性は、彼女が創作した童話を見せてもらった。「その童話は新美南吉の世界に通じるものがあったので、半田市が行なっている南吉の創作童話の募集に応募するといいわよ」と勧め、彼女は作品を半田市に送った。私も読ませてもらったけれど、『ゴンきつね』のように、動物と人間の会話が面白かった。人は年齢に関係ない、いつでも若い気持ちの人はいると思った。

 その近所の女性が彼女の家の近くに住む親戚の家を訪ねた時、彼女のことを話題にすると、親戚の叔父さんは「ああ、あの人は出歩いてばかりいるから、家の中はぐちゃぐちゃだ」と言ったそうだ。それでその女性も、ボランティアで家を留守にすることがあるから、「私のことを言っているのかと思った」と苦笑していた。何にでも興味があって、何にでも前向きに取り組んでしまう、女性たちは多くなった。そういう女性たちは今、新しいまちづくりにも積極的だ。

 ひっよとするとこうした女性たちの方が、定年退職して家に閉じこもっている男たちよりも、世間がよく見えているのかも知れない。領土と領海を守るのは国の務めだなどと男たちは偉そうに言うけれど、そういう意地の張り合いはケンカ以外に何も生まないことを彼女たちは見通している。「どのようにして仲良くしていくのか、そんなことも考えられない男は、いつまで経っても子どもから大人になれないのよね」と彼女たちは男の見栄をみている。

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爽やかな秋空の下で

2012年09月26日 19時40分14秒 | Weblog

 爽やかな秋の空が広がっていた。小学校の運動場では今朝も早くから、運動会に向けた練習が繰り返されていた。夕方になってもまだ、鼓笛隊の演奏が続けられている。運動会は今週の土曜日だから、先生たちには最後の追い込みなのだ。この辺りの小学校の運動会は全てこの土曜日に行なわれるので、同じ日に予定している大和塾の市民講座に、どれだけの人が来てくださるか心配している。

 今朝も出会った人が、「ごめんなさいね。孫の運動会で行けないのよ」と言う。「気にしなくてもいいですよ。また、参加できる日にお出かけください」と答えたが、内心ではとても心配している。講師は岐阜大学の先生で、中国側からとミャンマー側からのヒマラヤ登山の話である。面白い話が聞けると思うと、ちょっと寂しい気がしてしまう。

 気がかりと言えば、同級生のこともそうだ。中学の同級生は本好きで、いつも文庫本を持ち歩き、暇が出来れば読んでいるというが、最近、その本をいろんなところに忘れてくると嘆いていた。確かに席をたってみたものの、「あれっ、何をするのだっけ?」ということは多くなった。これは年齢と共にやってくる物忘れなので、そんなに気にすることはないだろう。

 小学校の同級生は、「痔が治ったら今度は咳が止まらず、苦労が絶えません」と言っていたが、咳の原因は「咽喉頭神経症でした」と、毎月22日は禁煙の日なる絵ハガキをくれた。その絵ハガキの半分は、毎週月曜日は「No Monday(のーまんでい)」とある。ペースメーカーの移植手術後、一日も欠かすことなくお酒を飲んでいる私への警告のつもりなのかも知れないが、そんなことでへこたる私ではないので、ごめんなさい。

 自民党の総裁選挙で、安倍晋三さんが決選投票で逆転勝利した。「この国難を」と総裁候補の皆さんたちは言っていたが、民主党もそうだったけれど、自民党にこんな候補しかいないことの方が国難だろう。安倍さんの就任演説は、「強い」「誇り」「豊か」が強調されていたけれど、この人ではとても中国や韓国などの外国と、「上手に」付き合っていけないだろうと心配になる。諸外国とは競い合うのではなく、「上手に」共存していくことしかないはずだ。

 共存ではないけれど、我が家の鉢植えの中に昨年、見慣れない芽が出ていた。それを秋に植木鉢に1本ずつ移して育てていたら、随分大きくなった。一体この木は何なのかと思ったが、どうやら葉の形から「ナンキンハゼ」のようだ。近くに「ナンキンハゼ」の街路樹通りがあり、その実を食べた小鳥のフンが、我が家の植木鉢に落ちたのだろう。誰か、引き取ってくれないかと心当たりを探すが見つからない。欲しい人がいたらお届けします。ご連絡ください。

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朝から運動会の練習が続く

2012年09月25日 22時46分29秒 | Weblog

 朝早くから、小学校の運動場では運動会に向けた練習が行なわれている。「気をつけ、礼、休め」と何度も繰り返している。「礼」の角度が揃っていないと、マイクで怒鳴る女性の先生の声が響く。赤、白、青の3色による縦割りの応援がこの学校の特色なのだろうけれど、それにしてもこんなに暑い中、よくまあ同じことを何度も繰り返して行なうのだろう。おっと、横を見ていた子に先ほどの先生が「前を見なさい」とマイクで怒鳴った。

 自民党の総裁選挙が明日に迫ったからか、テレビのニュースでは4人の候補の、町村さんも出馬するというので、5人の顔が何度も映し出されていた。尖閣諸島に中国が、そしてまた今日は台湾の船が近づいているということもあって、4人の演説はいずれも愛国的だった。「この美しい日本の海に外国の船が堂々と出没している。こんなことが許されていいのか」とか、「ジャパン イズ ナンバーワンになろうではないか」とか、息巻いていた。

 NHKも民放も、竹島をあるいは尖閣諸島を報道する時、「わが国の固有の領土である」との前置きが行なわれるが、それは政府からの指示だから仕方ないのかも知れないが、領土に固有なんてものはあるはずがないと私は思う。たまたま、私たちはここに住んでいるので、ここが固有の領土になっているけれど、遊牧民ならどこからどこまでが固有の領土なのか、人が住んでいないところはどこの領土なのか、ハッキリしていなかったはずだ。

 領土などというものが意識されたのは、一体いつからなのだろう。旧約聖書を読んでいると、ユダヤの民はあちこちと放浪している。先々に前から住んでいる人たちがいるところもあればいない土地もある。どこでも蓄えが出来ている人々が、出来ていない人々を救い、従えている。命を落とすよりも力のある方に従うことを選ぶか、あるいは死を恐れずに抵抗して自分の家族を守るかである。

 それから何千年の時が流れたけれど、人々のやっていることは相変わらずだ。中国は低賃だから製品を生み出すのは好条件だった。しかし、働く側からすれば、いつまでも低賃金で働かされるのは我慢ならない。尖閣諸島の問題を契機に、いっきに反日運動が盛り上がった。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読むと、歴史は常に誰が利益を得ているようだ。日本の企業は大きなダメージを受けた。中国やアメリカや欧米の企業はニンマリとしているということだ。

 政府は利益を受ける人々の代弁者であるとすれば、日本政府のやり方は失敗だったと言っていいだろう。アメリカは「介在せず」と言いながら、より中国に接近するだろうし、これを機会に欧州やロシアや韓国が中国へ乗り込むだろう。13億人という消費者の存在は企業にはヨダレが出るほどの条件なのだ。かつて、第2次世界大戦前だったと思うけれど、中国でハブラシ1本売れれば1銭の儲けになるならば、利益はその10億倍になると皮算用していたそうだ。安い労働力だけでなく、人口の多い中国の消費に期待しているのだ。

 資本主義社会では大儲けするものを潰せば、利益は次に回ってくる。だからお互いにしのぎを削って「スキマ」を窺っている。「気をつけ、礼、休め」と子どもたちはやっているけれど、そのうちに「美しい日本の国を海を守れ」とならないように願いたい。

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異常社会

2012年09月24日 18時51分59秒 | Weblog

 今朝はすっかり秋の風になっていた。カミさんは「お祝いゴルフ」で出かけた。女性ばかり40人も集まると言う。私は午前中は会議で、会議の後の雑談でこんな話を聞いた。30歳を越えたのに引きこもりで、ずぅーと家にいる男の子がいる。小さい時はとても可愛い子だったのに、一体いつから引きこもりになってしまったのだろう。その子の行動が異常だと言う。

 以前はご近所の玄関に小便を撒いたり、ドアのノブに大便を塗りつけたり、最近はエスカレートしてきて玄関ドアを刃物で傷つけたり、車のタイヤやボデイに切りつけたり、鉄パイプのようなものを振り回していたり、とにかく尋常ではないらしい。両親も、昔は「うちの子はそんな悪いことはしない」と言っていたが、最近では我が子の行動がおかしいと気付いているようだ。

 小学校や中学校の時ならともかく、30歳を過ぎても家から出ることが無いこと事態が異常だろう。その男の子が日頃はどのように過ごしているのか知らないが、時々パトカーも来ているというのだから、両親としても「うちの子に限ってそんなことはない」とは言い切れないようだ。

 それならそれで、子どものためにも、両親のためにも、ご近所のためにも、みんなでどうしていったらよいのか、考える必要がある。まず、両親がどれほど事態を深刻に受け止めているかだ。そのためにも父親なり母親なりと、責任ある立場の人が話してみることだと思う。現場を目撃した人はいないし、間違いないだろうだけでは警察も動きようがないだろう。

 そんな事件になる前に、ご近所で何とかしなくてはと思う。それにしても、私たちの世代はどうして子育てを間違ってしまったのか。井戸掘りの友人がよく、「日教組が悪い」と言うけれど、そんなところに問題があるとは思えない。社会全体の価値観、その反映だと私は思う。文部省は個々の個性を大事にするようにと目標を立てたが、現場の学校では画一的な教育しか出来なかった。そこから落ちこぼれた子どもたちがいた。そうした中に、家庭では自由に育てられたが、学校教育の規範からはみ出してしまった子もいた。

 両親の愛情は深く大きいのに、社会への適合はうまくいかない。そんな子どもたちが結構いる。また逆に、自分たちの子どもなのに全く愛情を注げない親もいる。子どもへの愛情を注ぎたくても注げなくなることは目に見えるのに、還暦を過ぎても子どもを生むと言い張る人さえもいる。どうも異常気象ばかりでなく、人間社会が異常社会になりつつあるような気がする。

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お金持ちになれなくても普通に暮らせるならいい

2012年09月23日 19時20分47秒 | Weblog

 雨が上がったら、急に風が涼しくなった。金融広報中央委員会が、個人のお金や金融に関する知識、考え方をアンケートで探った「金融力調査」の結果を発表した。世の中にはいろんなものがあるようで、金融広報中央委員会なる名称も、「金融力」なる言葉も、私は初めて目にした。それで興味が湧いたので、読んでみた。

 お金の蓄えや使用について、「長期の計画を立て達成するように努力しているか」との問いには、46%が「当てはまる」と回答し、「当てはまらない」と回答29%を上回った。「何かを買う前に余裕があるか注意深く考えるか」と、「自分のお金や金融に関することに十分注意しているか」の問いには、77%が「そうしている」と回答した。

 しかし、「インフレ率が3%、銀行の預金利息が1%なら預金の購買力は1年後にどうなるか」という問いには、「今より目減りする」と正解した人は52%、不正解は14%、「分からない」が33%で、知識面で不安があるという。また、老後の費用について、「年金のみで賄える」は12%、78%が「賄えない」と回答。「賄えない」と回答した人の中で、62%が「準備は出来ていない」という。

 金融という仕組みはいつ、どのようにして生まれたのだろう。シェイクスピアの『ベニスの商人』には貸した金に利息がついている、日本でも江戸時代には強欲な商人が高い利息で人々を苦しめる話が出てくるから、金融は近世にはあった仕組みなのだろう。しかし、お金を貸して利息がつくとはどうしてなのか、今ならば、運用するのだから利息がつくのは当然のように思ってしまうけれど、お金を貸しただけで利息が生まれる仕組みを考え出した人物はエライというかズルイというか、スゴイ。

 昔は、たとえば日本なら村全体で助け合って暮らしていた。水田農業は共同でなければ出来なかったから、たとえ金銭が生まれたとしても基本的には互助だった。農耕が生活の中心であるならば、ヨーロッパでも同じだろう。商業が生まれ、教会や王様以外に、お金を蓄える連中が生まれてくるようになって、金貸しも生まれてくる。そして、カトリック教会に逆らうプロテスタントが誕生すると、新しい職業の人々が同調し、さらに海外貿易が盛んになってきて産業革命を生み出した。

 工場生産はこれまでの農業のような共同ではない、労働の形態へと変えてしまった。人々は工場の近くに住居を構え、賃金の高い方へと移るようになる。余裕があれば、お金を蓄え、投資をしてさらにお金を増やすことが出来る資本主義社会が生まれた。お金のある人はますますお金を産むことが出来る仕組みだ。自由と平等はこうして実を結んだけれど、お金の前には自由も平等も奪われる結果も分かってきた。

 お金持ちになれなくても、普通に暮らしていければよいと考える人は多いだろう。老後の蓄えに一体どのくらい必要なのか、そんな不安をみんなが抱えながら暮らしている。民主党の代表選挙も、自民党の総裁選挙も、少しもこの不安に答えてはくれない。

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人から鬼へと変わってしまう

2012年09月22日 19時35分51秒 | Weblog

 朝からクシャミを連発している。目も痒くて、ショボショボしている。なんとなく身体がだるくて気力も失せる。秋になってきたのだ。身体は正直で、早くも花粉症の症状になっている。「美味しいものを食べ、ゆっくり休むことが大事だ」と言うのだけれど、「いつもそうしているじゃーありませんか」と相手は聞く耳を持たない。しかし、グダグダしていては絵本の提出期限に間に合わなくなる。さあー、頑張ろうと思っていたところに、長女が3歳の孫娘を連れてやって来た。

 絵本の主人公は女の子だ。物語としては孫娘よりも年上の10歳くらいだろう。でも、それでは絵本にならない気がして、孫娘くらいの女の子にしてしまったというか、描いていたら孫娘の顔になってしまった。普通の顔、泣いた顔、嬉しそうな顔の3場面が欲しかったので、孫娘に「泣いた顔や嬉しい時の顔をして」と頼むけれど、何を言っているのと知らん顔である。まだ、モデルになるという意味が分からないのだから、こちらが彼女を観察して表現する他ない。

 孫娘は3歳になって、さらに意思がハッキリしてきた。好きなことは夢中になってするが、嫌なことは梃子でも動かない。欲しいものがあると上手に甘えて手にいれる。しかし、ダメだと言われれば、大粒の涙を流し大声で泣く。それも目を開けたまま、相手の動きを見ながら泣くから本当に役者である。そうした行為を重ねながら、子どもは学習を積んで大人になっていくのだろう。自分だけでは生きていけないから、大人たちの関心と注目を集めなくてはならず、子どもとしても必死なのだろう。

 最近、子どもに対するネグレクトがよく報道される。こちらが疲れ果てている時に、泣いてぐずられるとどうしようもなく怒りが湧き起こってくる。ひとりで子どもを育てている人は本当に大変な苦労だと思う。ふたりで、あるいは他にも家族がいれば、誰かが冷静に対処してくれるからいいけれど、ひとりなら冷静さなど失って残酷になってしまうかも知れない。子どもへの虐待が起きるのはそういう時ではないだろうか。特殊な事情というよりも、誰にでも起きることのように思う。

 人の心の中には、邪気が潜んでいるが、人は初めから鬼ではない。赤子の愛くるしい顔を見れば心はむしろ癒される。美しい景色や花や小鳥や、そんなものに感動し穏やかになる。美しいものを見れば心は浄化されるのに、人間の生活の場では鬼になっていくようなことが多い。貧困、働く場所がない、多忙なのに収入は少ない、笑う余裕さえもない人もいる。罵倒する怒鳴り声、騒音、汚れ、やりきれない感情が襲ってくる。そのうちに何もかも無気力になる。すると人から鬼へと変わってしまう。子どもが泣いても聞こえない。

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戦争の好きな人だけで戦いなさい

2012年09月21日 21時20分57秒 | Weblog

 民主党の代表選挙はやはり野田首相の圧倒的勝利だった。野田路線に反発して分裂し、それでも残った人たちだが、もし、野田さんでない人を選ぶようなら民主党という政党はますますよく分からなくなる。結果としては当然のことだと思うが、それでも野田さんに投票しなかった人たちの数に注目しておきたい。これで民主党はますます現実路線というか、第2自民党になっていくのだろう。自民党の総裁候補が全員、改憲を目指しているばかりか、改憲しなくても集団的自衛権を行使できるように法的整備を行なうべきだと主張している。

 野田さんの「近いうちに」が現実化するのは、来年になってからが濃厚になってしまったと思う。どのような時期になったとしても、民主党はかなりの議席を失うだろう。名古屋市長の河村さん人気で生まれた減税日本も、次の選挙では大幅な議席減となることは目に見えている。余りにも議員としての資質に欠けた人々を立候補させた。聞くところでは、河村さんは自営の人を選んだそうだ。たとえ、落選しても困らないというのが理由なのだろう。そんな人たちだから、全く政治家としての情熱も見識もない。市民の減税日本への期待は大きく裏切られたと言っていい。

 尖閣諸島の問題でも、東京都知事の石原さんは「弱腰だからなめられるのだ」と威勢のよいことを言っている。野田首相も「毅然とした態度で臨む」と言う。中国が軍艦を派遣してくれば、日本も自衛艦を現地に送るというのだろうか。ぶん殴られる前にぶん殴ってしまえというのは、ケンカの鉄則らしいが、殴り合いになればどちらかが降参するまでやるしかない。それを望む人たちは、尖閣諸島で切り合いでも撃ち合いでもやってケリをつけたらいいだろう。決して、海上保安庁の職員や自衛官を使うなと言いたい。

 戦争を決めた人は、いつも安全なところにいて、「国の運命がかかっているので、頑張って欲しい」と命令する。そんなに大事なことであれば、まずあなたが行きなさい。源平合戦のように、トップが出てきてふたりで決着をつけたらいい。国民を将棋の駒のように勝手に使わないで欲しい。国が戦争をしないためには、戦争をしたい人だけが無人島のようなところでケンカをやればいい。食糧も水も兵器も自分で運びなさい。人には助けを求めるな。その結果にみんなで従うように説得することくらいは出来る。その結果が不満な人はまた、集まってそれぞれ最後まで戦えばいいだろう。

 領土なんてくだらない。権益なんてくだらない。それを後生大事に思うなら、思う人だけで戦って欲しい。尖閣諸島や中国の反日運動、日本での中国人学校や商店への嫌がらせ、民主党の代表選挙や自民党の総裁選挙を見ていたら、そんな気持ちが強く湧いてきた。

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