友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

初めての放課後子ども教室

2019年09月30日 18時57分59秒 | Weblog

 初めて放課後子ども教室に参加した。20人程の子どもを2人の先生が担当しているが、子どものタイプも様々で、よくやっていると実感した。私は家庭教師で小学生を教えたことはあっても、学校の教壇に立ったのは教育自習の時しかない。高校の教え子は70代か60代になっている。あの頃、ヤンチャだった生徒もおじいさん・おばあさんである。

 様々な子どもたちが来ているので、統制は取れないが、それでも先生たちは上手に子どもたちに課題をやらせていく。私のようなおじいさんは珍しいのか、ちょこちょこ寄って来て、「どこに住んでいるの?」と尋ねてくる。おませな女の子は「好きな子いた?」と聞いてくる。「名前を言ってもわからないよ」と答えるが、「いいから教えて?」としつこい。

 小3だから我が家の孫娘より学年は1つ下だが、もう、そんなことに関心があるのかと知る。我が家がマンションだと分かると、「遊びに行っていい?」と言うので、「いいよ」と答えると、「お菓子ある?」と聞くので、「ウチはおじいさんとおばあさんのふたりだから、お菓子はないなあー」と言うと、「ふん、だったらいい」とちゃっかりしている。

 子どもたちが宿題をやるのを見ていて、学校では鉛筆の持ち方を教えないのかと思った。我が家の小4の孫娘も同じだが、鉛筆の握り方が全く出来ていない。それから、算数の割り算や掛け算で指を折って計算している。計算式の余白に書き込んではいけないのだろうか。子どもたちに聞くと、「キレイに書いているの」と言う。先生に尋ねると、「ウチの娘もそうでした」と。これは最近の子どもたちの傾向のようだ。

 指折りで計算を間違えるより、別にノートを作って、きちんと筆算した方がいいと思うが、隔絶の思いがした。マンガが好きと言う子どもたちに作品の名を挙げてもらったが、知らないものばかりだった。最後に将棋をした子から手紙をもらった。子どもたちとは仲良しになれたようだ。

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『美は乱調にあり』を読む

2019年09月29日 17時43分36秒 | Weblog

 天気予報では、曇り時々雨となっていたけれど晴れてきている。これも台風18号の影響なのだろうか。せっかく良い天気になってきたのに、どこかへ行こうという気が起きない。何だかめんどくさいのだ。それで窓際の椅子に座って、瀬戸内寂聴さんの『美は乱調にあり』を読んでいる。

 私はアナキスト・大杉栄には興味があった。大杉の父親が津島の代々続く庄屋の息子ということも関心の理由だろう。大杉は14歳の時、「将来は元帥になる」と野心を抱いて、名古屋陸軍幼年学校に入学した。多分、根っから自由人だったからだろう、幼年学校では成績は優秀でも素行が悪く、上官に反抗し放校となった。大杉栄と伊藤野枝は関東大震災の最中に虐殺された。

 『美は乱調にあり』は、伊藤野枝を題材にしている。小説の題名も、「美は乱調にある。諧調は偽りである」という大杉の言葉の引用である。諧調は調和のとれた心地よいリズムを意味する。古い秩序とか価値とか、一切のものに逆らった人らしい言葉だ。

 私の友だちは、「寂聴さんのものはちょっと」と敬遠していた。私が小説に興味を持って読むようになったのは、ヒマになった70歳過ぎてからで、新聞の紹介記事などを見ながら、「この本を読んでみよう」と書店に出かけている。先日、古書店で瀬戸内さんの文庫が見つけて買って来た。

 けれど、その時買った『釈迦とキリスト』(ひろさちや著)の方が興味深く、読み終わるまで引き延ばした。小説はどれもそうなのかも知れないが、読みやすくてどんどん進む。実際の事件を追ったものだが、まるで本当に本人がそう思ったかのような描写がうまい。私の友だちは、寂聴さんの作品よりも、寂聴さん自身に何か抵抗があるのかも知れない。

 

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『週刊朝日』に上野千鶴子さんの高校時代の原稿

2019年09月28日 17時25分03秒 | Weblog

 先日、銀行で外回りを担当している若い女性が我が家にやって来た。なかなか頭脳明晰で、計算能力も高い。雑談の中で、「私、子どもの頃ヘンな子だったんです」と言う。「算数をしていても、こういう計算もできるのにと思ったりして。母が心配して、『今は先生の言うとおりに勉強しなさい。高校へ行き、大学へ行く。そのためと割り切りなさい』って言うんで、納得できないままそうしてきたんですが、おかげでこういう仕事をさせてもらっています」と話してくれた。

 今は運動会の時期だから、どこの学校でもそのための練習に明け暮れている。私は「全員、進め」「全員、止まれ」の行進がなぜ必要なのか、子どもの頃から疑問だった。先生たちは何十人もの子どもたちを号令ひとつで動かせて気持ちよいだろうが、何度も何度も意味もなく行進をさせられるのが嫌だった。「手足を揃えて、元気よく」と、今も檄が飛ぶ。

 それでも小・中学校では新しい知識を学ぶことが出来た。だんだん自分が大人になっていくように思えた。父も兄も学んだ伝統校の高校に入学し、いっそう大人になっていくと期待していた。ところが、関心が湧いたのは国語と社会の授業しかなかった。物理の先生は優しい人で、「文系にいくものは、1つ問題が解ければ追試は無いから」と、試験の出題を教えてくれた。

 「普通高校の授業は教育ではない」と私は新聞に投稿し、採用された。『週刊朝日』を見ていたら、上野千鶴子さんが高校生の時に学校新聞に書いた記事が載っていた。彼女も同じように感じていたが、そこで発奮して京大へ進学したから私とは大違いである。あれから60年近くなるのに、日本の高校教育は何も変わっていない気がする。それが社会の価値観を変えているのだろうか。

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社会は変わろうとしている

2019年09月27日 17時25分36秒 | Weblog

 お金のない人は、お金を増やそうとする。太った人は、痩せようとする。老いた人は、若く見られるようにする。人は自分に無いものを求める。無いのだから、当然のことだと私は思う。でも、分からないのは、どこまですれば満足なのかということ。

 年寄りは年金暮らしだから、収入が減ることはあっても増えることはない。従ってどうしてもつつましい生活になる。スパーのチラシを見比べて、1円でも安い店に行く。商品の価格だけの差なのに、車で買い物に行けばガソリン代も考慮しなければならないのに、「安く買えた」と満足している。

 ところが翌日、同じ商品が別の店でさらに安く売っているチラシを見てガッカリしている。充分に努力をして買ったのだから、もう他所のチラシは見なければ落ち込むこともないのに。そこそこに生活できている年寄りは、それ以上に欲を出さない方がいい。欲張るから、「ああ、しまった。もう少し待てばよかった」と悔やむことになる。

 昔だって、キレイな人はいた。キレイな人が周りからチヤホヤされても、それはキレイなんだからと諦めていた。大方の人が自分と大差なかったからだ。周りのみんなが自分とそんなに違わなければ、ひとりくらい突出した人がいても、自分もそうなりたいとは願わなかった。社会の価値観が同じようなものだったから。

 けれど近代に入って、努力すれば報われるようになった。隣がテレビを買えば、ウチもテレビを買い、隣が車を買えば、ウチも車を買った。生活様式は変わり、買うために働いてきた。ところが今、若者たちは車を持たない。出世して責任を持たされるより、楽に働ける方がいい。結婚して家庭に縛らせるより、ひとり暮らしで自由な方がいい。そういう価値観の若者が増えているようだ。

 社会が変わろうとしている。お金もそこそこ、ダイエットもそこそこ、特別なものは要らない。欲張らない社会になっていくのだろうか。キレイな人はやっぱりキレイだが‥。

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伊勢湾台風から60年

2019年09月26日 17時48分07秒 | Weblog

 伊勢湾台風から60年になる。私は材木屋の奥の家で、両親と妹の4人で暮らしていた。この日は、それまで体験したことのない強風で家がミシミシと揺れ、どうなることかと思った。それでも眠ってしまった。翌朝は青い空だった。立てかけてあった材木が倒れていて、やっぱりすごい台風だったと分かった。けれど、周りで倒壊した樹木や家屋は見なかったし、そんなに被害は出ていないように感じた。

 中学校へ登校する道すがらの光景も、台風が通り過ぎた傷跡が各所にあったものの、余り気にならなかった。学校に着いて見たその変わり様に驚いて、周りの記憶が吹っ飛んでしまったのかも知れない。体育館の屋根が吹き飛ばされて、北東の畑に突き刺さっていた。それから毎日、後片付けに追われ、授業が始まったのは何日目だったのだろう。

 私は友だちから、「死体がいっぱい並べられている。見に行かないか」と誘われて、彼と自転車に乗って名古屋に向かった。どこまで行けたのか覚えていないが、大高を過ぎた辺りから進むことが出来なかった。お寺に死体が置かれていると聞いたが、とても見る気にはなれなかった。何日か経って、名古屋の姉の家に行ったけれど、まだヘドロの臭いがしていた。

 名古屋より北に位置するこのマンションの街は、台風の被害は大きかったと聞いた。一度、自然災害に襲われるとなんと人の営みは脆いことだろう。どんなに手を尽くしても災害を止めることは出来ない。自然災害に備えて出来ることは、被害を少なくすることでしかない。もっと非力であることを認めて謙虚になった方が、自然災害に備えることになるような気がする。

 自然を支配するような力は人間には無い。けれど、自然の法則や原理を解き明かして来て、あたかも自然を支配できるように錯覚してしまった。人間は法則や原理を逆利用しているが、きっとそれは僅かな部分でしかないのだろう。万能の神に祈るか、一切の人の感情を棄てるか。

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彼岸花の開花が遅れている

2019年09月25日 18時33分47秒 | Weblog

 彼岸花の開花が遅れているのだろうか。どんなに天候不順であっても、彼岸の頃には必ず咲いていたのに、いつも見かける場所でまだ見ていない。彼岸花は球根なので、親球の周りに子球が出来て増える。それなのに、どうしてあんなによく目立つ花を咲かせて、虫に蜜を与えるのだろう。不思議だ。

 不思議といえば、思議に否定の不がついているから、「考えられない」ということになる。植物の研究者なら、妖艶とも思える花を咲かせる意図が分かっているのだろうが、私は理解できていない。花が咲けば虫が寄ってくる。しかし、虫の中には花が咲く前に、蕾を食べてしまうものもある。葉を食べ尽くして、枯らしてしまうものもある。

 自然界のことだからと寛容を自負している私も、蕾を食べられたり、枯らされたりする虫を見つけるとすぐ駆除してしまう。自分が愛おしく思うものには優しくできるのに、虫だって生きていくために食い散らかしているのに、嫌な奴だと思ってしまうのはどういう感情なのだろう。釈迦はそういう自分からの脱却を目指したのだろうか。

 私たちが井戸掘りで世話になっている手押しポンプを製造している会社から、「社長が亡くなった」と電話が入った。私よりも10歳ほど若い、話好きな社長で、手押しポンプの普及に力を注いでいたのに残念だ。死は年齢順に来る訳ではないし、どんなに元気で情熱的に生きている人にも突然やって来る。

 彼岸花のことを書き出した時は、もっと別なことを思い描いていたのに、まとまりのない方向へと進んでしまった。今また、別の人から電話が入り、ますます時間ばかりが過ぎていく。親子が殺傷されたり、小1の女の子が行方不明になったり、嫌な事件ばかりが続く。神様、いったいこれはなぜなのと問いたくなる。

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女子高校生による温暖化阻止の運動

2019年09月24日 18時21分24秒 | Weblog

 スウェーデンの16歳の女子高校生が、たったひとりで始めた「温暖化を止めよう」運動が世界に広がり、彼女は国連の気候変動サミットで演説するまでになった。昨年の夏、彼女はひとりでストックホルムの国会前で、「気候のための学校ストライキ」のプラカードを掲げて座り込みをした。次第に共鳴する高校生が参加し始め、ヨーロッパの各地に広がっていった。

 女子高校生がヒントを得たのは、アメリカの銃乱射事件後の高校生たちによる「銃禁止デモ」だったという。そのアメリカでも、遠い日本でも、彼女を見倣って「温暖化阻止デモ」が大学生や高校生を中心に行われている。私の従弟や先輩も60年安保の時、「デモに参加した」と言っていたが、私は16歳だったのに、テレビや新聞で見る程度だった。大変なことが起きていると感じたが、自分が参加するまでのひっ迫感はなかった。

 高校生の本分は勉強することにあるという非難はいつも同じだ。どこかの政府の役人が、「先生が充分に準備した勉強の機会を無駄にしている」と授業ボイコットを批判した。すると彼女は、「政治家は温暖化問題と取り組まず、何十年も無駄にしてきた」と指摘した。16歳にしてこの頭の回転の速さに驚く。

 国連の演説も凄い。「私はここにいるべきではない。大西洋の向こう側に帰って学校に通っているべきだ」と自分の立場を語る。「私たちは大絶滅の始まりにいる。それなのに、あなた方が話すことと言えば、お金や永続的な経済成長というおとぎ話ばかり」「よくもそんなことを!」と義憤に満ちている。

 同じ国連で(別の機会に)、小泉環境相が「気候変動のような大きな問題は楽しく、賢く、セクシーに取り組まなくては」とスピーチしていたが、スウェーデンの女子高校生の真剣さに負けている。以前もタリバンに銃撃されたパキスタンの16歳の女の子が国連で、「女性が教育を受ける機会」を訴えたが、若い女性たちは実にたくましい。

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此岸から彼岸へ

2019年09月23日 17時27分10秒 | Weblog

 台風17号は熱帯低気圧に変わったが、風は相変わらず強く吹いている。テレビで予報士が、「異常気象の時代に入った」と言っていたが、そんな時代が過去にもあったのだろうか。昨日の1周忌では若い導師が45分ほど、ひとりでお経をあげてくれた。声が詰まるとか、涸れることもなかったから、かなり修行をされていることだろう。

 浄土真宗大谷派の導師は、経典が何かは分からないが、「南無阿弥陀仏」と繰り返していた。「一切衆生悉有仏性」とも唱えた。我が家は曹洞宗で、葬儀はドラや太鼓で騒動しい。父に「どうして、こんなに喧しいの?」と訊いた。父は「インドは獣が多いから、寄せ付けないためだ」と言い、「線香や焼香は虫よけだ」と教えてくれた。理屈に合っていたから、父の言葉を信じた。

 でも、もうひとつ理解できないことがあった。葬儀や法事で読まれるお経の意味だ。我が家にあった経典を開いてみたが、難しい漢字ばかりでさっぱり分からない。私が地域新聞を作っていた頃、「どうして経典を現代語に翻訳しないのか。釈迦の教えが分かるような勉強会を寺は行うべきではないか」と本願寺の住職に話したところ、「そういう取り組みを始めている」と言っていた。

 今日は「秋分の日」、太陽が真東から昇り、真西に沈むことから、「彼岸(極楽)」と「此岸(この世)」が最も通じやすい日と言われてきた。人間はどうして、別の世界を求めるのだろう。仏教では「悟り」を経て彼岸に辿り着くし、キリスト教では「神」を信じれば天国に行ける。それほど、この世は生きにくいと感じているのだ。戦争や紛争だけでなく、妬みや憎悪が渦巻いている。早く「おさらば」したいと思って当然である。

 

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消費税が上がる

2019年09月21日 17時18分11秒 | Weblog

 10月から消費税が10%になる。テレビの各局もそのことを取り上げ、「どうすると8%のままですむか」を具体的な事例を挙げて解説している。高額の物は9月中に買った方が「お得」と言う。そんなに嫌な消費税なら無くせばいい。消費税は2%増額されるだけなのに、まるで10%も上がるような印象だ。

 本当かどうか分からないが、政府が消費税を10%にしなければ福祉政策を実行できないというのであれば、国民としては協力するのが当然だろう。いや、そもそも、本当かどうかわからないことが問題だが、弱者からも巻き上げる消費税ではなく、儲かっているところから吸い上げるべきだと主張するなら、そのように政策転換させる根拠を示すべきだ。

 金が無ければ政策が実行できないことは分かる。国民だって、金が無ければ物は買えないし、極端に言えば生きていけない。みんなが生きていけるようにするのが政治だから、みんなで負担するのは当然のことだ。それを不満に感じるのは、欺瞞があるからだ。清廉潔白な政治が実行されたことが無いからだ。

 キリスト教では、「自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになる」「富んだ人が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しい」と聖書にある。みんなで分かち合うことを奨励してきた。それなのに、キリスト教の下で資本主義は生まれ育った。多分、キリスト教は個人と神との1対1の約束だからなのだろう。

 みんなが税金を払って助け合うことはキリスト教の教えに適っている。後は、税金の仕組みや税率の問題で、どういう社会にするかという政治の問題である。それは自分のことより他人のことを考える人がどれだけ多いかで決まってくる。すると人の心の、いや考え方の問題なのかも知れない。

 明日は長女のダンナのお父さんの1周忌のため、ブログは休みます。

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言葉の意味と言葉のやり取り

2019年09月20日 17時23分32秒 | Weblog

 午前中は穏やかな秋晴れだったのに、午後3時を過ぎた頃から西の空が曇り初め、次第に風が強くなってきた。ルーフバルコニーにアブラゼミの死骸が落ちていた。かなり干からびているから、どこかから風に吹き飛ばされてきたのだろう。昆虫やミミズの死骸をアリが食べるが、植木鉢の中に巣を作っているあのアリは一体どこから来たのだろう。

 まだアリ程大きくないが、キンモクセイに花芽ができ始めている。秋分の日の頃にヒガンバナが咲くように、体育の日の頃になるとキンモクセイの良い香りが漂う。異常気象は日本だけでなく、世界のいたるところで起きているとテレビが報じていた。地球環境がかなり変わってきているように思うけれど、自然の営みは変わらないのだろうか。

 近頃は運動会で、「ソーラン節」を踊るのが流行っている。半世紀も前に子どもだった私には考えられない光景だ。でもちょっと気になる。「ソーラン」ってどういう意味なんだろう。「ドッコイショ ドッコイショ」と子どもたちは声を揃えて踊っているが、どんな意味なのか気になった。仏教用語の「六根清浄」が「ロッコンジョ」となり、「ドッコイショ」に変化したものらしい。

 教師は踊らせるだけでなく、言葉の意味も教えて欲しい。何だかよく分からないが、楽しければいい。本当はそれでは良くないのではないか。女の子が男の子に向かって、「テメエ、うるさいんだよ」と怒鳴っていた。男女平等の世の中、女の子だから、男の子だからと決めつけてはいけないが、何か腑に落ちない。

 埼玉で小4の男の子が殺された。殺したのは母親の再婚相手で、母親とは10歳年下の無職の男だった。教師をしている母親は、我が子の死に悲しみ、愛する男を理解していなかったことで、深く傷ついていることだろう。互いが理解し合うためには、言葉のやり取りが大事だと思うが、難しい時代になってしまった。

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