友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

高校野球の醍醐味

2018年03月30日 19時05分48秒 | Weblog

  高校野球を見ていたら、「野球は筋書きのないドラマ」にぴったりの試合だった。第3試合の長崎の創成館と奈良の智弁学園との試合は息詰まる展開となった。3回に先攻の智弁学園が1点を先取したが、どちらも点が取れないまま9回まで進んだ。9回の表、智弁学園は3人で攻撃が終わる。「裏で何かが起こりそう」と解説者が言うが全くその通りになった。

 創成館がここで1点を取って同点となり、なお1死満塁と攻め立てた。ヒットが出れば逆転勝利と思ったが、打球はフラフラっと遊撃手の前に落ちた。遊撃手が飛び込んできて捕球したが「ノーバウンド」だったので、選手はそれぞれ塁に戻った。しかし、主審が「ノーキャッチ」と両手を広げたので、智弁学園の選手はホームと3塁に送球し、併殺となってしまい延長戦となった。

 私にはこのルールが理解できないが、審判たちが集まって協議しても判定は変わらなかったから、そういうものなのだと思うしかない。こうなると創成館にツキはなく、智弁学園の勝利かと思ったが、表の智弁学園の攻撃は実らなかった。裏の創成館の攻撃もヒット性の当たりが出るのに、サンタ―の渾身のプレイに阻まれてしまう。やっぱり創成館にツキは無い。

 打席に立った選手はこれまでヒットが無い。甲子園での9度目の打席で出た初ヒットは、センターオーバーのサヨナラホームラン。これほどのシナリオがあるだろうかという見事な演出だった。「神がかり」という言葉があるが、どうしてこうしたドラマが生まれるのだろう。「気持ちが強い方が勝つ」とスポーツの世界では言うが、本当のような気もするし、気持ちだけで勝てるのとも思う。

 萎えてしまえば、気力は失せる。我が市では、4月8日の選挙に向けて各候補者が必死に「政治活動」を展開している。各回ごとに得点を重ねるのか、それとも9回裏の大逆転か、いずれにしても「必死さ」が勝敗を左右するだろう。彼らが必死になっているのに、私たちは明日は「桜の宴」である。そんな訳で、明日はブログを休みます。

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スミレを詠った歌はあるの?

2018年03月29日 17時38分00秒 | Weblog

  この花の正式な名前は知らないが、頂いた時は「ヤマスミレ」と聞いたように思う。1鉢だったものが今では9鉢に増えた。「欲しい」と言う人がいて、何鉢か差し上げたから実際はもっと増えた。花弁は5弁だからスミレであることは間違いない。こんな小さな鉢でもよく育つ。秋になるとワサビのような根が出来るので、これを株分けして植えればいいので、増やすことは意外に簡単だった。

 スミレは清楚な感じがする。私は濃い紫色のスミレが好きだ。以前は道端の隅にいくらでも咲いていたが、最近は見かけない。野にあるスミレでもこうして鉢植えにして育てれば、増やすことも出来るだろうが残念だ。スミレの素朴さのせいなのか、歌手も歌の題名も覚えていないが、心惹かれた歌を思い出した。

 「あなたが私に触らないのなら、私は存在していないのも同じ」。こんな内容の歌だった。まだ学生の頃、友だちが彼の女友だちの家に行った。彼女は親元を離れ一軒家を借りたから、「遊びに来て欲しい」と言う。彼は指定された夜に出かけて行った。家はきれいに整えられ、部屋の真ん中のテーブルに料理とビールが置かれていた。他に誰か呼ばれたのかと思ったが、誰も来なかった。勧められるままに飲み、食べ、話をするうちに随分時間が過ぎた。

 「泊まっていってもいいよ」と彼女は言ったのに、彼は「まだ終電に間に合うから帰るわ」と席を立った。「若すぎて、彼女の気持ちまで測れなかった」と彼は告白したが、確かにその点では未熟者というか鈍感で、愛とか恋がどんなものか分かっていなかったのかも知れないが、本当は勇気がなかったのだと思う。彼女は精一杯の勇気を持って彼を迎え入れ、泊まって欲しいとまで言ったのに、残酷な結末である。

 可憐なスミレも場所によって、増殖したり、断ち切れたりしている。恋も時と場所を選ぶのかも知れない。「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)。スミレを詠った歌はあるのだろうか?

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ジジババになっても高校時代と変わらない卒業生

2018年03月28日 18時43分07秒 | Weblog

  埼玉県に住む卒業生から電話があった。先月の26日に、私がブログで『あまりにも早い旅立ち』と題して、卒業生が亡くなったことを書いたのを読んで、「あれって」と電話をくれた。それで、彼女が我が家にやって来て話してくれた一部始終を伝えた。ブログでは書き切れなかった、飲み屋街の店主や従業員そして会社の部下や取引先の人たちなど、「皆さんから慕われていた」ことも話した。

 亡くなったダンナも彼女も彼の同級生だから、「読んですぐピーンときた」と言う。私が「もし、機会があれば顔を出してやって」と言うと、「ウン、そうする」と言う。高校の時から友だち思いの男だった。それで今日、「彼女に会ってきた」と言う電話だった。彼のカミさんは籐で籠などの作品を作っているが、その「作品展の話をしたら、見たい」と彼女が言い、「籐工芸に興味あるみたいだったから、ウチのカミさんと話が合うかも」と言う。

 家に引き籠っているようでは心配だから、何か夢中になれるものが見つかるといい。彼女もいいセンスをしていたから、きっといい作品を作るだろう。「声をかけられる同級生には知らせて、香典を持って行った。3年間も一緒にいたから皆兄弟みたいな気がして、放っておけないもん」と言う。みんな個性的でいいクラスだった。美術クラブの連中とは合宿で高原へ出かけたこともあるし、8ミリ映写機でアニメも作った。

 「先生とこのチューリップ、今年が最後だからみんな見に行くようにと言っておくわ」と言う。そうか、私のブログを見ていてくれていると思うと嬉しくなる。先回が還暦のクラス会だったから、彼らもすっかりジジババである。それでもつい「卒業生の子」と言ってしまう。「先生より先に逝かないでくれよ」と呼びかけておこう。

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佐川氏喚問か高校野球か

2018年03月27日 17時54分17秒 | Weblog

  情けないことに、朝から鼻水が止まらない。ルーフバルコニーに出て、満開になったツツジをケイタイで撮影していた時はそんな様子はなかったのに、部屋に戻ってしばらくするとクシャミが連発し、鼻水がポタポタと落ちる。目もショボショボして、なんとも情けない有り様になってしまった。高校野球を観戦しようと思ったのに、テレビをつけたら佐川氏への証人喚問が行われていた。

 どうせ肝心なことは言わないと分かっているのに、見続けてしまった。森友学園への土地売買は佐川氏が就任する前のことなので、売買に関して全く責任がないのに、責任を取らされて辞職し証人喚問まで受け、「理不尽だと思わないのか」との質問に、佐川氏は「文書の書き換えは理財局が行ったことなので、局長であった私の責任」と答えていた。しかし、なぜ行ったのかについては「答えられない」で押し通した。

 公務員の鏡ではあるが、国民に向いた答弁ではない。公務員は時の行政を守ることが最大の使命なのだ。それは律令時代から公務にかかわる者の使命である。上の者を守るために下の者が命さえ惜しまない。それは美徳と讃えられた。ティッシュで鼻水を取りながら、それで権力は維持できても、市民や国民の利益になるのだろうかと考える。

 「ハックション」と大きなクシャミが続く。もうどうにも止まらない。忖度はどこの国でもあるだろう。市長や議員に便宜を図る公務員もいるだろう。しかし公務員は全体の奉仕者であるから、誠におかしなことで、公平である建前が崩れてしまう。不公平が起きないようにするためには公務員の意識が何よりも大事だと思うけれど、それを制度として保証するには常にオープンであることだろう。

 私を含めて年寄りは潔く若い人たちに任せるべきだ。いつまでも年寄りが支配していては変わらない。花粉症対策のためワインでも飲んで、今晩は早く寝よう。明日は来ないかも知れないが、それでも眠りにつくのが人の世の習慣だから。

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アメリカで高校生が銃規制のデモを主催した

2018年03月26日 18時28分28秒 | Weblog

 マンションの周りを歩いてみると、花壇の世話をしている人たちが植えたチューリップの花が咲いていた。中庭の桜は陽当たりが良いのか、7分か8分咲きである。今日は暖かな一日だったから、さらに開花は進んだのかも知れない。私がルーフバルコニーで育てているチューリップは、ようやく花の芽が出てきたものがいくらかある程度だが、例年よりも今年は早く咲きそうだ。

 アメリカのワシントンで、17人が殺害された銃乱射事件が起きた高校の生徒たちが企画した銃規制を訴えるデモが行われ、大勢が参加した。全米で数十万人という。同校の女生徒が壇上から演説し、途中で6分20秒中断して涙ぐんだ。「わずか6分20秒間に17人の命が奪われた。他人任せにせずに、私たちは私たちの命のために共に戦おう」と呼びかけた。参加していた高校生は「私たちが世の中を変える」とインタービューに答えていた。

 そして、黒人公民権運動の指導者、キング牧師の9歳の孫娘が「祖父には夢があった。4人の幼い子どもたちが肌の色ではなく人格によって評価される国に住めることを」、そして祖父の言葉を借りて「私には夢がある。銃暴力はもうたくさん。銃のない世界にすべき」と訴え、大きな拍手が沸き起こった。ベトナム反戦運動や公民権運動の時と同じように、若者たちが自ら企画している。

 凄いなーと感心した。先日、中学校の卒業式をテレビで見たが、私たちの頃の卒業式とは大違いで、生徒たちが自らいろいろと企画していた。3年間の思い出を語る時も、これから先の抱負を語る時も、私が中学を卒業した時に、果たしてあんなにきちんと話せただろうかと思うほど、現在の中学生は立派だった。そうなのだ。若い人は確実に進化している。時代を切り開くのは彼らなのだ。せめて邪魔だけはしないようにと老いた私は思った。

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サクラを見に行く外国の若者に出会った

2018年03月25日 17時25分10秒 | Weblog

  外に出てみたら、周りのサクラが5分咲きになっていた。もちろん、樹木によって咲き方に違いがあり、まだ3分ほどしか咲いていなものや蕾の方が目立つものもある。31日の土曜日に、恒例の「桜の宴」を行うが、その頃はきっと満開だろう。私がサクラを眺めていると、8人ほどの若い集団が近づいてきた。

 その中の女の子が私に、「この辺に川がありますか?」と聞いてきた。川?何しに行くのだろうと思ったが、すぐに花見と気付いた。女の子をはじめとする若者は外国人で、サクラを見に行くに違いない。「サクラを見にいくの?」と念を押すと、「そうです」と答えるので、「この道を真っすぐにどんどん行けば、サクラが咲いている川に出られるよ。ここのサクラよりもキレイ。絶対に見る価値があるよ」と教える。

 女の子も男の子もみんな嬉しそうに「ありがとうございます」と言って頭を下げる。国を聞くのも失礼な気がして尋ねなかったが、ベトナムの子たちに違いない。どのから来たのか分からないが、みんなで「五条川の桜」を見に来たのだろう。川に出たら、川岸の道をさらに歩けば食べ物や飲み物も売っているよと教えてあげるべきだったと、彼らを見送った後でそう思った。

 外国に行っても花いっぱいの公園はある。けれど、川に沿って何百本ものサクラが両岸に植えられている場所はそんなにないだろう。しかも屋台があり、人々が車座になって飲食をする、そんな光景も珍しいと思う。そんな日本の不思議な場所を見て回ることが、きっといつか日本人を理解することにつながるだろう。

 もし、彼らが31日に、もう一度「五条川の桜」を見に来て私たちの宴を見つけなら、「どうぞ遠慮することはないから、欲しいものを食べ飲んでいいよ」と歓迎してやろうと思う。顔つきから20歳くらいと思ったが、ベトナム人も日本人同様に幼く見えるから、お酒が飲める年齢だといいのにと勝手なことを思ってしまった。

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葬儀の在り方を考えた

2018年03月24日 18時01分32秒 | Weblog

  立て続けに葬儀に参列して、私自身の葬儀の在り方を考えた。私は子どもたちには、「遺骨を拾ってくるとその処置に困るから、拾わないように」と伝えてある。それは、墓を無くし、仏壇を持たない私が、自分の終い方を実現するためだ。しかし、実際に火葬場で遺骨を拾わないですむのかと不安だったが、火葬場の人は「事前に言っていただければ対処します」と言われた。

 葬儀会社の人も、「今は、いろんな形があります。どんなことでもご相談ください」と言う。海に散骨する人、樹木葬の人、確かにこれまでとは異なる方式が生まれてきている。私は火葬場で、棺に入った遺体が見事なまでに骨だけになって出てくるのを見て、「これで充分だ」と思った。何もかもが焼き尽くされたのだから、故人の痕跡も一切「無」に帰すべきだと。

 病院で死亡が確認されたなら、病院から葬儀会社を紹介してもらい、あるいは事前に相談できる葬儀会社を決めておいて、その葬儀場に安置させてもらう。そこに家族が集まり、音楽を流すことが出来るなら、私が好きだったCDがあるので、それを流しながら、私の小さい時から今日に至るまでのアルバムを見て、ああでもない、こうでもない、と思い出を語って時を過ごして欲しい。

 もちろんお酒を飲み、フランス料理でもイタリア料理でも好きものを食べ、孫たちにジイジの話を聞かせてやって欲しい。私自身は自分がどんな人なのか分からないが、周りの人ならいろいろと見えていたことだろう。話が充分に盛り上がったら、解散して、翌日に出棺となる手順だろう。申し訳ないが再び集まって、火葬場へ出かけ、くれぐれも言っておくが、骨は拾わずに帰って来て欲しい。

 私が年賀状を送っている住所録の人に、私が亡くなったことを記し、感謝の意を伝えて欲しい。後、私に関するものは全て、捨てるか燃やして欲しい。痕跡は残しておきたくない。これで私は充分満足だった人生を閉じることが出来ると思う。

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天候だけでなく、人間社会も異常なのかも

2018年03月23日 18時07分13秒 | Weblog

 東京では桜が開花したのに、雪降りになった。こちらも今日は強い風が吹いていて、日差しがあるのに寒さを感じる。春はこんなに天候不順だったのかと思うほど、天気が変化し寒暖の差が大きい。人の世の無常さに比べ、政治は安倍首相の一強支配と言われてきた。それがここに来て怪しくなってきた。

 前川喜平さんの講演に対して文科省が質問項目を名古屋市教育委委員会に送ってきたことを3月16日のブログに書いたが、それは自民党文科部会の議員から問い合わせがあったからだと判明した。議員から話を聞いて、質問項目を送りつけてきた文科省の官僚はなぜ、「それは教育への介入になります」と拒否できなかったのだろう。

 自民党議員は「法令に準拠していたのかを問うただけ」と言うが、法令に準拠した授業とそうでない授業を区別できる知識があると思えない。そもそも個々の教育の内容に口出しすることは、「教育への不当な介入」に当たるという認識に欠けている。議員が言えば、何でも通ると思っているようだ。だから、驚くと共に怖い。

 自民党が憲法9条の改憲案のまとめに入っている。昨年の憲法記念日だったかに、安倍首相が憲法に自衛隊を明記する改憲を2020年に実現したいと言い出した。これまでの自民党の改憲案は9条を無くして、自衛隊を国防軍と定めるものだっただけに、9条を残したまま自衛隊を憲法に位置付けることには驚いたが、これまでの自民党政権が主張してきたことを憲法に書き込むという訳である。

 自衛のための最低限の戦力の保持を認めた以上やってくる当然の帰結である。いつの時代もどこの国も、この自衛権こそが戦争の口実である。ロシアでプーチン氏が圧勝した。政治は「悪い人」が行うというのがロシア人の考えだと新聞にあった。そう言われてみると、どこの国も同じ気がするから、天候だけでなく、人間社会が異常なのかも知れない。



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カミさんの叔母が亡くなった

2018年03月21日 16時28分32秒 | Weblog

  カミさんの母親の妹が亡くなった。先日、お見舞いした時は表情に変化がなかったが、日曜日に息子から送られてきたメールの写真は元気そうだった。「お見舞いのおかげで元気になりました」という文面が添付されていた。お見舞いの帰りに、「長くないかも知れない」と話したが、実際にその時が来ると何ともやりきれないものがある。

 「食事をしなくなると死は近い」と言われているが、日曜日の写真は最後の輝きだったのかも知れない。人は生まれ、そしていつか死ぬ。それは仕方のないことで、どうすることも出来ない。神様に任せるしかない。時間がきたので、今日はここまで。

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中学のクラス誌の復刻する

2018年03月20日 18時05分24秒 | Weblog

  中学校を卒業して何年になるのだろうと、計算して驚いてしまった。58年。とんでもない歳月が流れてしまった。私たちの担任は数学の教師で、「うるさいぞ」と教壇からチョークを投げつけたり、「顔を洗って来い」とか「運動場を1周して来い」とか、青筋を立てて怒鳴った。気が短くてワンマンのように見えたが、実際は生徒が大好きで大事にする先生だった。

 私の手元に4冊のガリ版刷りのクラス誌がある。私たちのクラスのものが3冊と、もう1冊は私たちの6年後のクラスのものだ。先生に頼まれて原稿を書いたもので、私の住所が大学の先生の家になっているから書生の頃のものだ。この1冊を除いたクラス誌の復刻版を自費で作った。3冊とも色褪せていて読みにくくなっていたが、印刷屋に相談すると「きれいに出来ますよ」と言うので、お願いした。

 1号と3号は早く見つかったのに、どうしても2号が見つからず遅れてしまった。それが思わぬところから出てきたので、「ヒマな時でいいから」とお願いしたら1年半もかかってしまった。幸いにもこの間にクラス会は開かれなかったので、次回はこれをもっていくことが出来る。1号が1960年12月、2号が翌年の12月、そして最後となった3号が1967年1月の発行である。どの号も夏休み中に原稿を集めて先生に渡し、先生がひとりで編集してガリ切りし、印刷・製本まで行なってくれた。

 先生は「好きなことだから」と言ってくれたが、復刻版を眺めていると先生には感謝しても余りある。私が教師になった自分を振り返ってみても、先生が手本だったとよく分かる。生徒たちが我が家によく遊びに来たが、これも私たちが先生の家によく出かけたからだ。中学の時は「やたらと怒る」先生のイメージだったのに、クラス会では強くない酒を飲み、音程の外れた歌を大声で歌ってくれた。今年こそクラス会を開いてくれ!復刻版を持って行くぞ!

 

 

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