今日は梅雨の晴れ間だというので、鉢の土の入れ換えに精を出した。一体何日間かかって作業をしているのだろう。午前9時から初めて正午まで、3時間で2鉢か3鉢がせいぜいである。そんなに丁寧な作業をしても結果は変わらないのかも知れないが、これが性分というもので、偏執狂的になってしまう。作業の時はラジオでも聞けばいいのだろうが、隣の小学校から聞こえてくる子どもたちの断片的な声だけが流れ、ああでもない、こうでもない、そんな夢想の世界にいる。
ふと、人はよく、「この人なしに生きていけない」などと言うけれど、本当だろうかと思った。それくらい激しく熱烈に愛しているということなのだろう。「この人」から「嫌い」と言われたり、何かの理由で去ってしまっても、「生きていられない」のだから死ぬかといえば、そうではない。どんな恋愛小説でも、恋愛が成就するまでの紆余曲折を書き綴っているが、そこまでである。熱が冷めるのか、日常になれば何の変哲もないということなのか。
大阪市議会で、橋下徹市長に対する問責決議案が、公明党が反対に回ったために否決された。可決して橋下さんを市長の座から降ろすのかと思ったけれど、提案した側にそれほどの決意はなかったようだ。「維新の会」の松井幹事長の「問責は不信任と同じ。可決されれば、民意を問うことになる」との発言に、尻尾を巻いてしまった。「噛み付くこともできないくせに、吠えるな」と大阪市民からも馬鹿にされていた。
橋下市長の会見を見ると、これで「慰安婦発言」は収束したという顔をしていた。大阪堺といえば、千利休や与謝野晶子を輩出した地である。晶子は国中が強国ロシアとの戦争に舞い上がっていた時、『旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて』と題して、「君死にたもうことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても 何事か」と長詩を発表した。これには、橋下さんや石原さんに似た人たちが「非国民」とか「危険思想」と噛み付いた。
晶子は「当節のように死ねよ死ねよと申し候こと、また何事にも忠君愛国などの文字や、おそれおおき教育勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却って危険と申すものに候はずや」と撃破している。ここまで言える人が堺から生まれているのに、昨今の大阪人は寝た振りばかりのようだ。与謝野晶子の歌集『みだれ髪』には、「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」という歌がある。凄い人だ。