友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

副大統領候補

2008年08月31日 21時30分15秒 | Weblog
 民主党のオバマ大統領候補は「やられた!」と思ったであろう。オバマ氏の弱点は経験不足に尽きる。そして外交に弱いことだ。この点を補うためにオバマ氏は、外交通でベテランのバイデル上院議員を副大統領候補に指名した。これからは私の推測だが、共和党の選挙のプロは「しめた。これなら勝てる」と思ったに違いない。ヒラリー・クリントン氏が副大統領候補となると、大統領選挙ではかなり苦戦しなくてはならない。「清新さはないが経験豊か」(中日新聞)だけなら、マケイン大統領候補の方が上をいくからだ。

 マケイン氏は年齢が72歳と高いことで47歳のオバマ氏とは、「若さ」で大きく差をつけられているし、民主党からそこを攻撃される。また記者から「あなたは国内に何軒の家を持っていますか?」と質問されても、「後からスタッフに答えさせる」と言うマケイン氏の普通でない金持ち振りを攻撃される。そこで、44歳と「若く」、「ミス・アラスカ」で準優勝して大学の奨学金を得し、最年少で女性初のアラスカ州知事に就任したサラ・ペイリン氏を副大統領候補に指名したのだ。

 サラ氏は「高校時代のボーイフレンドと駆け落ちして結婚」(中日新聞)したほどの熱情的な女性だが、政治的には超保守派のようで、妊娠中絶にも銃規制にも反対の立場にある。ホッキュクグマの絶滅危惧よりもアラスカ北部の石油ガス開発を優先せよと主張している。彼女の役割はハッキリしている。まず、妊娠中絶や銃規制は断固反対だという保守層を固める。次に、黒人なんか大嫌いだと思っている民主党支持者の女性たちをも引き込むことだ。

 オバマ氏は暗殺未遂くらいの事件が起こらない限り、マケイン氏に大きく差をつけられるだろう。アメリカは自由の国で、何人をも受け入れる理想の国のようだが、黒人に対しては未だに奴隷意識があるようだ。表面的には誰もが自由で平等だと主張しながら、しかし黒人に対してはまだまだ差別意識が残っている。オバマ氏がアメリカの初代黒人大統領になれないだろうというのも、こうした差別意識が厳然とあるからだ。

 9月に行なわれる副大統領候補同士の討論会で、二人の実力が示されるだろうが、ヒラリー・クリントン氏に負けないくらいサラ・ペイリン候補も演説はうまいように感じた。後は二人の副大統領候補がどれだけ聴衆をひきつける討論が出来るかにかかっているように思う。大統領候補よりも副大統領候補の魅力が選挙の勝敗を分けることになってくるとは予想しない事態だ。改めてアメリカという国の面白さを感じたけれど、民主主義の観点からそれでいいのかなという疑問もある。

 今日は、カミさんの昔の同僚たちによる昼食会が、わが町一番のこだわりフランス料理の店で開かれた。「食事の後で、我が家のサルビアを見にいらっしゃるかもしれないから、キレイにしておいてね」とカミさんは言い残して出て行った。そして3時近くになって、5人の女性がやってきた。いつの間にかみんな立派な大人になっていた。ここもまた、女の時代である。ぜひ、またゆっくりと来ていただきたい。我が家のコーヒーの方がお店のものよりも美味しいと思うから。
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沈黙の大衆

2008年08月30日 22時16分33秒 | Weblog
 私よりもかなり年上の先輩と話していた時、日本人は「沈黙の大衆だ」と彼は言った。漁業関係者や運輸関係者が、燃料費の値上げで生活できないと訴えるデモを行なった。彼は「本来なら、私たち労働者が行なわなければいけないのですが」と言う。年齢から考えて、60年安保闘争の世代である。こういう人がまだ、この世にいるのだと思った。

 私が大学生になった時は、60年安保の敗北感から学生運動は下火になっていた。知識人と呼ばれる人々の間では、60年安保闘争をどのように総括するかで、様々な意見が飛び交っていた。もちろん、そうした空気に染まる人間と全くそんなことに関心のない人間とがいたことは事実だし、後者が圧倒的に多かったことも間違いのない事実だ。

 民主党の代表選挙に向けて、小沢一郎氏しか候補者がいないことがハッキリした段階で、小沢氏の側近の一人であった渡辺参議院議員が、その子分的存在の大江参議院議員とともに民主党を離脱し、新党を結成する動きを示した。民主党の中でもこの二人は絶えず党の方針とは異なる選択を国会で行なってきたのだから、本来なら党籍剥奪に当たるのにそのまま放置されてきた。その結果、ようやく党からの除籍になったが、最もこっけいだったのはこの人たちに乗せられ、民主党からの離脱を行なおうとした姫井参議院議員だ。

 こんな脳の足りない議員をよくもまあ県会議員や国会議員にさせてきたものだ。彼女のパフォーマンスには理解をしてきた私であるが、今更ながら彼女以上に自分が恥ずかしいと思った。ところで、こうした民主党離脱議員に対して、それなら国会議員も辞めろというのが大半の人々の声だ。参議院議員だった末広真紀子さんは、万博反対と庶民の目線で見える政治の実現を掲げて当選したが、その後に自民党へ移籍した。応援した人々は怒って裁判まで行なったが、当選した議員が党籍を変更したからといって、国会議員を辞職しなければならない法的根拠はない。有るのは良心の問題だけだ。

 今回の行動に対しても、辞職すべきだという人は多い。けれども本人がやめないといえば、やめさせる手立てはないのだ。アメリカの大統領候補に民主党はオバマ氏を指名した。候補者選びで拮抗したヒラリー氏はオバマ氏への支持を訴えたけれど、共和党のマケイン氏に投票すると公言する議員が民主党を離脱し、共和党へ移籍した。確かにこんなことが許されるなら、有権者は何を信じて投票すればよいのだろう。だからこそ、良心がここで作用すべきだと私は思う。

 有権者を裏切らない最大の方法は何であり、仮に有権者を裏切るような選択をしなくてはならなくなったなら、議員は己の良心に従い何をすべきか、誠実な決断が必要だと思う。これをあいまいにしてきたから、有権者は「沈黙の大衆」にならざるを得なかった。それでも日本の有権者はまだまだ「沈黙の大衆」を選択し続けるのだろうか。
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集中豪雨の被害

2008年08月29日 21時38分36秒 | Weblog
 昨夜はものすごい雷雨だった。14階建てのマンションが大きく揺れるほどの地響きだった。窓の外を見ると、稲妻がまっすぐ地面に突き刺さるように光った。次には真横に大きく広がるように走る。この世の最後はこんなものかと思われるようなすさまじい様相だ。天と地が荒れ狂い、雨はますます激しく降り注ぎ、地表はたちまち泥沼となる。

 孫娘は一人で寝るのが怖いと言って、我が家にタオルケットを持ってやってきた。その彼女のケイタイに同級生の女の子から、飼っている犬が「雷を怖がって眠らない」と電話が入る。もうすぐ午前1時だ。このまま豪雨が続けば、明日の朝目覚めた時はマンションの周りは湖のごとき様かと思った。それで今朝、目が覚めた時は周囲がかなり明るかったので、杞憂だったなと思ったがそのとおりの結果だった。

 明るい日が差し込んでいたし、風もなく穏やかだった。カミさんは友だちとゴルフに出かけていった。私は孫娘を起こし、一緒に食事をする。あんなに激しかった豪雨の爪あとはこの辺りでは見られなかった。ところがテレビをつけると、あちらこちらから被害が伝わってくる。孫娘の父親の実家は「大丈夫だろうか?」と心配するので、「電話してみたらいい」と言う。するとばあちゃんのところではなく、父親に電話をして状況を聞いていた。

 ばあちゃんも直接電話をくれたならきっと喜んだに違いないが、彼女にとってはしにくかったのだろう。長々と電話で話していたことでわかったのは、被害そのものはなかったけれど、とにかく雨と雷がすごかったこと、道路はまるで川のようで、そこを走るのは大変だったということのようだった。

 最近の雨の降り方はおかしい。まるで一点集中型の降り方だ。激しい恋のような雨降りに私はなんとなくウキウキするけれど、豪雨で被害に遭われた人にとっては恐ろしい雨降りというものだろう。短い時間に大量の雨が降り注がれるから、排水が間に合わなくて、道路はたちまち冠水する。そして場合によっては床下あるいは床上浸水となったり、地下鉄や地下街まで襲い掛かっていく。

 都市型浸水被害は近年の特徴だ。海抜が低いというよりも、都市の中の水の溜まりやすい地域が浸水されやすい。考えてみれば当たり前のことだ。都市は雨水を貯留するところがない。道路の表面はアスファルトで覆われ、各自の家庭も土が見えている部分がどれほどあるだろうかと思うほどだ。降った雨はそのまま側溝を流れ、下水管に、そして本管へと流れていくけれど、全ての雨水がここに集中するから当然想定外となり、排水しきれない水が辺りに溢れ出す。

 田んぼがなくなったし、道路も空き地もアスファルトかコンクリートで覆われ、緑地帯はホンのわずかしかない。これでは雨水が地下に染みていくことはできない。土はますます乾燥し、都市の温暖化は避けられない。雨が降れば、集中豪雨となるばかりか、都市型浸水被害を生む。これもまた、人間が創り出してしまった結果だ。人間が責任を取る以外にない。
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愛の形はそれぞれ

2008年08月28日 23時00分41秒 | Weblog
 昨日のブログを読み返してみて驚いた。読み返しもせず、ブログの形もきちんとしないまま、掲載してしまったようだ。そんなに酔っ払っていたとは思わなかったが、どんな風に最後を終わったのか覚えていない。タイトルも「自己否定から始まる」となぜつけたのか、今考えてみてもよくわからない。文章の最後に「愛は不変だ」とあるのも、唐突な結論で論旨がつながらないように思った。そこで、このブログを書く前に手直しをさせてもらった。

 昨日、こんなに混乱したのはそれなりに理由がある。「質量不変の法則」「エネルギー保存の法則」の中身を正しく理解できていないからの発想なのかもしれないが、社会学の「需要と供給」の関係と同じように、結局は形が変わってもバランスをとって収まるように収まる。人間がどんなにこの地球を変えてしまっても、最後には収まるところに収まるのであろう。そんなことを考えていたが、人の一生で見たならどうなるのだろうかと思ったのだ。そこから混乱が始まった。

 「何でもない日常に、小さな喜びや感動を見つけることができたら、きっと毎日が特別な一日になる」という文章に出会った。12年間、友だち以上恋人未満の関係を続けてきた私の親友は、「特別な一日」にこだわっていた。デートすることで二人の時間と空間を持ちたかったのではないかと私は推測しているが、思い出作りのためにデートをしていたようにみえた。「揃いのマグカップを買おうよ」と彼女が言うのに、彼は踏み出せなかった。友だち以上恋人未満の関係を維持できなくなるのではないかと恐れたからだ。

 「相手のことを誰よりも愛していて、相手も自分に好意を持ってくれていると分かったとしても、それでも、卑怯かも知れないが、簡単にプラトニックの関係を超えることを許さない意固地な私が、心のど真ん中に堂々と居座っており、二人の関係をこれ以上前に進ませないのである。人生には仕出かして後悔することもあるし、何もしなかったことを後悔する場合もある。一度の人生である、何も行動しないで後悔はしたくないと多くの人は語る。だが、相手が好きで好きでたまらなくても、現状維持を守り抜いて行動しない方が、後悔しないだろうという考え方も、私の中には“有り”なのだ」。

 エライ奴だなと私は思った。私は下世話な人間なので、プラトニックな世界に身を置くことは無理で、とても彼のような行動はできないであろう。はじめは彼の言葉が信じられなかった。美しい女性を見て、抱きたいという自分の欲望を押さえ込むなんて出来ないと思った。抱きたいという気持ちがありながら、それを押さえ込むのは自分の心を偽っているのではないか、欺瞞ではないかと思っていたのだ。しかし、それをやり遂げる彼の意志の強さに感服した。相手の女性はそれでよかったのかと疑問に思うことはあるけれど、人の愛の形と大きさはそれぞれだと思い知った。

 プラトニックで過ごすことも、反プラトニックであることも、妻や子どもや世間の決まりを裏切っていることには変わりないと私は思うけれど、実はやはり彼のいうように、「傷つけ合うことのない、いい加減さ」こそが、最大の愛なのかもしれないと思えるようになった。それにしても、愛とはいったい何なのだろう。
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質量不変の法則

2008年08月27日 22時26分05秒 | Weblog
 最近、「質量不変の法則」という言葉が、頭に時々浮んでくる。高校の時に、科学の時間に学んだ法則だ。私の理解は“形は変わっても、元素の種類とその数は変わらない”というものだが、これで正しかったかどうか心配だったので、インターネットで調べてみようと思った。だいたい良いように思われるけれど、インターネット上の論文は結構難しい。

 私は高校生になった時、「アカン、自分は全く理数がわからん」と気が付いた。答えがわかっているものになぜ取り組むのかと馬鹿にしてきたツケがハッキリと出た。仕方がない、理数はあきらめよう。この辺の割り切りは素早いのだ。再試を受けなくてすむ30点を目標にした。6問題あれば2問題が正解できればよいわけで、先生の方も理数の苦手な生徒のために、この2問題が解けるように授業をしてくれていたと思う。

 そんなある時、数学の幾何の授業を受けていて、数学は論理学なのだと気付かされた。哲学や社会学を学ぶための基礎的な学問だと理解したが、この時はもう全く間に合わなかった。このまま、理数落ちこぼれ生徒でいくしかなかった。そんな時に習った「質量不変の法則」はなぜか心惹かれた。物理の先生は優しい先生で、文科系の生徒は出来なくてもいいけれど、最低点はクリアするようにと試験に出るであろう重点問題は教えてくれた。

 多分、この先生からだと思うけれど、「エネルギー保全の法則」ということを聞いた。この時もなぜか目が覚める思いだった。どういうことだったか定かではないが、たとえば牛馬は草を食べて物を運ぶが、物が運ばれるということはそこにエネルギーが注がれた結果なのだということ。そして物が動くために費やされたエネルギーは、そこに蓄積されたエネルギーと変わらないというものだったように思う。私の理解は高校生の時と変わらず思い込みの中にあるから、あまり定かではないけれど、エネルギーの形は変わってもその質量は変わらないというものではなかったかと思う。

 この地球は、確かに産業革命以後、大きく変化してきたけれど、そして今、地球資源を巡って巨大国を初めとする各国が資源の確保に血走っている。まるで第1次世界大戦の前のような雰囲気だ。と言っても私がそれを知っているのではないが、それにしてもどうしてそんなに資源を欲しがるのか、私には理解できない。理解できない私の頭にあるのは、「質量不変の法則」であり「エネルギー保全の法則」だ。

 地球にある元素の種類と量は変わらないのだから、アメリカが持とうが中国が持とうが日本が持とうが、結局は同じではないか。もし、この科学の法則が全くの真実ならば、奪い合いことよりも分かち合うことの方が正しいと思う。
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感覚の曖昧さと確かさ

2008年08月26日 22時11分15秒 | Weblog
 初めは水の話だった。大阪や東京の水はまずい。だからこんなにも水の豊かな日本で、水を売ることが商売になるのだけれど、以前なら全く考えられない。都市に住む人々は、健康への関心から飲み水にとても敏感で、「汚れた水」ではなく、「キレイで美味しい水」を求めるようになってきている。だから都市では、浄水器を備えている家が多い。でも、本当に不純物を含まない蒸留水は実はまずくて飲めない。味を感じるのは純粋な水ではないのだ。

 そのことから、人間の五感(視・聴・臭・味・触)とその感覚器官が話題になった。たとえば老眼が進むと近いものが見にくくなる。食卓の料理がはっきり見えないのだ。見えないとせっかくのご馳走が美味しくないのだ。ところがメガネを変えたところ、近くのものがよく見えるようになったばかりか、料理も美味しくなった。料理は目で味合うというが、その目がしっかり見えないと味合いも変わってしまうのだ。

 友人の話では、手術で目が見えない人に「ハイ、卵」と言って卵焼きを箸で口に入れ、しばらくして全く違うものを「ハイ、卵」と言って同じように口に入れても、ほとんど食感が同様ならわからないようだという。感覚器官は敏感のように思うけれど、実はかなり鈍感のようだ。よく銀行強盗の模擬訓練で、犯人の服の色が人によってまちまちのことが多い。同じ臭いに対しても、好みの違いで「いい」と言う人と、「悪い」と言う人に分かれてしまうこともある。

 五感の次に六感があるが、これだってかなりのものだ。なんとなくよいことがありそうと感じる時は案外そうなる。人間にそんな予測能力があるとは信じられないが、そういう能力を備えた人が実在することは確かだ。そこまでいかなくても、人間も動物と同じで、この人は気が合いそうだとかこの人とは友だちにはなれないといった、感が働くことも確かだ。もちろん後から訂正しなくてはならないケースも生まれる。恋人同士が赤い糸で結ばれているというのも、なんとなく感が働くからだ。

 人間の感覚は誠にあいまいなものだけれど、科学でも分析できないくらい確かなものだ。美人を誰もが美人と言うけれど、好きになればその人が本当の美人になる。感覚というものはそういうものだと思う。実に見事なくらいハッキリとしている。私は今、目はよく見える。耳もよく聞こえる。鼻もよく利く。舌もまだ確かだ。触覚も衰えていない。まだ、五感はしっかり働いている。ありがたいことだが、いつかは朽ちる時が来る。
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サザンのライブとオリンピックの閉会式

2008年08月25日 21時14分33秒 | Weblog
 昨日、名古屋都市センターの会場から戻ると、カミさんはWOWOWで実況中継されている『サザンオールスターズ“真夏の大感謝祭”30周年記念LIVE』を見ていた。「『篤姫』も見たいし、オリンピックの閉会式も見たい。開会式が見られなかったから絶対に閉会式は見たい」と言い、「でも、どうしよう?」と思案していた。

 カミさんがサザンにこれほど関心があったとは知らなかったが、「職場の同僚が追っかけやっていたし、学校でも子どもたちが合唱曲に選んでいた」と言う。サザンの桑田佳祐は1956年生まれの52歳だから、ファン層も同じくらいの年代かと思うけれど、我が家の34歳の次女もサザンのライブに出かけると言っていたし、昨日のライブを見ても参加者の年齢層の幅は広いように思った。

 サザンの歌詞には惹かれるものもあるが、やはり私は桑田の歌い方がすんなりとこない。カミさんは「吉田拓郎のライブもテレビで見たけれど、この桑田佳祐はすごいわよ。こんなに何時間も歌いっぱなしでホントにすごいエネルギー。これを見た人はたまらないと感じるわね」と手放しで評価する。「やっぱり、フォークじゃーここまで盛り上がらないわね」。なるほど、雨が降りしきる中にもかかわらず、桑田は休むことなく、歌いまくり、走りまくる。

 北京オリンピックの閉会式の夜のライブだ。相手は国を挙げて、国の総力とお金を注ぎ込んで、閉会式を盛り上げるであろう。桑田はこれに初めから対抗するつもりだったのではないか、そう思うような演出だった。私はサザンをよく知らなかったけれど、桑田は志村ケンのように、SEXを連想させるようなエロチシズムな演出をしていた。50代の男ならこんなものかと思うけれど、ライブに来ているのは男ばかりではないし、子どもだっているから、ちょっと意外な感じがした。

 夜9時から、北京オリンピックの閉会式が始まると、カミさんは北の部屋と南の部屋の間の廊下に立ち、2つの大型テレビを交互に見る離れ業をやっていた。「サザンの方は録画できないけれど、閉会式は録画できるよ」と言うと、「それならしておいて!」ともう心ここにあらずだ。その録画の閉会式を、今日見たけれど、サザンと比べるようなことを書いてしまったが、全くケタが違った。閉会式は見事というよりも、よくまあーやるねと思った。中国が「国の威信」をかけてオリンピックを開催したその意気込みはよくわかった。

 「国の威信」をかけてスポーツは行なうものなのか?そうしなければならない根拠がどこにあるのだろう。スポーツはたかがスポーツである。私は、テレビを見てたくさん泣いた。息子に向かって名を呼び続けた選手、男子400メートルリレーで3位入賞を知り抱き合った日本選手たち、あるいは男子マラソンで走っている最中に、1位になった選手に自分のドリンクを渡した選手を見た時、そしてまたその1位の選手がマラソンの入賞賞金で母親にトラックターを贈った話を聞いてなど、涙を流した場面は数知れない。

 スポーツの素晴らしさは、選手が一生懸命に頑張る姿だ。そこに人々はそして私も感動する。また、表に出ない色々なエピソードに感動する。私を泣き虫だと笑う人もいるけれど、感動して泣けるっていいよねと言ってくれる人もいる。明日は、長女と孫娘がバンコクの次女のところから帰ってくる。
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市民自治をどう実現するか

2008年08月24日 22時02分48秒 | Weblog
 千葉県我孫子市の前市長、福嶋浩彦さんは改革派首長の中では、原理主義者といわれているそうだ。確かに福嶋さんは現在の日本の地方自治の実態に踏まえ、その中で市民主権を進めることが民主主義だと言い、特別なことを提案しているわけではない。会場からの質問の中で、年配の方が「現在の選挙制度が悪いのだから、国民がみんなで変えてしまわない限り、政権交代はない」と発言があったけれど、福嶋さんは「現憲法に違反して勝手にやることはできない。それが私の考えです」と発言している。

 福嶋さんは、現在の日本の地方自治は2元制であると強調する。なぜ、強調するかと言えば、2元制の意味がわからない人が多いからだ。福嶋さんは言う。首相をリコールは出来ないが首長をリコールする権利はある。国会議員のリコールは出来ないが、地方議員のリコールは出来る。国の歳出について監査請求の権利はないが、地方ではこれを認めているし、訴訟も出来る。国の民主主義の形と地方の民主主義の形は違うということが理解されていないと話す。

 首長は市民から選ばれているが、同様に議員も市民から選ばれている。このことが忘れられているのではないかと、指摘する。首長は市民の意思を確かめるために、市民の意見を聞く。すると、議員は直接市民に聞くのは議会軽視だと反発するが、議会もまた市民に意見を聞かなくてはならないのに、それをしないで議会軽視とは何事かと福嶋さんは言う。住民投票条例についても、議会は市民の代表である議会を無視するものだと反発するけれど、議員も首長も全てを委任されたわけではないから、新たな問題を市民に直接問うことは市民の権利を守ることだと説明する。

 首長も議員も、市民から選ばれたのだから当然に市民に説明責任がある。首長だけに説明責任があるわけではないのに、それが理解されていない。また首長の中には、「議会に説明したから」と言う人がいるが、市民に説明してこそ説明責任を果たしているという当たり前のことが抜けてしまっている。さらに議員の中には議会で採決した条例について説明できないような人もいる。こうしたことが、市民自治を妨げていると言う。

 首長も議員も、もっと緊張関係の中で議論をしなくてはならないのに、それが欠落しているところに民主主義が育ってこない原因がある。あらゆる場面で、全ての議論をオープンにすることで緊張感は生まれる。どの議員が何を言ったのか、首長がどのように発言したのか、包み隠さず公表することで、より議論は真剣になるし活発になる。それが地方を変える力であり、民主主義を育てることだと福嶋さんは主張する。

 同感である。全てが終了した後、私は福嶋さんに「孔子や釈迦やキリストのように、全国を行脚して、自分の主張を話し続ける人になってくださいよ」と話した。
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民主党の代表選挙

2008年08月23日 22時35分58秒 | Weblog
 オリンピック報道が大きいから、民主党の代表選挙が見えてこなかったが、今朝の新聞各紙は「小沢代表、無投票3戦へ」と報じていた。論争よりも結束か‥‥民主党も自民党と変わらないなと思った。「小沢氏に対抗して、干されてはまずい」と人もいたようだから、これが組織というものの本質なのかもしれない。しかし、そうなると自由な討論・論戦というものは、どのように保障されるというのだろう。

 民主党内の若手といわれる前原さんやその仲間の枝野さんは、私には自民党のハト派の人たちよりも「右」に見える。国家の防衛に対してはかなり積極的考え方だ。民主党の代表の小沢さんも考え方は同じで「国連決議があれば、武力行使を含む活動でも自衛隊の参加は憲法に抵触しない」と言う。いったい憲法のどこを見てそのような解釈が出来るのか、私にはわからない。

 私のようなに軍隊不要の考えは、現実の政治に身を置いていないから言える夢想論だと片付けられそうだが、現実に留まるだけの政治ならそんなものは政治ではないと私は思っている。この国をどんな国にしていくのか、具体的な姿とその道筋を描くのが政治家の役割だ。だからこそ、そのための論争を展開して欲しい。論争をすると、党の分裂につながると言う。分裂につながるから論争はやめようというのであれば、論争は一切出来ない。

 そもそも論争すると分裂につながる体質こそおかしいのではないか。そしてまた、本当に分裂が必要なら分裂を恐れてはならない。議員たちが発言もせず、ただただそこに居座るのは正しく自己保身だ。自分が何のために政治家となったのか、政治家になるためだけが目的の人はやめた方がいい。党内で喧々諤々自らの信念をぶつけながら、一致点を見出していける政党になって欲しいと思う。

 自民党の小泉純一郎さんは、「絶対に負ける」と言われた代表選挙に何度も立候補した。政治の閉塞感を受け止め、「自民党をぶっ壊してでも改革を進める」と言い放った。そこに多くの人々は新鮮さを感じ、結局は自民党の延命に手を貸した。今の民主党には、小泉さんのように「絶対負けてもいいから自分はやる」という人はいない。「負けるような選挙はすべきではない」と、古い自民党と同じ体質に侵されている。

 こんな民主党に期待は出来ないが、だからじゃあ期待できる政党はあるのかとなると見当たらない。社民党も古い社会党から脱皮できていない。なれば、民主党が変わっていくように仕向けるしかない。明日は、私たち《無党派・市民派 自治体議員と市民のネットワーク》で、千葉県我孫子市の前市長、福嶋浩彦さんを講師に迎え、『市民自治‥我々はどう考え どう行動するのか』をテーマに公開講座を開く。名古屋市都市センターで、午後2時から。入場無料、誰でも参加できる。
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北京オリンピックの勝敗

2008年08月22日 22時28分26秒 | Weblog
 北京オリンピックで女子ソフトボールが宿願の金を獲得した。選手の皆さんの執念が実ったと思う。それに対して星野ジャパンの野球は韓国に負け、3位決定戦で勝たなければメダルの届かないふがいなさだ。私はすべての試合を見ているわけではないので、全くの外野席からの意見に過ぎないが、星野監督の采配ミスだと思った。

 星野監督はピッチャー出身だから、投手の状態はよく把握しているはずだ。しかし、素人の私にはその投手起用がよくわからない。ダルビッシュや田中という若いピッチャーの起用も、大事な場面でのベテランの起用も、私には不可解なことばかりだった。もし、選手の中に私のように監督に不信を持つ者がいれば、そのチームは本来の力を発揮するまでには至らないであろう。

 星野監督は熱い人かもしれないが、選手の掌握ではどうだろうかと思う。星野監督がまだドラゴンズの監督の頃、巨人戦でグランドでの乱闘となり、当時巨人の王監督に星野監督が足蹴りをしている場面がテレビで放映されているのを見たことがある。私は星野監督にガッカリした。プロ野球選手としての王選手にもう少し敬意を持っていてもよいはずだと、私はその時思ったので、この時から星野監督が嫌いになった。

 私は年功序列が大事なこととは思わないアウトサイダーであるけれど、年上の人やましてや功績のあった人を馬鹿にした態度は許せない古い人間でもある。リーダーとなる人はやはりそれなりの品格がなければならないし、ましてや仲間内から信頼される人物でなくてはならない。信頼される人物とは他人を正面から非難しない人だ。人の失敗を非難せず、許すことの出来る懐の大きな人だ。

 それにしても、北京オリンピックの陸上競技で活躍する人々を見ると、たとえイギリスであってもフランスであってもポルトガルであっても、黒人であることには変わりない。黄色人種というのはやはり農業の人々のようで、陸上競技の力量には欠けるようだ。野山を走り回る黒人や白人の方が陸上競技の力が備わっている。だから私は、国別対抗戦のオリンピックはやめた方がいいと思う。個人競技に徹するなら、たとえ100分の1の差で勝敗が決まっても悔いはない気がする。それぞれにベストを尽くしたし、結果などはどうでもよいことになるのではないか。

 人には運不運がある。巡り合わせもある。そんなことよりも全力を出し切ったことこそが尊ばれるべきだ。それがオリンピックの姿となるのではないだろうか。愛する人をトコトン愛したとしても、そんなことに優劣をつけたいと思う人はいないはずだ。愛したかどうかは他人では判断できない。愛した人も愛された人も、実際は判断できない。どう受け止めるかだけのことだ。人には判断できないものがある。そういう不可思議な部分があることがいいと私は思う。
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