美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

結城神社(津市藤方)

2012-11-30 21:15:42 | 津のこと


津市藤方にある、結城(ゆうき)神社です。
建武中興十五社のひとつ、というよりも「結城さんのしだれ梅」で津市民に知られています。
この結城さんが有名なので、その隣にある津八幡宮の存在感が薄いのですが、
実は現在の位置に神社ができたのは、津八幡宮のほうが古いのです。

今回は、津八幡宮と結城さんの関係をご紹介します。

まず、津八幡宮が出来たのは、
江戸時代初期の、津藩2代藩主・藤堂高次公の時代です。
もともとは垂水の山の中にあった小さな社でしたが、
狩りの最中にその社で雨宿りした高次公が、
「八幡様と言えば源氏の氏神、その社がこのような山の中で埋もれているのはしのびない」と
1632年、現在地に神社を移し、神社西の伊勢街道沿いを八幡町と命名、
町衆には煙草の専売権を与えて、八幡様を祀るように命じた、
というのが始まりです。

で、話はそこから300年ほど前に戻ります。
室町時代初期の後醍醐天皇側の武将に、結城宗広という人物がいました。
新田義貞らと、奥州から鎌倉に攻め入って鎌倉幕府(北条氏)を倒し、
その後の建武の動乱では、南朝方として北畠親房・顕家親子とともに、足利尊氏と激しく戦いました。
しかし、北畠顕家の戦死により、南朝側の軍は総崩れとなり、
結城宗広も京都から敗走、紀伊半島から海へ出て奥州に逃れようとしましたが、
暴風雨に遭って、伊勢国に漂着しました。
1339年、ここ津市で高熱のため73歳で亡くなったということです。

結城宗広公の臨終の地には、
塚が盛られ「結城塚」と呼ばれていましたが、
いつしか忘れ去られてしまったようです。


(結城宗広公の墓、カメに乗っているのは何故?)

さて結城公の臨終から500年ほどの後の時代、
津藩10代藩主・藤堂高兌(たかさわ)公の時代です。
水戸藩より、
「建武の忠臣・結城宗広公の臨終の地に墓石などが残っているのではないか」と
調査の依頼があったので、
津藩の学者・津坂東陽に命じて、津八幡宮の森を探索させます。

注)藤堂高兌公も、津坂東陽も、津の歴史上特筆すべき有名人なのですが、
ここでは詳しい説明はパスします。

どうして水戸藩なのでしょうね?
水戸藩は「水戸の黄門様」で有名なように、徳川将軍家の親戚(徳川御三家)ですが、
江戸時代後半には「水戸学」と言って、
「日本国は天皇を中心に統治されるべき」という思想が流行します。
そういう水戸藩の風潮もあって、
幕藩体制下で忘れられていた「建武の忠臣」を見直す動きになったのでしょうね。

さて、探索の結果、
津八幡宮の森の中から「結城塚」の祠が発見されたので、
1824年、藩主・藤堂高兌公が社殿を造営し、結城神社としました。


(結城神社の銅製の狛犬、長崎の平和記念像で有名な北村西望の作品である)

さらに明治になって、三重県を訪れた明治天皇が200円を祭祀料として寄付されました。
これを機に県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられ、
現在のような結城神社になったということです。

もしも、
「水戸の黄門様」が水戸藩に国学を奨励していなかったら、
後の時代に「結城塚」が発見されることも無かったのかもしれません。
そうすると、結城神社も「しだれ梅」も無かったのですね。

水戸学について

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ボリュームグラタンコロッケバーガー(ヤマザキパン)

2012-11-30 11:15:52 | コンビニグルメ


ヤマザキパンの
「ボリュームグラタンコロッケバーガー」です。

パンからはみ出しそうな大きさのコロッケをサンドしています。
1個でかなりのボリュームがあります。
ガっつり食べたいときには最適ですね。



メンチカツロール(ヤマザキパン)
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円光寺の紅葉(河芸町)

2012-11-29 21:15:12 | 津のこと


津市河芸町、本城山公園近くの円光寺の紅葉です。
円光寺は、伊勢上野城を築いた分部氏の菩提寺です。

織田信包の家臣として伊勢上野城を築いた、分部光嘉、
光嘉の子・光勝(29歳で早世したため、光嘉を継ぐことはなかった)、
万(光嘉の室)、分部光高(光嘉の養父)の墓碑があります。



万松山 円光寺 
延文3年(1358)栗真庄に後光厳天皇の勅願寺として開創。
一休さんでおなじみの蜷川新右衛門の息子親元の「蜷川親元日記」にも度々記載が見られる。
1555年頃、城主分部氏の菩提寺となり、百石を受領。
1619年分部氏の所替えにより近江大溝(高島市)に円光寺も移った。
しかし、伊勢上野の円光寺は、その由緒が重んじられ紀州徳川家の祈願所と定められ24石を賜った。
分部氏先祖の墓碑、分部光嘉の木像、紀州藩主の位牌が祀られている。 
(河芸「江」の会のホームページより)

そうなんです、
アニメ「一休さん」に出てくる「新右衛門さん」はフィクションだとずっと思っていたのですが、
実は、蜷川新右衛門という人物は実在したのです。
ただし寺社奉行ではなく、幕府政所の役人だったそうです。



蜷川氏もまた「幕府奉公衆(奉公衆二番に所属)」であり
また、政所代(政所の長官、次官に次ぐナンバー3の役職)の職を世襲していました。

そのような幕府高官の蜷川氏が、度々記録に残すほど、
室町時代の伊勢の円光寺は、隆盛していたのです。



分部光嘉が築いた伊勢上野城、
信長軍に救出されたお市と浅井三姉妹が、伊勢上野城で7年間過ごしたことが知られるようになり、
分部氏の菩提寺である円光寺も脚光を浴びるようになりました。

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辰水神社のジャンボ干支の製作が始まりました(11/26)

2012-11-29 11:15:32 | 津のこと


津市美里町の冬の風物詩・辰水神社のジャンボ干支の製作が
11月26日から始まりました。



作業初日は、図面を実物大に拡大する作業、
段ボールを広げ、ヘビの絵を書きこんでいきます。



実物大の図面を段ボールに書いて、1日目の作業は終了。



作業2日目(11月27日)、
骨組みとなる鉄骨をカットして、図面に合わせて並べました。



図面どおりに鉄骨をカットして2日目の作業は終了、
翌日、これを溶接して骨組みは完成です。

さすが、手慣れているというか、
作業の段取りが良いですね。

>昨年のジャンボ干支・辰の親子
ジャンボ干支が辰水神社に飾られました

※この項の画像は、アキラさん撮影です。
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ミルフィーユ・カスタード&ホイップ(ファミリーマート)

2012-11-28 11:15:35 | コンビニグルメ


ファミリーマートの10月の新商品、
「ミルフィーユ・カスタード&ホイップ」です。



白い粉やらパンの破片がぽろぽろと落ちるので、
テーブルの上で食べたほうがいいですよ。

ダブルデニッシュチョコチップ(ファミリーマート)
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