マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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丹治の厄除け地蔵参り

2017年11月17日 09時45分02秒 | 吉野町へ
吉野町の丹治に厄除け地蔵参りが行われていると知ったのは奈良新聞に載った記事が発端。

行事というか、丹治の風習のような。

何十カ所に亘って出かける地蔵参りに1カ所ずつ餅を供えると云う厄除け祈願であった。

吉野町在住と思われるTさんが投稿した平成22年2月2日掲載の「雑記帳」記事にその在り方を次のような短文で紹介していた。

「私の住む吉野山のふもとの丹治地区には何カ所もお地蔵さんがあり、住民の生活の中にある糧、安らぎを与えてくれます。この地区の風に、男性42歳の厄年になれば餅(もち)米一升で42個のお餅を作って2月1日にその数だけのお地蔵さんにお供えして厄除け祈願をするという習わしがあります。昨今はこの風習も実行されることが少なくなったようですが、私は息子の前厄、本厄、そして今年2月1日は後厄で3年続いた地蔵まいりを無事終えてほっとしました。・・中略・・このお地蔵さんはいつごろから存在したのか、また、こういう風習がいつごろ始まったのかは分かりません。隣接する他の地区ではこういう風習は聞きません」とあった。

続いて書かれていた文は「8月24日の地蔵盆には、赤、黄、緑の色を散りばめて花や野菜などの抜き型で抜いた美しいしんこと呼ばれる米粉のお団子をたくさん盛ってお供えする習わしも、この地区だけのようです」である。

タイトルは「お地蔵さん」。

丹治に2件の行事と風習をされているのなら、是非とも取材をしてみたいと思って車を走らせた平成24年2月1日

到着した時間帯は午後1時。カーナビゲーションも装備していなかったころは予めパソコンで印刷出力しておいた丹治の地図を片手に地区を探してみた。

旧街道におられた製材所を営む男性に尋ねてみた丹治の厄除け地蔵参り。

ご主人の話しによれば、今朝7時に奥さんが厄除けの地蔵参りをしていたそうだ。

ご主人の息子さんの厄は今年が前厄。

息子は仕事にでかけたが、地蔵さんにお餅を供えて巡拝したのは奥さん。

厄除け対象年齢になった男も参拝することがあるらしいが、地区では決まって男性の奥さんが巡拝の役目を担っているという。

ちなみに独身であれば、どうなるのか。

その場合は母親が巡拝する、という。

すべての地蔵さんを参るには1時間もかかるらしい。

その年に厄年になった男が複数人の場合であっても、それぞれの家ごとに巡拝するからどこで出会うのかわからない。

出会えたらまだ良い方だが、対象年齢の男がいなければ、いくら待っても出会うことはない。

自治会でもなく、講でもない。

団体集団でもないから、出発する時間も、初めに参る地蔵さんもそれぞれであろう。

ましてや対象年齢の男を地区で把握しているわけでもないので、取材は非常に難しいと感じたこの日であった。

2年後の平成26年2月1日にも訪れた。

2年前に聞いていた午前7時が出発時間。

前厄を済ました男性はこの年であれば後厄になる。

お家もわかっていたのでやって来たが、午前9時半まで待っても現れなかった。

仕方ないが諦めた。

ただ、巡拝されているならお供えが残っているかもしれないと思って、付近の地蔵尊を探してみる。

1、2、3、4カ所の地蔵さんを探してみたが、お供えは見つからなかった。

その理由は聞かずじまい。

その代わりといっては何だが、8月24日に行われている地蔵盆に「シンコ」団子を供えているという婦人に出会った。

「シンコ」団子以外に驚いたのが野菜などで作った造りものもあると知った。

「雑記帳」に投稿されていた地蔵盆の在り方を記録写真で拝見できたわけだ。

その年に早速拝見した丹治の地蔵盆行事

地蔵さんがあるところそれぞれの垣内ごとに行われている。

それらの地区は分かっただけでも上第一・第二・第三・中一組、向丹治、地蔵院、金龍寺、中二組(木戸口垣内)。

他にも数か所の地区でしているらしいが、調査する時間もなくて諦めた。

それは近鉄電車吉野神宮駅より南に向かう山の中にもあれば線路沿いの地もある。

駅近くの製材所に中二組(木戸口)から東に下った地にもあると話していたが・・・時間切れだ。

それから2年後の平成28年8月24日

写真家Kの希望を叶えたくて訪れた丹治の地蔵盆。

特に見てもらいたかった向丹治の地蔵盆。

この日に出会ったお家でシンコ団子作りを取材させてもらったご婦人が話してくれた厄除け地蔵参り。

この年が本厄参りで翌年の平成29年は後厄参りをする予定があると云う。

後厄になるのは娘さんの旦那さん。

仕事で生憎参られないが、娘さんに婦人夫妻がすべての地蔵さんに参って餅を1個ずつ供えると話してくれた。

まさか、このお家に厄除けの男性が・・・。

千載一遇の機会は逃しては一生悔やむことになるだろう。

思い切ってお願いしたら承諾してくださった。

ちなみに奈良新聞に投稿された「雑記帳」の記事を書いた女性はよく知っているという。

新聞記事を拝見してから7年も経っていた。

奇遇な出会いによってようやく実を結ぶ。

だいたいが朝の7時に出発するが娘さんの都合もあって子どもを保育所に送る関係もあって、それからにすると話していた。

また、地蔵さんに供える餅は家で搗くのではなく、和菓子屋さんに頼んでいるからそれが出来上がって受け取ってからになると聞いていた。

受け取り時間は約束できないが、その前後になるようだ。

そして、その時間帯に合わせてやってきた向丹治。

お家近くの道路で出会った3人は自家用車で巡拝する。

実はと云ったのが向丹治の山の中におられる地蔵参りは先ほどしてきたというのだ。

山の中におられる地蔵さんは向丹治の地蔵さん。

年に一度の8月24日は向丹治の集落に移される地蔵さんである。

そこに参って近鉄電車の吉野神宮駅近くの踏切にある2体の地蔵さんにも供えてきたという。

そこの参拝を終えて戻ってきたという。

携帯電話の番号を伝えておけば良かったね、と云われてもう遅い。

ここから再出発する地蔵参りは旧街道を順番に下りていく。

はじめに巡拝されたのは上第一地区の地蔵さん。

地蔵盆を終えてから地蔵堂は土台を残して撤去していた。

それから数カ月には新築された地蔵堂に戻された。

屋根は銅板に葺き替えられて美しくなった。



ローソクを灯してオヒネリに包んだ餅1個を供えてお参りする。

次はそこより下った地にある上第二地区の地蔵さん。

上流の吉野温泉地辺りから流れてきた水流は丹治集落を南北に流れ落ちる。

やがて本流の吉野川に流れる水流であるが、その途中の三叉路に架かる橋のすぐ近くに建つ地蔵堂がある。



そこも同じようにローソクを立てて火を灯す。

御供餅はオヒネリ包み。

仮に地蔵さんがここに2体あれば2個の餅を供える。

丹治すべてのお地蔵さんに供える後厄の餅の数は43個。

前年の本厄であれば42個の餅。

3年前の前厄であれば41個の餅を供えるのが習わしである。

3年間に餅は1個ずつ増えるが原材料の餅米は一升である。

搗いた餅をそれぞれの個数にしていたというから分配する計算が難しかったと想像できる。

次は橋を渡らずに右奥手にある地蔵さんに参る。

その場は上第三地区の地蔵さん。



ここも同じようにローソクを立てて火を灯す。

同時に餅1個をオヒネリにしてお供えすれば3人揃って手を合わせる。

願い事は厄除け一筋。

若い旦那さんの健康を願って拝んでいた。

ここは中垣内。

地蔵さんから見て北に向かって見上げる。

頂上はまったく見えないが、その山は城山(しろやま)の地

かつて蔵王堂を本丸、奥の高野山の高城城(標高702m)を詰城。

濠の役目をしていた吉野川の南岸に出城の丹治城(標高260m)を築いたそうだ。

中垣内の人たちに、いっぺん見に行っておいたらいいよと云われていたが、この日はその余裕もなかった巡拝取材である。

旧街道は狭い道。

通行の邪魔にならないように停めていた車に乗って北上する。

距離にすれば遠くもない地に地蔵院がある。

お寺さんに申し出て参らせてもらう本堂に延命地蔵尊が安置されている。

本来なら本堂の上り口に餅を供えるだけであるが、お寺さんのお許しをいただいて上がらせてもらって祈願する。



燭台にローソクを3本立てる。

厄除け祈願に訪れた3人の数のローソクに火を灯して祈願する。



地蔵院には別室に地蔵菩薩立像も安置している。

その部屋でもローソクを立てて火を灯す。



お供えの餅1個を祭壇に置いて手を合わす。

これまでと同じように時間をかけてきっちり唱える厄除け祈願である。



地蔵院からそれほど遠くない木戸口垣内の地に建つ浄土宗金龍寺にも巡拝されるが本堂ではなく境内にある地蔵立像である。

中央に立つ地蔵さんも両脇にちょこんと座った地蔵さん、それぞれにオヒネリに包んだ餅を供える。



ローソク立ては木片に2本の燭台。

火を点けてから手を合わされる。



その右隣に建つ地蔵堂は古くから安置されている地蔵さん。

お堂の扉を開けてオヒネリ餅を供えて手を合わせる。



ちなみに前述しておいた丹治城への登り方だ。

実はここ金龍寺の裏にある山が出城の丹治城。

山頂に向かう小道を登っていけば、西曲輪や帯曲輪ならびに主曲輪に到達するようだ。



次の地蔵さん巡りは金龍寺下の四叉路の角地に立つ木戸口垣内の地蔵さん。

丹治公民館下でもあるこの地蔵さんすぐ横に郵便ポストもあるからわかりやすい。

次は場所が離れて製材所が立ち並ぶ地域に向かう。

すぐ近くには吉野水分神社があるようだが、そこではなく製材所の角地に建つ地蔵堂である。



土台などは新しいが地蔵堂はそれほどでもなく古くもない。

近年において土台だけを整備されたように思える。

参っては次の地蔵さんに向かう。

その繰り返しもここらあたりで終わりかと思えどもまだまだ続く厄除け地蔵参り。

再び戻った道は東西を走る旧街道である。

木戸口垣内から東は飯貝(いがい)の地区。

街道から南側に奥まったところに建つ地蔵堂がある。

世話人は飯貝の飯貝茶屋/第三隣組。

ここもそうだが、丹治、飯貝の地蔵さんは綺麗にしてはる、と思った。

第三隣組の地蔵さんはやや高台。



覆い屋根があるから雨の日でも安心してお参りができる。

お花も手向けているが、お地蔵さん側に花びらを向けているのが嬉しいが、どうやって上がったのだろか。

ここよりさらに下って、というか、東に向けて車を走らせる。

勢い余って通り過ぎてしまうくらいにわかり難い土地勘もあるし、車を一時停車させる場所も難しい。

対抗する車に迷惑をかけたくない。

気持ちは少しでも離して停めざるを得ない旧街道に神経をつかう。

次の行先は「神武天皇旧跡 井光の井戸伝承地」を誘導する看板が目印。

その伝承地ではなく街道から少し歩いたところ。



石で作った扁額「水分大明神」をかけている鳥居右横にある地蔵堂である。

鳥居の先、300mほど登った地に鎮座する飯貝の水分神社があるらしい。

お参りされている向こう側にある街道にグリーンマークの「30ゾーン」表示が見えるから、この街道の最高速度は30km以内。

速度を増しておれば対抗する車に気づくのが遅れて、事故を起こしかねない街道は要注意だ。

巡拝に残すはあと2カ所。

もうすぐ満願する。

街道はさらに東へと向かった先の一段高い地に建つ地蔵堂。



ここもまた飯貝であるが、在垣内はどこになるのだろうか。

どの地蔵さんであってもローソク灯しに餅御供は欠かせない。

今年は後厄の43歳であるから餅は43個も供える。

前年の42歳は本厄で餅は42個。

前厄の41歳は41個。

厄年の歳の数の餅を供えて厄祓い。

3年間とも一升の餅米で搗いた餅を供えて気がする。

およそ14カ所にもなる丹治・飯貝(一部)の地蔵さん巡拝は残すところあと1カ所。

旧街道から離れて大河の吉野川の畔にでる。

堤防沿いの道は車も通行が可能。

桜橋南詰め傍に建つ地蔵堂にラストラン。

並んだお堂は二つ。



手前の地蔵さんに参拝してすぐ横に建つ地蔵堂に向かって手を合わすこの地の地蔵さんは上ノ町の地蔵尊である。

厄に各地区に安置する地蔵さんに厄除け餅を供えてきた。



これほどの箇所に亘って地蔵参りをする地域は奈良県内では聞いたことがない。

こうして厄除け祈願した餅は関係者でなくても貰える。

もちろん祈願した餅である。

供えた餅は厄除け祈願を込めて参った地蔵さんのお下がり。

厄の人は出会った人に下げた厄除け餅をさしあげることができる。

受け取った人はありがたい餅ではあるが、差し上げた厄の人からみれば、受け取った人に厄移しをしたということになる。

そう話してくれたF家族。

厄移しをしてくださった餅はありがたくいただいた。

数時間に亘って貴重な風習に同行させていただき感謝する次第だ。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。



「・・・地区の昔の人は一番身近にあった地蔵さんいろいろな願い事をして生活の中に溶け込んでいたのでは?と思います。現在も毎日必ずお地蔵さん参りをしている人も見受けられますし、順番でお花やお水を取り換えている所もあります。・・中略・・人々の生老死を見つめてきたお地蔵さん、どうかいつまでもみんなを見守ってください」と投稿者が結んでいた。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)

丹治の山の神祭

2017年08月11日 09時41分20秒 | 吉野町へ
山の神を祭る日は7日。

圧倒的に多い県内事例は1月7日であるが、地域によっては12月7日とか、11月7日もある。

稀に6月7日にしているという地域もある。

山の神の行事をされている地域は山間地。

木材業が盛んである地域にある。

この日に訪れた地域は吉野町丹治であるが、当月の11月行事であればこれまで取材した地域に吉野町小名の上出垣内もある。

天川村は天河弁才天社西の坪内垣内。

東吉野村は鷲家の川向垣内や上鷲家の大西垣内

五條市は旧大塔村の阪本

御所市であれば日程は申の日である鴨神上郷西佐味水野垣内。

東山間部にあたる奈良市柳生町の山脇もあれば桜井市の横柿もある。

また、話しは聞いているが、未取材地域に吉野町の喜佐谷や天川村の南日裏、黒滝村の赤滝がある。

桜井市の鹿路にもあると聞いているが時間帯は判然としない。

県内くまなく取材をしたいものだが、同一日行事であるだけに何十年もかかってしまう。

吉野町の丹治に山の神行事があると知ったのは平成26年2月1日

所在地を探してみたが見つからなかった。

この日も見つからない。

聞いていた時間帯であるが、早く着き過ぎたのか人影すら見えない。

山の神の所在地は山の中かもしれない。

そう思って急坂を登ってみるが見つからない。

諦めて下ったところに軽トラが停まっていた。

たぶんにここであろうと思って近寄ってみれば、そうであった。

今年当番の上第一、第二垣内の人がお供えをしていた場所は幹回りが太い年代ものの大杉の下。

厚めの一枚板をコンクリート祭壇に載せて御供を置く。

塩、洗い米に生鯖が一尾。

プラスチック製のコウジブタに白い餅がある。

特殊なものなど、一切ない。

饅頭屋に頼んで作ってもらった御供餅はもっとあるが、祭壇に載せられないからゴクマキの場に置いていた。

参拝者はめいめい。

神饌料を奉げて手を合わせる。



丹治の山の神祭には神職は登場しない。

めいめいがやってきて参拝する自由参拝。

山の神の場はハイトダニと呼ばれる谷の地。

勾配のキツイ斜面を登って参拝する。

丹治の山の神は神木の大杉。

百年ぐらいはここに立っているという。



山の神がある山は区有地。

丹治の北の口にあたる。

山の向こう側は大字吉野山の境界になる。

近鉄電車の吉野線に沿って県道を少し南下すれば吉野の千本口駅だ。

丹治に貯木場がある。

川上村から伐り出した木材は丹治に運ばれて加工している。

そういう関係もある製材仕事の従事者はこの日は休みだ。

昭和13年の殖産制度に発展した丹治の江戸時代はタバコの葉の生産地。

養蚕業に欠かせない桑畑もあったという。

そんな話をしていた神木の地はしっかり踏み込んでいなければ後ろに反ってしまうぐらいの急勾配の地である。

参拝を済ませた村の人はここより下ったところで暖をとっている。

その場の方がやや広い地。

しかも安定しているから皆が集まって寄り添う場所でもある。

30分も経ったころだろうか。

立ち状態でトンドにあたっていた参拝者たちは場を移動した。

コンクリートの崖上より投げるゴクマキがこれより始まる。



実は聞いていた時間がそのゴクマキ時間であったのだ。

高齢のご婦人たちは山へ登ることができずにアスフアルト道路のゴクマキ場下から拝んでいた。

トンド場にいた村の人の数の倍以上もおられるゴクマキ場を見て、そう思った。

思う存分の御供餅を投げる男性たち。

道路にいる人たちは右や左に手が伸びる。

ときには後ろに転がっていく。

面白いことに逃したモチが落ちた痕跡が白、白の点々。



ハ、ハ、ハか、ヘ、ヘ、ヘの文字に一、一、一の数字もある。

そんなことはお構いなしに餅を手に入れたい人は動き回っていた。

ちなみに丹治は山の神以外に神社の年中行事がある。

マツリは10月。

新嘗祭は11月23日。

山の神と同じようにゴクマキをしているらしい。

丹治にある神社は2社。

一つは吉野神宮駅近くにあるこうもり神社。

充てる漢字は子守神社のようだ。

もう一社はおおもり神社。

充てる漢字は大森神社であろうか。

また、場所はわからなかったが、弁天社もあるようだ。

また、丹治会館があるところの山の上はシロヤマ(城山)。

この地は以前も聞いている街道を歩く侍を上から見下ろして監視していたという地。

一度は拝見してみたいものだが、機会があればの話しである。

(H28.12. 7 EOS40D撮影)

津風呂入野の九月子安地蔵会式

2017年05月18日 09時08分28秒 | 吉野町へ
吉野町入野(しおの)の子安地蔵尊に会式をしていると知ったのは前月の8月28日だった。

調べていたのは子安地蔵ではなく吉野町津風呂・鬼輪垣内で行われていた旧暦の八月十五日のイモ名月である。

鬼輪垣内は開発された津風呂湖中に全村もろとも沈んだ。

行事は見つからなかったが隣村の入野(しおの)で子安地蔵会式をされていることがわかった。

着いた時間帯は午後1時前。

何人もの人たちが地蔵堂に集まっていた。

前月にお話ししてくださったKさんもおられる。

参拝される村の人たちにお声をかけて取材の主旨を伝える。

代表を受けてくださったのは区長のUさん。

珍しい地蔵さんも行事も大いに宣伝してくださいと云われて取材に入る。

普段の地蔵堂は扉が閉まっている。

格子戸から見えなくもないが、本尊の扉は閉まっているので実態は見えない。

ご開帳されるのは一月二十四日と九月二十四日。

ただ、平成22年からはいずれも第三日曜に移された。

それがこの日である。



本尊の地蔵さんは「元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

安置されている「子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板では例祭とあるが仏行事なので会式であろう)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移されている。

浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしいと聞いていたが、どうであったのだろうか。

もっと早くに済まされていたのでろうか聞かずじまいだった。

見上げるように子安地蔵さんを拝ませてもらった。



安産などを祈願した涎掛けがあるその首は龍でもない。

耳があることからもしかとすれば玄武だろうという村人たち。

確かに亀のような脚が見える。

のっそり、のっそり今でも歩きそうな脚に似つかわしくもない顔は一体何であろうか。

中国の説話に龍の一番末っ子が亀の形をしていると云う。

調べてみれば龍の頭に身体が亀の龍亀のようである。

それにしてもだ。

龍であれば長い髭があるのでは・・・と思ったのだが、類例が見当たらない。

地蔵尊を称える板書がある。

要約すれば「霊験あらたかな子安地蔵さんは子供を安らかに生ませて、健康を守り、病気や悪い癖まで治してくれる。首にかけてある涎掛けを一枚受けて、腹帯に差入する。安産が叶えば新しい涎掛けを持ってお礼参りをする習慣、信仰がある」である。

子供に恵まれたい人は願掛けにくる。

生まれたら新調した涎掛け寄進する。

古いのは1月14日の午後2時から行われるとんどで燃やす。

そう話してくれたのは村の人たちだ。

入野(しおの)の戸数は15、6軒。

かつては20軒もあったが、少なくなったという。

この日の当番は4軒当家(とうや)さん。

上、下の組のそれぞれ2軒が務める。



左手に珠を持つ地蔵尊の目の前に当家(とうや)さんが仏飯を供えていた。

云われてみなければ失念していたかも知れない。

仏飯杯を納めていた箱も見せてもらった。



年号を示すものがあればと思ったが時間がない。

適当な時間までここに居て参拝者を待つ。

そろそろ場を替えましょうといって会所に移動する。

会所は入野生活改善センター。

これより始まるのはゴクマキだ。

この日は朝から雨が降っていた。

本来ならば地蔵堂の場でゴクマキをされるのだが、雨天の場合は安全を考慮して入野生活改善センターで行われる。



参拝者の楽しみはゴクマキ。

当家が撒く御供餅に手を伸ばす。



子どもたちも大人も大はしゃぎで餅を手に入れる。

僅か数分で終えたゴクマキ。



降り出した小雨に傘をさして家に戻っていった。

ちなみに入野に鎮座する神社がある。

この場より少し外れた処にあると聞いて立ち寄った上宮(じょうぐう)神社。



11月23日の午後3時からこの日もゴクマキをすると話していた上宮神社は神社庁表記では「うえのみや」になるそうだ。

(H28. 9.18 EOS40D撮影)

求める鬼輪の前に出合った入野の子安地蔵尊

2017年04月24日 09時31分42秒 | 吉野町へ
史料名は記憶にない。どこで見つけたのかも覚えていないが、そこから抜き出した簡単なメモ記がある。

平成25年の9月のコメントに付記していたのでメモっていたのはその年だ。

メモの内容は「吉野町津風呂・鬼輪垣内では旧暦の八月十五日にイモ名月があると書いていた。

旧暦の八月十五日は十五夜(じゅうごや)。

いわゆる中秋の名月にあたりサトイモの皮を剥いだダンゴをお月見と称して夕方のころから屋敷内に供える。

そういう風習は今も昔も変わらないが供えるのはサトイモではなく餅若しくは饅頭。

いずれも甘い和菓子。

本来の意味を失っている。

サトイモの皮を剥いだら真っ白。

楕円形ではないまん丸な形のイモはお月さんに見立てたもの。

例年であれば12個のイモを供えるが、旧暦閏年は大の月が13カ月となることからイモの数は13個になる。

そういうことをしていた鬼輪垣内の風習は「芋の子」の名があった。

果たして鬼輪垣内はどこにあるのか・・、である。

カーナビゲーションにセットした津風呂を示す通りに走っていく。

南国栖に抜けるトンネル道。

その手前、右折れを示すカーナビゲーション。

下っていけば右手に本堂が建っていた。



それは入野(しおの)の子安地蔵尊であると案内板書があった。

板書を要約すれば、「地蔵さんは元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

「現在、安置している子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板に例祭とあるが仏行事と思われるので会式とした)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移したとある。

もしかとすれば拝観させて行事取材も、と思って現地住民を探してみる。

一人の男性がおられたので声をかければ、なんと3週間前に村入りした東京の人だった。

一時的に住んでいた川上村を離れて当地に来たのは農業従事の専門者になるためだそうだ。

そういう男性が紹介してくれた婦人が住む家を訪ねたがお留守だった。

そこら辺りで見渡せば畑に婦人がおられる。

声をかければもともと当地で生まれ育った婦人。

住まいは田原本町だがここで畑仕事をしているという。

娘さん時代にはおばあさんが尋ねるイモ名月をしていたという。

が、離れて云十年。

村の姿は・・・わからないという。

そこよりさらに下った処は津風呂ダム湖の東の端。

旧家があったのでここでも尋ねるが鬼輪のことは知らないというが、子安地蔵のことはご存じだ。

来月の会式にはお菓子を撒くゴクマキがある。

午後の時間帯、浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしい。

とにかく知りたい鬼輪垣内のこと。

場所も判らず、湖畔を回遊するかのような道路を走って探し回るが集落どころか家、一軒も見当たらない。

かつてダム湖に沈んだ村がある。

垣内はたぶん上津風呂に下津風呂であろうか、72戸の人たちが移転を余儀なくされた。

その人たちの一部(20戸)が移住した先は奈良市内。

山陵町(みささぎちょう)内にある津風呂町地区になるそうだ。

さて、鬼輪垣内のことである。

津風呂湖で一番賑わっている場所はといえば津風呂湖観光株式会社があるところだ。

ここなら何かの手がかりが掴めるのでは、と思って尋ねたら社長が一番よく知っていると云われて紹介された。

社長の話しによれば、鬼輪は昭和37年にダム湖が完成する以前の建設が始まった昭和29年ころに移転したという。

ここより見渡す向こう岸。

左手は平尾垣内。

谷を隔てて右寄りに津風呂垣内があったという。

そこら辺りが鬼輪垣内だった。

昭和26・27年発行の地形図に「鬼輪」の文字があるらしい。

村はダム湖建設によって沈んだ。住民は移転したという。

鬼輪の戸数は3軒だった。

うち、一軒は津風呂町に移転した。

2軒は隣村の大字平尾に移転したという。

移転したうちの1軒を教えてもらって探してみたが、結局は判らなかった。

万事休す。である。

(H28. 8.28 SB932SH撮影)

吉野山口の地蔵盆

2017年04月18日 08時24分25秒 | 吉野町へ
吉野町の香束(こうそく)から下っていけば吉野山口に着く。

当地に鎮守の神社がある。

吉野山口神社である。

神社行事の一つに秋祭り大祭がある。

その行事は平成18年の12月3日に取材させてもらった。

ここを通る度に奉納される餅御供を詰めた器の「ぼっかい」を思い出す。

「ぼっかい」は「ほっかい」が濁った「ぼっかい」の呼び名で表現していた。

充てる漢字は「行器」である。

通り抜けようとした吉野山口に明かりが灯る。

今まさに始まろうとしていた地蔵盆である。

当番と思われる女性が提灯にローソクを灯していた。

その先にも明かりが見える。

近づけばそこも地蔵盆。

ローソクを灯した場に僧侶が立つ。

周りを囲むように地区の人たちが居る。



僧侶は地区浄土宗西蓮寺のご住職。

念仏を唱えていた。

そこの念仏を唱え終わると先ほど拝見した地蔵さんに向かう。

何人かの人たちが付いていった。

急がねばならないが、念仏を唱えた地蔵さんに供えた野菜造りの立て御膳を拝見することを優先した。



香束と同様に串挿しの土台はカボチャ。

香束とは違って大小2個のカボチャを雪だるまのように二段構えにしている。

眉毛はオクラ。

目はトマト。

鼻はナスビに口は赤ピーマン。

耳はホウズキで両手はナスビだ。

お腹部分には花丸模様であろうか。

この立て御膳は怖い顔のように見えた。

話しを聞けばその通りの怪物版。

20年ほど前から立て御膳をするようになったと云う。



そこには木桶に盛った平べったい餅がある。

3斗も搗いたハンゴロシオゴクだという。

「ハンゴロシ」は餅米1に対して粳米は2の量。

米の角を取って半日がかりで搗いたそうだ。

「オゴク」は御供である。

それらを拝見して先の地蔵さんの場に急行する。

お念仏は終わっていなかった。

提灯の灯りだけなので辺りは真っ暗だ。



申しわけないがストロボを当てさせてもらって撮った。

24日は地蔵さんのお勤め。

なむあみだぶつと十篇唱えさせてもらっていますと云う。

お念仏を終えたら恒例のゴクマキ。

地蔵さんにそなえた「ハンゴロシオゴク」を撒く。

この場もそれほど明るくない。

これもまたストロボを発光させてもらってシャッターを押す。

小さな子供たちは前へ。



そこに優しく手渡す「オゴク」である。

それもあれば皆が喜んで取り合いするゴクマキに熱中して地蔵盆を終えた。



吉野山口の行事はこの日の地蔵盆以外に8月17日の十七夜(かつては盆踊りがあった)や同月28日の風日待、9月1日の八朔盆踊り、同月の24日の午後と夕刻にマツリをしているという。

また、7月10日はコムギモチもあれば柿の葉寿司もある。

これらは村の各戸が作って食べているそうだ。

12月7日もマツリ。

かつては青年団が戸板に餅を乗せて運んでいたそうだ。

吉野山口の行事は多彩。

是非とも再訪したいものである。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)

香束の地蔵盆

2017年04月17日 08時32分32秒 | 吉野町へ
吉野町の香束(こうそく)。

三茶屋の信号から国道28号線は佐々羅へ抜ける道。

ここら辺りは幾度となく車を走らせた街道である。

午後6時55分に通っていた地が香束である。

集落が固まっている地に灯りがある。

そこには何人かの人が居る。

車から見えた地蔵さんにお供えがある。

それは立て御膳のように見えた。

車を停車させて場に近づく。

居られた人たちに声をかけて立て御膳を撮らせてもらう。

それはまさしく立て御膳。



半切りしたカボチャに串挿し。

彩り豊かに挿した野菜は赤ピーマン、ホウズキ、ナスビ、ミョウガにキュウリだった。

地蔵さんの下には祭壇がある。

ガラスケースにしているローソク立て。

ローソクの灯りがガラス板に反射して明るい。

その前にある線香は何本あるのだろうか。



赤く燃える線香に煙がくゆる。

辺りは真っ暗だが地蔵さんには電灯も照らしていた。

もうすぐやってくる村の導師が般若心経を唱えるそうだが、先を急がねばならない。

申しわけないが失礼させてもらった。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)

丹治・上第一の地蔵盆

2017年04月15日 09時20分45秒 | 吉野町へ
向丹治(むかいたんじ)で良き出会いをさせてもらった。

ここ吉野町の地蔵盆の状況を教えてもらったお家がある。

その日は平成26年の2月1日

厄祓いに丹治の各地区にある地蔵さんを巡って餅を供えていく風習を調べにきた日である。

結果的に云えば該当者に遭遇することはなかった。

なかったが、地蔵盆に供える御膳や野菜で形作る造り物の在り方を知った日である。

撮った写真があるからと云われて拝見した造り物に度肝を抜かれた。

それがきっかけとなった上第一の地蔵盆は平成26年の8月24日に拝見させてもらった。

地蔵さんがある場近くに住む婦人にこの日もまたお会いした。

平成26年に伺ったときと同様に御膳は野菜盛りになっていた。

見事な盛りが美味しく見える。

マヨネーズにドレッシングをかけて食べたいと思った。

着いた時間帯は午後4時40分。

早くも地蔵さんの提灯に火が点いた。

祠内も灯りがある。

ローソクではなく電灯である。

地蔵さんの前に供えたのは色粉を塗したシンコである。

みたらし団子やちらし寿司。

ブドウなども同じように供えていた。

先を急がねばならないこの日の地蔵盆巡りは大淀町もある。

申しわけないが、礼を述べて失礼した。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)

丹治・向丹治垣内の地蔵盆にシンコ御供

2017年04月14日 10時10分33秒 | 吉野町へ
明るいうちに着いて拝見したい地蔵盆がある。

シンコダンゴにちょんちょんと色付けする。

3色の色粉で色付けしたシンコダンゴは藁筒に串挿しする。

数が多いから見事なものだと思った。

その前には塗り椀に盛った御膳も供える。

また、野菜で作った御膳も供える。

私が初めて拝見したのは平成26年の8月24日だった。

そのときの話しを写真家Kさんに伝えたら是非見たいという。

民俗を取材している者にとっては是非ともとらえておきたい行事は視点を替えて記録に残してほしい。

そう思って案内する吉野町丹治の地蔵盆。

丹治で行われる地蔵盆は垣内ごとにある。

2年前に訪れて取材した垣内は上第一・第二・第三・中一組、中二組(木戸口)、向丹治(むかいたんじ)だった。

その日は時間も足らずで金龍寺境内の地蔵仏やワセダ地蔵仏に飯貝(いがい)の三地区は拝見できなかった。

多数の地区でされているだけにどこに絞って良いやら悩ましい。

この日は丹治だけでなくまだまだ取材しなければならない地域が多い。

仕方なく、と云えば申しわけないが、この日だけが山から下ろして祭っているという向丹治垣内に決めた。

2年も経てば当番の人は違っている。

特徴的なお供えもある向丹治を再訪させてもらったことを伝えて取材の了解を得る。



拝見したシンコダンゴは同じであった。

桶の台に立てたシンコダンゴが美しい。

塗りの御膳もまた美しい。



すべての椀の蓋は開けていなかったのでごく一部であるが撮らせていただく。

中央の椀はプチトマトを添えたゴマ振りのキュウリ揉み。

その横の椀は生野菜。

ササゲマメ、オクラにニンジンがはみ出している。

母親は家でお供えするシンコダンゴを作っている。木枠に搗いたモチ(ダンゴ)を入れて型を作る。

木枠はいくつかあり、それぞれが異なる形状をしている。

型枠に入れて作ったモチは色粉で色付けしている。

そう話してくれた女性にもしよろしければと作っている状況を取材したいと申し出た。

女性が云った。

「顔だしせず、手だけなら・・・」という条件付きの撮影に許可してくださった。

女性が住む家では母親が中心となってシンコダンゴの御供作りをしている。

毎年のことで、小さいころから作業を手伝っていると云う。

案内されたお家に上がらせてもらう。



木枠にモチを詰めて型取りをする。

こういう具合にしていると説明してくださる。

型抜きはいろんな形がある。

一枚の型枠に数個の型抜きがある。



象や亀、梅、松、蝶、栗、桃、貝などすべてが手造りの型抜き枠。

昔の丹治では各戸にこうした型抜き枠があった。

それぞれの家が独自に作った型抜きでシンコダンゴをこしらえていたそうだ。

うち一枚の型抜きの側面に「十七年」の文字があった。

型抜きが我が家のものであることがわかるように印もある。

三代前のお爺さんが型枠を作っていたという刻印である。

お爺さんの兄弟は大工さん。

その技量もあって作られたようだ。

「十七年」の年代は平成でなく、昭和のような気がする。

朝から蒸して作っていたシンコダンゴは熱いお湯を入れて捏ねて作る。

子どもも作れる型抜きは好きな型に嵌めて作っていたそうだ。

色粉の塗りは3色。順番は特に決まっていない。

好きな色から塗り始める。

色塗りは塗るという表現はし辛い。



色塗りは小さな点のようにポチッと押すようにつける。

容器に溶かした色粉に箸のような小さな木片を浸ける。

滴が落ちないように、それをシンコダンゴにちょん、という具合だ。

緑色、黄色、赤色をちょんとつける。



ちょんの位置も数も決まりはないようだ。

型枠によってちょんの位置も違うのでそうなる。

コウジブタに入れたシンコダンゴに色がつくと綺麗に見える。



シンコダンゴの化粧はこうした作業をもって作られていること教えてくださった当家に感謝する。

ちなみに母親はシンコダンゴだけでなく何がしかの祭りや祝い事があれば柿の葉寿司を作っていると云う。



柿の葉で包んだ寿司米は自家製の桶に押して詰める。

7月10日に行われる神社行事のサナブリにはコムギモチも作って供えるという。

なにかと手造りが多い当家の話しはまだある。

2月1日に行われる地蔵さんの厄除け参りだ。

前厄に当たる年は41個の餅を持って各垣内にある地蔵さんに供えて参る。

翌年は本厄。

その年は42個の餅を持って参る。

次の年は後厄だ。

その年は43個の餅。

来年の平成29年は後厄になると話してくれた。

丹治の厄払いの地蔵さん参りは未だ拝見できていない。

該当する人がどこにおられるのかさっぱり掴めない。

厄でない場合は当然ながら参ることはない。

地蔵さんの前で待っていても現れることはない。

参ったことがあるという人にお話を聞いたことがあり、上第一地区の地蔵さんで待っていたが、出合わなかった。

朝7時ぐらいにしていると聞いていたが、だれ一人として現れないので諦めて帰ったことがある。

シンコダンゴ作りを拝見させてもらったお家にすがりつく県内事例に見られない丹治の伝統行事に初取材ができそうだ。

こんな出会いがあった向丹治にもう一度感謝した。



こうした話をしてくださった当家は再び向丹治の地蔵さんに参って作りたてのシンコダンゴを供えられた。

そこには先ほどなかった野菜造りの御膳が立っていた。

立っていたのはナスビで作ったポケモンに登場するカビゴンだ。



私は見たことがないからこれが本物・・・かどうかわからない。

どうであれ、胴体は丸ナスで腕は細いナスビ。

手はミョウガで足はゴボウで作っていた。

その前にあるのはプチトマトで作ったモンスターボールである。

これは地蔵盆に3年に一度の廻りになるトヤ家が作った御膳である。

その左横に作りたての色付けシンコダンゴ。

皿に盛られてラップ包みで供えた。

とん、とん・・。

朝から枡で計った米粉。

日光に当てた粳米が10割に対して餅米を1割。

お米をはたいてもらってくる。

はたくのは上へいくほどはたいてもらったシンコ(新米)で作った。

隣村になる吉野町の新子(あたらし)はコロコロまきのお団子だった。

コロコロさんを潰してみたらしのようにして食べると当家の母親が云っていた。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)

柳・上柳の地蔵盆

2017年04月12日 09時32分18秒 | 吉野町へ
この日の行事取材地は吉野町と大淀町。

各地の地蔵盆の在り方を拝見することにある。

目的地に向かう道すがらに見つけた地蔵盆の提灯。

ずらりと横並びに吊った提灯は否が応でも目に入る。

これは是非とも話を伺っておいたほうがいいだろうと思って車を停めた。

ここより先の処でUターン。

その場で目が点になった施設に揚げた幟旗。

これは一体何であるのか。



「火の用心」の大きな文字があるからここは消防署。

なにかがおかしい。

「火の用心」は上から読んで火の用心。

その左側に貼ってる幟旗の文字は「交通安全」。

なぜか逆さ文字である。

逆さ文字に違いないと思うのは下段の横文字。

正位置に書かれた文字は「中竜門交通安全協会」である。

ここは一体どこなんだ。

辺りを見渡せば地域施設の位置を示す地図がある。

それには「吉野町消防団中竜門第一分団管内図」とある。

その地図を立てている横に施設がある。

「中竜門地域振興センター・柳児童館」である。

ここは吉野町の柳であった。

柳は西から田尻、中央、中村。

中村の北に別所。

また、中央の東に上柳とある。

さきほど見かけたたくさんの提灯を吊っていた地蔵盆がある地区は上柳。

Uターンして村の人に聞けばそうであった。

上柳の地蔵盆は8月24日。

夕方の午後5時半ころから集まる。

当番の人が地蔵さんに供えるセキハンの握り飯を並べる。

コモチも多くて一斗半も搗く。

太鼓を打ってカセットテープが唱える念仏を流している。

終るのは午後6時だと区長さんらが話していた。

それまでの時間帯は他町村地区の地蔵盆の様相を探索、取材する。

一旦は上柳を離れて大淀町増口中増西増に吉野町丹治に出かける。

そこでの取材を終えて戻って来た時間帯は午後6時。



県道の拡張工事によって埋没していた地蔵さんが出てきた。

谷にあった地蔵さんはこうしてコンクリート製の崖内に設えた祠に納めて祭っている。

日中に遭遇した地蔵さんの前は長机があったが、それは相当数ある御供を納める祭壇になっていた。

その代わりではないが、歩道に並べた長椅子を設えていた。

すでに何にかの人たちが夕涼みを兼ねて座っている。

話していたセキハンの握り飯のお供えを拝見する。



お盆に盛ったセキハンの握り飯はたくさんある。

形はどちらかと云えば俵型である。

ざっと数えただけでも100個の握り飯。

上柳の戸数は20戸というから一軒に何個かの握り飯が配られるのであろう。

白い餅はコモチ。

前述したように一斗半も搗いたコモチは桶でもなくバケットに盛っていた。



当番の人は花を立ててローソクに火を灯す。

線香も火を点けていくころの時間帯は陽も暮れる。

辺りはゆっくりと時間が流れ、電灯線をひいた提灯に火を灯す。



村の人たちがやってきて始まりを待つ。

子供たちの姿もみえる。



老若男女が揃って長椅子に座る。

地蔵さんに手を合せばカセットテープが唱える念仏が流れる。

車の往来が激しい国道沿いの地蔵盆。

役員たちは交通安全にここより上下区間とも人を配置して通りがかる車に合図する赤色LED誘導灯で誘導していた。

上柳の地蔵さんは、この新道の拡幅工事をしている際に出てきたという。

右下にある谷から出現した地蔵さんは大切に守ろうというわけでコンクリート製の崖内に設えた祠に安置したということだ。

カセットテープの音源は生前に導師が残したお念仏。



なみようほうれんげきょ・・の念仏に合わせて村人たちもお念仏を唱える。

村内にあるお寺は願成寺。

無住寺であるが、真宗大谷派の東本願寺の教区になる。

お念仏を終えたら先を急がねばならない。

日が暮れているかななおさら急がねばならない。

事情を申しあげて、さようならを伝えたらどっさりとお下がりのコモチを分けてくださった。

ありがとうの気持ちは再会したときにお礼を伝えたい。

そう思って退出した。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)

上市六軒町の立山

2017年03月05日 08時24分20秒 | 吉野町へ
吉野町の上市に今もなお立山をしていると知ったのは何時なのか。

覚えてないが、それを知った発端は何かのキーワードでぐぐっていたときだ。

キーワードは何なのか、さっぱり記憶にないが、目に入った「立山」に飛びついた。

その情報は「吉野町上市花火大会」だったと思う。

頁文を精査すれば六軒町商店街主催の「たてやま(立山)」が行われているとある。

平成18年は7月末の土曜日。

平成24年は尾仁山から立野まで周回コースの記事もある。

ここで書いたが半信半疑のことである。

奈良県内で今もなお「立山」をしているのはごく僅か。

平成27年2月4日、拝見した奈良町正月行事の春日講企画展示の古文書から発展した「立山」記事を書いた。

再掲したいが長文になるのでこちらを拝読していただきたい。

要は現存する立山行事は御所市東名柄広陵町三吉橿原市八木町の3カ所である。

文中記事にも書いたが、探しているのは吉野町上市である。

それも六軒町とはどこなのか、である。

その場が考えられるのは旧街道。

川沿いにある県道ではなく少し奥に入った旧街道であった。

近鉄電車の大和上市駅より下ったところが旧街道。

ここら辺りであろうと思って店屋を探す。

商売をしている店屋さんは地域に配達するから事情がわかるはず。

そう思って訪ねたお店は中久保米穀店主。

上市に各大字がある。

ここは尾仁山(おにやま)。

旧街道沿いに東に向かう。

順に六軒町(ろっけんちょう)、本町(ほんまち)、横町(よこちょう)、上ノ町(かみのちょう)。上ノ町の上に轟(とどろき)。

旧街道に戻って立野(たちの)になるという。

店主が云うにはかつて街道沿いの大字それぞれが立山をしていたそうだ。

ここ尾仁山もしていたが、今では六軒町だけがしていると云う。

米穀店より東へ向かう。

ほどよい距離に人だかりがある。

その手前に貼ってあった3枚の観光案内ポスター。



中央がこの日の花火大会。

午後8時から始まるが、今回の目当ては花火ではない。

右側のポスターは花火大会が始まる時間までに行われる吉野川の灯籠流しであるが、六軒町の立山のことはどこにも書いていない。

左側にあるポスターは翌月の8月に行われる大盆踊り大会。

いずれも場所は同じであるが、このポスターに書いてあった催しに炭坑節、河内音頭に続いて「祭文語り」がある。

民俗を取材している私にとっては必見である。

今年は地蔵盆の日と重なっているので取材はできないが、来年の課題としておこう。

人だかりのある場所に話を戻そう。

そこにおられた人たちにお聞きすれば、今まさに最後の調整をしている最中だと云う。

取材の主旨を伝えてこの地にできる限り滞在したい。

この近くに駐車場・・・といえばうちの向かいに若干停められる場所があるからと云われた。

ありがたいご厚意に感謝する六軒町の第一歩はこうして始まった。

今年の立山の出し物は「仮面ライダーゴースト」。



作業場は区の倉庫。

この場を借りて設営する見世物は六体もある。

主役はもちろん仮面ライダーゴースト。

戦う相手は誰だ。

孫でもおればわかるだろうが、我が家の息子たちは未婚。

それ以前であるだけに、これは何々といわれてもピンとこない。

たぶんに左端が仮面ライダーゴースト。

その後ろに立っているのが闘魂ブースト魂。

右の奥に立つ電気眼鏡。

その前は槍剣魔だろう。



さてと。

中央はなんだろうか。

どうやら恐竜をイメージしているらしい。

それがなんと動くのである。

ガォーと叫ぶうなり声は聴けないが・・・ぐぐっと前に迫ってくる。

動きを調製している男性は製作者。

作業場は暑い。

後方に設置してある風起こしの舞台設定は扇風機。

工夫を凝らした舞台は大道具もあれば見えない道具もある。

六軒町の立山は吉野町の花火大会期間に展示される。

製作は何か月も前から始まっている。

立山を造る会は15人。

元々は婦人部もある商工会の青年部だった。

仕事を終えて集まること何日間も。

構想から始まってテーマ決め、デザイン設計、材料調達。

夏休みも返上する毎晩の7時から10時まで作業をしてきた。

最修の完成は花火大会の初日を目指して日夜ガンバッテきた。

動く部分は専門家の出番。

ここが要の立山に苦労があると云う。



迫力ある仮面ライダーゴーストに集まってくる近所の子どもたち。

ずっと見ている子どもおれば、たまたま通りがかった親子連れも。

何かが始まる期待感をもたせる仮面ライダーゴーストに目が点だ。



今回の立山の引き立て役は植物がある。

前面に何もなければ単なるウィンドウディスプレイ。

そこに工夫する恐竜が生存しているかのように繁みをみせるのは茅である。

吉野川に生えている茅を刈り取ってきた。

しなしなに枯れてはなんにもならないので直前までは水を溜めていた廃棄風呂桶に浸けていた。



川にはとにかく多い茅がある。

いくら刈っても減ることはないという。

それほど多い茅の葉。

それがなくて茅の輪の設営ができなかった神社がある。

困っていたのは奈良市の大安寺八幡宮(元石清水八幡宮)。

もし良ければもらって帰っても・・。

この日の余りではなく自然に生えている川原の茅(上市の橋の下)を、である。

それならどうぞ、どうぞである。

たくさん刈り取ってもらってくれれば私どもも助かるというのだ。

区長に頂戴したいと連絡いただければ、ということに、その件は後日になるが、存じている大安寺八幡宮の宮司に繋いだ。

ところで毎年の立山。

工夫して製作した前年のものを保管しているという。

ベランダから見下ろす人形たちは、すぐにわかるだろうか。



孫がいない私はピンとこなかったが妖怪ウォッチの三体。

中央の少年は主人公のケーター。

両脇の2体は・・・。

右がジバニャンで左はフユニャン。

こういう機会でもなけりゃ覚えることはないだろうが、たぶんにすぐ忘れてしまう。

ちなみに前々年は北海道丸山動物園だったそうだ。

その年、その年ごとの流行りのものを造る。

その昔はその夜限りの登場であったが、今では花火大会が終わってからでも展示している。

7月21日からは子どもたちが楽しみにしている夏休み。

今年は8月5日まで飾っているという六軒町の立山はかつて他市の人たちに引き取られて、そこで展示していたそうだ。

行先の詳しさは現地に行ったことがないのでわからないが、どうやら橿原市の八木町だったようだ。

引き取りに来た人は六軒町で展示したそのままの状態で運んだようだ。

そのころはと云ってもはっきりした年代はわからないが、毎年に現われては譲ってもらった立山を持ち帰ったそうだ。

向こうで展示した六軒町の立山は八木の愛宕祭に再利用。

展示場は小学校の傍だったか、それとも商店街だったか・・。

祭りが終われば引き取った人が処分していたそうだ。

そういえばいつのまにか来ないようになった。

割合、歳がいった人だったのでやめたかも知れないと話す。

造った立山は壊すのが惜しいが残して保管する場所もない。

引き取り手があった時代は復活しない。

昨年の妖怪ウォッチは今でもベランダにいるが、いつまでもというわけにはいかないのである。

ちなみに立山会場前にはテントを張って写真展を開催していた。



納涼懐古写真展テーマは「たてやまと上市の風景」。

およそ65年前の六軒町の懐かしい風景写真を展示していた。



昭和26年の夏祭りに六軒町商店街仮装行列に羽根つきの様相。



昭和26年といえば私が誕生した年でもある。

そういえば区長さんも同い年。

地域は違うが、育ってきた年代文化は同じだけに話が弾む。

河川敷でしていたとんど行事は昭和32年。



吉野川では納涼なのか、鵜飼いもしている。

先頭に松明を掲げて船を動かす鵜匠の衣装に腰蓑も写っている。

貴重な写真に感動を覚える。その頁には捕鮎もある。

網を投げる子どもはふんどし姿にように思える。

さまざまな懐古写真で回顧する。

ところで翌月8月の盆踊りである。

そこで披露される「祭文踊り」は8月13日、14日、15日のいずれかの午後7時から夜の10時まで。

一夜限りの盆踊りに吉野町の祭文踊り保存会の皆さんが出演するという。

保存会の人たちの大多数は同町の国栖や楢井に住む人たちのようだ。

若い女性の踊り子を引き連れるのは年寄りの男性。

同町の龍門にある体育館で日夜の練習を重ねているらしい。

昔はその地、この地からかってくる踊り子たちが乗用車に乗って駆けつけたようだ。

それほど盛り上がっていたという盆踊りも拝見してみたいと思った。

(H28. 7.30 EOS40D撮影)
(H28. 7.30 SB932SH撮影)