マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

旧五ケ谷の米谷・T家のハザカケ

2021年06月22日 09時08分34秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
天理の下山田で行われた薬師さんの六日会式の取材を終えて帰路に就いた。

信号のある福住からは名阪国道を下って帰るか、それとも天理ダム経由で下っていくか。

ハンドル任せにきった先は、名阪国道。

なにげに思ったのか、わからないが天理市街地に出ず、途中下車。

下りたそこは旧五カ谷村。

直接下って高樋にでるか、それとも戻って米谷経由でいくか。

ここもまた迷い道。

米谷から下っていけば、以前、苗代の水口まつりを拝見した田んぼに出る。

9月初めのこの日の状況を見たくなって選んだ旧道。

急な坂道を下った右手に立派な石垣の民家がある。

米谷の年中行事にいろいろお世話になった、当時村神主を務めたTさんが住まう家。



村の里道から見上げた石垣。

その前に干していたハザカケ。

稲刈りしたばかりではないだろうか。

そうか、ここ米谷にハザカケをしていたのは、おそらくT家だけではないだろうか。

そう思って、素晴らしい景観とともに石垣に建つ民家を撮る。



ここらの道に、停車するのは難しい。

往来する車はままある。

通り抜けに邪魔をしては、村の人にも迷惑をかけてしまうことになるだろう。

できる限り、膨らみの深い場所に停車を・・。

カメラをもって車を降りて撮影位置を探るが、どうも身体が動かない。

足の動きも悪い。

血液不足にヘモグロビン値が最悪の状態。

1メートルの移動にそろり、そろり。

一歩も動けない最悪状態に、残してあげたい米谷のハザカケ。

停めた場からの場所移動は、車に乗らないと、もう無理。

10mほど山手側に下がった所の膨らみに停めて撮った映像は、たったの1枚。



もう限界だ。

翌、二日後は、定期的に受診する循環器内科医師による診断がある。

毎度の検査に診察に必要なデータを採血する。

現状、たいへんな状態に陥っていたと判明したヘモグロビン値。

なんと、ほぼ危険水域にどっぷり浸かっていたモグロビン値が6.7

どうりで足は動かんし、身体も・・

(R1. 9. 8 SB805SH撮影)
(R1. 9. 8 EOS7D撮影)

中畑町春日神社・節句のヒシモチ御供

2020年03月23日 10時11分37秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良市の一角。

かつては五カ谷村と呼ばれていた奈良市精華地区。

地区大字に中畑(なかばた)、菩提山(ぼだいせん)、北椿尾(きたつばお)、南椿尾、高樋(たかひ)、虚空蔵(こくぞう)、興隆寺(こうりゅうじ)、米谷(まいたに)の8カ村がある。

天理東ICから入った一般国道25号線。

岩屋バイパスから天理・福住までの行程は急こう配に急カーブ道。

俗にΩカーブと称される急なカーブ道が連続する自動車道。

トラック通行の難しい狭い旧道を走ることもあるが、大字中畑に行くには、名阪国道と交差するICは五カ谷IC/バイパスになる。

中畑の最奥に到達すれば、名阪国道に遭遇するが、国道に入ることはできない。

中畑は42戸の旧村。

上出、向(茶屋)、中垣内(中組)、日浦垣内、雀垣内の5垣内からなる。

氏神さんを祭る春日神社の年中行事を勤める人たちは、上座の4人と下座の4人。

今では集落を上・下に分けた座であるが、かつては特定家で構成する元座・平座であった。



中畑町の春日神社は訪れたことはあるが年中行事を拝見するのは、本日の節句が初めてである。

興味をもったのは、平成27年の1月18日に取材した日浦垣内のとんどのときだった。

とんどの場でお会いしたⅠさんが伝えてくれた春日神社行事の預かり物。

とんど行事よりも先に拝見していた勧請縄かけである。

このときもお会いしたⅠさんが気を利かせて長老に伝えて残してもらったごーさん札が預かり物。

ありがたいことである。



それから3年後に訪れた春日神社の行事は節句。

その節句にヒシモチを供えると聞いたのは平成29年の3月

教えてくださったのは、隣村の米谷(まいたに)・上ノ坊寿福寺住職のTさんだった。

住職はこの日、米谷の白山比咩神社行事の祈年祭に出仕されていた。

是非とも拝見したい中畑の節句ヒシモチ。

祈年祭行事取材を終えて、中畑に向けてすぐさま車を走らせた。

この日は、中畑も同じく祈年祭である。

到着した春日神社にはどなたの姿も見られない。

耳を潜めてみれば社務所内から声が聞こえる。

扉を開けたら祭典を終えた八人衆は直会の最中だった。

玄関口から失礼する自己紹介に取材主旨を伝えたら、来年にお越し、ということだった。

そのような経緯があって、拝見する中畑の節句ヒシモチ。

到着した時間帯は、午前8時50分。



八人衆は、8時半より節句のヒシモチを供えていた、という。



ヒシモチは2段重ねのヨゴミ餅(※ヨモギ餅)。

大が16枚に小も16枚。

ヨゴミ餅の上にのせる丸餅は白餅。

大が8個に小も8個。



供える節句のヒシモチは数多く、春日神社、八坂神社、天忍雲根命神社、大年神社の四社に水神社や火の神、遥拝所と表魂碑(戦没者慰霊碑)もあれば、神殿域の両脇2カ所にある八総神(はっしょうじん)と呼ばれる大石の前にそれぞれ四つずつ供えていた。



八人衆は社務所の縁側に座り寛いだような姿で参拝者を待っていた。

目を離したスキに猫、カラスが御供を盗ってしまうこともあるから、袋を被せているところもあった。



写真に撮るなら外してあげようと優しい配慮をしてくださる。



そうこうしているうちにやってくる参拝者。

手を合わせて拝む各社。

大勢、或いはまとまって参拝されるわけでなく、めいめいの参拝。



一段上の神域に上がる場合は、履物を脱いで参る。

なお、八人衆が神域にあがる場合は、スリッパに履き替えていた。

供えてから1時間後。



八人衆が動いた。



めいめいがそれぞれの社に供えた節句のヒシモチや神饌を下げる。



いわゆる御供下げである。



テキパキと下げる御供のうち節句のヒシモチは社務所に並べていた。

その数は八つ。



八人衆がそれぞれもらって帰る。

かつて村神主の家で作っていた。

その当時のヒシモチの厚みは、今よりもっと薄かったそうだ。

型紙もなく上手に包丁などで切っていた菱の形の餅切り。

ある時代に務めた村神主の発案で、ヒシモチ御供は和菓子屋さんに頼むようになった、という。

ちなみに本日の節句は、神武祭でもある、という。

そう、4月3日は神武天皇のまつりである。

幕末から宮中へ。

旧暦から新暦に改暦される状況下、明治政府によって制定された神武天皇祭が起こりである。

ニュースに取り上げられることもある橿原神社の神武祭でなく、村々で行われている「神武さん(※のレンゾ)」を追っている。

私の知る範囲であるが、神武さん、若しくはレンゾで呼ばれていた地域は24カ所。

親しみを込めて神武さんと呼ぶ地域もあれば、神武天皇祭の呼び名もある。

1. 奈良市山村町(※帯解レンゾ)の御霊神社、2.同市の弘仁寺(※虚空蔵レンゾ)、3.同市米谷の白山比咩神社、4.同市大柳生の夜支布神社、5.同市東鳴川町の春日神社、6.同市都祁小山戸(※かつて23日をレンゾといいヨゴミモチ・キナコ塗したドヤモチ食べた)の都祁山口神社、7.同市都祁来迎寺町の琴平神社(※重箱会食のレンゾ)、8.大和郡山市石川町の八坂神社、9.同市上三橋町の須佐之男神社、10.天理市柳本町の長岳寺(※釜の口レンゾ)、11.同市大和神社(おおやまとレンゾ)、12.同市西井戸堂町の妙観寺、13.同市苣原の惣社九頭神社、14.天理市和爾町北垣内(※神武レンゾ)、15.田原本町多神社(※多レンゾ)、16.斑鳩町の法隆寺(法隆寺レンゾ)、17.葛城市の當麻寺(當麻レンゾ)、18.橿原市の久米寺(※久米レンゾ)、19.桜井市白河の高山神社(※田植え始め十八夜のレンゾ)、20.明日香村尾曽の威徳院(※レンゾ会式)、21.山添村毛原の八阪神社、22.同村腰越・腰越会所内の春日神社、23.吉野町山口の吉野山口神社、24.宇陀市菟田野佐倉の桜実神社(※レンゾの春祭り)もある。

話題は中畑の節句のヒシモチに戻そう。

中畑のように節句のヒシモチを供える地域は極めて少ない。

これもまた私の知る範囲であるが、ここ中畑以外で拝見した地域は山添村の毛原、同村の切幡、宇陀市大宇陀の野依、桜井市の瀧倉、奈良市の都祁南之庄町の5カ村。

もっと多くの地域を調べたら、見つかりそうな気配もするのだが・・・。



御供下げを終えた八人衆は社務所内で直会をされる。

下げたお神酒をいただく会食は仕出し料理屋さんに注文していたオードブル。



「あんたも上がって食べてや」と云われて、ありがたく口にするが、お酒はご法度である。

(H30. 4. 3 EOS7D撮影)

米谷町・白山比咩神社の田楽飯

2020年01月14日 10時48分11秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
豆腐店仕込みの木綿豆腐を、炭火で焼き、田楽味噌をつけていただく座行事がある。

奈良市米谷町に鎮座する白山比咩神社。

この日は宮座の四大行事の一つである「田楽飯」行事。

四大行事は2月の「田楽飯」、5月から6月にかけての「タケノコ飯」、10月の「マツタケメシ」、12月の「くるみ餅」である。

宮座十一人衆が季節の節目に旬の料理をいただく座行事は村神主が接待する行事。

座中が参拝される前に御供は先に献饌しておく。

この日の旬料理は田楽豆腐。座中一人分が食べる田楽豆腐は1丁。

奈良市神殿(こどの)の米田食品店から調達した15丁の豆腐を半丁切。

30枚に切り分ける。

その数に合わせて竹串を準備しておく。

竹串の先を3本に割った串。

戻り付きの銛(モリ)のように尖がらせた竹串作り。

手間のかかる作業は予め村神主が細工された。

実は、村神主のUさんは現役の庭師。

手の込んだ串作りはお手のものだ、という。

一年神主を務める村神主も座中の一人であるが、接待役に就くのである。

豆腐店が持ってきた木綿豆腐。

そのまま豆腐を焼くことなく、仕掛けておく水抜き作業がある。

豆腐には水分がたっぷりあるから柔らかい。

焼けるのも時間がかかる。



水気を抜いた豆腐を半丁に切っておいた、という村神主は十一老に就いたUさん。

前年度に行われた年中行事のあり方を、その都度において、つぶさに観察し克明な記録をして臨んでいた姿を思い出す。

田楽豆腐作りは、村神主を手伝う2人のサタニン(※佐多人・助侈人とも)にかかっている。

豆腐を焼く場は社務所の外である。

かつては社務所内にあった囲炉裏で焼いていたそうだ。

座の行事に焼きを入れる囲炉裏を今でも使っている地域は数か所。

取材した県内事例の一つは、山添村の桐山。

拝見したのは鎮守社の戸隠神社の正遷宮

神遷しを終えて直会食に焼きを入れて食べる餅とサバ。

事例はもう一つあり、例祭の祈年祭の直会にもドーゲが焼いていた。

場はいずれも社務所内に設えている囲炉裏であった。

もう一つの事例もまた山添村。

北野津越の薬師堂で行われる初祈祷である。

薬師堂を建て替えた際、囲炉裏もまた新しくした場で豆腐焼きをしていた。

ここもまた手伝い役の年預(ねんにょ)が座に出される豆腐田楽を作っていた。

米谷は、現在の社務所に囲炉裏はない。



焼き場、というか炊事場はあるが、コンロで焼くわけでなく、屋外に並べたコンクリート製のU字溝。

正式名称は上ぶた式U形側溝である。

火起こし炭は消し炭の再利用。

持ちが悪いから、2度目のお代わり豆腐焼きは消し炭では火がもたない。

そういう理由もあって、勢いのあるガスボンベによるバーナー焼きに切り替えるそうだ。

焼き具合はどうか。

試しに焼いた半丁切りの豆腐。

市販品味噌を塗してできた田楽豆腐。



一口、二口食べてみた味具合は、焼き良し、味良し、とでた。

焼きかげんがわかったところで、本格的に焼いて作る田楽豆腐。

座中が集まってくる時間帯は11時過ぎ。

揃ったところで座会食に移るのだが、焼き豆腐はそれまでに準備をしておく。

早めに焼いておけば冷めてしまう。

出来上がりは極力、座がはじまる午前11時半丁度の時間に合わせて焼き始める。

それも挨拶前に配膳しなくてはならないから、火点けから焼きあがりに要する時間計算。

タイミングを見計らうのが難しい豆腐焼きである。

主たる座食の料理は、仕出し料理の川北食料品店に注文したパック詰め料理である。



料理店の大将は1年ぶりにお会いした天理市和爾町在住の川北さん。

「今年の御田祭はもう終わってるでぇ」と・・。

平成29年2月8日、ここ米谷の神主渡しの行事の際にお会いしたことがキッカケに和爾坐赤坂比古神社で行われた御田祭を再訪したが、今年はすっかり失念していた。



そのことはともかく、川北さんが心を込めて調理した料理をサタニンが並べていた。

主の料理の他、皿盛りのキズシの〆鯖。

座中の希望で蛸に替えた鰊の焼き魚に焼き豚と3種の香物。

甘く煮た豆にほうれん草のおひたし。



村神主家が用意した別皿もある。

午前11時過ぎ、座中めんめんがやってきた。



手水をしてから神社参拝。



本社に向かって手を合わせた次はチンジサンの愛称で呼ばれている鎮守社や神武天皇遥拝立石にも参拝。

社務所にあがって揃いを待つ。



いつもこれくらいの時間に着く一老。

準備中だった豆腐は、しばらく待ってから炭火の火付け。

試し焼きから40分以上も経っているが、火起こしは速やかに火が廻る。

市販のチューブ入り味噌を手にしながら豆腐焼き。



ころあいを見計らって裏返し。

焼き色で判断して戻す豆腐もある。



両面の焼き具合を判断して味噌をつける。

焼きが揃ったところで炊事場に運ばれた田楽豆腐。

すぐさま座に提供される。



サタニンは落ち着く間もなく白い半丁豆腐を焼く。

半丁、半丁で1丁の豆腐。

豆腐だけでも結構、お腹が膨れると思う。



消し炭の火力が衰えるまでに焼きあげたい田楽豆腐。

焼けるまでまたしばらくの時間を要するお代わり希望の田楽豆腐。



田楽豆腐が大好きな方もおれば、嫌いではないがお腹が膨れるからと遠慮する方もおられるし、また座中全員が希望されることも考えて多めに焼き、座中からいつ声がかかっても提供できるようにしておく。



お代わりもまた、冷めない程度にしておく田楽豆腐。



極力、焼きあがったばかりの田楽豆腐で提供しないといけないから、作るサタニンも気を落とせない。

座が始まってから1時間。

やかんで温めていた貝汁がある。

これもまた座中から声がかかるころを見計らって温めておく。

しばらく経ったころ、お声がかかって大急ぎで汁を注ぐ。



注いだ汁に湯気がある。

炊事場がふっと美味しい香りが漂った。

汁椀に蓋をして運んだハマグリの貝汁。

零さないようにお盆に盛って座中一人ずつに提供する。

貝汁を提供されてすぐ終える座ではない。

長いときには3時間も飲食されていた、という座行事の田楽飯。

お酒も進んで終わりのない気配に、しばらくは建造物の年代調査。

本殿前に建つ灯籠に「白山大権現」の刻印がある。

灯籠台に、「村若連中」、「村氏子中」に4人の世話人も刻まれていた灯籠に「天保二年(1831)三月吉日」とある。

また、数基並んだ灯籠の一つに「天正十年(1582)四月吉日」とあった。

村神主が動いた時間は、午後2時20分。

貝汁の提供から40分も経過していた。

本殿に向かう村神主。



頭を下げて供えていた御供を下げる。

本殿に捧げた御供は三つ。

一つずつ下げていた。



引き続いてチンジサンの御供も下げた。

この動きから座は終いか、と思えば違った。

まだまだ話題が尽きない座に決められた終わりの時間はない。

それから20分後のことである。

座におられる一老さんから声がかかった。

「これから松苗作りをするから、座敷にあがって作業を見ても良い」と、いうことだ。

ありがたい一声をいただいて頭を下げる。

格式ある座は、こうして一老さんのお許しがない限り、座敷にあがることはできない米谷の宮座行事である。



板扉を開けた向こう側の座敷で行われる松苗作り。

予めブルーシートを敷いて長机を置いていた。

その長机に置いた竹で作った「ゴンゴ」。



「ゴンゴ」の呼び名は他所でも聞いたことがある。

地域は奈良市東山間地の田原の里周辺地域。

1カ所は柳生町・山脇垣内で行われた山の神行事

もう1カ所は茗荷町のイノコノクルミモチを見せてくださったOさんもまた竹で作った酒入れの筒。

昭和56年10月に調えた米谷の初穂筒(※ゴンゴ)とは形状に違いはあるが、「ゴンゴ」の呼び名は共通している。

さて、米谷の初穂筒(※ゴンゴ)に入れるのは酒でなく初穂である。

初穂は昨年の10月に行われた白山比咩神社のマツリ

宵宮の際にイナニナイ(稲担い)が運ぶ新穀米の初穂である。

氏神さんに供えた初穂は、マツリを終えてから下げ、初穂筒に詰めておく。

今から始める松苗作りの松の調達も村神主の役目である。



初穂筒の詰め栓を外して落とす初穂。

半紙の上にパラパラと落として広げるが、湿っているせいなのかなかなか落ちてこない。



やむなく箸のような棒を突っ込んで固まっていると思われる初穂をばらしたら、ごそっと中から零れてきた。

その廻りに待っていた座中は半紙に初穂米を落として包む。



量、粒数に決まりはないようで適量を落とした籾である。

籾を包んだ半紙はオヒネリの形にして用意していた松葉に取り付ける。



ばらけないように括る紐は神聖なヒモロギ(緒)。

予備に3本、合計10本もこしらえた松苗にチンチラと呼ぶ松ぼっくり付き。

松ぼっくりは豊作を願う印。



実のある松苗は豊作祈願。

3月1日に行われる二ノツイタチ新年祭に供える松苗であるが、かつてはもっとあった、という。

そのころの年代は判然としないが、40本作っていた、と一老のKさんが話してくれた。



村の人のほとんどが田を所有し、稲作をしていたと思われる本数である。

行事を終えた座中や氏子たちは松苗を持ち帰って苗代に立てて、水口に祭る。

平成29年4月27日に、この日の田楽飯に出席されたO家の苗代の水口まつりのあり方を拝見させてもらったことがある。

松苗作りを終えた座中。

オヒラキの声がかかった時間帯は午後3時過ぎ。

腰が重いのか、それからも座は続いていたが、やがて解散。

「ほな、おおきに・・」と、云いつつ席を立った座中。



一老さんもまた席を立って残した膳料理を手にしてお家に戻っていった。

(H30. 2.22 EOS40D撮影)

米谷町・白山比咩神社の小正月

2019年08月04日 09時43分18秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
朝7時ころから降り出した雨はやがてみぞれになっていた。

昨今の天気予報はよく当たる。

今はもう当たるという表現は避けた方が良いのかもしれない。

県内の山間地に至っては、みぞれでなく本雪になっていた。

天理東から入った西名阪国道は雨に濡れた道路だった。

しばらく走れば五ケ谷ICに着く。

それまでなんともなかった車内の温度がぐっと下がって、足元や膝などが冷んやりする。

ここまで来るルートは大和郡山市内の稗田町を東進。

井戸野町を抜けて天理市楢町辺り。

さらに東進して中之庄町から農道を利用する。

平坦部であるが、畑地の多い地域が真っ白になっていた。

畑の作物も白い帽子を被っていた。

降雪量は多くないから、やがてみぞれに戻れば解けてしまうだろう。

さて、降りたところが五ケ谷IC。

忘れもしない日がある。

山添村の民俗取材に向かっていたときだ。

平坦では雨だったが、この日と同じように天理東から西名阪国道に入ってと同時に雪が降ってきた。

みるみるうちに道路が真っ白。

降雪量はとんでもない早さで天から降りてくる。

スタッドレスタイヤであったが、こりゃ本降りどころか、とてつもない量が一気に。

真っ白になった道路を先行するトラックなどの轍を踏んでとろとろ走行。

やがて到着した五ケ谷ICは出入り口が閉鎖。

泣く泣く走り続けて針テラスで助けられた平成25年の1月14日

今回はまずそこまでの降雪量にはならないと思った。

目的地は奈良市米谷町の白山比咩神社。

村の入口でもある神社参道前。

数台の車が停まっていた。

うち一台は車の屋根が真っ白に覆われていた。

車の所有者は寿福寺上ノ坊住職だった。

本堂はもっと奥になる高地。

福住に近い地は標高410m。

結構な量の雪が降っていたという。

参道は積もっていないが、山間に生える樹木は真っ白になっていた。

手水舎があるところだけは樹木の空白地帯なのか、そこだけが真っ白になっていた。

朱の鳥居を潜って登っていけば、そこは一面が真っ白。

粉雪というか、パウダー状になった積雪を踏みしめたらキュッキュと音がでる。

この日は2月1日の「小正月」行事である。

2月1日は「一夜正月」、若しくは「重ね正月」とも呼ばれるらしい。

最初の朔日(ついたち)を2度目の正月として、数え年で厄年にあたる人に一つ歳をとらせて、早く厄年をやり過ごそうとした考え方のようだ。

2度目の正月を二ノ正月と呼ぶ地域は割合に多い。

これも2度目の正月のことで2月朔日になる。

ただ、米谷町の「小正月」名称が気になる。

小正月は1月15日である。

ひと月遅れに小正月行事をする地域がある。

つまりとんどである。

とんどは小正月行事であるから1月15日。

とんどの火付けを前夜の1月14日にする地域も少なくはない。

このとんどを2月15日に行う地域がある。

あまり知られていないが、ごく一部の地域でされているとんどである。



この日に集まる米谷の十一人衆に上ノ坊寿福寺住職。

宮総代を務めていたOさんの他、2名が繰り上げした座中入り。

暖房のある籠り所に集まっていた。

米谷の参拝はめいめいが順次済ませて暖をとっていた。



菜花にニンジン、コイモ、バナナにパンの御供は予め村神主が供えていた。

映像では見えないが、洗米に丸めた小豆も供えたという社殿は、村の人が云うにはチンジサン

鎮守社が訛ったチンジサンであるが、史料の『五ケ谷村史』から推定した大山祇神を祀る山王神社である。

お供えはチンジサンだけでなく、本社殿にも並べている。



社殿の壇に置いた白いものは寿福寺上ノ坊が用意した“米谷宮”の文字があるごーさん札である。

村の戸数分の枚数を束ねて置いている。

右に立てかけているのは村神主が用意した2m以上の長さがある7本のウルシ木だ。

ごーさん札にウルシ木が揃えばオコナイ。

そもそものオコナイはムネの薬師さんで行われる仏行事であるが、本日の小正月行事は白山比咩神社で行われる神社行事。

ごーさん札は2種類ある。

仏行事のごーさん札の中央に配置した文字は「壽福寺」。

本日は神社行事だけに「米谷宮」の文字である。

2枚を揃えて苗代に立てる豊作の願い。

平成29年の4月21日に拝見したO家の水口まつりに「米谷宮」のごーさん札を拝見していた。



ところで、ごーさん札の“米”の文字である。

知人のFさんは、この文字を見て素直に判読した「八」に「木」である。

まさにその通りに読めるが、「米谷」町を知っている人なら、これもまた素直に「米」谷と読むであろう。

もう一人の知人にMさんがいる。

なにかといろんなことを深い知識と情報をもつMさんの見立ては“はち”に“ぼく”。

つまりは“八”に“木”である。

いつの時代にどなたがいい出したのかわからないが、“米”の文字を分解した“八木(はちぼく)”である。

つまり、米谷で作る米が豊作になってほしい、という思いが、“米”の文字を分解し、“八木”文字を生み出したのでは・・ということだ。

ネット調べによれば、「・・享保の改革に・・米価の統制に力をいれた徳川八代将軍の徳川吉宗・・・米の文字を分解して“八”、“木”・・・・・人々は、はちぼく“八木”将軍と暗喩した・・・」とある。なるほどである。



一老のKさんから座に上がれ、とご下命が下った。

宮総代から、そう伝えられて座中一同に挨拶させていただき下座につく。

一老が話す先人、つまり先輩が話していたこと。

「意味はこうじゃ・・・」と、言って語ってくれた。

米谷の行事の数々を拝見してきた2年間。

前述した神仏習合のオコナイ行事。

苗代に豊作を願う村の初祈祷などとの関係性を話したら、2月8日に神主渡し、2月22日はデンガクにも来てほしい、と言われた。

大安のえー日に、豆の交換をする節分のトシコシもあるという米谷の年中行事。

昔は「百座」があったという。

『五ケ谷村史』に書いてある「百座」を補正、要約する。

「2月9日の百座。村神主の交替披露の日。むかしは村神主の家に招かれる十一人衆。夜には神社でオッサン(上ノ坊寿福寺住職)によって仁王経を読経された後、親類らも集まって賑やかに飲食した。今は昼間。神社に集まり、終わるようにしている。住職と新の村神主が拝殿に座り、後は籠り所に座ることになっている。旧の村神主が準備をして、佐多人がこれを助ける。十一人衆の他、氏子総代のうち、一人が陪席する。“肥後和夫氏の宮座資料”によれば、この日の村神主は十一人衆、佐多人とともに、神社へ参り、神前に“トリの盃”、と云って、一尺二寸、三寸ほどの盃を旧の村神主、一老、二老の順に飲み廻し、最後に旧の村神主に戻り、さらに新の村神主が飲む作法があった、と記している」とある。

村史はさらに「百座の名称は、地元では坊さんが百人も読経したために、或いは夜通しに籠りをしたので、火を焚くのに、柴が百駄も要ったからなどと云われているが、仁王経に見られる“仁王般若経護国品”の故事に基づく百座仁王講に由来する名称かと思われる。」

また、続けて「『定式』(※宝暦六年、安政六年に書写された宮本定式之事)には正月九日の行事とあり、社僧、平僧によって仁王経を読経されたことが記されており、そのときの献立も詳しく記されており、参考になる」と締めている。

現在おられる十一人衆には記憶のない百座のこと。

村史に記述された報告内容で読みとるしかない。

さて、この日の座中。

今年のマツリをどうするか、である。

トウヤ(唐屋)も一巡した。

次のトウヤ(唐屋)を決めるフリアゲや費用負担などさまざまな案件がある。

最終的には2月の町集会で決めなければならない。

座の〆に行われる“ゼニ カネ コメ”の作法である。



佐多人が手にした牛玉寶印。

古くから伝わる朱印にベンガラを混ぜたと思われる朱肉ももつ。



上座から順にされる“ゼニ カネ コメ”の作法。

両手を差し出した手のひらに“ゼニ”、“カネ”、“コメ”と声をあげて3回。

判を捺すような恰好でする牛玉寶印の作法。



“ゼニ カネ コメ”は大判小判のうちの小判。

つまり食べもんと同じ、金の”銭“。

手で受けて“銭”、“金”、“米”を授かる。



にこやかに盛り上がった座中の一人、一人が“銭”、“金”、“米”を授かる。

いわば各戸に福を授かり、村が反映するという願いにほかならない、と思うのである。

「あんたもしてもらいや」、と云われて左手で受けて捺印。



まるで認めてもらったような錯覚に陥る。

なお、寿福寺上ノ坊住職神名帳詠み、般若心経の祈祷もあるようなことを聞いていたが、この年は見られなかった。

一老のKさんが唐突に云った台詞。



「神社庁に行って神職になれ」のお言葉。

ありがたく賜るが、申しわけないが、その力はないと思う。

(H30. 2. 1 EOS40D撮影)

中畑町・I家の水口マツリ

2019年08月01日 09時06分50秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良県の平たん部で苗代作りをされ始める地域で最も早いと思っている地域がある。

地域と云っても、集落すべての家がそうであるかといえば、そうでない。

ある特定の家がそうなのだ。

村行事の取材をきっかけに数年前から訪れるようになった旧五ケ谷村の一地域。

村の後背にあたる山間地に高速道が走る。

昭和44年に全線が開通した西名阪自動車道である。

奈良県・天理ICから三重県・亀山ICを結ぶ大動脈は国道25号線のバイパスとして供用された。

今年の桜開花はとても早かった。

例年ならまだまだ感の村の桜も全開。



その桜の下に苗代田がある。



この日は村の神社で長老ら八人衆たちが節句行事をしていたが参拝者は皆無だった。

昔は村神主がせっせと自宅で作っていたヨモギのヒシモチ。

手間がかかる作り手作業は業者に移管して現在に至る。

取材を終えからI家の水口マツリの様相を見に行く。

この日は出かけているらしく呼び鈴押しても反応がなかった。

翌々日にも訪れたI家のおばあさん。

病院に行っていたという。



不在だったので勝手に撮らせてもらっていたと伝えたら、苗代田に行くという。

「このとおり、杖がいるようになってな」、という。

85歳のIさん。

口は達者やけど、大丈夫やろか。

今年は4月1日に苗代つくりをしていたという。

例年が日曜日。



孫らもいるからできる苗代つくりにイロバナを飾ってウルシ棒に挟んだごーさん札を立てたIさん。

この日は写真家のKさんも同行。

なんぼでも撮ってくれていいで、といつもありがたい言葉に甘える。

水口の両脇にそのときおりのイロバナを添える。

黄色のラッパスイセンが目立っているが、ツバキは必須である。

右にあるのはごーさん札。

ウルシ棒に挟んでいる。

左にあるのは松苗。

正月前にせっせと村神主に長老ら八人衆らが作った。

護符に松苗を神社に奉って年初に村の安寧と子孫繁栄を祈る。

行事は正月二日であるが、松苗は青々だ。

3カ月間の保存状態が実に素晴らしい。

地区は違うが、先だってある人に聞いた鮮度の保ち方。

毎日の水替えが大切なんよ、と云っていた。

その方は、水道水ではなく「井戸水でしてますねん」・・と云っていた。

新聞チラシと思われる紙の中身が気にかかる。



えっ、ここにあったの。

フライパンで煎ったと想定できるハゼコメ(爆ぜ米)は両方にある。

後日に聞いたこれは両方とも種籾。

粳米はヒノヒカリ。

もう一つは糯米のアサヒモチ。

稲作は粳に餅の2種をしていると聞いたが、左右どっちがそれであるのか聞きそびれた。

ただ、糯米を煎った場合はポップコーンのように爆発的爆ぜ状態であるから、これは粳米のような気がする。

2日後の5日。

鳥獣の餌食にならず、ハゼコメはこの日もあった。

傍には土筆がにょきっと直立していた。

しばらく話していたIさんの出里は大慈仙らしい。

母親はショッピンセンターたけよしが近くにある都祁白石のT家。

夏場の葬儀は暑くてまいった、と話していたIさん。



要介護の身とは思えない身の軽さ。

杖さえもっていくのを忘れるくらい元気な様子。

おふくろもIさんのような具合だったらいいのだが・・。

ちなみに苗代の場である。

かつては下の方にあった畑を苗代にしていたが、自宅からより近い処に望んでいた。

地道だった家の前の道。

アスファルト舗装に切り替えた際に、道を拡げるために畑を切り崩した。

一段高い畝があった、という向こう側が苗代。

谷から流れる清い水。

パイプを引いて苗代に注ぐようにしたそうだ。

宮さん御供のヨモギのヒシモチで思い出されたヨモギ団子。

春になってヨモギの若葉がでたときに作っていたヨモギ団子。

粳米に糯米。

7;3の割合、若しくは6;4の割合にヨモギを混ぜて作るヨモギ団子。

丸めた団子を椿の葉にのせて蒸す。

先、軸のある葉の両端は切り取った椿の葉。

遅い時季のときは、椿の葉の代用にサンキラの葉を利用。

できた葉のせヨモギ団子は、向こう隣に作ってはあげていた。

サンキラの葉はサルトリイバラ。

イバラとも呼んでいたサンキラの葉にあんこ餅を包んで食べていた、というのはおふくろ。

遠い昔の記憶に、ふと話してくれたことがある。

その団子は「火打ち団子」とも・・。

青い実食べとった、というサンキラの話題に竹で作った酒入れの「ゴンゴ」。

山行きに供える酒の「ゴンゴ」。

米も包んで枝にかけてから出かけていたという日は1月7日。

その様相は、まさに山の神参りのあり方。

これもって帰り、とくださった採れたての水菜。

瑞々しい水菜は今夜のおかずにいただいた。

(H30. 4. 3 EOS7D撮影)
(H30. 4. 5 EOS7D撮影)

高樋町・E家の先祖さん迎え

2018年10月12日 09時10分09秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
夕方になる前に着いておきたい地域がある。

旧五ケ谷村もしていると教えてもらったオショウライサン迎えである。

そのことを話してくださったのは奈良市興隆寺町に住むIさんだった。

藁の松明を門口に立てて火を点ける。

そして、家にある小鉦を打ちながら先祖さんを迎える。

夕刻と云っても時間幅は広い。

鉦の音色が聞こえてくれば間違いなくされている。

待っておれば巡り合うかも、と思ってバス停近くで待機していたが、気持ちが少しずつ萎えてきた。

確定的にされているお家がどこであるのか、それがわからずに待っていたら気が重たくなるのは当然であろう。

エンジンを始動して場を離れた。

下った旧五ケ谷村の旧道沿いにある高樋町の民家はどうなんだろうか、と思って神社下の駐車場に停めた。

ここでも鉦の音を待っていたが、あてのない状況待ちに時間ばかりが過ぎていく。

ここもまた待ちきれずに諦めて場を離れた。

駐車場から十数メートル。

開放していた車の窓。

鉦の音があればわかるようにしていた。

急な坂道を下っていった十数メートル。

車窓の向こうに人だかりが見えた。

その姿は、まさに先祖さんを迎えている状況である。

車は道端に緊急停車。

大急ぎで駆け付ける迎えの場。

ご家族に急なお願いをして撮らせてもらう。

息子さんと思われる人は燃やした藁火から線香に移していた。

その横では孫の女児が小鉦を撞木(しゅもく)で打っていた。

線香に火を移し終えたら、自宅に戻る。

先祖さんを迎えた線香の火が消えないようにそろりそろりと歩く。

さらに、お願いする当家の在り方取材も受けてくださった。

取材主旨を伝えて上がらせてもらう。

慌てていたからストロボは持ち合わせていない。

部屋中はやや暗い。息子さんは仏壇にあるローソクに火を移した。

小鉦はいつのまにか消えていた。

どうやら屋内に入る手前、玄関口までだったようだ。

先祖さんを迎えた線香は線香立てに。



手を合わせて拝んでいた。

仏壇のお供えはお盆のハクセンコウ。

一つは蓮を象った形である。

御供下に広げた大きな葉っぱは蓮の葉。

その周りにいっぱい並べている何かがある。

撮影時は気がつかなかったが、帰宅してから画像を拡大してみればヘタのある青柿だった。

長めの細い節のある植物は何だろうか。

それぞれが2本繋がりの形。

今まで見たことのない青物である。

輪切りした若干数の茄子もある。

短く切ったアサガラは2本ずつ。

先祖さんが食べるアサガラの箸とともに、小さ目の蓮に盛っていた。

奥さんに話しによればかつては蓮の葉でなく、カボチャの葉を使用していたそうだ。

今は、スーパーで売っている蓮を買ってきて供えているという。

奥さんは陽のあたる廊下に移動した。



そこにあったのは大きな深鉢に盛った御供さん。

これは「ガキ(餓鬼)」さんのお供えだという。

仏壇と同じように花を立てて御供を盛る。

大きな蓮は皿代わり。

ヘタのある青柿にササゲ豆。

仏壇にあった節目のある植物は二股形のササゲ豆であった。

輪切りのキュウリも盛っていた御供に青りんごも。

ちなみに青柿はミズガキと呼ぶそうだ。

いずれも家で栽培している植物である。

七ツの穴を開けた輪切りの茄子は線香立て。

こうする方が安全性を保てるという。

線香を立てたらローソクにも火を点ける。

そして、ガキサンにお茶を入れた一杯を添える。



初盆(にいぼん或いははつぼん)の家では廊下に「アラタナ(新棚)」を建てる。

丸い形のアラタナに四角く杉の木の葉を被せるのが高樋町の習わし。

その習わし話しに教えてくださった生駒の習俗も。

生駒のどの地域か存じないが、ある村落ではアラタナを祭る家に村の人たちが参りにくるという。

その参拝の在り方に水に浸けた葉っぱで清めるという。

参拝者は身体を清めてから屋内にあがるのがしきたりである。

ちなみに水に葉を浸けて供養するのは一般的に水供養という作法である。

先祖さんをお迎えする時間帯は午後5時半ころ。

送りの15日は午後6時。

少しでも遅くまで家に居てもらいた送りの時間帯である。

話しをしてくれたのは旦那さんのEさん。

なんと氏神さんの行事に何度も世話になったMさんだった。

急な取材にお礼を述べて屋外に出たその向こうに、今まさに火を点けて燃やした藁火から線香に移していた二人がおられた。



こちらの二人にも急なお願いをして撮らせてもらった。

男性は昭和8年生まれのMさんは旧五ケ谷元自治連合会長。

その姿、矍鑠(かくしゃく)とされているMさんは娘さんと思われる女性とともに先祖さんを迎えていた。

当家もまた同じように小鉦を打っていたようだ。

E家もそうだが、家を出た辻で先祖さんを迎えていた。

線香は先祖さんなので家に連れていくが、燃やした藁火は火が消えたのを確認してから、捨てるというMさん。

先祖迎えの日は朝早ようにお寺さんが参ってくれたと話していた。



2軒の先祖迎えを取材して再び立ち寄った興隆寺町。

高台の方から鉦を打つ音が聞こえてきた。どこでされているのか、場だけでも知りたいと思って急な坂道を昇ったら見つかったが、遠慮して村を離れた。

高樋町では午後5時半ころ。

興隆寺町は6時ころにされていることがわかった。

当地へ来るまでに帯解街道にも先祖迎え。

山町の先祖迎えは線香を手にした婦人が東から西に向かって歩いていた。

そのときの時間帯は午後5時15分。

地域によって、或いは個々のお家の考えで時間はさまざまのようだ。

高樋町から帰路に選んだ集落道は天理市中之庄町。

鉦の音でも聞こえてきたら、と思って走らせたら通り過ぎた。

そのままずっと下れば森本町になる。

時間帯は午後6時半になっていた。

そこで遭遇した2人の老婦人。

車を停めて話しを聞けば、手にしている線香。

もう一つはホームレスと云ったのが印象的だったこれらの様相も記録と思って付記しておく。

(H29. 8.13 EOS40D撮影)

米谷町・白山比咩神社の農休みの麦初穂

2018年08月15日 09時21分19秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
農家であれば収穫した玄米を。

農家でなければ店屋で購入するなどで入手した精米を神社に奉納する。



その量はいずれであっても米1升。

重箱に詰めた御供は風呂敷に包んだまま氏神さんに供える。



拝殿に置いて供える神社は奈良市米谷町・白山比咩神社。



どのお家も柄のある風呂敷に包んで供えていた。



供えた御供は拝殿で詰め替え作業をする月当番のサタニン(助侈人)に手渡す。

その数多く拝殿廊下にずらりと並ぶ時間帯は、参拝者が増えるいっときである。



サタニン(助侈人)は供えた順に並んでいる風呂敷一つを取り上げて敷布を紐解く。



蓋を開けた重箱にお米がびっしり。

いっぱいに盛った御供は米袋に詰め替える。



唐臼した玄米であっても、精米であっても米の品種はそれぞれ。

さまざまな味わいが混ざり合う。

空いた重箱は布で拭って綺麗にする。

その重箱に二つの餅を入れる。

一つは和菓子屋さんに注文して作ってもらったセキハン(※糯米で作った赤飯)。

セキハンは箸で摘まんで適量に盛る。

もう一つは形を調えているキナコモチである。



かつて二毛作時代だったころは麦初穂であった。

奉納の御供下げ代わりにお返しする茶碗一杯の餅米赤飯とコムギモチであった。

麦で作ったコムギモチは、田植えを終えた時季的にいっても“サナブリモチ“である。

麦作をしなくなった現在はコムギモチ(サナブリモチ)でなく、その代わりのキナコモチである。

平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に、7月1日は農休みの麦初穂とある。

12月1日は米初穂の新嘗祭とある。

初穂は一年に二度。

二毛作であったことがよくわかる資料データである。

農休みの麦初穂はこう書いてあった。

「麦の初穂を供えて収穫を感謝する。宮司が参詣し、十一人衆、氏子総代、町役員、上ノ坊住職が参加する。この日はソラ豆のコフキと胡瓜の薄切りを肴に飲食した。また、小麦粉を潰してキナコをつけたコムギモチを作り、お参りの人に配った。ミヤモリ(※村神主)は赤飯を作り、各家に分けた。この日に供えられた麦は、カンヌシ(※村神主)の収入となっていた」とある。

一毛作となった現代は麦を栽培することはない。その代わりに麦からお米に替えた。

収穫した新米を供えるのは新嘗祭。

平成28年12月1日に取材した。

新嘗祭に御供した新米は年中行事を務める村神主に感謝、そしてお礼を込めて捧げられる。

これを神主落ちというようだ。

麦初穂も同じように御供は村神主が受け取る仕組みになっている。

その代わりに氏子にお礼のお返しに配られるのがセキハンとキナコモチである。

昔は村神主家で村の戸数分を作っていたが、たいそうになったことから和菓子屋さんに頼むようになった。

作りの手段は替わったが、お礼の気持ちはかわりない。

麦秋の時季に供える米谷町の麦初穂に栗の木がある。

置いてあった場は鈴緒のある拝み所。

村神主が山に出かけて伐ってきた栗の木である。

麦の収穫を終えたら稲作に移る。

かつてはそうしていた。

刈り取った田んぼは稲作。

育苗した苗は田植え。

その植え初めに栗の木を立てる地域がある。

天理市福住より東になる山間地。

天理市山田町の下山田や中山田に数々あった植え初めに栗の木があった。

田植えをする一角に立てて豊作を願う習俗である。

山添村の切幡や大塩にもあるし、桜井市の小夫嵩方でもみられる習俗である。

欲しい人は持ち帰ってもらって良しとしている米谷町の栗の木である。



この日に置いていた葉付き栗の木。

拝殿に置いたのは村神主のTさん。

持ち帰ってもらうのに7本揃えた。

置くには置いたが、何をするのかは知らない、と云った。

「こんなんはゲンのもの。畑には何もせーへん(※立てることはない)が、神棚にまつるぐらいなもの。子どものころの昔は、家でコムギモチを作って食べていた」と話してくれたのは一老のKさん。

ご高齢の婦人は、「うちは神棚にまつっていた。お爺さんがおったころは、田植えのときに挿してはった」と話してくれた。

生前のお爺さんがしていた植え初めの儀式である。

具体的にどうだったのか、覚えていないというが、おそらく私が想定する麦刈りを終えた直後に水張りをした田植え。

その植え初めの行為に栗の木を立てていたと想定する。



膳に出す料理に漬けもんにした胡瓜があった。

熱くなった身体を冷やすのに食べる胡瓜の漬物である。

農家の営みは神社行事のなかで見られるが、麦栽培をしなくなった今は見ることはない。

初穂は「米」になったが、今もこうして伝統を続けているとNさんが話してくれたが、村史に書いてあったコフキのソラマメ御供は見られなかった。

ちなみに、「麦秋」とは、麦穂が稔って収穫期を迎えた初夏の時季をいう。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)

米谷町・ノヤスミのタケノコ飯

2018年05月25日 09時35分26秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良市米谷町に鎮座する白山比咩神社。

この日は宮座の四大行事の一つである「タケノコ飯」行事。

四大行事は2月の「田楽飯」、5月から6月にかけての「タケノコ飯」、10月の「マツタケメシ」、12月の「くるみ餅」がある。

宮座十一人衆が季節の節目に旬のものをよばれる座行事は村神主が接待する行事。



参拝前に献饌しておく御供。

洗い米に小豆を包んだ御供にパンも供えている。

それ以外の御供に季節ものの野菜もあるし、サイラ(サンマ)の開きなどなど。



座中、一人、一人がめいめいの参拝。

いつもと同じように参拝する姿に、これもまたいつもと同じようにシャッターを押す。

手水で清めて本社拝殿より正面に向かって拝礼する。

次はチンジさん(鎮守社)と呼んでいる山王神社にその横に建つ遥拝所の参拝。

大正六年四月三日に建之された神武天皇の遥拝所にも参られる。

月例であっても村行事であってもかわらない参拝の在り方である。

参拝を済ませた座中は参籠所に籠る。



所の炊事場のテーブルいっぱい並べた料理皿がある。

一つは筍の木の葉和え。

木の芽を添えている料理である。

二つ目は筍と蕗の煮物。

三つ目に菊菜とほうれん草のおひたし。

四つ目の料理が金時豆の甘煮。

香の物もある料理は村神主家が心を込めて作った手造り調理でもてなす座の料理である。



参列者全員が揃ったところで供えていたお神酒を下げる村神主。

それが座の始まり。



早速、動いた二人のサタニン(佐多人・助侈人とも)が給仕する。

席についた座中にお神酒注ぎ。



席にあるパック詰め料理に加えて、手造りの筍料理や香の物も運ぶ。

これらの皿盛りは一人前が一皿でなく、数人に対しての一皿になる。



お神酒や膳が揃ったところで一同は乾杯。

一口、二口よばれてからのしばらく。

冷酒のお神酒から熱燗になった。



それからのサタニンといえば、とにかく忙しく動き回る。

お酒の注ぎの声がかかれば、熱燗の酒を席に運ぶ。

いつ、お声がかかるかもしれない。

突然のお声に反応して直ちに温めていた熱燗をお銚子に注いで座中のお席を巡る。

座が始まってから1時間半ほど。

汁椀を座卓に配られるよう、お声がかかる。



時間を見計らって吸い物汁を温めていた。

熱いすまし汁をお椀に注ぐ。

汁椀はハマグリのすまし汁。

注がれたとたんに海の香りがする汁椀である。

すまし汁をいただいている間はお声もかからない。



その間に動き回っていたサタニンさんもよばれに移って食を摂る。

2月に行われた「田楽飯」の座行事も早かったという。

あるときは昼寝をしていたこともあって、遅くなることもある。

座行事が終わった時間帯がこれまで一番遅くなったのは午後5時。

やっと解放されたと思いだす人もいる。

この日の行事に「昔の行事は小豆粥をよばれてから終わりだった」という人も。

時代、時代の変革に行事食はこれからも変容していくこともあるだろう。

(H29. 5. 7 EOS40D撮影)

中畑町の水口まつりの様相

2018年05月07日 08時44分49秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
高樋町から山間地に向かって車を走らせる。

西名阪国道に架かる橋脚下を潜って、さらにもっと上の地になる奈良市の中畑町へ。

今年も変わらず、毎年同じ場の苗代田に松苗があった。

中畑町の鎮守社も高樋町と同じの春日神社である。

松苗を奉る行事は1月2日に行われる新年祭である。

版木で刷ったごーさん札をウルシ棒に挟む。

さらには松苗もある。

それを苗代に立てる時期はだいたいが4月10日前後の日曜である。

早いお家は4月の第一日曜日にしている。

1カ月も経てば田植えが始まる季節になる。



水を張っている田んぼも多くある。

この場に来るまでに道ですれ違った男性がいる。

軽トラに乗って下っていった。

水張りしていた田んぼの向こうの向こう側に建つ家がそうであるが、そこに数人が立っていた。

見送っていたのはたぶんに母親のIさん。

車を走らせて近寄ったらそうだった。



なんでもこの日は来客友人待ち。

揃ってBBQをしてもてなすと話していた。

その友人たちは道に迷ったと電話があった。

それで下っていった息子さんだった。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)

高樋町の苗代イロバナ

2018年05月06日 09時17分16秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
天理市の和爾町から東になる旧五ケ谷村を行く。

里の地にある高樋町は奈良市が行政区。

数か所の苗代田に水口まつりをしている。

うち一カ所は集落をバックに撮っておきたい景観である。

白い幌があるから苗代田はすぐに見つかる。

車路からぐっと廻って下りてみる。

そこにはイロバナがあったが、松苗は見られない。

昨年に訪れたときも同じ場所。

そこには松苗があったが、今年はない。



高樋町の神社は春日神社。

3月1日の春祭りに松苗を奉っているはずだが・・。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)