マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

観音寺町八幡宮の砂の道

2022年11月30日 07時16分41秒 | 大和郡山市へ
平成20年12月31日以来、11年ぶりに訪れた大和郡山市観音寺町の八幡宮。

今も同じようにしているのだろうか。

コロナ禍の今年は、どうされているのか。

ちょっと気になりだした運転中の意識。

自宅戻りの道から外し、直行する。

銭司の“オニ”の件の情報を得られず、意気消沈の帰宅。

自宅に戻るつもりが、ふと気になった大和郡山の砂の道である。

平成20年12月31日、人生初めて拝見した砂の道の第1号は観音寺町の八幡宮。

実は、ここに至るまでの経緯がある。

初見する2年前だったか。当時、県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん(※現在は奈良民俗文化研究所代表)。

ふと、私に尋ねた大和郡山の砂の道。

聞き取りのなかで鹿谷さんが知った砂の道。

実際に見たことはないから、探してほしい、というお願いである。

手がかりはまったくなく、途方に暮れていた平成20年の12月30日。

観音寺町八幡宮で行われた宵宮。

太鼓と鉦を子どもが打つ珍しい形態。

撮らしてもらった写真を、Hトヤに差し上げようとやってきた日だ。

町内に住む当時、大和郡山観光ボランテイアガイドクラブの副会長をされていた故Hさんと、道端にばったり出会った。

尋ねてみた砂の道。

それが、な、な、なーんと、観音寺町八幡宮でしている、という。

2年間も探していた砂の道が、お世話になっていた副会長が在住の地域だったとは・・・

世間は、とても狭いんだ、と思った。

賢一さんが、話してくれた未公開メモが残っていた。

今回の執筆に、偶然見つかった10年前のメモ書き。

「観音寺町で“正月の道”を作るでぇ、と言っていた。大晦日に近くなるころ、そろそろ“”正月の砂撒き“をせんなんといかんなぁ、と・・・。編んだ竹籠を装備しているモッコを持って佐保川の川に砂を採取に出かける。綺麗な川砂を掬って竹籠に入れる。川砂は水分を含んでいるので、それを竹籠に入れてしばらくおくと、水がきれて軽くなる。それからモッコを担いで地区に持ち帰る。川砂は、氏神社の観音寺八幡宮」



「箕を用いて本殿前から敷いていく“砂の道”。末社も同じように砂を一本道のように敷いていく。手水の処も敷く。観音堂の前も敷く。それは一本の繋がった“砂の道”を描き、鳥居まで続く。かつて神社のトヤが敷いた道に、各家はそれから繋げて砂を敷いていた。集落全域に亘っていた“正月の道”作りは家の玄関、蔵、納屋の手前まで敷いていた。家屋の外にあるご不浄の便所までも敷いていた。正月の道は人が通る全ての道に渡って敷いていた」



「正月さんを迎える道は、現実的にいえば家から神社へ参拝する道になっていた。子どものとき、盛り上がっている正月の道を踏んでいくのが楽しかった」

「この風習は30年ほど前から、“砂の道“つくりをしていたお家が、徐々にやめていくようになっていた。集落の道が舗装され、雨が降ったら側溝に流れていって始末せなあかんようになった。集落の道が土だったときは雨が降っても砂が自然にとけ込んでいった。それが舗装され、道路に砂が残る。側溝に溜まった砂は掃除せなあかん。面倒さがでてきたんで止めた」

「昭和58年(1983年)に、本殿を建て直した。そのときは既に集落の正月の道はしてなかった」と、話してくれた。

メモを読み返して驚き。

な、な、なんと、である。

2日に取材した田原本町・西代のTさんも同じような体験をしていた

大和郡山の観音寺町からかなり遠い地区になる田原本町・西代に同様の“砂の道”があった。

トイレまでも繋げる状況も同じ。

地域が離れていても、考え方や撒き方が一緒だったことに、感動した。

出会いが、出会いにさらN繋がった“砂の道”情報を得て、ようやく実態を拝見することになった。

当時、トヤのHさん、一人で撒いていた

おまけに故Hさんが、伝えてくれた隣村がしている“砂の道”。

観音寺町から、道路隔てた南側にある野垣内町。そこもしていると・・・

一挙に2カ所も知った大和郡山市の“砂の道”。

翌日の大晦日。両地区とも記録させてもらったワケだ。

それから一度も顔出ししていなかった観音寺町・野垣内町の“砂の道”。

口頭で伝えた人もいるが、HPやブログにアップした“砂の道”を知った大勢のカメラマンが、町内に出没するようになった。

あれから干支が一巡した12年後に再訪問した観音寺町。

今も変わらず、トヤさんがしておられた砂の道つくり。

集落の東側。5年間もお世話になった公共施設のハローワーク。

そこの駐車場は、再就職活動される人たちのための駐車場。

停めるわかにもいかないから集落の広地に停めている。

一歩、一歩、足を運んだ東入口に見た砂の道。

今年もしていた直の道。

今でこそ短くなったが、アスファルト舗装のない時代までは集落民家、一軒ごとに砂の道を繋いでいた。

この日は、正月三日。

大晦日に撒いた砂の道の一部が薄くなっていた。

痕跡があるからそこまで撒いていたとわかる。

さらに数歩。辻に出てわかる神社へ向かう参道になる。

民家と民家の間が参道道。

遥か遠くに見える鳥居の姿でわかる神社に行く道。

一直線に、まっすぐ伸ばした砂の道。

南に向かって歩けば、右に繋ぐ砂の道がある。

そこのお家は、平成20年12月31日訪問にお世話になったHトヤ家の裏の勝手口。

家の正門前は、一般の人たちも歩かれるので、遠慮して撒かれない。

尤もアスファルト道でなく、地道の時代は、すっとずっと伸ばしていたが・・・

さて、神社に向かう参道。

またもや右手に繋ぐ砂の道がある。



右手の建物は、町内に散在していた石仏地蔵を集めたのだろう。

市内にも県内にも多くみられる石仏地蔵を集めた地蔵祠。

お花を立てたそこに供えていた正月の御供は2品。



二段重ねの鏡餅。

深い大皿に盛った小豆御供。

洗い米を敷き、ラップかけ。

その上に撒いた小豆である。

10数年前にも同じ御供があったはずだ、と記憶を取り戻す。

そこから数歩もいかないうちに左手にも砂の道を繋げている。



砂の道を辿ったそこに建つお堂は観音堂。

夏の観音さんや、正月9日の初観音行事を撮らせてもらった観音寺町の観音堂である。

次の一歩にも建物がある。

奥に見える像は、牛の像。



あるブロガーさんが、観音寺町八幡宮を訪れ牛の像の背中にあった刻字から奉納年が”昭和十二年”が判別できたようだ。

年代がわかったところで、拝見する二日正月の小豆御供。

数歩行ったところで左折れの参道、砂の道。

手水鉢にも砂の道。



神さんが通る砂の道に、参拝者同様、手水をされていたとは・・・

ちなみに正面は、割り拝殿に向かっている。

扉は閉まっておらず、本社殿ならびに末社にも繋げた砂の道があった。

(R3. 1. 3 SB805SH撮影)

木津川PLANT・鮮魚部の海鮮丼とくどん中盛り

2022年11月29日 07時14分34秒 | あれこれテイクアウト
一度は食べてみたいと思っていた木津川PLANT・鮮魚部の海鮮丼。

開店からすぐ、たまたま入店した木津川スーパーセンターPLANT(プラント)

買い物する気もなく、ちょっと見ぃ程度と思っていたが、思わず手が出た美味しい魚。

惣菜料理の魚介類も美味しかった。

その後も機会がある度に入店しては品定め。

帰宅しての昼メシに待ちきれない。

お腹はぺこぺこ。

食べたくなったら、と決めていた鮮魚部の海鮮丼

一応は、というか念のために見ておきたい店内の奥まで足を伸ばしたそこに丼ぶりもんの店もある。

最奥にベーカリー、ハンバーガー屋さん。

手前が丼もん屋の「どすこいどんぶり」

焼き肉丼、カルビ丼、ステーキ丼などなど。

当初は、お手ごろ価格の焼き肉三銃士丼(※398円)もあったようだし、新メニューも・・。

どちらもテイクアウト商品を販売する丼もんの店。

肉を食べるか、それとも海鮮か。

明確にしていた、本日は鮮魚部が販売する海鮮丼である。

丼は、380円若しくは480円に698円の選べる海鮮丼。

値段の差は、その量にある。

その他に、398円のとくとく丼とか598円のフレッシュサーモン親子丼が、手ごろだろう。

選択したらご注文票が、発券される。

調理場つくる少しの時間が要る。

できあがったら店舗上部に据付のモニターに番号表示。

注文票を差し出して、受け取った税抜き価格が398円の中盛り海鮮丼とくどん。



支払いは、待ち時間に買っていた今夜のおかずにする炙りさばお造り、地中海産・特大本まぐろ中とろもあれば、大きな海老マヨソースとか、翌日に口にするサクサク海老はんぺん、10%引きの野菜フライ、蒟蒻つくりのかんぴょうなんてのも、まとめてレジ支払い。

電子マネーもクレジットカード支払いもできる木津川PLANTは、我が家まで片道30分。

奈良県外であるが、一歩入ったら京都・木津川。

バイパス道路も開通したから利便性のいい位置にある。



さて、食事は、直ちに、である。

腹が減って、減って、減りまくりの午後12時半過ぎ。

食事処は、いわずとしれた車中食。

蓋をあけた海鮮丼とくどん中盛りのネタが凄い。



この日のネタは、生サーモンに鮪、鰤(ハマチか)、鯛、イカにトビッコ。

さらに、カニカマもあれば歯ごたえシャキシャキの胡瓜もあるし、ほくほく味のたまご焼きまで。

溢れんばかりに盛った海鮮丼は中盛りのとくどん。

こんだけ盛っても、えーんかいなと思うくらいの盛りが凄い。



見た目でもわかると思うが、とにかくネタが大きい。

数も多く盛っていた海鮮丼とくどんの中盛り。

盛り盛りだけに丼のご飯が見えない。

テイクアウト丼には、特製本醸造しょうゆに練りわさびも付いている。

空けた蓋にとろとろ落とした醤油だれ。

小袋を箸で押さえてしぼりきる。

同様にわさびも絞りきって混ぜる。



混ぜたわさび醤油を丼にたらたら流してできあがり。

さぁ、食べるぞ、と気合が入る目の前のご馳走。

こぼさないように、注意しながら食べた一口目。

むっちゃ旨いやん。

ネタは新鮮。

口に入れた鯛にイカのこりこり感が凄い。

とろっと感が口の中で溶けていく生サーモン。

プチプチ食感が気持ちいいトビッコ。

さすがの鮮魚部。

たしか福井漁港で水揚げした海鮮。

シャキシャキの胡瓜、甘みのあるたまご焼き。

がっつり食べて一杯が398円。

これもお土産に買っていきたくなるほどに美味い。

正直申し上げるが、大手の回転寿司店より、ネタが新鮮やと思う。

(R3. 1. 3 SB805SH撮影)

木津川市加茂町銭司・春日神社の勧請縄・砂撒き

2022年11月28日 07時59分00秒 | もっと遠くへ(京都編)
正月三日の行先は、京都府木津川市加茂町銭司・春日神社。

朝から縄を結って午後に架けると思って、出かけてみれば、みな終わっていた。

午前11時過ぎの時間帯にどなたの姿も見られない。

風は冷たく吹く銭司(ぜず)の里。

停めていた車に戻って帰ろうとしたとき、白い軽バン車がやってきた。

乗っていた男性は焦っているようだ。

慌てて入った社務所。

話しが聞ければ、と声をかけた男性はSさん。

「衣装を取りに戻っただけだ。今、とても忙しいから・・」。

一応聞けた砂撒きは12月31日の朝8時から。

勧請縄の縄結いは1月3日の朝8時から。

1時間ほどで出来上がった縄は9時にかけ終わったそうだ。

また、見たいなら次回に、その時間に来ていただければ、と伝えられた。

知りたかった銭司の民俗行事は、“オニ”の件。

「それは知らない・・・詳しいことは、聞き覚えでしてきたからわからん」と云われて、乗ってきた軽バン車に乗り、バラバタと下っていった。

実際、されているのか、それとも・・・

されているなら日程でも、と思ってやってきたが、情報はさっぱり掴めなかった“オニ”の取材。

来年に持ち越しと、決めて、正月を迎えた加茂町・春日神社の門松・砂撒きおよび勧請縄の情景を撮っておく。

なお、ブログ「歴史探訪京都から ~旧木津川の地名を歩く~」が、これら銭司の正月行事について、より詳しく伝えている。

実は、銭司の砂撒きと勧請縄は、2年前の平成30年の1月6日に拝見している。

砂撒きの状態も勧請縄も美しい形状を残していたが、正月前の12月18日に予め山行きされて、伐採した木を伐り、集めた割り木。

“才木(さいぎ)”と、呼ぶ割り木を、本社や末社に設える。

その才木を集めてくる作業を”シバシ“と呼ぶ。

奈良県内にも同じ名称の”シバシ“の作業をしていた。

数少ない事例であるが、伐採後に神社の蔵に収めていた奈良の旧五ケ谷村の一村。

興隆寺町・春日神社にあった。

他地域に住まいする知人二人からも伝えてくれた”シバシ”。

橿原市・一町(かずちょう)に大淀町・大岩の地にもあった、と聞いている。

尤も、銭司に近い南山城村の南大河原も同じように、伐採した割りは拝殿下に収納している。

暖を取る焚き木の利用であろう。

南大河原でも、銭司と同じように雑木を伐り出すことを「シバシ」と呼んでいるように思えてしかたない。

三重県・『亀山市史民俗編』に「シバシ」のことが書いてある。

「シバ(柴)」は小枝類。

おじいさんは山へ行ってシバ刈りにいった・・」と、はじまるお伽噺は誰しも知っているが、現代の生活文化には見ることもない。

ところが、山村などの神社の焚き木集めにあったのだ。

亀山市史を読めばわかるが、「シバシ」を充てる漢字は「柴仕」。

つまり、柴材を集める作業仕事であった。

さて、参拝を兼ねて訪れていた銭司。



目を見張る砂モチのあり方。

境内、くまなく隅から隅まで撒いていた。

中央に斜め前切りの孟宗竹。

葉ボタンに松、竹、梅。南天を飾った門松を据えた。

両脇の狛犬にも”才木”を立てかけている。



階段をあがって正面が武甕槌命(たけみかづちのみこと)・径津主命(ふつぬしみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀った春日神社。

春日大社の式年造替の際に、旧社殿を謂れのある地に移された「春日移し」の春日造・一間社の社殿。



堂々とした造りに感銘を受ける。

社殿袖下、両端に立てた”才木”にウラジロ。

そう、しめ縄を括った”才木”の姿である。



末社は、右手に鹿島神社と熊野神社。

左手は、八幡宮・八柱神社・厳島神社・蛭子神社を1棟に合祀した社殿。



末社は、ひとつずつの”才木”を立てているだろう、と思ったが、右手の右横の社殿には見られない。

なにか、理由があるのだろうか。

正月のしめ縄は、どこの神社であっても社殿に掲げるものだと、思っていたが、そうでない神社がここ銭司にあった。

再認識した銭司の春日神社

頭を下げて参道を下る。

下った直後に見える勧請縄。



往路の参拝にも気づいていたが、写真にするには、復路を奨める。

樹木の植生、左手が南。

光の輝き加減で復路が美しくなるようだ。

さらに下った車止め手前に立札があった。

右手が車止め。

左手は、参道であるが、現在は通行止め。



「この参道は、平成30年十二月より、閉鎖しております。倒木があり、危険です。云々・・」と、ある。

ここから臨めば急な坂道。



どの時点に倒木があるのか、存知しないが、危険であることには違いないから、氏子たちが示す注意事項は厳守である。

ちなみに、ずっとくだっていくと、福田寺右横に出るらしい。

平成28年12月18日に訪れた銭司の里に出会った高齢の男性。

「そこは小字馬場道。山道をずっと登っていけば春日神社に着く参道」だ、という。

おそらく、馬に乗った人たちが往来した参道であったろう。

(R3. 1. 3 SB805SH撮影)

正月二日は通販ますよねが提供するずわい蟹のカニしゃぶにしゃぶりつく

2022年11月27日 07時31分26秒 | あれこれテイクアウト
年末まだまだ。

慌ただしくなる前に準備しておきたい正月のご馳走。

今年は、3人の高齢家族だけに食べてもらうご馳走。

量を考えたら、買い置き、買いだめ無用。

毎年に出かけていた奈良県立中央卸売市場の仕入れに行くこともない。

寒ブリ、本まぐろ、だし玉子焼きも食べることはない。

おせち料理は、いつもの林裕人先生が監修している超特大大宝船だけで十分。

尤も、昨日の元日に食べきったが・・。

さて、本日は正月二日。

心持ち欲しいご馳走に、求めた通販売りの蟹、蟹、蟹。

今回も楽天市場にあった蟹に飛びついた。

注文した日は、前年の令和2年12月9日。

注文先は、楽天市場の越前かに問屋「ますよね(福井県敦賀市津内有限会社増米商店)」。

これまで広島産特大牡蠣に生ほたて貝柱を注文してきた「ますよね」。

味は抜群、間違いなし。

その「ますよね」が、たまたま案内していた20%割引クーポンが決め手となった注文蟹はポーション仕立て。

かーさん必須のポーション仕様。

それしか眼中にない。

すぐに食べられるポーション以外は、考えられないのだ。

商品内容は、生ズワイガニフルポーションが1kg(※解凍後830g)。

内訳は、ズワイガニ足が16本から20本になるらしい。

他にも、ズワイガニ爪が5本から6本とズワイガニ爪下も約5本から6本。

実際に、送ってきた内訳本数は、ズワイガニ足が18本、ズワイガニ爪が6本にズワイガニ爪下も6本。

冷凍賞味期限は1カ月。

ただし、業務用冷凍庫でのこと。

家庭用冷蔵庫なら、どうなんだろうか。

特に気にせず、24日後の正月三が日なら大丈夫だろう。

「ますよね」発注の生ズワイガニフルポーションが1kgには、おまけがある。

プラス・プレゼンツの商品は、500gのズワイガニの肩肉。

いらん、ちゅうたら要らんのだが、おまけならありがたく、到着したら同封の商品も冷蔵庫行き。

正価が10800円の1kg生ズワイガニフルポーション。

20%割り引いてもらった実売価格は8640円。

安くついたのか、それともまだ高いのか・・。

冷蔵庫に収めていたかーさんが呟いた。

足の本数が、少ないのんとちゃうか、って・・。

もっと本数が多いと思っていたらしく、心の中は不満が樟ぶるらしい。

気になったら、近くのスーパーなどに並んでいる正月商品の冷凍蟹の陳列を見て廻り。

あるある蟹、蟹、蟹・・。

蟹殻付きの蟹、蟹・・。

ポーション仕立ては意外と少ない。

足の太さ、長さに重さによって値付けに差異がでる。

なかでも18本入りのポーションが見つかった。

細くて短いズワイガニの足。

1999円で売っていたよってって小泉店の購入。

それも足そうか、と思っていたが、まったくの無用。



とにかくますよねのずわいかにポーションの量が多いのだ。

ますよねが奨める美味しい食べ方はいろいろ。

カニ刺しの他に濃厚バター焼き、かにちらし、かに雑炊、かにパスタ、かにの天ぷら。

私がイチバンに奨めるのは蟹の天ぷら。



丸亀製麺のジャンボカニカマ天の比ではないが、天ぷらにすれば味、コクが倍増する。

旨さ、こってりである。

そんな面倒な、の一言が返ってきた、と、いうわけで、刺身若しくはしゃぶしゃぶに決まった。

大鍋に用意した水。火を点けてぐつぐつ・・・、と思っていたが、無残にも・・野菜がどっさり。

かーさんの頭に浮かぶ鍋は野菜がつきもの。

椎茸に豆腐も入る鍋しゃぶ。

たぶんに泡立つだろうな、と思った通りの光景に殻の方を手にしたポーション蟹。

鍋に近づきすぎて、アチチチ・・。

しゃぶしゃぶしたかったが、じっと我慢の子。



熱々の湯。

沸騰した湯に、ほんの少し浸けただけで色が着いた。



揚げどきサインが出たら皿移し。

おふくろもかーさんもポン酢に浸けて食べるが、私は蟹そのものの味を愉しみたくて、素で食べる。

これがむちゃ旨いんだなぁ。

一本食べては、次の一本もしゃぶしゃぶ。

揚げてあーんと口を開けたそこに持っていったら、アッチッチ・・。

ちょっとだけ冷ましてぺろり喰い。

ほんまに旨いわぁ。

おふくろもかーさんも蟹しゃぶ食いが止まらない。



味替えにでっかい爪も。

カニ身がぎっしり詰まった爪。



一方の蟹爪を反らすようにぐにゃっと曲げたらぽろりと身が出てくる。

これもまた生味で食べる。

うま味たっぷりの蟹爪の味もたまらんなぁ。

足身だけでなく、爪先も、ちょちょいと・・。

先っぽを歯で噛んでぽきっと折る。

そろっと引っ張ったら中から、ほうれ。



細い身が出てくる。

これもまたぺろりと食べる。

実弟三男が贈ってくれた缶ビールのプレミアムモルツ。



元日に続いて呑む旨いビール。

茹でカニを肴に美味いビールをゴクゴク呑ませてもらう。

カニ、カニ、カニ、カニ・・・・あぁ~旨いよな。

蟹だけじゃお腹が膨れない。

そこで食べた野菜、椎茸、豆腐。途中で入れた春雨でお腹がやっと膨れた。

刺身で食べるつもりが、みなしゃぶしゃぶ身になった。



一晩で食べきったポーション蟹であるが、おまけに就いていた肩肉に悪戦苦闘。

おふくろは食べにくいからと手が出ない。

かーさんと私は、むさぼるように食べていたが・・・

レビュー文の、タイトルに「ふっくら蟹身に没頭喰い」

「20%割引クーポン券利用したますよね提供のずわい蟹ポーションがむちゃ旨い。食べ方いろいろ推奨してくれるが、イチバンは誰でも喜ぶしゃぶしゃぶ。ポン酢なんて無用。生の味を愉しむならしゃぶしゃぶが一番だと思う。
ズワイガニ足が18本。爪が6本に爪下も6本。1kgもあったカニポーション、高齢家族3人が一晩で食べきった旨味に感謝。」

ショップレビューは「いつも美味しく食べている越前かにますよね。また注文しますで・・」

“楽天ROOM”に、「20%割引クーポン券利用のますよね提供のずわい蟹ポーション。ズワイガニ足が18本。爪が6本に爪下も6本。1kgもあったカニポーション、高齢家族3人が一晩で食べきった」

(R2.12.12 SB805SH撮影)
(R3. 1. 2 SB805SH撮影)

長滝町・九頭神社神輿の修復

2022年11月26日 07時47分23秒 | 天理市へ
カラスのモチ習俗の話題を提供してくださった天理市長滝の住民。

うちは現区長家だが、分家のY家。

本家にも立ち寄ってほしい、と願われて、急坂の道を下っていった。

長滝町に鎮座する氏神社は九頭神社。

3年後にゾーク(造営事業)があり、保管庫にずっと寝かして(※保存)いた神輿を再生することに決めたそうだ。

損傷激しい神輿修復にかかる費用は高額。

村に大工さんがおるので、そこでやってもらうことにした。

その大工さんは宮大工でもなく、建物建築。本家のY家さん。

顔合わせて、修復中の神輿を見てや、と云われ、尋ねた現一老のY家。

やっぱり、このお家や、と思わず声が出たY家。

過去、何度も伺い、取材させてもらった長谷の年中行事。

中でも、未だに記憶が鮮明に遺っているコンコンサンの行事。

山に、そして急こう配の山道にも雪が積もった日のコンコンサン

行事の場は、山中にある稲荷社。

登りに村の人たちが困らないように、手すりとして張ったロープ。

その状況下に運動靴で登るのは無理。

取材は諦め下山しよう、と・・

そのことを気遣ってくれたY夫妻。

その日、にわか神主役を務めたYさん夫妻。

急いでお家に戻り、わざわざ登山口まで長靴を持ってきてくれたK夫妻。

ほんとに心から感謝する日だった。

久しぶりにお会いするお二人に、あらためて年賀の挨拶。

10年前、行事取材に世話なった当時の区長さん。

しゃべっている間に私のことを思い出したようだ。



時間を割いて見せてくれた神輿の彫り物が凄い。

ところが欠損多く、顔もわからん。

なんとか見本になるようなものをネットなどに見つけて彫り出した、という彫り物。

屋根から見下ろす姿は下がり龍。



迫力を感じる龍が屋根お支えている。

武将でもないような釣竿持つ人物の愛くるしい姿に思わずシャッターを押す。

左手に扇をもつ立ち姿。前に大きな甕。



水甕でなく酒甕のよう思える立ち振る舞い。

宴に舞う酔客なんだろうか。

神輿の周り、狭間四面、4カ所に設える彫り物。

大波に人物。



右端に線描き入れた人物顔スケッチ。

少しずつ補修されている。

隠れている裏側にも数々の彫り物があるから、見せてあげよう、と重機稼動。

拝見した雲板4カ所それぞれに力士の姿。



神輿の土台を支える姿に圧倒される。

このように力士が支える形は、稀に見る。

力士が支えるのは、狛犬の台座とかに見られる。

各地の神社。くまなく探せば見つかる”支える力士”の姿に力強さを感じる。

上手くできあがったら、声をかける、というが、ちと不安な気持ちも浮かぶも・・。

翌年の5月に再訪し、伺った神輿の修復状況。

神輿は云十年前、それこそ50年前になる。

担ぎ手が少なくなり、担ぐことなくずっと保管してきた神輿。

来年のゾーク(造営事業)に披露できるよう、修復してきたが、ちょっと無理な状況。

ガラスの眼を埋め込んでいた神輿の4隅に設えていた獅子。

眼玉を作る、と息子さんもそう云ってたが、それも無理なような状況にきている、と・・・・・

(R3. 1. 2 SB805SH撮影)

長滝町・Y家のカラスのモチ

2022年11月25日 08時12分19秒 | 天理市へ
何度も訪れたことがある天理市長滝町。

山間の地にある村落。

数々の年中行事を撮影、記録してきた。

秋祭りの宵宮座分け正月ドーヤカンジョウナワオコナイコンコンサン閏庚申涅槃さんも取材してきた長滝の地。

前方に杖をついて歩くお方は、顔見知り。

行事取材に幾度も世話になった。

その当時は、急な山道も軽々登っていたコンコンサン。



後ろから声をかけたいが、これから目指す目的地は、火の見やぐらがある消防団倉庫から急な坂道を登ったどんつき。

柿の木に吊るしたカラスのモチがみつかった。

昨年末、大晦日の夕暮れにかかった電話の声は、写真家のKさん。

砂モチ調査に伺った天理市の長滝。

取材の目的は砂モチ。

現在はしていない、とわかった。

目的を失ったKさんが、その地にたまたま出会わせた高齢の女性。

話の展開は、どこからどうなったのか不明であるが、その女性が云った言葉。

「カラスのモチなら、今からしてやる」、と云われた。

その女性がいうには「翌年には90歳になる」と、いう高齢者。

おばあさんの心に惹かれて、案内してもらったそこは柿の木があるお家。

山の上にあるお家にたどり着いた。

その場で作ってくれたカラスのモチ。

大晦日のその日は、お家で正月の餅を搗いていたようだ。

その餅のうち、いくつかを藁に詰めこんで、柿の木に吊るした。

野鳥に食べてもらうために吊るした藁詰めの餅はカラスのモチ。

藁ズト(※藁束)のようなものを2本用意する。

二つとも、藁束の中に6個ずつのカラスのモチを詰めて柿の木に吊るす。



まさに、Kさんが伝えた通りの場。

柿の木の枝に吊るしていた。



遠景、近景などから見た初見のカラスのモチ。

想像していた通りの形だった。



シャッターを何枚か、押していた音に気がつかれたのか、89歳のおばあさんが、屋内から出てこられた。

私の顔を見るなり、「あんた、昨日の大晦日も、元日にも来てくれて・・・」と、いわれる。

いやいや、そうではなく、大晦日も昨日も、それはKさん。

Kさんから教えていただき、私は今日が初めてです、とYさんに伝えたが・・・

あんた「林檎3個に大きな写真を持ってきてくれたやろ」、と云われるが、それはKさん。

見た目は違うのだが、土地の人ではないから、みな同じように見えるようだ。

入口前での会話。にぎやかし、していたら屋内から出てこられたから若奥さんが、「寒いから家に入って」、と云ってくれた。

玄関土間に据えている客間にテーブル・椅子のセットがある。

お客さんとの会話はこの場で済ませる。

紹介された、Y家の当主。昭和24年生まれのY区長。

70歳までは奈良市法蓮町にある花屋さんに勤めていいた。

義理の父、母が高齢になり、花屋を定年退職後に家族ともども、妻の実家に転居。

親子どもども長滝に転居し、分家のY家を継いだ。

村のことは、なにも知らなかったが、村に認められて区長に就任(※福住連合区長会の会長も勤める)した。

24軒の長滝を預かった区長役。

地区に暮らす先輩たちの支援を受けて役目を務められるだろう。

さて、カラスのモチである。

おばあさんがいうには、百姓はみなしていた、というカラスのモチである。

柿の木に吊るしているからカラスは来ない。

正月開けたら、少し歩いた山行きに梅の木があり、そこに吊るし替える。

そうしたらカラスがやってきて餅を喰ってしまう、と話してくれる。

カラスのモチは、12月30日に搗く正月の餅の一部。

正月の餅から、12個の餅をいただき、藁ヅトに収める。

柿の木に吊るすのは、例年が31日にしているようだ。

また、旧暦閏年の年のカラスのモチは、13個。

ここも見られた旧暦閏年の13の数。

県内の民俗事例に、多彩、多様な民俗。

あちこちの地域行事に13の数を示す祭具。

多すぎると思えるほど数々の事例が各地に継承されてきた。



今日は、元日。ご厚意により、正月の膳から分けてくださった練り物をよばれた。

南天を皿に敷いたそこに盛った食べ物は、蒲鉾に、さつま揚げ。

毎年同じだけど・・という練り物が美味しい。

特別のお店で買ってきたと、いう練り物は、ほんまに旨い。

席を立とう、としたときに気づいた祭具が目に付いた。



「無病息災 五穀豊穣」を記した矢羽根。

その祭具は、たしか見たことがある。

二ノ正月の2月5日は、長滝の年頭行事である正月ドーヤがある。

平成22年2月5日に取材した正月ドーヤは、九頭神社のケイチン地蔵寺のオコナイカンジョウナワカケからなる一連の行事。

元々は4日、5日の両日に亘って行われる行事であったが、1日にすべてを終えるよう短縮化された村の初祈祷行事である。

Y家の玄関口に見た矢羽根の本体は矢。

マトウチに描かれた鬼を射る弓から放たれた矢である。

マトウチ射手は、座の一老。

続いて矢を打つ二人の本当家と、受け当家の2人に行司。

打った最後。弓の角で、鬼をバラバラにしてしまう。

鬼のとどめをさす行為。

鬼は無残な形。

鬼を退治した、マトウチの儀式によって、村の安全が確保され、五穀豊穣を願った矢は、拾い集めて持ち帰り、無病息災を願う家の守り神となる。

(R3. 1. 2 EOS7D/SB805SH撮影)

田原本町西代・八坂神社の砂モチ

2022年11月24日 07時37分49秒 | 田原本町へ
2日は予定していなかった田原本町西代(※にしんだい)行き。

八坂神社の砂モチを拝見したく、急行した。

橿考研所属の発掘調査専門のYさんが発見した、という砂モチ。

Yさんがとらえた映像と同じ状態の砂モチが、今まさに目の前に現る。

なるほどの形態は、大和郡山市に鎮座する小泉神社の砂モチと同じ。

多少の高低差はあるが、形態は同じ。

それが、第一印象である。

辺りを見渡しても誰もお見えにならない。

西から吹く風が冷たい。

鳥居までの参道道。



両脇に背の高い樹木が並ぶ八坂神社の参道。

その光景もまた、大和郡山市丹後庄町の八雲神社に、さも似たり。

ただし、丹後庄町の場合は、樹木外の両脇は池であるが・・。

その鳥居横に立てていた八坂神社の史跡案内。



田原本町観光協会が立てた解説文の編集は、親交のあるNさん。

地域行事の法貴寺の川西川東のゴウシンサン取材にご支援いただいた元県の文化財保護指導委員。

担当する田原本町に行われる民俗行事、文化財、遺跡などが詳しい。

ゴウシンサン取材を終え、当時県立民俗博物館所属・鹿谷勲さんとともにお家に上がらせてもらったことがある。

西代・八坂神社の解説文に興味深い記事があった。

下記に、要約し、文中より一部補正し、解説する。

「年代・由緒は明らかでないが、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていた。云々・・」他地域にも多くみられる元牛頭天王社。

西代と同じ八坂神社、或は八阪神社。

他にも杵築神社などがあり、古くは祇園社と呼ばれていた時代もあった京都・八坂神社もまた牛頭天王社。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)を、往古は牛頭天王と称していたわけである。

詳しくは、ここでは述べないが、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた全国の神社は、神仏分離・廃仏毀釈の波を受け、素戔嗚尊を祀るすべての神社が、明治時代に神社名を替えられた

「旧城下郡(※旧城下郡(しきのしものこおり)は中世までの郡名、後世に式下郡(しきげぐん))西代の八坂神社は、素佐男命の神威により、西代村民を疫病から守るために勧請された・・・」。

「明治3年(1870)、神社名を健速須佐男命社『城下城上神社御神体取調目録(蔵堂・守屋広尚文書)』と、呼ばれていたが、明治11年(1877)に、八坂神社名に改号された。(村史『西代区有文書』)」

蔵堂・守屋広尚氏は、蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社宮司。

なにかと民俗行事取材に教わった宮司が、若いころに記された『城下城上神社御神体取調目録』であろう。

「八坂神社・本殿は、一間社春日造、銅板葺(かつては檜皮葺)」。



県内各地に春日大社から造営の度に古社になった建て替え前の社を、所縁に地に移された春日造を調べている写真家Kさんは、先に調査していたらしく、西代の砂モチに興味を示された。

YさんとKさんがたまたま居合わせた年末晦日の日。

奈良市山陵町・山上八幡神社の砂モチ行事

西代の砂モチを報せてくれたYさん。

Kさんもまた砂モチ調査をしている。

三者がそろったときには、さまざまな地域習俗情報を伝え合う。

今日に拝見したあり方も、また伝えておいた。

さて、鳥居から眺める参道を撮っていたときだ。

東側の地に建つ集落から歩いてきた人の姿が見える。

もしか、とすれば氏子さん。

そう思って、お声をかけた女性は西代住まい。

天理市中之庄町が出里の女性が嫁いだ50年前。

出里になかった情景に、行事や風習も異なる環境だったが、苗代にイロバナをしていた、と話され、思わず、えっ。

中之庄町といえば、ひょんなことから出逢った苗代の習俗がある。

取材したT家の他にも、数か所でしていると知った中之庄町の農村のあり方。

氏神社の天神社の行事に御田祭は見られない。

それゆえ祈祷する護符はないが、イロバナ立てはある。

蕗の葉に載せるハゼゴメ習俗には感動したものだ。

ちなみに、ここ西代にも苗代にイロバナを立てる、と話してくれた。

しかも松苗も立てる、となればここ八坂神社に御田祭があるのか・・。

実は、そうではなく、隣村の八尾にある神社の田植え祭りに・・。

その神社は、かつて取材したこともある通称鏡作神社の名で呼ぶ鏡作坐天照御魂神社。

当地のお田植祭は、群がるカメラマンが撮る牛面を被る牛使いがある。

女児が舞う豊年舞に、ラストに天空高く投げる雨降らしの松苗投げも。

その松苗を西代の総代がもらってきて住民に配る、と・・・

イロバナを添えてキリコモチも供える、というからその時期になれば、また伺いたくなる西代。

かつてはカンピョウつくりから干す竿もあった、と昭和23年生まれのTさんが話してくれた。

そういえば、すぐそこのH家、は今でもしているような気がする、と・・・

さて、西代の砂モチである。

73歳のTさんは、“砂は神さんが通る道”だ、という。

川砂が綺麗だったころ。寺川に出かけて、掬った川砂を一輪車に載せて家に持ち帰った。

門から家の玄関までに一本の道を描くように砂を撒いていた。

玄関だけでなく、トイレやお風呂に稲屋にも繋げるように砂を撒いた。

それぞれを繋げる砂の道。

その形態は大和郡山市内見聞きした砂の道と同じ。

で、あるが境内の砂モチとは関係なくしていたようでもある。

嫁入りした義父や義母から教わったのだろう。

当地に住んでわかったことを話してくれる。

お話しされているとき、散歩中だったTさんが、ばったり出会った87歳の高齢女性。



老人カーを押しながらやってきた女性は、手を振って合図していた。

一緒に、参拝しましょう、と寄り添って歩いた参道。



「大阪から嫁入りした私もびっくり」、ここ西代の習俗に、当時は驚きながらも家人たちとともに砂を撒いていたそうだ。

うちもしていた、と、いうが、たぶんに今はしていないような雰囲気・・・

八坂神社の砂モチ。

かつては、西に流れる寺川にあった綺麗な川砂。

護岸工事の関係であろう。

川砂が採れなくなってからは、心ある村の人たちが砂を寄せてくれるようになったそうだ。



その一言でわかった砂モチの色合い、風合い。砂の盛り様の違いもわかる。

お家によって入手する砂質は違う。

黒い砂もあれば白い砂も。

茶っぽい砂もあれば、グレー色も。

一人一山とは限らず、二山、三山の場合も・・見られる。

いずれにしても左右対称に一対、一山ずつ。

12月31日の大みそかに砂モチをしているようだ。

ちなみに八坂神社の宮守さんは3人。

1番の年長者、2番手のミナライ。

3番手もまた見習い。

一年経験して繰り上がる。

3年間を経験して退く繰り上がり。西代のトーヤ制度であろう。

毎月の1日、15日は掃除。



風雨にさらされ、もっときれいに、と手を揚げた老人会も毎月の8日と23日が清掃日。

ちなみに西代の砂モチは、中田太造著の『大和村落共同体と伝承文化』に載っている、と写真家Kさんが教えてくれた。

“田原本町・平野村の一年“の章に「スナモチ オオミソカに飛鳥川から砂を一荷ずつあげてきて、お地蔵さん、お宮さん、墓、家の門口に“砂モチ”をした。これは普段に詣で、足につっかけて帰るので、お返しするためだ、という。お宮さんや、お地蔵さんには砂が山のようになった。佐味では正月が済むと、この砂を道の悪いところに置いた。満田では、大晦日に門口に砂を撒いたが、それを“ハツミチ”といった」とある。

砂モチ状態撮って、それで終わり。

次に向かいたい天理市の長滝。

昼までに帰ってこれる。そう思って西代の調査に来たが、なんなのなんの。出逢ったTさんの情報は大きく、昼めしを摂る時間がなくなってしまうくらいの質・量に感謝申し上げる次第だ。

また、余談であるが、FB知人のFさんからも砂モチ情報を伝えてくれた。

多神社の境外社と思われる姫皇子命神社に一山の立砂(たてずな)若しくは盛砂(もりすな)があった、という。

私にとっては初の取材地になる西代。

「にしんだい」の読みさえ知しらなかった初入りした西代。



この日に出会った住民のTさんに、老人カーを押して参拝された婦人からただいた貴重な民俗話題。

西代に出会えるキッカケとなった砂モ情報を報せてくれたYさん。

春日造りを記録してる写真家Kさんからは、民俗文化を記録された、先駆者の中田太造氏が執筆された『大和村落共同体と伝承文化』に記載があると報せてくれた。

西代・八坂神社の解説文を通じて学ばせてくれたNさん。

村屋坐弥冨都比売神社宮司の守屋広尚氏からの情報もある。

私が民俗調査をできたのも、すべて先駆者のおかげである。

これまでも先駆者から受けた、或は見聞きした数々の多様な情報提供によって、私が現時点の取材ができるのである。

ありがたく感謝し、敬服するとともに、また敬意を払わなければはならない、と念頭におき、今後も活動していきたい。

(R3. 1. 2 EOS7D/SB805SH撮影)

押熊町・コロナ禍の八幡神社初詣

2022年11月22日 07時52分46秒 | 奈良市へ
奈良市押熊町の八幡神社行事にしめ縄かけがある。

そのしめ縄の形態は、県内に見られる類似例調査で知った。

近くに住むYさんの情報で知った簾型のしめ縄。

ここにも類似例があったとは・・・。

拝見した日は、昨年の令和2年1月5日。

正月三が日を二日過ぎた5日の訪問。

Yさんが伝えていた簾型しめ縄に実は名称があった。

後日、お会いした村神主に座の一老が話してくれたその名称は「編み注連縄」。

なるほど、である

垂らすモチワラが簾のように見える。

その縄結いつくりである。

他所の地域で拝見した簾型のしめ縄。

数本の藁束を手にして心棒になる竹に括る。

その次の藁束は被せるように、また繋げていくように・・まるで編むようにつくるしめ縄。

その作業から、名称したと考えられる押熊八幡神社の簾型しめ縄。

12月の22以降、25日ころまでに正月を迎える門松立てがある。

拝見していないが、そのときに合わせて、つくった「編み注連縄」を割り拝殿の入り口頭上にかけるようだ。

ちなみに、同じ奈良市内に簾型しめ縄をつくり、同様にかける神社がある。

平成27年12月7日に取材した疋田町に鎮座する三輪神社のしめ縄名称は、「御前飾り」。

神さんの御前に飾るから、そう称している。

正月・元日に訪れた目的の取材は、八幡神社行事にしめ縄にある。

予め、当時二老だった方に教えてもらった、しめ縄にかける伊勢海老に興味をもった。

しめ縄に、本物の伊勢海老を飾る地域がある。

私が知る範囲であるが、それは大和郡山市内にある2カ所の神社にある。

1カ所は、市内城下町内在所の野垣内町。

平成19年12月30日に取材した春日若宮社にかける伊勢海老のあるしめ縄。

その日に拝見した野垣内町の伊勢海老は生きた伊勢海老でなく茹でた海老だった。

もう1カ所は、城下町外に在所する田中町。

甲斐神社にかける生きた伊勢海老しめ縄。

取材日は、平成24年12月31日

簾型のしめ縄に括りつける作業も拝見した。

いずれも長い髭をもつ伊勢海老。

長寿を願う形だ、と思った、

他の地域にもあるのでは、と思って探し回ったこともあったが、まさか押熊町の八幡神社にされていたとは・・・

当時二老の話は続く。

元日の正午前。

髭がピクピク動く生きた伊勢海老を既にかけていたしめ縄に括りつけ、固定する。

初詣に来られた参拝者。

その誰であっても構わない、お咎めもしない伊勢海老たばり(※賜るから転化し、訛った“たばる”言葉)習俗があった。

「私の子どもが生まれたときとか、妹の祝いに手に入れたことがある」と話す。

そのうち、口コミで拡がった伊勢海老たばり。

宮さんの担当が、伊勢海老を取り付けようとする。

その動きを知った、初詣参拝者が並ぶようになっていた。

神社側に、制止する動きはない時代だった。

その当時、伊勢海老の取り合いは勝手な取り合いだった。

われこそ手に入れたい、と競争するような伊勢海老たばり。

お話を伺っていると、数年前まで同じような状況だった唐招提寺の宝扇の奪い合いを思い起こす。

毎年の5月19日に行われている「うちわまき」行事である。

平成14年、15年に拝見した「うちわまき」

鼓楼にあがった僧侶らが、境内側に向けて飛ばす「魔除けの宝扇」。

手に入れようと集まってきた参拝者が、私も、わたしもと手が伸びる群衆の争奪戦(※現在は争奪のない整理券による人数制限・先着順などに替えられている)。

尤も、押熊の伊勢海老たばりは、神社側が投げることなく、参拝者自身の争奪であるが・・・・

県内外に見られる”花うばい”のあり方と同じような具合の伊勢海老たばり。

吉野町小名に花笠まつりがある。

神社に奉った当屋の花笠は、氏子たちの手に・・。

かつては奪い合いするくらいの争奪戦だった。

いつしか一本の花を一人ずつ配るようになった。

伊勢海老の取り合いになって喧嘩にでも発展するなら、と時間を決め、じゃんけんによる抽選。

当たった人がもらうようにした。

押熊もまた、安全性を考慮したのである。

昨今は、受験やらと云って若い者の参拝が多くなり遠くからでもやってくる。

大学を卒業し、就職できたからとお礼参りもあり、初詣に千人もの参拝者に膨れ上がった八幡神社の初詣。

実は、センター試験のときも願掛けが多くなるそうだ。

しかし、この年はコロナ禍。

世に至る神社や寺が対応・対策される参拝者制限。

さまざまな取り組みにニュース報道も多くなった時代に押熊が取ったコロナウイルス感染症対策拡大防止対策は・・・

鳥居前に掲げ「コロナウイルス感染症対策拡大防止対策実施中」。

手水使用不可、マスク装着、ソーシャルデイスタンス、咳エチケット、声をあげず控えめになどの理解・協力をお願い。



手・指消毒剤の設置。

鳥居をくぐり境内に入ったところにテーブルに置いた消毒液。

割り拝殿前にも消毒液の設置。

ロープを張り、密にならないよう左側一方通行をお願いしていた。



ぞろぞろやってくる参拝者は、お願い事項を守り、静かに参拝される。

頭を下げて入った割り拝殿。



頭上に今まで見たこともなかった「編み注連縄」をかけていた。

「編み注連縄」は、正月期間中にかかげ、7日に下ろされ蔵に収めておく。

2月3日の節分に行われる護摩焚きによって焼却される。

蔵から出した「編み注連縄」は、誰にも見られないよう護摩壇内部に移していた。

年中期間のごく一時的な日にちにしか見ることのできない「編み注連縄」の飾りつけ。



ウラジロにニコニコ仲睦まじくの串柿。

ダイダイに白紙に包んだ御供(※おそらく固炭であろうか)がある。

また、割り拝殿内に書かれていた「ご芳名ご記帳について」。

「新型コロナウイルス感染症対策拡大予防のためご芳名ご記帳は、1月1日から7日まで中止させていただきます」とあった。続いて尚、1月8日からは、従来通り月次祭にご祈祷させていただきます。押熊八幡神社 神主」とある。

私も、参拝者。



行列が途絶えた合間をぬって、初詣に願う心は、新型コロナウイルスの収束。

人気の少ない間合いに、拝見した正月の御供。



伊勢海老たばりのない「編み注連縄」。

伊勢海老はどこに・・・



元日祭の神事を終えた村神主は。

白衣から作務衣姿に着替え、忙しく動き回っていた。



尋ねた伊勢海老の所在は、御供にあり。

茹でた伊勢海老なら、見つけやすいが、生きたままの伊勢海老はどこに・・・

ぼやけて見えていた。

眼を凝らしてやっと姿をとらえた。



視線が合った伊勢海老は、三方に載せ本殿に奉る神饌御供として供えていた。

例年なら、供えた活け伊勢海老は「編み注連縄」の名で呼ぶ簾型のしめ縄に架けるのですが、密を避けるための今年は・・・

続けて云われた件に、思わずのけぞった。

前代未聞のコトが起こった、と・・・。

(R3. 1. 1 EOS7D/SB805SH撮影)

檜垣町・大日堂の正月初御供

2022年11月21日 07時54分14秒 | 天理市へ
元日お披露目の大和郡山市の小林町から離れて天理市の檜垣町へ向かう。

到着した時間は、丁度の午前10時。

先に参拝した三十八社。数年前に拝見していた砂の道は、前日の大晦日にも見ていた。

なんとか間に合ったものの、大日堂にはどなたもどなたもおられず。

と、いうのも承知のとおりである。

大日堂の役をされる人たちは、朝8時に持ち寄った正月餅を供える。

朝8時に伺うのは難しい、と伝えていたからそれでいいのである。

たぶんに、朝10時になるかと、思いますと伝えていた。

まずは大日堂に参拝する。

本堂前に立てた門松。

写真でもわかるように、扉を締めている本堂の前に正月御供餅がある。

元日の朝日の光を浴びて輝いていた正月の御供餅。



供えた時間が遅かったのか、猫や烏。鳥獣などから受ける被害もなく・・・。

今日は、鳥獣にとっても元日だったのだろうか。

何事もなかったかのように、おすまししている。

半紙を敷き、ウラジロの葉の上に二段の白餅に吊るし柿がひとつ。

すぐ傍にもなにやら御供のような・・・

形からしてわかる正月の御供餅。

半紙に包んだおひねりの形。

心あるご近所の人が供えたものだろう。

しばらくの時間に撮っていた正月御供餅。

そのとき、郵便屋さんが運んできた新年の挨拶を伝える初配達の年賀状。



元日の民俗を取材中に出会った郵便屋さん。

これまでいくつかの、シャッターチャンスに恵まれたことがある。

さて、新年の挨拶をしたいお家は、すぐ近くにお住いのMさん。

前年の、といっても、お会いしたのは前日の大晦日。

令和2年12月31日に紹介してもらったMさん。

大日堂の行事などを話していただく。

僧侶無住の檜垣町。大日堂の面倒をみてもらうため京都東本願寺にお願いして今に至っているそうだ。

傷んでいた大日堂を修復した、と話してくれたSさん。

屋根を修復したときに見つかった棟札によれば、江戸末期に建て替え。

仏師の名もあった、という。

盗人に盗られて行方不明になった大日如来。

歩いて戻ってきた、という説話もあるが、盗人が返しに来たようだ。

元々は4日だった大日如来の縁日を、戻ってきた日の8日に移した。

毎月の8日に清掃した7人の有志が、御供上げ。

般若心経一巻を唱え、灯したローソクが消えるまで堂内で過ごしているそうだ。

本堂に安置している仏像は4体。

煌びやかに美しい西陣織りの幕裏に隠れておられる。



本尊大日如来の他、室町期製作の地蔵菩薩立像、不動明王、弘法大師座像。

それぞれ左右に彩るお花も新しく花替えし、仏像前に正月の御供餅を供える。

半紙を広げたそこにウラジロ。



二段重ねの鏡餅に昆布。

吊るし柿は一つ。

葉付きみかんを載せた御供台は、脚付きのヘギ。

本尊の大日如来の前にだけは、雑煮の具盛りも。これらは当番が供えたそうだ。

また、4人が個別に供えた鏡餅もある。

形式も二段重ねの鏡餅に葉付きみかんに吊るし柿をひとつ。

盛ったお盆の様式は、丸型や四角に長方型。

それぞれお家で使用しているお盆であろう。

毎月8日のお勤めは、季節によって始まる時間を替えている。

夏場は午後6時よりはじめるが、日が短い冬場は、1時間早めた午後5時にしている、という。

堂内在廊中の撮影取材。

そのとき、屋外から声が聞こえてきた。



有志の方たちの正月参拝を堂内から撮らせてもらった。

毎月8日の営みとは別に、5月8日は特別な日になる。

盗人に盗られた大日如来。

それがなんと盗人が返しに来た。

その日が5月8日。

戻った日を記念し、それ以降の5月8日は特別な日にされた。

大日如来の縁日は、本来が4月であるが、檜垣町は戻ってきた日を記念に5月8日を縁日にされたワケである。

かつては、村中の人たちが寄り合縁日であったが、徐々に離れた人もおられ、現在は7人の有志のみなさんが寄り添い、檜垣町の文化を継承された。

午後6時、有志たちは1月の初庚申の日にも集まり、清掃後に般若心経を三巻唱えているそうだ。

また、7月23日は、大日堂に安置している室町期製作の地蔵菩薩立像のお祭り。

関西では、どこの地域でもしている地蔵盆がある。

その日は、連れてきた子どもたちとともに、この場でみなが寄り添って、家でつくったお弁当を持ち込み堂外の場で食べていた、という。

今は、弁当を広げることのできないコロナ禍。

終息した、としても以前のようにふるまえるかどうか・・・

檜垣町に、薬師講もあるが、現在は休憩と称し、中断状態。

心経唱える際に打つ小型の伏せ鉦に目が動いた。

ついつい拝見したくなる鉦の銘である

Mさんに立ち会ってもらって見た三本脚の小さな伏せ鉦。



直径が10cmの伏せ鉦。

返して見た裏面に「京大仏 西村左近宗春作」の刻印があった。

作者名は、他の事例などから判断、おそらく元禄~、享保、宝暦年代の製作であろう。

(R3. 1. 1 EOS7D/SB805SH撮影)