マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

奇跡的に残った旗飴

2019年06月13日 08時35分12秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
なんと、なんと・・、である。

大阪・住之江の実家に平成27年3月7日に行われた桜井市三輪の成願稲荷神社の初午に供えられた旗飴がそのままの状態で見つかった。

当時、供えられた5種類の旗飴すべては大神神社の神職よりいただいたものだ。

5本のうち3本が欲しいと云ったおふくろにあげたものが、そのままの形で実家に残っていた。

寸法は長さが29cm。

幅が6mm。

竹製の串の厚さは3mmである。

ちなみに飴玉の直径は大きい方でほぼ2cm。

小さい方もほぼ同様であるが、高さは低く15mm。

重さは測っていない。

飴がない一本はおふくろが食べたのではない。

大事にしておいたが、何らかの事象で落下した模様。

畳みに落ちた飴は掃除機に吸い込まれたようである。

ようまぁ、そのまま残っていたなんて奇跡・・である、3年間も放置していたので旗は色褪せていた。

奈良県内盆地平たん各地の神社や民家に供えられ、子どもたちが貰いに行っていたハタアメ行事一切が消えた現在は、とても貴重な史である。

貴重品ではあるが、配ってくれた大神神社さんに寄進しようと思った・・・が、当面は私が保管することにした。

何かの折に公開発表する史料として、或いは継承・商品化してくださる篤志をもつ方が現れるまで大切に保管することにした。

(H30. 2.19 SB932SH撮影)

奈良県下全域から初午御供のハタアメが消えた

2018年01月14日 09時41分52秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
午前中は大宇陀野依の取材があった。

昼食を済ませて平坦部に下りる。

数年前から求めている県内事例にある「ハタアメ」の調査である。

時間的な余裕もないので2カ所に絞った。

1カ所目は大和高田市岡崎の岡崎稲荷神社。

もう1カ所は広陵町中の小北(こぎた)稲荷神社である。

コースの都合上もあるが、まずは岡崎稲荷神社。

先月の2月3日も訪れた岡崎であるが、神社の所在地さえまだ掴めていなかった。

岡崎に春日神社があると分かったが、稲荷神社の所在地である。

鎮座地は3日に話してくださった元川上村白屋住民のGさんに聞いたが、時間もなくて拝見していない。

この日の目的は所在地を確かめることにある。

春日神社より北へ数百メートル。

どんつきは森。

その角地に地蔵さんを祀る小堂があった。

綺麗にしてはるから地蔵盆もしているように思えた。

道行く人の話しによれば稲荷神社はここを東に。

小道を通り抜けたところだと案内されてようやく見つかった。

神社宮司のお住まいも教えてもらって集落を探索する。

ここ集落も2月3日に探っていたが、結局は分からなかった。

宮司苗字がわかったから一軒、一軒探してみれば見つかった。

ここであったんだ。

呼び鈴を押したら宮司の奥さんが孫とともに屋内から出てこられた。

実は初午の「ハタアメ」を拝見したく・・・と伺えば、えっ、である。

これまで「ハタアメ」を製造していた事業者が造らなくなったというのだ。

詳しいことはわからないが、「ハタアメ」を製造事業者と取引して県内各地に営業販売していた担当者がいうには、高齢化などの関係で事業を辞めたらしい。

仕方なく、ネットなどを駆使して探した製造会社は広島県にあった。

あったことはあったのだが、形態がまったく違うらしくて注文はしなかったと奥さんが話してくれた。

例年、販売の人に注文していた「ハタアメ」は500本。

付近に住む子どもたちが歓んでくれた「ハタアメ」。

今年はまったくない。

入手どころか製造しなくなればどないしようもないが、「ハタアメ」はなくとも初午行事はしていくでしょう、と話していたのが印象的だった。

ちなみに岡崎稲荷神社の初午行事は3月の初午である。

当月にある「午」の日はその年によって2回或いは3回のときもあるが、岡崎稲荷神社は2回目の「午」の日にしているそうだ。

製造しなくなれば、これまで初午に「ハタアメ」があった県内事例のすべてがなくなってしまう。

ただ、岡崎のようになんとかして入手しようと努力もされた。

念のためにと思って次の目的地を目指す。

大和高田市岡崎からはそれほど離れてはいないが、初めて訪れる地域だけにカーナビゲーションに広陵町中をセットして車を走らせる。

神社であれば鎮守の森によって所在地を掴むことができる。

セットした主要地近くに森が見える。

近くまで寄らなくとも雰囲気でわかったが、そこより南に少し走った地域に幟旗が立っていた。

初午の幟旗だろうと思って走らせばまさにその通り。

鳥居を潜って西進したら森が見える。

車を止めて見た小北(こぎた)稲荷神社の由緒板。

社伝によれば天孫降臨供奉三十二柱神に稲荷五柱と小北大明神を合わせた三十八社。

また、小北大明神は鼠小姫命。

保食神に仕えた神とされるとあるからお稲荷さんとの関係が深いようだ。

保食神は食物の神さん。

お稲荷さんともども五穀豊穣、子孫繁栄のご利益があると信仰されてきた。

それはともかく当地にやってきた第一の目的は初午に供えられる「ハタアメ」である。

そのことを教えてくださったのは奈良県内の行事に出仕されている三郷町在住の坂本巫女。

神事ごとの祓え御湯の所作など数々の行事場でお世話になっている巫女さんである。

平成28年の小北稲荷神社の初午行事は3月1日だった。

その日に奉られた「ハタアメ」写真を送ってくださった。

その映像から青色、緑色、赤色、黄色に★のマークがある波紋柄。

5本それぞれに違いがある五色の「ハタアメ」であった。

前々年の平成27年3月7日に取材した桜井市三輪・成願稲荷神社の三月初午に奉られた「ハタアメ」と同じようだったから同業者が製造したものであろうと判断していた。

その年の小北の初午は平日開催。

時間帯の関係もあるのか子どもの姿は少人数のようだった。

氏子の話しによれば「ハタアメ」は飴屋さんに別注しているようやに・・・。

そうであれば、飴は飴屋で、竹串は串造り事業者。

分業していることも考えられる。

そこに営業販売をする業者の存在も・・・。

葛城市新庄の和菓子屋「菓匠庵おのえ」は店内で販売をしている情報もあるから、分業、製造業者の絡みもあるかと思えた。

昨年の平成28年3月18日に訪れた葛城市山田・三神社の初午祭。

なにかとお世話になっている大字笛吹に鎮座する葛木坐火雷神社宮司の持田さんが出仕されると聞いて取材したことがある。

山田の初午に奉られる「ハタアメ」も同じ本数に同じ形状、同色。

ここでも尋ねたが製造業者はわからなかった。

いずれも入手先はわかったが、上流工程の営業販売に製造事業者までは調べ切れていない。

そこへもってわかった大和高田市岡崎の「ハタアメ」状況。もしかとすればと思って恐る恐る尋ねた小北の「ハタアメ」。

応対してくださった権禰宜夫妻の話しによれば、今年は入手できなかった、ということだ。

例年、取引している卸しの販売店から伝えられた「ハタアメ」。

製造事業者がいうには後継者不足。

会社を整理したかどうかわからないが、事業を辞めたということだった。

権禰宜夫妻も岡崎と同じようにネットを駆使して調べてみたが、どうにもこうにも見つからなかった。

広島に製造会社があるとわかって調べたが、奈良のほとんどの地域でみられた「ハタアメ」とはまったく違うものであったことから、敢え無く断念した

近年は「ハタアメ」需要も少なくなったことも事業を辞めた理由の一つ。

昨年の小北は500本も用意した。

5色で1セットの1組だから100セットの組数を奉っていたが、今年は“ゼロ”本になった。

前述した葛城市山田にも「ハタアメ」を奉ることができなくなったと持田宮司が知らせてくれた。

私がこれまで取材したところすべてではないが、祭事に供える原材料がなくなり代替品に切り替えたとか、また、開発という行為があって生息していた植物が生えなくなったとか。

代替品はあるが、県外、あるいは海外製品に・・・。

それも入手不可能になってやめたとか・・・さまざまな要因で消えている現代のお供え事情。

難しい現実問題は、実はもっと昔、江戸時代からも発生していた事実もある。

祭り、行事を受け継ぐ。

そのときの時代変化、文化の変容など、さまざまな事情も、そのときおりの変化に合わせて仕方なく継いできた地域も多々ある。

それが現実なのであるが、今回の「ハタアメ」事業の影響は甚だ大きい。

それというのも正確に調べたものではないが、「ハタアメ」の存在を特定した地域は次の通り。

桜井市の多武峰、倉橋、浅古、河西、外山、三輪、箸中、大福、耳成。橿原市は膳夫町、常盤町、醍醐町、葛本町、新口町、北八木町、八木町、南八木町、小房町、四分町、大久保町、久米町、見瀬町、小綱町、曲川町。

高取町は丹生谷。

大和高田市は土庫、岡崎に陵西校区。

広陵町は中、南郷。葛城市は山田、新庄、當麻。

香芝市の旭ケ丘、穴虫。

田原本町では唯一、矢部がある。

奈良県内中央部を横断するような、ほぼ平坦盆地部の県東部から西部に亘る地域。

幅広いこの横断地帯を勝手ながら「ハタアメベルトライン」の名で呼ぶことにしたが、もう見ることはない。

地域の子どもたちはもう味わうこともない。

80歳の高齢者から「ハタアメ」の件を聞くことはない。

多感な少年期、「ハタアメ」貰いに走り回っていた経験者は若い人だけでなく、上は壮年期にあたる人たち。

「ハタアメ」は記憶の中だけに残された。

私は撮っていないが、「ハタアメ」貰いに自転車で走り回る少年たちの姿を追って撮った写真家Uさんの写真。

事業の再開でもない限り、未来永劫まで残る貴重な記録・民俗史料になってしまった。

今年の3月8日は桜井市三輪・成願稲荷神社の三月初午。奈良テレビが報じていた「ハタアメ」映像。

えっ、と思ったのが大きさはともかく色柄が違うように見えた。

成願稲荷神社に奉られる「ハタアメ」は三輪の大神神社神官なら存じているはずだ。

直接の問合せもあるが、山田の実情も存じており、しかも神官の繋がりに顔が広い持田宮司に当件についてお聞きした。

その結果は奈良県下の初午行事に見られた「ハタアメ」はすべての地域から消えたということだ。

製造していた事業者は高齢、若しくは亡くなられたかで、後継者もいなくて事業が停止したということである。

どうやら長年にわたってお一人が製造していたようである。

持田宮司が出仕されていた葛城市山口に鎮座する末髙稲荷神社の初午祭も「ハタアメ」はない。

そういう状況下に大神神社から問い合わせがあったという。

8日に供えた「ハタアメ」は飴、竹串、旗のそれぞれをまったく別の事業者に依頼して特別に製造してもらったものだった。

製造・販売の多寡は別として、業者が違えばまったくの別ものである。

テレビで映し出された「ハタアメ」が異様だったことに気づく人はたぶんにいないだろう。

その異様さに気づいた人はおられたとしてもよほどの専門家であろう。



これまでとまったく同じ「ハタアメ」を製造してくださる人、手段が来年の初午までに見つかればいいのだが・・・と思いつつ初午に焚かれる大護摩の準備に余念がない。

(H29. 3. 3 EOS40D撮影)
(H29. 3. 3 SB932SH撮影)

初午およびニノ初午にハタアメが見られる地域分布を調査

2016年09月30日 09時51分58秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
初午、或は二ノ午の日にハタアメ(旗飴)を地域に住む子供たちに配ったりする地域がある。

地区の稲荷社に供えたハタアメを配る地域もあるが、圧倒的に多かったのはお稲荷さんを祀っていた商家や商店などにやってくる子供たちにあげていた、ということだ。

稲荷社に供えたハタアメを地区の子供たちに配っている地域を挙げる。

ひとつは、平成26年2月14日に訪れた桜井市箸中・稲荷大明神(※7)の二月初午祭だった。

10年前まではあったと村人が話した地域は高取町丹生谷・赤穂稲荷大明神

神社にやってくる子供たちに配っていたという。

三月のニノ午にハタアメを供えていたのは桜井市三輪字馬場・成願稲荷神社(※7)であるが、配る対象者は子供でなく、参拝者だった。

葛城市山田に鎮座する三神社(※7)でも参拝する村の子どもたちに配っていた。

平成17年ころぐらいまではあったとされる桜井市多武峰の談山神社末社の三天稲荷神社(※7)。

地域の人は親しみを込めてサンテンサンの名で呼んでいた稲荷社に子供たちが集めた奉賛金を奉った。

行事が終われば奉賛金と一緒にハタアメを貰っていたらしい。

談山神社の禰宜さんの話しによれば、子供たちは浅古辺りの地域の子たちのようだ。

神社行事は大和高田市岡崎(※7)の稲荷神社にもあるらしいが、実態は拝見していないので不明である。

祭り行事でお世話になっている三郷町の坂本巫女の話しによれば出仕される広陵町中に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社にハタアメを供えていると連絡があった。

写友人のUさんが調査された情報もある。

広陵町中の小北(こぎた)稲荷神社の分霊を祀ったとされる橿原市小房町に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社にハタアメ御供を見たそうだ。

また、前述した葛城市山田に出仕された持田宮司が出向かれる兼務社が鎮座する大字山口や梅室にもあったと聞いた。

梅室は途絶えたようだが、山口は今尚供えているようだ。

先のUさんが足で稼いだ情報に屋内に祀ったお稲荷さんの神棚にハタアメを供える家もある。

橿原市小房町の〇石亭は食事処であるから商売繁盛にお稲荷さんを祀っている。

なるほどと思った。

Uさんが調べた地域に同市膳夫町がある。

当地では4軒の民家・商店が貰いにやってくる子どもたちに配っていたそうだ。かつては商売をしていた民家に駄菓子屋もあれば新聞屋さんも、である。

Uさんの行動範囲も広い。

さらに判った地域は同市の南八木町。

製菓店の稲荷神棚に旗飴どころか、稲荷寿司やセキハンも供えていたという。

つい先日に知った御所市の玉手。

同じように稲荷社を祀っている民家が配っていたことも知った。

ハタアメは奈良県特有であるのか、ないのか。

それを調べるにはネットで語られるスレしかないであろうと思って相当数の時間をかけて拾い上げてみた。

結論から言えば前述した地区もあるが、並べてみれば桜井市、橿原市、大和高田市、広陵町、葛城市、御所市などの県中央部。東西に広がる幅狭い地域で行われていることが判ってきた。

詳しくは避けるが、大雑把な地域を羅列する。一部については断定できずに当て推量で分類した地域(※)もある。

どのような処であったのか、さらに分類すればより判りやすいかも、と思って仮整理する。

(※2)は駅前商店街、(※3)はスーパーレジ配り、(※4)は商店、(※5)は商家、(※6)は民家、(※7)は神社としておこう。

奈良県の東部から西部に向けて辿って所在地市町村を並べてみる。

まずは、桜井市。多武峰(※7)、倉橋(※6)、浅古(※6)、河西(※6)、外山(※5)、三輪(※7)、箸中(※7)、大福(※5)にある。

橿原市は膳夫町(※4)、出合町(※4)、常盤町(※3)、石原田町(※3 中断)、山之坊町(※4)、醍醐町(※3)、葛本町(※6)、新口町(※4)、北八木町(※4)、八木町(※4)、南八木町(※4)、小房町(※7)、四分町(※3)、大久保町(※2)、久米町(※2)、見瀬町(※4)、小綱町(※5)、曲川町(※2)だ。

なお、出合町や石原田町もあったが現在は中断しているとUさんが云っていた。

南へぐっと下がって高取町は丹生谷(※7)がある。

大和高田市は土庫(※6)、大中(※7)、岡崎(※7)にある。

さらに西へ西へと向かうが、田原本町にはなぜか該当する大字が出現しない。

そう思っていたが、この年の6月25日に訪れた矢部にあった。

あったといっても随分前のことである。

ハタアメのことを話してくれた男性は三代目を継ぐ呉服屋店主。

商売につきもののお稲荷さんを祭る。

地区ではたったの一軒の商売屋さん。

子供がもらって嬉しいハタアメを置いていた。

2月の初午の日である。生活文化の変化に伴っていつしか廃れた。

「もらいに行きな」という育った文化に馴染まない親の一言で廃れていったように思える。

広陵町では中(※7)、南郷(※6)だ。

葛城市は山田(※7)、山口(※7)、新庄(※4)、當麻(※4)。

北に上がった香芝市の旭ケ丘(※4)、穴虫(※4)があった。なお、梅室(※7)は中断している。

そして、御所市の玉手(※6)である。

これまで挙げた市町村は奈良県中央の盆地部。

若干の地域に北部寄り、或は南部寄りもみられるが、ほぼ平坦盆地部の距離20kmを横断している。

分布は、ほぼ帯状に広がる特異な地域はだいたんに仮想する。

古代の官道の横大路に沿っているように見える。

幅広いこの横断地帯を勝手ながら「ハタアメベルトライン」の名で呼ぶことにした。

なんとなく人の手によってハタアメ文化が流通したとも考えられるが、ハタアメ文化は古代まで遡ることはないと思う。

ただ、何故に横断したのか、どこが出発点だったのか、もう少し情報がいるだろう。

今もなおされている地域を訪ねてハタアメをどこから調達しているかを調査してみたい。

製造元、或は販売元も調べることで点が線に繋がるのでは・・・と思っている。

ただ、未確認ではあるが、宇陀市の大宇陀(※4)にもあったような小学生のころの体験談スレがあったことを付記しておく。

スレ書きしないハタアメ体験者は、もっと多くの地域にあったような気がしてならないことも付記しておく。

不確かな情報だが橿原市新口町の商店(街)にあったハタアメを「おばちゃんハタアメ頂戴」と云って襲撃していた記事がある。

橿原神宮近くのニュータウンに住む人が平成25年3月7日の夜にアップしたブログに陸上練習に行った帰りに娘がハタアメを貰ってきた。

ちなみにある人のコメントによれば橿原神宮前駅から畝傍御陵前駅辺りにあったという証言もある。

駅でいえば金橋駅や耳成駅、大福駅の商店にもあったという人もいる。

駅は不明だが戸山にもあったという人もいる。

また、橿原市葛本町耳成(南)小学校辺りにもあったとか耳成の商店(オークワ耳成店レジでも)とか公民館で配っていたとかネットスレにあった。

耳成山は木原町。

そのレスには葛城市の旧當麻町でもあったと書いてある。

レス人はハタアメと呼ばずに「ノボリ」と称していた。

香久山地域では午の日に旗飴を求める子供らが商売をしている処を巡って貰っていたようだ。

それも平成27年3月7日の土曜日の初午の日。

信憑性が高い旗飴情報をFBで挙げていた。

稲荷社の存在記述もない香久山地域の膳夫町。

平成28年3月1日にUさんは小学生がペダルを漕ぐ自転車に並走して膳夫町の初午のハタアメを追跡したそうだ。

Uさんの話しによれば、飴屋(卸しは島商店?)が関係するようだ。

葛城市、大和高田市、川西町、広陵町、橿原市、桜井市・・・宇陀市榛原などの地域はどうやら神社行事との関係もなく、飴屋などの商売屋が地域の商売繁盛を願ってしているのかもしれない。

橿原市の石原田町にもかつてあったが売っていたスーパーがなくなって、それ以来、店屋が購入できずに中断したようだ。

また、山之坊町ではオークワ前のクリーニング屋が配っているそうだが、仕入れ先が困難になっていることからやめる可能性があるそうだ。

なお、出合町は今でもしている。

なお、FBでUさんの記事を見た人がコメントを寄せていた。

葛城市の新庄屋敷山や大和高田の大中チャンチャン(大中春日神社)で貰ったという情報もある。

畝傍南小学校校区になる橿原市見瀬町にもあったようだ。

また、校区でいえば桜井市浅古校区の桜井南小学校児童だった人も懐かしいと書いていた。

アップしていた記事の日付けは二月初午。

平成23年2月8日の午の日だったが地域は断定できないが、なんとなく談山神社下のある大字(下居・浅古・倉橋辺りか)になるのかどうか判らない。

参拝した三輪恵比寿神社のお神酒がある。

氏神さんの初詣に山道を登る。

その神社景観はなんとなく下居もしくは倉橋のような気がする。

頁をぐぐっていけば「祭講」の記事があった。

かつては20軒以上もあった「講」は平成20年10月25日(土曜日)には11軒とある写真は庭に設えた祭壇(祭講の小床の名があった)。

平成19年12月2日(日曜)に十三仏来迎図を掲げて唱える念仏講もある。

1月14日の朝9時はトンド焼き。

15日の朝はトンドの火で炊いたアズキガユを箸に見立てたススキの茎で食べた。

そのススキは苗代の水口に花とともに立てる。

家人の実家では正月に“長者どん”や山ノ神“の風趣もあったとある地はどこだろう。

驚いたのは曾祖父の生誕地が大宇陀の元和五年から続く大庄屋・重要文化財の寛文十年築造・茅葺民家(入館料300円)だった。

香芝市の和菓子サロン「一絵」<香芝穴虫・葛本町>で“デコ寿司マイスター”資格をもつ女性が伝えるハタアメ。

平成25年3月5日は初午で稲荷社(磯壁稲荷社か)のお祭り紅白餅、赤飯に旗飴を供えると書いていた。

葛城市には今でもその風習が残っているというのは実家で暮らした小学生の頃のようだが、勤め先の香芝市の和菓子サロンでも旗飴を販売しているとある。

ちなみに実家は和菓子屋「菓匠庵おのえ」。

葛城市新庄167番地。

販売していたと思われるハタアメを探してみたい。

また、香芝市にある保育園に旭ケ丘せいか保育園<旭ケ丘>がある。

そこのブログに旗飴を貰ってきたという記述があった。

橿原市八木町(北八木から南八木区間の商店:八木駅から八木西口駅)にもあったというブログでは稲荷社のことには触れていない。

あるコメント者が云うには大宇陀にもあったらしい。

ハタアメを置いている商店で貰う子供たちの声を集めてみてふと考えた。

商売をしている家はたいがいお稲荷さんを祀っている。

商売繁盛、豊作を願う商家を狙っていけば効率的だったという証言もある。

屋敷の守護神としてお稲荷さんを祀った家もあろう。

すべてがすべてではないが、農村行事でなく、町屋の文化だと思った。

桜井市、橿原市より西側に位置する大和高田市の住民も旗飴文化を体験していたようだ。

大和高田市土庫の土庫小学校児童だった人がいうには他の校区になくて、土庫に絞られるようだ。

広陵町南郷に住む写真家のFさんが子供のころに貰っていた旗飴はお稲荷さんを祀っていたご近所が配っていたという。

また、当地には稲荷神社があることから関係があるかもしれない。

なお、三郷町の坂本巫女家が祭祀される地域に広陵町中(萱野)に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社初午祭<護摩焚き・御供撒き>がある。

神事は三月初午の日。坂本家は剣舞を所作される。

平成25年3月5日(午の日の火曜日)に行われていた同神社に居る坂本さんがアップした記事がある。

後日にここではハタアメがあると伝えてくださった。

その他ネットスレには山口県や福岡県にもあったということが書いてあったが、真偽は定かでない。

また、北九州市門司港の傍にある「山本菓子店」で製造したともある。

どうなんだろうか。

調べてみれば山口県下関の小月観音寺の4月21日に行われるお大師さんのときに配られたとある。

下関の彦島では弘法大師入定の3月21日の彼岸に旗飴行事があるという。

同県の豊浦郡豊田町もお大師さん。

同じような旗飴であるにはあるが、日の丸の旗がある。

奈良県中部文化のお稲荷さんの初午とはどうも違うように思える。

写真は3月13日に撮らせてもらった葛城市山田三神社初午祭に供えられたハタアメ御供である。

(H28. 2.20 記)
(H28. 3.13 EOS40D撮影)

山田三神社の初午祭

2016年09月29日 09時32分13秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
初午、或はニノ午の日に奈良県の稲荷社行事にハタアメ(旗飴)を供える地域が存在することが判ってきた。

すべての稲荷社ではなく、特定の地域のようである。

これまでに拝見した地域は桜井市箸中・稲荷神社、同市三輪・成願稲荷神社のニ社。

かつてはあったとされる地域に高取町丹生谷・赤穂大明神がある。

箸中は新暦2月の初午の日、三輪や丹生谷は新暦3月のニノ午の日に行われている。

他所にもあるのではと思ってネットを駆使して探してみた。

一つは広陵町中に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社で、もう一つは葛城市山田に鎮座する三神社が見つかった。

小北(こぎた)稲荷神社に出仕されている三郷町の坂本巫女の話しによればニノ初午の日だった。

この年は主治医より車の運転をしてはならないと厳命されていたので訪れることはできなかった。

もう一社の三神社に出仕・奉職される宮司は大字笛吹の持田宮司。

当地では村の都合もあってニノ午の日ではなく、だいたいが第二日曜のようだ。

五日前の診断で主治医から許可された。

近距離でという条件付きだ。

持田宮司に連絡をとって出かけた大字山田。

地図でだいたいの在所は判るが、村の人が集まる三神社の位置はどこであるのか。

近い付近に来たものの行先が判らない。

庭におられた男性に場所を尋ねたら、ここより山の方へ行ったところだと云う。

その場はすぐにわかった。

三神社境内には村の人たちが集まって何やら仕掛をしていた。

木材を組み立てている男性たちが云うにはこの日の初午祭の供えられたモチを撒く場の櫓である。

何年か前に村にいた大工さんが作ってくれたという。

紅白の御供餅は当番の人が搗いた。

杵ではなく器械で搗いたというモチゴメの量は六斗。

三升で一臼搗いたというから相当数の量になる。

三神社の名がある通り、三神柱を祀っている。

祭神は伊邪那岐命、大山咋命、豊受姫命の三神であると、調べられた神社役員が平成22年に書き残されている。

葛城市のHPによれば、江戸時代は日吉大権現、明治三年には熊野祠、明治十二年に現社名の三神社になったそうだ。

大字山田は明治十三年の行政区域は忍海郡の山田村であった。

現在の葛城市内の一部に属しているのは山田村以外に忍海村、新町村(南花内村一部が独立)、南花内村、薑村、林堂村、西辻村、平岡村(平岡村の一部が独立して寺口村に)、山口村、笛吹村、脇田村、梅室村である。

一方、現在の御所市内に属している一部の地域は東辻村、北十三村、柳原村(今城村・新村・出屋敷村の合併)である。

山田の三神社に出仕される持田宮司は大字笛吹に鎮座する葛木坐火雷神社は周辺大字14ケ村の総鎮守社。

夏祭りや秋祭りに十二振提灯を献灯する氏子圏は多い。

大字山田もその一つ。

大字笛吹の他、南花内、新町、林堂、南新町、薑(はじかみ)、山口、西辻、脇田、平岡、忍海、梅室、東辻がある。

大字山田の戸数は昔も今もほとんど変わらずの17戸。

荒れた土地であったゆえ、酪農を主に生業とする地域は今でも4軒が乳牛を飼って生産する酪農家があるという。

ゴクマキ櫓を組み立てて宮司を待つ村人たち。

三神を祀る社殿の他、不動明王や灯籠などにはやや大きめの紅白餅を供えていた。

ありとあらゆる箇所だけにその数は多く、19ケ所にもなるそうだ。

三神社社殿はその一つ。

三神社社殿に同等ぐらいの社殿にも紅白餅を供えている。

正一位白髭大明神の名がある社殿だ。

白髭大明神は稲荷社。

他にも白主大神、白光大神などの名がある石神もある。

それぞれの稲荷社は信者さんたちが建てたようだと村の人がいう。

鳥居付近に建つ碑文塔がある。

供養塔と思われるそれには「西川タツ刀自之碑 大正十五年三月建之」とある。

村人曰く、当地に住んでいた碑文の女性に信仰を寄せていた講中が建てたという。

碑文建之の金額多寡は判らないが村費用も入っていたそうだ。

女性は拝みさん。

拝んでもらったら願いが叶ったといって、多くの信者さんが集まって仕えるようになり、講として徐々に膨れ上がったようである。

行をしていたと伝わる行場はおそらく不動明王の石仏を祀る滝であったと思われる。

現在の神社下は駐車場になっているが、かつては水田だった。

土地を宮さんに寄付されて土地利用を転じたそうだ。

前述した白髭大明神などの稲荷社は総本宮とされる京都伏見の伏見稲荷大社から寄せたらしい。

ちなみに白髭大明神拝殿に大太鼓がある。



大太鼓の台や太鼓を吊るす側面もあるが、肝心かなめの太鼓がない。

いつ盗られたのか判らないが、空洞である。

その台には四人の施主名が朱書きされていた。



山田の隣村にある新庄(吉川平蔵・川井リ□)が二人。

道穂(正本峯郎)と平岡(岡本国松)はそれぞれ一人ずつの計四人だ。

表面には「白髭大明神 代師 忍坂 こま 中井伊七」の名が記されていた。

「忍海」ではなく「忍坂」である。

「忍坂」は現桜井市の忍阪に違いない。

大太鼓がいつ寄進されたのか年代を示すものはなかったが、それほど古くはないだろう。

それにしても大字山田にあった大太鼓によって周辺近隣の平岡や新庄に道穂(みつぼ)。

しかも、稲荷信仰の師と考えられる人物は桜井市の忍阪。

周辺に住む信仰者によって支えられていたのであろうか。

この日は初午祭。

場は信者たちによって建てられたと思われる建物内で行われる。

何年か前までは信者さんがおられた。

その人を中心に村の人たちが行事の場に集まって般若心経を唱えていたという。

場の一角にある社殿は三つ。

中央にも左右の社殿にもお供えがある。

中央に供えたハタアメ(旗飴)。



これを探していた。

信者さんが生きていたころは、大勢の村の子供がいた時代。

お下がりのハタアメを貰いに来る子どもでいっぱいになったと話す。

ハタアメはそれぞれ色柄が異なる五色の幟旗。

5本揃って1組になる。

お店から購入したハタアメは50本というから10組である。

最近は貰いに来る子どももみなくなった。

そういうことで、昨年までは100本を供えていたが、この年は50本にしたそうだ。

村の厄年の人が供えるハタアメであるが、対象者がなければ村の費用から捻出するようだ。

ハタアメは村人が作ったものではない。

販売しているお店から購入する。

この年は御所市東辻の「あたりや」。

お菓子などを売っているそうだが、調べてみれば総合食品センターというから地域のスーパーのように思える。

この店になければ他店になる。

高田高校のすぐ近くにある大和高田市大中南東の森食品。

ここも地域のスーパーのようで販売店。

ハタアメを製造している店ではなさそうだ。



右の社殿の謂れは伝わらないが、左は「レイジンサン」の名がある。

充てる漢字は判らないという村人たち。

もしかとすればだが「レイジンサン」は「霊人さん」かもしれない。

その社殿だけはご飯を供えるようにと講中から伝えられている。

その場にはパンも供えているし、稲荷寿司に巻き寿司もある。

ご飯であれば何でも構わないそうだが、かつてはアブラゲとともに炊いたアブラゲゴハンだった。

ニンジン、シイタケなども入れて醤油、味醂で味付けしたアブラゲゴハンはイロゴハンとも呼んでいた。

当地のほとんどが稲荷社、しかも信者が亡くなって講組織が消滅した今も村人が継承している初午の供え方である。

信者さんがおられた時代はお供えを置く場所も決まっていたが、誰もいなくなった今ではどれが正解なのか誰も判断ができずに、だいたいがこういう感じだったと云って供えている神饌は生鯛、紅白二段餅、洗米、シイタケ・スルメ・コーヤドーフなどの乾物、野菜に果物だ。

建物はこうしてみると三つの社殿が並んでいる位置は拝み殿のようだ。

社殿前の導師が座る場もないぐらいに御供を置いている。

はみ出た御供で拝み殿は半分ほどだ。

信者さんがおられたころの、この場では毎月の1日と15日に拝んでいたそうだ。

その社殿の鴨居に般若心経の書を掲げてあった。



書体や配置、台紙の色合いを見て思いだした。

大和郡山市石川町の観音堂で拝見した般若心経の卓台とそっくり同じなのだ。

山田の台紙は額に入れられているものの若干ことなる。

左端に「祈願交通家内安全白髭講信者一同 昭和五十三年歳次戊午秋日 歳雄謹書」が書かれてある。

講中の名称は「白髭講」だったのだ。

この日、拝み殿に集まったのは女性がほとんど。

男性は僅かの数人。

奥の離れにも座っているが写角に入らない人数だ。

ハタアメの話題に一人の女性が話してくれた出里の思い出話。

御所市の玉手の体験である。

「お稲荷さんを祀っている家を廻ってハタアメを貰っていた」というのである。

何軒あったのか、どこから入手したのか覚えていない子どもの頃の記憶。

機会があれば地域を巡ってみたいものだ。

村には無住の浄土宗法城寺がある。

どちらかと云えば村の会所として利用しているのは同寺になるそうだ。

時間ともなれば持田宮司が到着された。

すでに供えてあった御供の並びに手をつけることはない。

村人が継いだ信者さんの並べ方を踏襲するということである。

宮司の務めは行事もそうだが村人への祓い清めが主である。



修祓、宮司一拝、祝詞奏上、代表区長の玉串奉奠を終えて拝み殿を降りる。

これより壇上にあがるのは村人である。

導師が一人、太鼓打ちも一人。



大正十三年生まれの老婦人が後ろに就く。

祭壇に立てたローソクに火を灯す。

稲荷社と思われる祭壇の神さんに向かって般若心経を三巻唱える。

座敷いっぱいに広がった村人たちの手には拍子木。



カチ、カチ、カチと叩く音が大きいのか、太鼓を打つ音や導師が唱える声は打ち消されていた。

最後に「はらえたまえ きよめたまえー かんこん しんそん にかんたん(そう聞こえたが・・・)」を唱えて祭典を終えた。

これより始まるのは村人楽しみのゴクマキ(御供撒き)。



この年は友人関係にある外国の人も参加していた。

どう思われたのか、感想を聞きたかったが、言葉は通用しないと思って遠慮した。

ゴクマキの場の後方は鳥居がある。

その向こうは参道だ。

染めた赤旗の文字は黒抜きの「正一位白髭大明神」。

今でこそ僅か数本になったが、かつては集落内どころか山麓線を越えて東に下った境界地あたりまで、ずらりと旗が連なっていたそうだ。

ちなみにいただいた一本の旗飴は帰宅して家で食べた。

想像していた味はキャンデイに近いのでは、と思っていたが、そうでなく和菓子屋さんの味。

ザラメなのかどうか判らないが、どこか懐かしい味がする。

なお、持田宮司の話しによれば隣村の大字山口にもハタアメ御供があるという。

当地には稲荷社がある。

行事は2月の初午だ。

同じく兼務社の梅室も初午にハタアメ御供があったが、宮さん行事が負担になった長老たちはやむなく中断したらしい。

(H28. 3.13 EOS40D撮影)

成願稲荷神社の三月初午

2015年12月18日 07時45分11秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
新暦三月の初午の日に初午祭が行われ、参列者に昔懐かしいハタアメ(旗飴)を配られると知って出かけた桜井市三輪の成願稲荷神社。

大神神社の神宮寺の一つである浄願寺の鎮護社として正応三年(1290)に創始されたと伝わる。

成願稲荷神社はかつて大字高宮の氏神社であった。

大神神社の神職がいうには昭和40年に大神神社末社として移管したそうだ。

石灯篭に「稲荷社 享和三年癸亥(1803)九月吉日 寄進壽七」。

台座に「石工 佐保庄村儀助」の刻印が見られる。

奈良県内で佐保庄といえば天理市の佐保庄町。

機会があれば関係性を調査したいものである。

三月初午祭の神事に大神神社の神職が参進する。

参集した人たちは大字高宮と馬場。

この日は30数名の一般参賀など大勢の人たちが参拝する。



修祓、祓えの詞、斎主一拝、献饌、祝詞奏上など神事が行われ、巫女さんによる浦安の舞も奉納される三月初午祭。

雨天を想定して立てたテント内の人たちは大字高宮・馬場。

玉串を奉奠される。

周りを囲んでいるのは一般参賀者だ。



本殿社横に置いてあったハタアメ。

藁束に挿している。

ハタアメは五色の幟旗。

委託した業者が製造したものである。

透明な包みで飴を覆って藁束に挿す。

この作業は大神神社の神職によって行われただそうだ。



斎主一同が退儀されたあとに一般参賀者へハタアメを一人一本ずつ配られる。



大神神社広報によれば、かつてはお稲荷さんを祀っている家や商店は初午の日に飴を神棚に奉ったのち、付近の子供たちやお客さんにふるまう風習があったと伝える。

幟旗には商店の名前が書かれていたものがあったそうだ。



ちなみに大神神社神職のご厚意でいただいた五色のハタアメは帰ってから旗を広げて並べてみた。

(H27. 3. 7 EOS40D撮影)

高取町丹生谷の旧跡・行事

2015年12月12日 12時00分43秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
住民の案内で高取町丹生谷の「あこうさん」の祭事場を教えてもらった。

数年前に新しく建てた鳥居がある「アサギヤマ」に鎮座する赤穂稲荷大明神に歴史を示すものはないものかと案内人とともに探してみた。

「大正十二年四月 奉献 喜多村チヲ」の刻印があった狛犬。

一方の狛犬は「大正十四年八月 大阪□□」だった。

10年前ぐらいまでは三月二の午の日の「あこうさん」の御供横に100本ぐらいの「ハタアメ」も供えていた。

子供の頃だと述懐される「あこうさん」。

「ハタアメ」を貰いに山を登っていたという。

いつしか「ハタアメ」を貰いに来る子供が少なくなった。

「たぶんハタアメに興味をもたなくなったので来なくなった」ともいう。

貰いに来る子がいなければ供えることもないだろうとやめたようだ。

その「ハタアメ」は赤穂稲荷大明神より西に400m歩いた御所市の戸毛(とうげ)にある「いろは製菓」で買っていたそうだ。

ちなみに発掘されていないので断定はできないが、「アサギヤマ」は古墳山の可能性があるという。

「あこうさん」の日にはアンツケモチやキナコモチを作って食べているそうだ。

御供は野菜の立て御膳。

赤穂稲荷大明神の旗を立てる。

昔は急な坂道の参道に何本も立てたそうだ。

手伝う人が少なくなり現在は中断しているという。

アンツケモチや立て御膳などを調える時間は丁度昼頃になる。

場は清九郎会館。

作ったアンツケモチやキナコモチを食べる。

これが昼食になる。

食事を済ませて「あこうさん」の行事が行われる。

立て御膳を供えて般若心経を三巻唱える。

それが終われば氏神さんの春日神社へ向かう。



あこうさんのお参りは春日神社境内社になる稲荷社の高光神社である。

高光神社は親しみを込めて「タカミツ」さんと呼んでいる。

ここでも三巻の般若心経を唱える。



案内人は、今では参ることのない小字ハツヲ(八尾寺)に鎮座する通称「ハツオジ」も案内してくださった。

鎮座地の小字は「ハチオオウジ」。

個人的に信仰されている人が参られているようだ。

神名は「八王子大神」だ。

正徳三年癸巳(1713)九月に遷された春日神社の元社地と伝わる「ハツオジ」はおそらくスサノオ神を祀る「八王子社」であったかもしれない。

丹生谷は奥山(手前にヤスミ場)、南、上(中本家)、中(茶屋)、下、北(春日神社鎮座地)、西ケ町の7垣内。

「カンジョウガイト」の呼び名がある場所が昔の図絵に記されているらしい。

曽我川の交差点になるらしい。

住民はこの場に勧請縄を架けていたのだろうと話すが、腑に落ちない。

というのも丹生谷はかつて「紀路」の街道。

高取から西へ向かっていく高野街道だった。

大淀町・薬水から重阪を経て吉野川へ出た。

そこからは東へ川を下って紀州に向かったそうだ。

丹生谷は街道の重要な地。

宿場町であったかも知れない。

そうであれば「カンジョウガイト」の「カンジョウ」は「勘定」であると考えてもよかろう。

丹生谷のトンドは各垣内単位で行われていたが、現在は統合されて春日神社境内になった。

トンドは毎年の1月14日・18時半より行われる。

竹で脚を組んで雑木を詰め込む。

藁束や正月を飾った各戸の注連縄も内部に入れる。

火を点けるのはその年のトシオトコ(年男)。

春日神社のオヒカリをトンドに遷す。

火を点ける方角は恵方だ。

勢いよく燃え上がるトンドの火が鎮火すればローソクに火取りする。

それを提灯に入れて持ち帰る。

遷した火はカマド(竃)の火種にする。

その火で炊くのはアズキガユ。

家人が食べる量を作る。

丹生谷のある垣内では伊勢講の営みがある。

4月16日、講中の家に「天照皇大神宮」の掛図を掲げるようだ。

随分前のことだが、4月はじめに奥山垣内に鎮座する船倉弁財天神社のおんだ祭を拝見したことがある。

かつてはここに御湯釜があったそうだ。

湯釜で思いだされた案内人。

大字観覚寺で御湯があると話していた。

観覚寺に鎮座する神社は高皇産霊神社。

調べてみる価値があるかも知れない。

(H27. 3. 2 EOS40D撮影)

箸中の二月初午祭

2014年07月23日 07時19分11秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
先月半ばに訪れた桜井市の箸中。

小正月のビワの葉乗せの小豆粥御供やカヤススキ立ての調査であったが、見つからなかった。

途方に暮れて立ち寄った国津神社に二人の男性がおられた。

なにやらせわしく社務所に運んでいた。

その日は老人会の集まりがあると話していた。

そのときに教えてくださった初午の行事。

「二月初めの初午にするんや」と云っていた。

話しにでてきたお供えのねじりん棒の飴が気になった。

行事を終えた時間帯にやってくる「子供たちにあげるんや」と云っていた。

その様相を確かめたくてやってきた国津神社境内にはたくさんの幟を立てていた。

昭和11年、28年、32年、それぞれの年代に寄進された幟は赤色や黄色、白地だ。

「正一位姫國大明神」、「正一位政國大明神」、「正一位玉由大明神」、「正一位稲荷大明神」などの染め文字がある。

二月初午の行事は本社の国津神社でなく、境内に鎮座する稲荷大明神である。

お供えはハタアメ(旗飴)と呼ぶ楕円形の色柄飴だった、青色、黄色、赤色、緑色の旗を飾った飴の他、赤一本線の飴もある。

それがねじりん棒と呼んでいた旗飴であった。

丸い頭があるハタアメにはいろんな種類がある。

青色、黄色、赤色、緑色の他、赤の一本線もある。

ぐねっと曲がっているねじりん棒である。

社にはウスアゲ、シシャモメザシにモチ、モナカ、キュウリ・サツマイモ、ミカンなどを供える。



お稲荷さんに向かって一同は大祓えの詞を奏上した。

次は鏡池にある弁天さんこと市杵島姫社。



次は地蔵さん。



次は金毘羅大権現に移ってお参りをされる。



再びお稲荷さんに戻って、最後に「九日さん」と呼ばれる社に参拝される巡拝の在り方であった。



箸中の祭礼は正月に行われる国津神社の二日正言講や桧原神社で行われる正言祭があるが、それらは正言講(左座・右座)と敬神講の二つの講で営まれる宮座講の行事である。

元旦祭、祈年祭、風鎮祭、秋祭り(両講)、新嘗祭、桧原祭は村行事であるゆえ、祭祀は2年任期の議員こと氏子総代らが役目にあたる。

議員は上・中・下垣内の157戸から選ばれた代表の11人。

この日の二月初午祭は氏子総代らが営んでいる。

村人が寄せた紅提灯も掲げた二月初午の日。

かつては御供に赤飯もあったが、モチに換わった。

五穀豊穣を祈願する巡拝は十数分で終えて社務所で会食をする。

それからの数時間後。

やってくる子供たちを待つと話していた。

調べてみれば三輪の大神神社の末社の成願稲荷神社でも三月初午があるらしく、やはりハタアメがもらえるらしい。

葛城市山田にある三神社の二月初午や大和高田市の岡崎稲荷神社にもあるそうだ。

丸い頭があるハタアメにはいろんな種類がある。

(H26. 2. 4 EOS40D撮影)