マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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日本のすまい-古民家の保存修復と-活用のかたちin奈良県立民俗博物館/旧萩原家住宅

2021年01月27日 09時36分50秒 | 民俗あれこれ(職人編)
先月末、久しぶりに訪れた奈良県立民俗博物館。

新年度事業が始まって1カ月。

新年度体制も決まって落ち着きを取り戻すくらいが丁度いいと判断して立ち寄った。

近況報告に今年度事業の写真展について確認したいこともある。

状況がわかったところに手渡してくれた「国際博物館の日」記念プログラム。

11日の表題は講座「日本のすまい-古民家の保存修復と-活用のかたち」である。

講師は住文化研究者の元関西大学・教授の森隆男さんに茅葺職人の隅田茂さん。

森隆男さんの講義は実にわかりやすく民家の民俗を話してくださる。



初めてお会いしたのは、ここ奈良県立民俗博物館の古民家だった。

平成28年11月20日に行われた古民家解説。



奈良県立民俗博物館・大和民俗公園内施設にある四つの古民家を詳しく教えてくださるガイドツアーに感動していた。

今回はどのようなお話になるのか楽しみにしていた。

講話の場は、ついこの前にようやく完成した旧萩原家住宅。

茅葺職人さんの手によって傷んでいた古民家が蘇った。

なんでも職人さんが使用されている七つ道具も拝見できるという講話は是非とも参加したいと申し出ていた。

41年ぶりに経年劣化で傷んでいた旧萩原家住宅の茅葺屋根の全面葺き替えである。

旧萩原家住宅は昭和52年5月20日に県指定された有形文化財。

茅葺き作業具合の一部を見せてくださる現場見学会が2月16日、17日に行われた

この日の参加者は多かったが、本日の講話聴講者は何人になるだろか。

限定20名までの募集に集まった人数は私も入れて7人くらい。

実に寂しい状況であったが、逆に親近感を覚えた。

まるで対談のように話してくださるお二人の講話に教わること多し、である。

講話は森隆男さんが全体をフォローしつつ、茅葺職人の隅田茂さんの体験や思いを引き出すリード役を務められる。



外観は新しく、特に葺き替えた茅葺色が奇麗に映える。

手前にある建物は離れでしょうか。



風合いが対照的にみえる。



講話会場は旧萩原家住宅。

座敷にあがられた二人を県立民俗博物館の谷本次長が紹介される。


座敷への上り口は竈がある土間から。

そこも良しであるが、縁から上がるのも良かろう。

その上がり口に大きな石がある。

その石の名前は「くつぬぎ石」。



下履き靴を脱いで上がらせてもらった。

その石を教えてくださったのは遥々大阪・豊中から。

豊中市服部緑地公園内にある「日本民家集落博物館」で活動されているボランテイアスタッフさん。

さすがの専門家だ。

不動産用語集に書かれている「くつぬぎ石」。

和風住宅の縁、上り口にしているとあるが、一般的住居ではたぶん見ることはないだろう。

母屋があって云々たる和風建築ならまだしもミニハウスと揶揄された建て売り住宅に、そこまでするか、という私の認識であるが・・。

開口、はじまりに自己紹介される森隆男さん



最初の勤務地が大阪の茅葺民家集落。

そう、「日本民家集落博物館」がそうだった。

当時、学芸員だったころ、日本民家集落民家屋根の茅葺葺き替えをしていたのが、本日お越しの隅田茂さんの父親である隅田龍蔵さんだった。

94歳になられた龍蔵さんは今なお現役だという。

職人気質の気持ちをもって茅葺仕事をする親子二代にこうしてお世話になるとは想像もしていなかったようだが、縁のつながりに感謝すると話される。

息子の隅田茂さん。

成り手の少ない茅葺職人。

茂さんの息子さんは職を継ぐ意思はないという。

茂さん自身が継ぐ意思を固めたのは高校生のころ。

父親から手伝いをせーぇよ、と言われながら育って今に至る。

つまりは手伝いの延長である。

手伝いの仕事をしていたら、いつの間にか、気がついたら職人になっていた。

どっちかと言えば、午後5時まで汗拭いて終える満足感が子供のころに養成されたというわけだ。

話題は替わって、自然にできた萱素材のことである。

新品から2年、3年と経った萱素材の変化が見られるのは自然素材の特徴。

金属であればそういう変化ぶりは見られない。

もう辞めようと思ったことは何度かある。

一人前になったのは10年目。

ざっとした感じだが、10年は一つの区切り。

或いは3年、5年の区切りもある。

鋏を入れて茅葺の屋根を整える。

入母屋造り、角の丸み、いろいろと難しい部分もある。

一つの形になるように鋏を入れる。

一般民家はダンダン。

そうしてくれと言われたら、

職人は美しく見せるのが本望。

職人同士のライバル心がそうさせる、

関東地方は装飾的な造りが多い。

飾りに鋏で刈りこんで作る「水」や「寿」の文字入れは職人の個性。

左官屋さんが作る鏝絵(こてえ)も同じ。

施主さんに対するお礼の気持ちを形にする。

伊豆、高知、愛媛などでよく見られる飾り。

作品を残し、見てもらいたいから作りこむ。

今回、手がけた旧萩原住宅の茅葺は紀州流。

父から聞いた紀州流。

ネット調べであるが、紀州流の他に芸州流、会津流、筑波流、越後流などがあるようだ。

茅葺職人の道具は一般的大工さんより少ないそうだ。

全国で数百人しかいない職人さんが使用する道具。

大手の道具開発会社は手をださないという。

木製のタタキは欅製。



従量のあるタタキで茅葺屋根を叩く。

その屋根に角度があるから、それに合わせた角度である。

父親は竹割りの材でさし棒を使っていた。

竹割のさし棒は竹針。

耐用年数が短い。



屋根に登った職人が葺いた茅に、ずぶっと差し込む。

槍というか針のように尖がっている針先をぐっと差し込む。

その針先が出るところ辺りに居る屋内で待つ受け側の職人さん。

ぶすっと茅から出てきた竹針が頭に・・・。

なんてこともあるらしい。

ここだと思っていても屋根からずぼっと、思い切ってくる竹針。

くるなと思ったら除ける。

今では竹針でなく鉄針。

重さが違うから、ずぼっという感じはまったく違うらしい。

家自身が「孕み」、妊婦さんが難産になるとか言われた茅葺。

差し茅をするのは職人でなく一般のお家の人。

自身が所有する家の人が修理していたという話は多いという。

うちは藁が多く生えていたから藁葺き家だった。

藁でもなく茅でもないヨシで葺く地域もある。

今は遠隔地に出かけて入手する材。

トラック輸送によるが、昔は現地調達できる材で葺いていたという。

ある地域に「カヤ講」がある。

茅葺き家のある村にあった組織でもっていたが、カヤ場が消滅するとともに消えた「カヤ講」。

カヤ場の保全、管理に奈良県曽爾村にあったカヤ場。

8年前まであったという。

カヤの風景、特に夕景に染まるカヤを求めて観光客やカメラマンたちの足が消えた原因といわれている。

保全の努力はいろいろされたが、固くなったと土地に茅が生えなくなった。

徐々に、少しずつ狭まれてとうとう消えたという。

観光資源どころではない状態に陥った。



県立民俗博物館の旧萩原家の茅葺原材料は2種。

青森県から運んだヨシに岩手県からのカヤ。

半分ずつの材であるが、ヨシの方がカヤより良質だという。

両県とも備蓄している屋根葺き材。

雪があまりにも多い地域のヨシ、カヤは使えない。

備蓄は専門の業者が、そうならないように管理しているらしい。

ところでヨシとカヤはまったく違う別物。

塩分を含んでいるヨシはやや薄みのかかった緑色である。

また、琵琶湖西湖にあるヨシはもっと太い材質。

種が違うようだ。

茅葺職人の七つ道具を拝見する。

一つはタタキ。

屋根の形を整える道具。

いわば屋根に角度をつける道具である。

二つ目にカマ。

縄伐りに用いる。

三つめは鉄針。

若干の長尺差がある2本の鉄針は用途に応じて使い分ける。

四つ目は金属製のモノサシ。

五つ目がこれもまたタタキ。

軒の下から当てて押し込み整える。

材は桧。

ヨキで削って角度をつける。

六つ目が伐り鋏。

この鋏でカヤを伐って奇麗にする。

鋏にある曲げ角度は職人さんが加工業者に注文して作ってもらう。

鋏作りといえば、新潟県の三条市である。

さて、これからの職人さんはどうなっていくのか

弟子入りして茅葺作業をしていた若手職人。

母親に言われて3~4カ月も勤めた職人を辞めた。

一人前になるには十年の経験が要る。

早く仕事が見につくし、まかない料理も食べられるといって料理人を希望に移したそうだ。

午前10時に午後3時の休憩。

午後5時に終わる職人稼業に十年は待てないということだ。

次世代に茅葺技術を残すにはどうすればいいのでしょうか、と森隆男先生が言った。

とても難しい時代になった。

だいたい茅葺き家は、消防法によって建築を認めない。

これからは維持するしかなく、その保全に重点がおかれているが・・・と前置き。

伝統工芸は修理ばかり。

国が文化を守るしかない。

頼るのは国民性しかない。

茅葺きという魅力を残すのか。

だれしも知らない・・・云々等々・・だらだらと、ご自身が思ったまま、気がつくままに意見を述べる一人の高齢の男性聴講者。

後方に座っていた別の女性聴講者が、「貴方ちょっとしゃべりすぎ」、と一喝された。

出身地の但馬に今でも住まいする森隆男先生。

田舎の田舎屋というてもおかしくない処に住んでいる、というご自身の体験。

自然の家は安らぎを覚える。

細工が奇麗な古民家。

人間が自然を壊している。

鵜飼いの職人は宮内庁所属。文化、伝統を繋ぎに税金を、という人もいる。

古民家カフェが増えている。

今、最も人気のあるカフエ造里。

一般の人たちに、見にくる機会、触れ合う機会を設ける。

古民家にバケツを並べておけば文化の保護法。

これからは活用の時代。

積極的な発言をもっている行政。

さまざまな角度からとらえ、愉しめる民家を継承していきたいと〆られた。

伊勢神宮の茅葺仕事は父親がしていると話す隅田さん。

父がいうように就いてしてきた仕事。

よくここまで続いたものだと思っている。

日本の場合は元請けばかりをみているような気がする。

仕事は本来、職人がしている。

脚光を浴びるのは職人、とでもいいたげなご様子だった。



ちなみに、奈良県の伝統工芸士認定者は平成31年3月現在で63人(※うち物故者22人の認定解除者数含む)令和2年3月現在の認定者数は65人(※物故者22人の認定解除者数含む)。

工芸品目数は、赤膚焼(※)、大塔坪杓子・栗木細工(※)、奈良団扇(※)、木製灯籠、くろたき水組木工品(※)、鹿角細工、大和指物(※)、笠間藍染(※)、東吉野杉・樽木工品(※)、吉野手漉き和紙(※)、高山茶道具(※)、神酒口(※)、神具・神棚(※)、奈良表具(※)、大和出雲人形(※)の15品目。

茅葺は建物の一部と考えているのか、伝統工芸に分類されないものなのか知らないが、品目すらあがっていない。

これこそ問題。

行政が後押ししなくて文化大国といえるのか、はなはだ疑問である。

なお、国指定伝統的工芸品(※)にあげている品目は、高山茶筅、奈良筆、奈良墨、赤膚焼、奈良団扇、奈良晒、木製灯籠、大塔坪杓子・栗木細工、吉野手漉き和紙、三方(宝)、吉野杉桶、くろたき水組木工品、大和指物、笠間藍染、神酒口、大和出雲人形、神具・神棚、奈良表具があり、奈良を代表する伝統工芸品に奈良一刀彫、奈良漆器、面がある。

また、来週には、古民家を活用したさまざまな催しを開催されている。



19日の催しはお祭り玉手箱が演じる民俗芸能。

お子さんも楽しめそうな実演披露だ。

(R1. 5.11 SB805SH撮影)

山添村の仕事人が作る竹製茶袋

2017年08月10日 09時11分05秒 | 民俗あれこれ(職人編)
山添村で唯一、というか、日本国内で唯一、竹製の茶んぶくろ(茶袋)を作る仕事人がおられる。

この年の4月に放映されたNHK奈良放送局の情報番組によってひと騒ぎ。

一時的に販売中止としていたようだ。

その後もテレビ放映や新聞記事で紹介されていた仕事人。

お会いしたことはないが、仕事人が丁寧に作られた「茶袋(ちゃんぶくろ)」は山添村大字大西にある施設「花香坊」で売っている。

花香坊」は地産地消の野菜も売っている。

時間に余裕があれば、品定めに入店する。

先日、取材帰りに立ち寄ったときは閉店だった。

この日の取材は午後4時前に終わったから寄ってみた。

閉店時間ギリギリいっぱいの時間に入店した。

「花香坊」は季節によって閉店時間が替わるので注意しておかないといけない。

訪れる最大の目的は食べたくなる野菜を買うことだ。

買ってからもいろんな商品棚に目を移す。



そこにあったのは仕事人が作った竹製の「茶袋」である。

一個が1200円。

「茶袋」の用途は茶葉を煮出す際に使うときの道具。

可愛いからと買う人も多いから、すぐに売り切れる。

「茶袋」は一個、一個が手造り。

作っては商品棚。

お客さんは良いものを見つけたと云って買っていく。

(H28.12. 4 SB932SH撮影)

室生染田・野鍛冶師の発注受け農具

2017年07月16日 07時01分24秒 | 民俗あれこれ(職人編)
野鍛冶作業の行程の実際を見せてくださったあとは注文順に並べた発注者農具の解説である。

この画像にはないが鉄製のタケノコ掘り道具もあった。

9月17日に訪れたときはそれもあった。

2カ月も経てばできあがり。

その代わりではないが、注文農具も入れ替わり。

DIYの店で売られているような製品もあれば昔からずっと使用してきた農家さんの農具もある。

鉄の部分は再生されて綺麗にみえるが、柄の部分は長年に亘って使ってきた風合いがある。

話しは戻るが鉄製のタケノコ掘りの道具は「テコ」である。

翌年に水口まつり取材に訪れる天理市の中之庄町の3人の農家さんの農具があった。

また同市別所町にも10数軒のタケノコ掘り農家があるらしい。

タケノコ掘りの時期は集中するから注文も集中するようだ。

タケノコ掘りの農具はすべてが鉄製のものもあれば、土に食いこめるテコ部分だけが鉄製の農具もある。

その場合の柄には差し込み口がある。

長さでいえばだいたいが20cm。

柄の長さは120cmになるそうだ。

ところで野鍛冶師は奥さんともどもテレビ出演したことがある。

平成28年10月1日に放映された番組はNHK放送の「ええトコ―体よろこぶ健やか旅-奈良県宇陀市―」だった。

そのおかげで農具の注文がすごく増えたという。

もう一品は草引き道具。



大手の花しょうぶ園で大量の注文があった。

前回訪れた際に一本をくださった草引き道具はとても使い易い。

翌年の春の雑草刈りに活躍してくれた。

また、隣に建てた蔵は農具の収蔵庫。



数は少ないが民具の私設博物館のようである。

(H28.11.11 EOS40D撮影)

野鍛冶師の商売道具

2017年05月17日 08時42分21秒 | 民俗あれこれ(職人編)
山添村の吉田から再び旧都祁村の小倉に着く。

そこからどこへ行く。

そうするかもなにも決めていない。

これといった行事はあるにはあるが、飛びつくほどの興味をみせなかった。

刻々と過ぎていく時間は旅行く村々の景観を眺めながら帰路につく。

小倉から室生の下笠間に出る。

そこからは川沿いに遡っていく。

小原から染田、多田、無山を経て旧都祁村の吐山、白石に出るコースを選んだ。

心地いい風が金色に染めた稲穂を揺らす。

通りがかった稲田は稲刈りを始めていた。

早稲であれば早い所で8月末の地域もあるが、だいたいが9月初旬から中旬までだ。

バインダーが忙しく動き回っていた。

この時期はまだまだ暑さが残る。

ほっかむりを被って稲刈りをしている男性はひょっとして・・・と思って車を停めてみる。

しばらく見ていた稲刈り作業。

この田んぼの持ち主は知っている。

平成22年5月8日に取材した田の作業がある。

育苗した苗を植えていく作業である。

親父さんは水田を均して息子さんは田植え機を操作して植えていく。

その場より家近くの田んぼでは昔にしていた手植えの田植えを・・。

その田植え初めに12本のカヤを水田に挿してフキダワラを供える。

そこには正月初めに祈祷したオコナイのネコヤナギを立てる。

これを「ウエゾメ」と呼ぶ。

「ウエゾメ」を充てる漢字は「植え初め」である。

親父さんは野鍛冶師。

11月8日に鍛冶屋さんの祭りであるフイゴの祭りを取材させてもらったことがある。

平成18年に続いて平成23年も伺ったことがある。

その野鍛冶屋さんとは旧都祁村の藺生町と小山戸町の造営事業でお会いしたことがある。

藺生町葛神社の造営は平成27年の10月11日

その一週間後の10月18日は小山戸都祁山口神社も出合った。

婚姻関係にある両村で出合うとは思ってもみなかった。

ところは代わってまたもやお会いしたことがある。

その年の12月13日だった。

まさかと思ったがそこは私が入院していた病院だった。

鍛冶屋さんも入院であったが退院直前のであった。

奇遇といえば奇遇な出会いであった。

その後の私は週一ペースで通院している身。

不完全な状態ではあるが、元気な姿になったことを伝えたい。

そう思って稲刈りしていた稔りの田に向かって歩いていた。

そのうちに気づかれた野鍛冶屋さん。

奥さんや息子さんにちょっと家に戻ると告げて招かれる。



作業場の前にはいつもと同じように順番待ちの農具が並んでいる。

注文は農繁期にくる。

こんな道具は見たことがないだろうと紹介してくれた鉄製の棒。

先端は直角に付いている鉄棒がある。

曲げたものではなく溶接でくっつけたものだろう。

これは何に使う農具なのかといえばタケノコ掘りとくる。

特殊な注文だったそうだ。

テレビなどで紹介されるタケノコ掘りの道具とはちょっと構造が違うが、いずれもテコを利用して掘る道具には違いない。

その横に立ててあった農具がある。

なんとなく構造は違うが同じタケノコ掘りのように思えた道具に注文主の名前が書いてある。

まあ、なんと、である。



存じている奈良市窪之庄在住の男性である。

平成24年6月5日に田植え作業を撮らせてもらった男性だった。

出会いというものはほんまに奇遇である。

ちなみにタケノコ掘りの道具は唐鍬と呼ぶ地域もあるようだ。

最近はこういう手のものも注文を受ける場合もあると動き出した。

腰を屈めて何をするのかと思えば雑草取りである。



室生の地にある広大なやすらぎの花園がある。

そこから受けた大量の注文。

一本あるからと云ってくれた。

後日というか後月の後月。

雑草が我が家の庭にもはびこる時期がくる。

だいたいが4月半ば辺りから目につくようになる。

5月辺りともなれば目を覆いたくなる。

放置すればするほど雑草刈りは難儀するから早めに北側の庭の雑草刈りにこの日貰った道具を使う。

丸い刃の先から根の部分に入れて土ごと掘り返すように刈る。

特に根っこの部分を当てて刈れば効果的。

ざっくり上がってくる雑草は手で掴んでゴミ袋行き。

とにかく使い易い野鍛冶師の道具だったことをここで報告しておこう。



尤も汗を拭きながら説明をしてくれる野鍛冶屋さんは元気である。



フイゴの祭りはこの場ですると説明してくださる。

この日、ともに行動していた写真家のKさんは是非とも取材させて欲しいと願われた。

今冬になるが、楽しみが一つ増えた。

(H28. 9.17 EOS40D撮影)

高山の風習

2012年01月31日 08時52分49秒 | 民俗あれこれ(職人編)
かつて「センギョしよう」と声を掛け合って4軒の人がカンセンギョ(寒施行)に出かけた。

山を越えて山中に入った。

キツネ岩と呼ぶ岩があった。

それは「イワイダン」と呼んでいた。

「ハッチョウ岩」の手前から登ったというから山越えした先は大阪交野(かたの)市の私市(きさいち)だった。

その道は工場ができたりして道がなくなった。

歩くこともなくなったので自然と消滅したそうだ。

ところどころの場所にセンギョをしていた。

センギョのお供えはセキハンのおにぎりにメザシ一匹だった。

イナリサンに供えるので紙包みを敷いておにぎりに三角のアゲサンを乗せたという。

「ハッチョウ岩」ですき焼きをして食べていた。

今でいうハイキングのような感じだったと話す高山住民のKさん。

断片的だが、五歳ぐらいの頃の記憶を思い出すように話す。

男性ばかりだったから青年団のような寄合だったかもと。

年齢から数えてみれば昭和30年代のことだと思うと話された。

高山ではかつて何組かの講があった。

そのひとつに伊勢講があげられる。

講は10数軒だったが解散された。

行者講もあった。

それは高山の金丸講と呼ばれていた。

平成元年に護摩を焚いたことを覚えているそうだ。

庚申講は7軒だった。

高山にある寺というから法楽寺。

そこに庚申塚の石塔があるらしい。

今でもされているかも知れないとKさんは話す。

お話をしてくださったKさんは茶筅型花器を製造販売されている。

先代は竹伐り人だった。

茶筅の原材料を調達されてきた。

高山は茶筅の里として知られている。

室町時代から歴史を繋げてきた伝統の技をもつ。

その茶筅を工夫してはどうかとお姉さんの旦那さんが始めた茶筅型花器製造。



伐採から加工業へと大きく展開した事業を引き継いでいる。

応接間、床の間、玄関、サイドテーブルに彩りを添える芸術的な作品は新婚祝いや新築祝いの贈答用として注文があるという。

普段はその花器を作っているのだが、冬場は箸作りになる。

12月の1カ月間は青竹(マダケ)の箸作り一本。

年末まで作業をするので正月を迎える準備もできないと話す。

一年間の普段箸や祝い箸など。

フシを残したのが初釜などの茶席用途になるという。

「竹は決して真っすぐではないのです」と話しながら歪み具合を調整される。



青竹を小刀で割ってから荒削り。

同じ小刀で何度か削って奇麗にされる。

作業の場といえば家の内。

ご主人、奥さん、母親も一緒になって作られる。

それぞれの作業場の台は手作り。

高さも長さも身体に合わせた造りにしている。



母親の台は50年以上も経過していると話しながら作業を進めていく。

手慣れた作業は次から次へと箸に生まれ変わっていく。

「これをあげよう」と渡されたのはゴゼンバシ。

五膳ある黒い色の竹箸だ。



この原材料はススダケ。

煤が付いたという竹だ。

これを手に入れるのが難しいという。

古民家で見たことがある天井の竹。

整然と敷きつけられたススダケ。

竃や囲炉裏の煙が天井を抜けていく。

燻されたススダケに年数を感じたものだった。

そのススダケは暮らしておれば獲るわけにはいかない。

改築のときにしか手に入らないのだ。

そんな貴重なススダケの箸をいただいた。

お正月のお節を食べる際に使ってみようとありがたく持ち帰った。

竹箸はしなやかでとても持ち易い。

以前に使っていた竹製の箸は丸箸だったが、これは四角。

木製の割り箸よりも手に馴染む。

滑らない箸は先が細いので料理を摘まむのも最適だ。

硬いものを摘まむ際は折れそうに思えたがそうではなかった。

箸はしなるだけだ。

硬くて柔らかい竹は、竹の特性が直接手に伝わる。

ちなみに白い茶筅がある。

それはハチクが原材料だそうだ。

ハチクが誕生したときは紅い色。

それが次第に白くなるという。

引き続き、作業の邪魔にならない程度に高山の風習などを聞かせていただいた。

年末が近いことから大晦日や正月時期のことを教えてもらった。

高山といえば大晦日に庭先に砂を用いる風習がある。

それぞれの家でされている行事だけにどこでされているか判らなかった。

思いきってKさんに尋ねてみたところ、「我が家でもしていた」という。

15年前に住んでいた元の家は自宅から上にある。

そこでされていた「オヒサン」の砂。

砂というよりも粘土系の山土だった。

赤い土を庭先に撒いていた。

「土まくでー」と言って、日暮れまでに玄関先に撒いた形は丸い形。

ゆらゆらと曲げた何本かの筋を丸い形の外側に描く。

どのような図形になるのか書いてもらった。

それはまさしく太陽のような「オヒサン」の姿だった。

幼稚園児どころかだれでも太陽といえばそれを描く。

そして「オヒサン」と玄関口の間に梯子のような線形を描く。

どういう意味があるのか判らないがいつもそうしていたと話す。

大和郡山市内で見られた砂の道は神さんが通る道だと言っていた。

もしかとすればだが、高山の「オヒサン」は歳神さんではないだろうか。

「オヒサン」は梯子(階段かも)を登って家内にやってくる。

そう考えてもおかしくはないと思う。

その砂の道は奥さんの実家でもしていたという。

橿原市の葛本町というから葛本神社辺りを調べてみたいものだ。

高山地区で今でも行われているのがお大師さん。

行事の名称は判らないが四国八十八のお大師さんが各家にあるという。

それは明治39年に作られたもので1軒ずつ安置したそうだ。

K家もお大師さんを祀っている。

3月21日にはそれぞれの人が参りに来るそうだ。

屋内に祀ってあるお大師さんは屋形ごと外にだしておけば、供えたお菓子やセンベイ、タマゴをもらいに子供がやってくるという。

近所のおばあさんも参りにくるようだ。

9月に行われている「月見どろぼう」のような様相であるという。

(H23.12.24 EOS40D撮影)

鍛冶師の仕事

2011年12月23日 08時30分58秒 | 民俗あれこれ(職人編)
それから1年後、再び訪れた染田の鍛冶屋さん。

フイゴの祭りを終えて、おやじさんの仕事話を聞く機会を得た。

日本には鍛冶屋が三つあるという。

刀(刃)を造る刀鍛冶、大八車の車輪を造る車鍛冶に農具を造る農鍛冶だという。

小学校の生徒に話す機会があってからある道具を作った。

それはペットボトルで6分割した筋を入れている。

下から幼、小、中、高、大、一般と書かれている。

それに水を入れていく。

その際にわざと水をこぼすように入れる。

「しっかりと聞いていないとこのようにこぼれる」のだと話す。

「先生の話を聞いていないとこぼしてしまうのだ」と優しく話す。

そうすると生徒はこっちを向いてくれるという。

大人になれば新しいことはこぼれて入らんと付け加える。

ごもっとも。

尤も小さいころの記憶はいつまでも残っている。

なるほどとうなずく。

「教えることは二度目の習い」。

そういう気持ちで話しているから歳がいっても勉強なのだという。

染田のおやじさんに教わること、訪れるたびに感心することが増えるが一向に実践できていない。

人生している限り勉強しなくちゃ、と思うのだけど・・・。

他にも「財、病、離、義、宮、劫、害、吉」の語呂。

人間は岩になり心は花になるということだそうだが、奥が深くて貧弱な私の頭では想像がつかない。

また、今の世の中は物で栄えて心は滅びるという話もあったがこれまた難しく・・・どうにもこうにも・・・・。

そうして話題はいつしか農具に移った。

商売の糧となる注文を受けた農具が並んでいる。

そこには昔から使われてきたクワが多い。

スキ(犂)もあるが鉄製の鍬だ。

光っているクワもあるがそれも鉄製。

ステンレスのように見えるがそれも鉄。

磁石がくっつく。

そのクワはDIYのホームセター園芸店で買われたモノであろう。

畑を耕す道具がそこにあるが造りが大きく異なる。

そのクワは一枚でできていて柄が取り付けられているヒラグワだ。

おやじさんが扱っているのはそういう一枚鉄ではない。

木製部分と鉄部分に分かれているのだ。

木製にあたる部分を単体で呼ぶ場合は「ヒラ」という。

樫(アラカシであろう)の木でできており甲の部分は高くなり周囲はほどよくひし形のようで丸くなっている。

これを「マルヒラ」と呼ぶ。

柄が挿しこまれる部分は四角い。

そこは適度な角度がありクサビで止める。

柄も含めた木製部分はカタギ(堅木)屋さんが作る。

鍛冶屋さんはそのマルヒラに合わせて耕す部分の鉄を作る。

それも単体で呼ぶ場合をヒラグワという。

木製部が鉄部に入る部位には溝が刻まれている。

溝を切るのはタガネを用いる。

こうして切っていくのだと実演してくれた。



いろいろな鍬があるがそれぞれに異なる柄の角度。

微妙に違っている。

話によれば畑を耕す場合と急斜面の地荒起こしする場合と違うという。

畑を耕すヒラグワを使えば角度が大きいから斜面で使う場合には不適である。

それよりももっと急な角度であるのだ。

そんな違いをこの歳になるまで知らなかった。

感動と驚きの教えであった。

(H23.11. 8 EOS40D撮影)

若き刀匠

2011年10月04日 07時51分37秒 | 民俗あれこれ(職人編)
この日は奈良県内各地で八朔の祭りが行われている。

台風の影響であろうか、一日中雨が降る日だった。

天理市小田中町に鎮座する菅原神社ではその日を八朔の籠りと呼んでいる。

陽が落ちるころにめいめいが家で作ったごちそうを持ち寄って神社に集まってくる。

本殿と拝殿の間にシートを広げて家ごとの会食がされるのであったが生憎の雨の夜。

やむなく公民館が会場となった。

そのような夜となったが住民のO婦人が語った台風の習わしに興味をもった。

台風がまともに来たら家が壊れるといって庭に長い竹を立てた。

その先にはナタを括りつけてぶら下げる。

そこに台風の眼が当たったら大風がちらばるというまじないをしていた。

その光景はおよそ50年前のことで実家になる天理市の上山田。

今でもそれをしているかどうか判らないと話す。

語ってくれたO家の息子さんは数少ない奈良県の刀匠の一人である。

身ごもった奥さんとともに作業場を拝見させていただいた。

若い時に一念発起されて刀匠の道に入られた。

室生に住む師匠に弟子入りを志願されて身につけた刀鍛冶。

一人立ちされて何年も経つが。

刀鍛冶の奥は深く、一生かかるであろうと話す。

インゴットのように見えた原材料は砂鉄から造られたタマハガネ(玉鋼)。

鉄の塊だ。

それが刀になる工程は数十日もかかる作業だ。

フイゴがあるホド(火床)。

高熱で鉄を焼く。

そのフイゴは染田の野鍛冶師にいただいたもの。

手探りで修理をして使えるようにしたという。

師の作業を拝見したことを思い出す。

その様子は「火おとし 感謝の1日」のサブタイトルで産経新聞奈良版に掲載させていただいたフイゴ祭り。

平成22年11月17日号であった。

師は大切にこの記事を残しておられる。

それはともかく鍛錬の火が飛び散る。

タン、タン・・・言葉では表せないリズムで鍛える鉄。

さまざまな工程を経て美しい形になった刀。

当然ながら登録された刀である。

それを拝見させていただいた。

光り輝く刀は仕事の証し。

「波紋が見えるでしょう」と言われて撮影はするものの写真でそれを再現するにはとても難しい。

室内ならばストロボを当てざるを得ないのだが、それでは美しい波紋は現れない。

角度や光加減を考えてシャッターを押してみるが刀匠が気にいる映像は・・・。



手持ち撮影では限界がある。

写真家たちに言わせると、撮影機材も大がかりになり一様に撮るのは難しいという。

婦人の勤め先の話題なども飛びだし数時間も寛いでしまった。

一昨年に発刊した「奈良大和路の年中行事」をもう一冊ほしいと買ってくださった。

そこには菅原神社のトーニンワーイも掲載している。

嫁ぎ先のO家の親父さんが写っていたのだ。

温もりのあるO家の夕食時だっただけにご迷惑をかけたことだろうと思い帰路についた。

ちなみに公民館の横には観音堂がある。

ここでは彼岸講の寄り合いがあるという。

春は3月、秋は9月の彼岸の夜に集まって数珠繰りをしているそうだ。

ご詠歌をされるというから西国三十三番のご詠歌であろうか。

(H23. 9. 1 SB932SH撮影)

板草履職人

2009年08月31日 08時01分15秒 | 民俗あれこれ(職人編)
自宅から生駒山を越えた地に墓がある。

今日は久しぶりに二人揃った墓参り。

かつて実家はこの近くにあった。

その近所に高橋畳工業所がある。

二人揃ったときには訪れたいと思っていた。

かーさんが育った地の工業所の親父さんにお目にかかろうと突然訪問した。

ご主人を知ったのは数年前の二月堂修二会のとき。

私の情報を元に写友の野本氏が寄進されるごーさんを探していた。

知った先は河内仲組の講社。

社長の西口氏から紹介されたのが高橋氏。

なんと二人ともかーさんはよく知っている。

高橋氏は畳作り職人。

ふとしたことから東大寺から頼まれて連行衆が履く板草履を復元することになった。

見本もなく製作するには難儀なこと。

新薬師寺には古い板草履があった。

それを参考にして作り上げ、東大寺に寄進した。



それから5年。

2年前にはNHKに板草履職人として出演された。

南都大寺の各寺のこと、僧侶のこと、板草履のこと、野本氏のこと。

話し出したら止まらない。

かーさんは懐かしい話を聞きたがったが、口に出すのができなかった。

それでもうん十年ぶりに拝見して、今が生き甲斐のその変わりように驚いていた。

(H21. 8. 6 SB912SH撮影)

続、野鍬鍛冶師

2007年01月09日 07時58分41秒 | 民俗あれこれ(職人編)
グラインダーの火花。

(H18.11.8 Kiss Digtal N撮影)

<工程概略>
1.炉とも呼ばれる火床(ほど)の火起こし。赤土に火起こしの燃料であるコークス(昔は松炭)を入れて着火する。火種は松炭かくぬぎの炭であったが現在は着火マン。

2.ハガネを赤くなるまで焼いて水を張った桶に入れる。急冷してハガネを硬くする「焼き入れ>。

3.焼き入れしても折れないように再びハガネを焼いて、今度は<焼き戻し>。そうすることでハガネに粘りをだし、軟鋼にする。

4.先を溶接して繋げた修理クワを焼き<軟鉄>状態にして地鉄(ぢがね)にする。

5.ハガネを地鉄の幅に切断して取り付ける。

6.取り付ける接合剤は鉄蝋(てつろう)粉。鉄蝋は硼砂(ほうしゃ)やホウ酸、ヤスリ粉が用いられる。

7.クワが一面に焼けるよう、フイゴを引いたり押したりして火床(ほど)を大きく広げる。

8.火床(ほど)から焼けたクワを取り出して、トンカチで叩くと火花が散る。この火花は鉄蝋粉が焼けて飛び散っている証しで一回だけ発生する火花。この工程を<板付け>という。

9.更にクワを焼いてトンカチで叩く。これを<沸かし付け>という。

10.もう一度同じ工程を踏んでトンカチで叩きクワを整える。これを<本付け>という。

11.冷ましたクワをグラインダーで仕上げる。

12.最後に再びクワを<焼き入れ>して完成する。