マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大和富士の名で知られる額井岳を背景に朱塗りの鳥居

2023年11月14日 07時17分50秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
吉野町香束に向かうルートは2通り。

桜井から新鹿路トンエルを抜けて吉野口入り。

そのルートもあるが、ぐるっと遠回りするルートもある。

西名阪国道から針テラス経由で行く大宇陀入り。

盆地平たん部を走っていた時間帯は空いっぱいに拡がる青さ。

期待が高まりつつ登ってきた天理福住辺りからどんよりした雲の空。

榛原の西峠を越えるころは、わずかに青い空。

ここは宇陀市大宇陀の平尾。

先月のはじめころ、FBにYさんが公開された映像は大和富士の名で知られる額井岳を背景に朱塗りの鳥居。

平尾の水分神社の存在は知っているから近くまで来たが、撮り位置はどこ・・。

そうか、なるほどなぁ。



参道から額井岳を見たことはあるが、一歩引いた場は、ここだろうな、と推測した位置から同方角を見ていた。

Yさんが、とらえていた景観はこんな感じだったような気がする。

首を垂れる稔りの秋色。

(R3. 9. 5 SB805SH/EOS7D 撮影)

栗野・M家の芋名月

2021年11月28日 09時50分48秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この年の十五夜は9月24日。

その十五夜の日に、芋を供えて名月を愛でるススキ立てをする、と話してくれたM家。

3カ月前の6月24日は、当屋の神送りを受けたオトウトドーヤを務めたM家所在地の宇陀市大宇陀栗野に居た。

当日、行われた村行事は、岩神社の三大行事の一つである田植え終いの夏祭だった。

祭りの祭典を終えた村行事。

続けて行われた神送り神事

受け当屋を務めるオトウトドーヤ家に岩神社の分霊を奉る神事である。

その晩は、M家のもてなしお接待。

当主のMさんが話してくれたお家行事に芋名月があった。

滅多に遭遇することのないお家行事。

しかも、十五夜の日に行われる芋名月。

主にされるのは母親。

自家栽培の芋を洗うことから始める。

泥に塗れた芋はサトイモ。

その芋を綺麗にする芋洗い。

道具はバケツに板。

ゴシゴシ廻す泥洗いは、芋の皮も剥ぐ。

その行為は、以前テレビかなんかで見たことがあるが、実態を拝見することはまずない。

その貴重な機会を逃すわけにはいかず、Mさん、母親ともども、もてなしの宴を終えた直後にお願いした民俗取材。

念のためと思って、前日の23日に電話を入れた。

受話器に出られたMさん。

「明日?、そうだったんや。明日の母親はご近所の女性とともに日帰り温泉。大宇陀あきのの湯に出かけるのは、お昼。お願いされた芋名月は、本人が忘れてなければすると思う。するならするで、コイモをたっぷり付けたサトイモを畑から採ってこなあかんな。泥いっぱいつけた芋をばらけさせてから、サトイモのイモノコ洗い。水を入れたバケツに板を沈め、そこにサトイモをごろごろさせて洗ったら皮がめくれる・・・」と話してくれた。

電話を入れてなければ、失念。

そうなったかもしれない。

電話は23日に架けた行事伺い。

一つは、コオリカキ(垢離かき)にそのときに当たる行事当屋の状況である。

受け当屋を務めたMさんの次に受ける当屋である。

既に次の受け当屋は、Sさんに移っていた。

しかもその次の受け当屋も決まり、Kさんが担うことになった、という。

しかも、吉野川の河原に下りてコオリカキも前週の日曜に済ませたそうだ。

取材チャンスは失ったが、もう一つの民俗である芋名月の状況伺い。

Mさんが電話口に伝えた・・「明日が、そうだったんや」。

定期的に行われることのない芋名月は、旧暦の八月十五日。

つまりは十五夜の日である。

新暦カレンダーでは毎年に日が替わる十五夜の日。

そのぶれはおよそ3週間も幅があるから、ある年なんか10月になることも・・。

失念する人はたぶんに多い。

電話をかけて思い出されたMさん。

主に母親がされているから、都合は母親に確認をとらねばならないが、約束事が決まっていた。

ご近所の女性とともに出かける日帰り温泉・大宇陀あきのの湯行き。

芋名月を忘れてなければ、すると思う。

するなら、コイモをたっぷり付けた里芋を畑から採ってこなあかんな、という。

泥いっぱいつけた里芋からコイモをばらして、芋の子洗い。

水いっぱい入れたバケツに、一枚の板を沈め、そこにコイモをごろごろさせながら、洗ったら皮がめくれる。

午後の時間は、温泉帰りの母親待ちにならないよう、遅い時間に向かうことにした。

尤も、この日は吉野町山口で行われる牛滝まつり取材が入っているから終わり次第に栗野へ向かうことにした。

到着した時間は、午後4時過ぎ。

ズイキイモは畑で栽培した青ズイキ。

近くに生えていたススキも抜いてきたが、時期的なズレがあったためにハギ(萩)の花は見つからなかった。

前述したように旧暦十五夜は、年によって3週間もブレることから、どちらかが未熟で揃わないことが多い。

地域によって植生が異なるススキとハギ’(萩)。

結局は、ススキだけになった今夕の芋名月。

先に準備をしていた83歳の父親。

木製の手造り椅子を台に置いた花瓶。

Mさんがわまりをして採ってきたススキを立てた。



家の畑に出ていたMさん。

今日、半日はご近所の奥さまたちと癒しの日帰り温泉。

まわりを済ませてから、宇陀市のコミュニティバスに乗って帰ってきた。

その迎えに出ていたMさんは、バス停に下りた母親とともに帰宅した。

早速の芋洗い。



用意していたバケツに水入れ。

ズイキの親芋からもぎとった芋の子をバケツに入れて洗う。



洗う道具は長方形の一枚板。

波形のない板だから、洗濯板ではない。

その一枚板を芋の子を沈めたバケツに突っ込んでゴシゴシ洗う

母親は、ゴシゴシといわずにゴジゴジ洗う、という。

ゴジゴジ、ゴジゴジ、両手で掴んだ一枚板を左右、前後に動かして洗う。



洗っては、泥水を洗い流し、もう一度水を入れて、ゴジゴジ、ゴジゴジ・・・。

このゴジゴジ作業を何度も何度も水を入れ替えては繰り返す芋洗い作業。



白い肌を見せるようになったら洗いはとめる。

肌は白くなっても、ところどころに皮残り。

黒い部分の皮は包丁を入れて皮を剥く。



数は多くないからすぐに出来上がった芋の子は、包丁を入れて根切りもした。

芋名月に供える分量は、多くは要らない。

これくらいで充分。

少し黒皮を残した芋の子。



皮を剥いている間に準備した栗。

近くの山にあった実のあるヤマグリ。

今年の実成りは少なく4個になったが、芋の子とともに供えることにした。



そういうわけで、今年も、M家は十五夜の芋名月に十三夜の栗名月も共にした。



ススキにハギ(萩)の花を飾って、栗に芋の子を供える。



そして月の出を待つ。

普段なら夜中じゅうカドニワに出したままにしているが、雨が強い降りなら屋内に供えている。

母親は、茹でたコイモを好む。

皮がつるっとむけるコイモは甘くて美味しい、といつもそういっているそうだ。



採れたての新芋は、皮が柔らかい。

今日のような芋洗いでも皮はするっと取れるが、貯蔵した古い芋は固い。

だから今日のような芋洗いはできない。

皮は古くなれば厚くて固くなるから包丁で皮を剥く。

亥の子のときは、この里芋を粗く潰してご飯とともに炊く。

炊けたらおはぎのように、形をおにぎりにして、餡を塗す。

餡つけのおはぎにして食べるイモモチ。

亥の子の日につきもの美味しいイモモチは、神社に供えることはない。

亥の子の日は11月。

お家で作って食べる亥の子のイモモチも、また取材をお願いした。

今年は11月11日が、亥の日。

今から楽しみにしておこう。

ふと話してくださった栗野のヒナアラシ。



60年前だったか、いやいやもっと前。

戦前かもわからないずいぶん昔。

時の記憶は曖昧だが、村内の各家を巡って雛あられをもらいに行っていた、という母親の記憶。

年齢から推定した時代は、戦中から戦前のようだ。

現在もなお、ヒナアラシをしている地域は、県内でただ一つ。

五條市近内町の町内一帯に繰り広げるヒナアラシの子どもたち。

ひな壇を飾っているご近所さんにやってきて、用意されているお菓子などをもらってくる行事。

ここ栗野はお菓子でなくヒナアラレだった、というからずいぶん昔のようだ。

聞き取りに知った宇陀市本郷の道返寺(※どうへんじ)垣内事例がある。

三つの地区のヒナアラシから考えるに、地区に埋もれているヒナアラシの過去事例は、まだまだありそうな気がする。

(H30. 9.24 EOS7D撮影)

大宇陀栗野・当屋の神送り

2020年09月08日 11時12分49秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
大宇陀栗野の岩神社にて夏祭り神事を終えた垣内の人たち。

神事を終えた斎主が帰り支度をしていた社務所。

これより当屋渡しの儀式が行われる。

神事を終えたら社務所に張っていた幕を下す。

神紋は菱に「岩」を象った紋章。

社務所が建っている石垣に座っているご婦人たち。

賑やかかどうかわからないが談笑している。

境内は親とともにやってきた子供たちも大勢。



老若男女問わず、栗野の氏子たちがやってきた。

地域の氏神さんに手を合わせて健康家族を願っているのだろう。



先に済ませておくお賽銭

祈願成就のお礼を神さんに奉る。

元々の賽銭はお米。

古くは散米だったそうだ。

いわゆるとか幣物(へいもつ)。

神さんから福をいただいたお礼に感謝して奉るのが賽銭であるとウキペディアに書いてあった。

背を屈めて腰を落としながら投入する感謝の賽銭。

今日は、栗野の夏祭りだけに五色旗は引き揚げずに立てたまま。

右に鏡と勾玉、左は刀の五色の御旗に感謝の形であろう。

境内の賑やかさと違って厳粛な儀式がこれより始まる。

上座に就いた2人の当屋。

白ネクタイを結んだワイシャツ姿に黒色の烏帽子を被った裃袴姿のアニトーヤ(兄当屋)と受け当屋のオトウトトーヤ(弟当屋)に区長。

列席者はアニトーヤが属する針ケ谷垣内氏子にオトウトトーヤが属する下出垣内の氏子たち。

これより区長立会の下出垣内総代の進行で当屋引継ぎの儀式を行う。

お神酒とスルメに昆布を盛った皿を持つ2人。

まずはカワラケを手にしたアニトーヤから。



お神酒を注いで飲み干す一杯。

スルメと昆布を手受けして口にする。

続けてオトウトトーヤも口にする。



お神酒にスルメ昆布を差し出す2人も同じように口にする。

そして参席する氏子たちにも同様にする献(※こん)の作法にカワラケは一枚。

いわゆるお神酒の飲みまわしである。

一口いただくお酒は一献。

これを三杯すれば三献(※さんこん)の儀であるが、栗野は一献の儀のようだ。



ひと通り、献の儀を終えたら区長の挨拶。

前年秋、11月の亥の子祭りのときに祭り当屋を受けたアニトーヤにご苦労さまと慰労の言葉を、受けるオトウトトーヤには、これからの祭りによろしくお願いしたいと紹介された。



そして、アニトーヤは8カ月間を務めさせてもらった感謝を述べ、続いてオトウトトーヤは、恙なく務めさせていただきますから、どうぞよろしくお願いします、と参席する両垣内の氏子たちに向かって挨拶された。

儀式を終えた祭りの人たちは、午後3時より始めるゴクマキの場に動いた。

今日まで務めたアニトーヤも新しく任に就いたオトウトトーヤも烏帽子被りの裃姿でゴクマキ。



区長も垣内総代たちも元気よく今朝に搗いた御供餅を撒く。

境内に集まった老若男女の氏子たち。

笑顔で放り投げるゴクマキ。



ジャスト手にするゴクマキ。

笑顔溢れる顔でゲットする。

手にしたビニール袋は餅でいっぱい。

木桶に盛った御供餅は2種類。

数多く作ったコモチが空中に飛ぶ。



そして平べったい餅の大判ゴクダマも飛ぶ。

歓声が飛び交うゴクマキの情景はどことも同じであるが、カメラでとらえるのは難しい。

すべてを撒き終えるまで10分もかからない短時間で行われた栗野のゴクマキ。



戦利品を手にした氏子たちはお家に戻っていった。

写真ばかり撮っていたら御供餅も拾えんかったやろ、と声をかけてくれたFさん

旦那さんとともに餅集めをしていたからぎょうさんあるから、持って帰り、とお土産にくださった。

餅を手にした氏子たちは戻っていったが、当屋引継ぎに立ち会った人たちは、大事な役目がある。

この日に受けた当屋の家に、神さん棚の御簾屋(おすや)を送る、いわば神送りの儀式に就く。

朝に結った御簾屋の注連縄に神饌、御供も、本日の祭り日にずっと集会所に坐していた。



8カ月間も前当屋家で過ごしてきただけに、名残惜しそうに御簾屋(おすや)に触れる前当屋。

これより始める御簾屋の解体作業。

実は、組立式構造だった。

神饌、御供を下げる。

神具に御供皿、三方などは箱に収める。

御簾屋に架けていた注連縄も外すが、神さんを祭っている御簾(※みす)を外すことはない。

解体したのは御供台だけだった。

箱詰めしたそれぞれの祭具とともに御簾屋は、軽トラに載せて運ぶ。

御簾屋は、倒れないように支える人足も就くし、運転手も一層の注意を払って移動した。

作業を手伝う両垣内の人たち。



受け当屋の家に着いたら、早速動きだす。

慎重に運ばれた御簾屋(おすや)は、奥の座敷に設営。

先に設えた受け当屋家の玄関にかける注連縄かけ。



当主自らかける注連縄は、神さんを迎えた証しであろう。

前当屋とともに調える新しき祭りの神さん。



吉野町の河原屋に鎮座地する大名持(おおなもち)神社に詣で。

神社前から河原に降りて拾ってきた吉野川の12個の小石は、受け当屋の御簾屋内に据えた。



禊の場に浸かって拾い集めたコオリカキ(※垢離掻き)によって授かった受けた神さんである。

神さんの棚ができたら、次は神饌御供を並べる御供台の調整。

先ほど解体したばかりの御供台を元の通りに垣内の手伝いさんたちが組み立てた。

そして神饌御供もまた前当屋とともに調える御供並べ。



生鯛の配置に野菜、果物も並べていた後方に床の間がある。

その床の間に掲げた掛図である。

中央は天照皇大神。

右に八幡大神、左に春日大神を配した三社託宣の掛け軸。

名号と三神の姿を現した託宣図である。

聞き取りは失念したので明白ではないが、たぶんに日待ち講の存在が考えられる。

その床の間に見たことのない一つの祭具を立てていた。



御供餅搗きのときに区長が話してくれた紙で作った“ハナ”である。

栗野の自治会が伝承してきた十二薬師さん行事に供えた“ハナ”。

まさかの1本が受け当屋の床の間に飾っていたとは・・。

かつては70本から80本も作っていた“ハナ“。

現在は3本に減らしたという”ハナ“は中心の心棒に一本の細い竹。

かつては金、銀、赤、青、緑の五色だった”ハナ“。

今は、少なくなった三段の”ハナ”飾りに円形状の赤、青、緑の折り紙飾り。

その姿は、まるで傘のように見える。

十二薬師さん行事は9月初めにしていると聞いている。

是非とも伺いたい栗野の仏事行事である。

前列に座る両当屋に垣内の手伝いが脇を。

後方に座した手伝いも座して拝礼する神迎えの神事。

この場の祭礼に神職が関わることのない垣内の祭りごと。

神さんの棚に置いたローソクに火を灯し。



神式に則り、一同揃って2礼2拍、1礼の神拝で終える。

こうして祭りの神さんをご自宅に招き入れた受け当屋のM家。

これより手伝ってくださった垣内の人たちを慰労にもてなす座敷に場を移す。

送り手の針ケ谷垣内からは2人。

受け手の下出垣内も2人。

下出垣内のお一人は、この日の昼食に伺った食事処の堂々久(どどく)の店主のTさん。

F区長お薦めの和食店の食事はとても美味しかった。

その堂々久店主が用意してくれたお店の舟盛りとオードブル盛りでもてなす当屋の摂待。

店主と息子さんが料理した堂々久料理。

舟盛りのお造りは、鯛一尾からブリ、マグロ、サーモンに鮑。オードブル盛りは、でっかいエビフライに鶏の唐揚げ、ソーセージ、ハム、さつま揚げ、烏賊のマリネ、中華クラゲに雲丹盛りに鰹のタタキなどなど。

食べていきやと云われて、同行取材していた写真家Kさんとともに、席につく。



美味しい料理を囲んで和やかに歓談される。

話題は、栗野の祭り、行事につきる。

大字栗野の垣内は針ケ谷垣内に下垣内。

中出垣内に上垣内の4垣内による務める当番垣内の廻り。

今回の受け当屋に神送りした垣内は針ケ谷垣内。

他の垣内よりも、軒数がいちばん少ない垣内。

受けた当屋は下垣内。軒数が多いことから、二つに分けて受けている。

受ける垣内の中から当屋を選んで岩神社の三大祭に従事する。

この日の午後に終えた大祭は田植え終いの夏祭り。

次の大祭は、10月に行われる秋祭り。

その次が、11月の亥の子祭り。

そして翌年の夏祭りへ送る三大祭。

毎年、毎年に当番垣内を交替し、大祭を繋いできた栗野の年中行事。

来年は、祭りごとのあり方を大幅に見直す大改正の年。

神事ごとは継続するが、労力など負荷が大きい御供搗き、ゴクマキは秋祭りだけに絞って一本化。

現在はまだ決まっていないが、当屋受け、神送りのあり方も見直し。

翌年の総会をもって決定するようだ。

神さんを迎えた下出垣内。

平成30年は、秋祭りと亥の子祭りが2回連続する当たり年。

その次の祭りを受ける垣内は、下出垣内とほぼ同様の軒数は多い中出垣内。

夏祭りを受けるのか、それとも一本化する秋祭りに受けるのか、現在は明確になっていない。

その秋祭りのヨイミヤの御供に特徴がある。

一つは、ムシゴク(蒸し御供)。

二つ目はとコウジブタに詰めた餅。

この餅は、細かく切ってキリモチにするヨイミヤの御供に対して、翌日のマツリの御供は甘酒が主になる、という。

岩神社の年中行事は三大祭だけでなく、他にも行事はある。

2月の節分の日。

当屋が朝いちばんに供える節分の豆。

その後にやってくる参拝者は豆を供えて、先にあった当屋の豆をもらって帰る。

次の参拝者もまた豆を供えて、先に参っていた人が沿舐めた豆をもらって帰る、いわゆる豆交換。

時間は特に決まっていない節分の日のあり方である。

また、宮参りに岩神社に参拝する家族さんはお菓子をもってくる。

宮参りがあると知らされた子供たちは、家族さんが配るお菓子目当てにやってくる。

宮参りのあり方を聞いて思い出した大和郡山市額田部の推古神社の初宮参り

平成24年1月14日に参拝されたご家族さんの承諾を得て撮らせてもらった初宮参り。

お参りを済ませた家族さんに近寄ってきた地元の小さな子に差し上げた匂い袋。

初宮参りの赤ちゃんが、村の子どもたちに仲間入りをするために配った匂い袋である。

お菓子と匂い袋の違いはあるが、お菓子もまた仲間入りの手土産ではないだろうか。

今もこうした習俗のある栗野の民俗に当屋のM家は今もなお十五夜の中秋の名月に芋名月をしている、という。

自家栽培のズイキ芋の子を芋洗い。

その洗いに、一枚板をもって芋洗い。

芋の子を入れたバケツに水入れ。

板を縦位置に置いて、ゴシゴシ洗う芋洗い。

主に、母親がしている芋洗いに興味が湧くM家の民俗は、豆名月もしているそうだ。

かつては「オツキヨウカ」の習俗もしていたそうだ。

「オツキヨウカ」に竿を立てる場は家のカド庭。

栗野辺りの村々は旧暦でしていた。

ツツジの花が咲く5月。

まさに「卯月八日」が転じて訛った5月8日に行っていた「オツキヨウカ」は、ここ栗野にもあったが、今はどの家もしていない。

芋名月に豆名月はお家の行事。

縁繋がりに、どうぞ、と伝えられた。

秋祭りは、他地域の民俗行事取材が先約にあり、栗野へは行けないが、11月の亥の子祭りは是非とも寄せてもらうつもりだ。

そのときに拝見したい、御供餅搗きの間に行なわれるサカシオ(酒塩)作法。

これまで一年に3度もしていたサカシオ(酒塩)作法が、来年になれば秋祭りしか拝見できない特別な作法だけに亥の子祭りの日は是非とも抑えておきたい。

あれこれ栗野の民俗話題を話してくださる間も、みなさんお酒を飲んで盛り上がった会食。

突然の来訪客の私もよばれた堂々久の料理。

特に、お造りは新鮮でとても美味しかった。

慰労の時間帯に長居はない。



およそ1時間半のもてなし接待に、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

(H30. 6.24 EOS7D撮影)

大宇陀栗野岩神社・田植え終いの夏祭り

2020年09月07日 09時57分19秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
昔は、松明というか、ローソクを灯した提灯を手にしてお渡りをしていた。

夕方の午後5時半に出発していた宇陀市大宇陀栗野のお渡り。

今は、本校の田原小学校に統合され、昭和38年に廃校になった栗野分校の跡地に建築されたときわ老人憩いの家が出発地。

現在は村の集会所としても利用するこの日限りの祭り当屋の家。

かれこれ10年ほど前に改正された。

午前中は、祭り当番垣内の針ケ谷垣内の人たちが寄り合ってゴクツキをしていた場である。

17個の木桶に入れた御供餅は、オゴク、コゴクの2種。

かつては、子どもの小遣いになる小銭を入れていた大判のゴクダマをオゴク。

数多く搗いて作ったコモチはコゴクと呼ぶ。

いっぱい詰まった木桶の御供餅。

かつては人足がオーコで担いで渡御について神社まで行っていただろう。

担ぐ人足も当番垣内からとなれば難しい。

やむない措置に運ぶ道具は軽トラに載せて移送するが、木桶は二つだけの2人が抱える形で随行する。

現当屋のアニトーヤ(兄当屋)に受け当屋のオトウトトーヤ(弟当屋)は、白ネクタイを結んだワイシャツ着用。

黒いスーツ姿に黒色の烏帽子を被った裃袴姿でお渡りする。

先頭は、左右両人が高く掲げる御神燈の高張提灯もち。

かつては紋付袴を着用していたが、現在は略されて法被姿で盛り上がる祭りの姿。

20年ほど前に切り替えたようだ。

提灯の次は、菟田野古市場に鎮座する宇太水分神社禰宜の三家(みやけ)邦彦氏。

その次は、榊を手にする栗野区長のFさん。
そして、榊をもつアニトーヤ(兄当屋)にオトウトトーヤ(弟当屋)。

続いて垣内総代も榊をもつ。オーコ担ぎの太鼓打ち、2人が抱えるオカガミの名がある御供餅。

祭りの一行が岩神社に向かって歩き出すお渡り行列。

やや離れた位置から出発した垣内氏子たちも後ろについて神社に向かった。

岩神社で行われる時間から数えて20分前の出発である。

太鼓は移動しながらも打つ太鼓。

ドン、ドン、ドン・・カッ、カッ・・。

太鼓の音色は遠くまで届いているだろう。

ここ栗野の山林地。

錆丸太材の生産地である。

錆丸太は作業を施して、美しい黒い斑模様を表面に磨きあげる桧丸太。

一般的には磨き丸太と称されることが多い。

伐採した桧材は、伐りださずに山中の場で、檜皮剥ぎをしてそのまま放置する。

その際、皮剥ぎした部分が地面と接地しないようにしておく。

そのままほっとけば、湿気にあたって錆びた感じになるという錆丸太

自然が勝手に作り出す付着するカビの力によって錆させる。

栗野の桧材は、戦後に植林(※杉材も)したものであるが、それ以前は山林地でなく、切り拓いた段々畑の地だった、と話してくれる。



植林に囲まれた栗野の地をお渡り一行は、太鼓の音とともに歩き進む。

お渡りに歩く速度は早い。

集会所を通る道はかつての通り。

新設した現代道は集会所より東。

往来する車の速度が早くなる見通しのいい直線道路。

お渡りは集落を抜けて大通りに合流する。

そこからのお渡りは道路東に寄り添うように歩く。



往来する車を見届けて一斉に渡り切る一行である。

しばらく歩いたら神社へ行く参道道に。



下り坂の参道から神社に繋ぐ橋。

津風呂川に架かる宮前橋を渡って一の鳥居下に着く。



およそ8分間で着いた栗野の渡御だった。



区長の話によれば、昭和57年に起きた大災害。

上流の川上から川下へ流れる濁流。

大きな被害はなかったようだが、調べてみれば昭和57年7月31日から8月3日の数日間。

台風10号に引き続く低気圧によって発生した豪雨。

県下各地で甚大な被害が出た。

伊勢湾台風以来の大災害に災害対策基本法施行後初の災害対策本部がおかれ、災害救助法の適用により陸上自衛隊が派遣された。

降雨量が最も多かった地域は県南東部。

栗野など大宇陀辺りは大雨が・・。

大和川の氾濫などで王寺町を中心に田原本町や天理市に被害があったと新聞が伝える記録があった。

被害地は山崩れが発生した西吉野村も。

土砂で埋まった丹生川を堰き止めた。

生々しい写真映像に、私が住まいする大和郡山市稗田の団地周辺が海のような状態になったことは今でも記憶に残っている。

当時、勤めていた大阪・中央区にある情報処理会社の3交替勤務。

大型コンピュータ運用管理の係責任者だった。

通勤に利用していた最寄りの駅付近の水路が豪流で歩行不能。

若いもんが住んでいた稗田団地では、家から一歩も出られない状況だったが、そこはなんとか自転車に乗ったらしく、少しは前に進んだが、気がついたら水没した田んぼに落ちていた、と後日に報告してくれたことまで思い出した。

話題は栗野の祭りのお渡りに戻そう。

境内に建つ二の鳥居に整列するお渡り一行。



先に到着していたのは軽トラで運んできた大量の御供餅。

境内に敷いた砂利に轍痕が見える。

竹製の高張提灯は、二の鳥居に括りつけ、転倒しないように立てる。

到着したら早速始める作業がある。

まずは、先に軽トラで運んだ木桶に納めた御供餅。

社務所に運び込んだ木桶の御供餅を見ていた受け当屋のMさん。



夏祭りの神事を終えた直後に行われる当屋引き渡しの儀式をもって正式に秋祭りまでの期間の当屋を務める。

なお、一番上に盛った大きな御供餅。

形状が平べったいその餅は、ゴクダマだ。

受ける人、社務所から運んで手渡す人たちが動き出した。



お渡りに運んだ二つの木桶もみな手渡し受け。

社殿前、或いはその下置いて並べた。



平成23年11月5日に斎行された栗野岩神社の式年造営竣工報告祭の模様をとらえた映像放送がある。

収録ならびに編集、配信は宇陀市NPO法人メディアネット宇陀によるもの。

その放送によれば、式年造営に本社、末社のすべての社殿を補修、塗りも奇麗にされた。

併せて末社の配置も替えたと伝える。

本殿の背後にある巨大な岩山はご神体。

本社に向かって左側の社殿は合祀された三社。

一番左に山ノ神・大山祇神。

真ん中に妙見宮・天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

そして右端に春日社・天児屋根命(あめのこやねのみこと)。

本社に向かって右側は四社の合祀。

左から宗像社・宗像大神(むかなたおおかみ)。

次に稲荷社・稲荷神。猿田彦社・猿田彦命。

一番右端に金刃比羅宮(ことひらぐう)・大物主神。造営前の神社はそれぞれ単立の社殿が境内に点在していたが、造営を機会に合祀された。

合祀の三社、四社それぞれの1神の御扉を開けたそこに供える木桶の御供餅と二段重ねのオカガミもある。

当屋引き渡しの儀式の後に行われるゴクマキ用の木桶餅も並べた。

次の支度は旗の支柱立て。



年季の入った丸太木のてっぺんに榊を挿す。

その支柱に鏡、刀を添える。

赤、青、黄、緑に白の五色旗も吊って立てた。

右に鏡と勾玉、左は刀の五色旗。



10分ほどで神事の場を調えた。

整列される祭りの一行。

中央にアニトーヤ(兄当屋)にオトウトトーヤ(弟当屋)。

両者の傍に栗野の区長と祭り当番垣内の針ケ谷垣内総代。

後方列に針ケ谷垣内氏子と次に受けるオトウトトーヤが属する下出垣内の氏子たち。



この日の大祭である夏祭り神事の斎主を務める三家禰宜。

祓詞に祓の儀。

次に献饌。



社務所内にあった供物置きから一つ、一つをお手繰り送りで渡す神饌。

本社殿前の三家禰宜が受け取って並べられる。



その様子をじっと見守る垣内の人たち。

子どもたちはじっとしとられんようだ。

玉串台の前に立ち祝詞を奏上される。

そして、斎主、区長、アニトーヤ、オトウトトーヤの順に玉串を奉奠する。



そのころともなれば、当番垣内の人たちだけでなく、村の人たちがぼちぼちとやってきた。

目当ては、神事を終えて、当屋の引継ぎ。

これらを終えてから始まるゴクマキである。

(H30. 6.24 EOS7D撮影)

大宇陀栗野・夏祭りのゴクツキ・直会

2020年09月06日 09時48分00秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
心配されていたのは雨降りである。

前日から降り出した雨は夜中になっても降りやまない。

朝方のなっても小雨。

家を出る午前7時半過ぎはやんでいたが、西名阪国道の天理の山越え地帯は、べったり降っていた。

霧雨である。

この地はだいたいが霧の出やすい地帯。

抜けた旧都祁村であればマシになるだろう。

そう思って車を走らせる。

雨降り雲は東に東へ流れていく。

午前9時に着いた宇陀市大宇陀の栗野は雨もやんでいた。

朝の5時から始めたという垣内のゴクツキ。

この日の午後に行われる栗野の夏祭りに奉納される餅を搗いていた。

祭り当番は針ケ谷垣内。

かつては20軒も住まいしていたという垣内であるが、現在は6軒。

人数的に難しい祭りの営みに要する作業に人手が不足。

他の垣内であれば午前9時からでも間に合うが、針ケ谷垣内は難しいと判断され、作業は4時間も早めていた。

今月の3日も訪れていた栗野。

岩神社に三十三度も参る田休みのお垢離取りがあった。

参拝者の姿は確認できなかったが、垢離の回数を示す榊の葉とか御供のあり方を記録していた。

お会いした宮役員のNさんは、この日に行われる岩神社の夏祭りのことを教えてくださった。

取材にあたって、当日に来てもろたら栗野の区長さんを紹介すると云われていた。

早朝でなくとも御供搗きが終わるころを目途に来てくれたら、と云われて自宅を出た。

大和郡山から栗野まではおよそ1時間半だった。

御供搗きをしている場は、栗野の集会所。

ときわ老人憩いの家でもある集会所におられたFさんにご挨拶。

本日の祭りは午前中いっぱいが当番垣内の御供搗き。

午後2時より岩神社に向かってお渡りをするそうだ。

岩神社の大祭は、この日の夏祭りに10月の秋祭り。

そして11月の亥の子の祭りがある。

いずれも朝から午前中いっぱいが御供搗き。

午後にお渡りがある。

三つの大祭に違いはなく同じ形態。

来年からは、これを統合し、秋祭りに一本化する予定である。

垣内の負担を軽減する目的で一本化するから、今日の夏祭りは今年で終える。

岩神社の行事だけでなく仏事もある。

今年の9月9日に予定している十二薬師さん。

本来は9月12日が十二薬師さんの日。

現在は、集まりやすい12日直前の日曜日に移した。

昔は青年団があった。

団子を作って臼型のようなものに詰めて型取りをしていた。

臼型というのは竹で作った道具。

伐った竹を輪切りにする。

大量に搗いた団子を供えて、法要が終わればモチマキ(団子撒き)をする。

今は自治会が伝承している十二薬師さんに“ハナ”を作って薬師さんに供えた。

かつては70本から80本も作っていた“ハナ“。

現在は3本に減らしたという”ハナ“は中心の心棒に一本の細い竹。

天頂に丸団子を挿す。

その下は三段の”ハナ”飾りがある。

上から順に大きさが小、中、大のハナ飾りは色紙で作る色紙を折ってまるで傘のようなギザギザ感に広げた円形状。

かつては金、銀、赤、青、緑の五色だったが、今は赤、青、緑の三段。

是非とも拝見したい“ハナ”飾りである。

区長引継ぎに鰐口が見つかった、という。

その鰐口に「金石寺」の刻印があった。

岩神社境内に建っていた金石寺(こんせきじ)。

明治時代の廃仏毀釈の際に廃寺。

本尊の薬師座像は栗野にある大蔵寺が預かったが、鰐口だけが遺されたそうだ。

9月に行われる村行事の十二薬師さんは龍門真言宗大蔵寺(おおくらじ)で法要をしてきたが、10年ほど前に元あった場に戻すことになった。

元の場は、岩神社境内であるが、十二薬師堂はなく、小屋に収め、榛原の融通念仏宗派宗佑寺(そうゆうじ)の僧侶に来てもらって法要をしている、という。

今はしていないが、と先に断って話してくださるFさんの子どものころの思い出映像である。

菖蒲に蓬があった。

両方とも揃えて束にして、屋根の上に放り投げていた記憶である。

菖蒲、蓬から思い出された花はツツジだった。

これも束ねて竹の竿に括り付けた。

それはなんと呼んでいたのか気になる。

もしや、と思って云いかけた「オツキ・・・」まで声を出したら「オツキヨウカ」だった。

竿を立てる場は家のカド庭。

母親が立てていたようだ。

栗野辺りの村々は旧暦でしていた。

ツツジの花が咲く5月。

まさに「卯月八日」が転じて訛った5月8日に行っていた「オツキヨウカ」は、ここ栗野にもあった証言である。

オツキヨウカ」に天高く竿を揚げる。

そのてっぺんに十字に括って取り付けたツツジ花を「テントバナ」と呼んでいた。

「テントバナ」を充てる漢字は「天道花」。

まさにお天とさんに捧げる「テントバナ」である。

場所は異なるがツツジの他にヤマブキやフジの花も結わえて立てている地域がある。

私の知る範囲であるが、現在もなおされている方は山添村の住民。

その人以外の隣近所もしていたが、今は見ることもない。

記憶伝承を話してくださった奈良市別所町の住民の他、吉野町小名に川上村高原にもあったやに聞く。

山間地だけでなく平たん地の田原本町にもあった。近年にイベント復活された天理市福住の事例もある。

また、大阪北部地域にも見られた「オツキヨウカ」。

現存する事例は極端に少ない。

続けて話してくださる植物の話題。

地域探訪に歩いて歴史や文化を知る歩こう会(※上龍門地域まちづくり協議会)に参加した際に知った「ヘラノキ」である。

ヘラの木で作ったモノに馬の鼻に取り付けるハナワ(※鼻環・鼻木)がある。

そのハナワに繋いで手繰る紐があった。

その紐はヘラノキの皮で作っていた。

ヘラノキの木肌は柔らかいからそれを利用していたという。

ヘラノキは九州や四国に自生する植物。

上龍門地域に見られるのはとても珍しい、という。

また、上出垣内に姫目(ひるめ)神社があり、12月半ばに姫目の祭りをしている、という。

姫目の神さんは姫神さん。

昔、子どもが出来なかった人がいた。

垣内に小川が流れていた。

そこで小石を拾って奉ったら、子どもは死産することなく、生まれた。

そのおかげをもって祭るようになったという。

栗野に関するさまざまな地域文化を話してくださるFさん。

そうこうしているうちに御供搗きも終わりかけ。

もち粉を塗した搗きたての餅は板に並べていた。

昔しは、子どもの小遣いになる小銭を入れていた大判のゴクダマであった。

今はゴクダマだけにしたが、数多く作るのはコモチ。

ゴクダマにゴクモチは別名にオゴク、コゴクと呼ぶ。

2段重ねのオカガミ餅もある。



コモチの個数はとにかく多い。

大なり小なりのコモチの大きさ。

一定量でなくそれぞれが餅取りをされるから多少のバラツキである。

これらコモチは午後からのお渡りに運ばなくてはならない。

そこで登場する木桶。

コモチを載せたままの板を抱えて木桶に寄せる。

手でごそっと移した木桶にいっぱい。



その上に大きく平べったい餅も入れる。

場合によってはゴクマキのように投げるそのモチはオゴクの呼び名もあるゴクダマである。

木桶は新しく作ったものもあれば古い形の桶もある。

古い方の木桶の底裏に寄進した日付けがあった。



区長さんとともに拝見した木桶の裏底面の墨書は「昭和三十四年度 三個新調の三号 岩神社氏子」だった。

古くなった木桶はタガが外れかけ。

そういうことからまた新たに作られた木桶も合わせて17個もある。

木桶に収めている間に他の人たちは餅板の後片づけ。

作業をしていた広間は掃除機で清掃するなど忙しく動き回る。

長机も片付けする。

その机に置いてあった大皿に盛ったこれは何であるのか。

初めて見る栗野の祝宴であるのか。

それとも・。



大皿に盛った魚は開きの焼き鯖。

よく見れば液体がある。

区長に氏子たちが話してくれたコレは「サカシオ(酒塩)」と呼ぶ食べ物。

酒をたっぷり落として焼き鯖を口にする。

御供搗きをしている最中に一服する。

その際に口にする「サカシオ(酒塩)」。

大皿は満々とたたえた酒びたし。

一口食べては酒を飲む習慣がある。

一人、二人・・・何人もの人たちが一服する度にいただく「サカシオ(酒塩)」。

いわば廻し飲みのあり方である。

御供搗きは終わったから、その作法は見られない。

実は、この「サカシオ(酒塩)」の習慣は一年に三度登場する。

前述したように、本日の夏祭りに10月の秋祭りと11月の亥の子祭りのすべてに御供搗きがあるから、また栗野に来てくれたら、見られるから、と云ってくれた。

積極的に拝見したい「サカシオ(酒塩)」。

秋祭りか亥の子祭りのいずれかに訪問、取材をお願いした。

ちなみに「サカシオ(酒塩)」はデジタル大辞泉に載っていた。

「魚や野菜の煮物に調味料として酒を入れること。または、その酒」とあったからあながち間違いではなさそうだが、それは料理法のこと。

「さかしおとは、日本酒を料理に使うこと、またはその酒のことをいう」と書いてあったNPO法人ブログもある。

また、食の総合出版の柴田商店ブログでは「酒、または酒に塩を加えたもので、魚を焼く時などにぬる。昆布の風味をつけることもある」とあった。

酒、または酒に塩を加えたもので、魚を焼く時などにぬる。

昆布の風味をつけることもある

栗野に見る「サカシオ(酒塩)」は、民俗観点から考えて、その料理をいただくことに意味がありそうにも思えるが・・・。



作業に遅れもなく、悠々と終わった針ケ谷垣内の氏子たちはゆったり寛いでいた。

正午より始まる直会である。

大広間に設営した神さん棚がある。



以前はお家でしていた祭り前の直会。

その場に祭る御簾屋(おすや)がある。

御簾(みす)で見えないようにしている神棚は、この日までは当屋のお家にあった。

当屋宅に祭る神さんである。

かつては当屋の家で御供搗きもしていたであろう。

岩神社へのお渡りも当屋から出発していたが、現在は場を移した集会所にも利用するときわ老人憩いの家。

この日だけは当屋家代わりの神住まいの場である。

榊を立て、お神酒に洗米、塩を供える。

下に祭壇を設けて鯛、キノコ、果物に生たまご、ソーメン、昆布、コーヤドーフ、野菜も供えていた。

榊で見え難いが、御簾屋の前に太い注連縄もある。

尾の方がピンと反った注連縄は真新しい。

区長や氏子たちが話してくれた御簾屋に納めた小石のこと。

この日でなく一週間か、10日前。

当屋の都合のいい日を選んで出かけた吉野川。

河原に降りて拾ってきた吉野川の12個の小石。

旧暦閏年の場合の小石は13個になる小石納めの神さん棚は、御供搗きを始める前に設営した。

なお、小石拾いは現当屋と受け当屋の両人が揃って行くようだ。

拾った小石は半紙に包んで水行をする。

新しく拾ってきた小石に対して一年間を守った小石は岩神社の社殿周りに据えるあり方。

小石拾いに出かける地は通称が「大汝宮」と呼ぶ大名持(おおなもち)神社。

鎮座地は吉野町の河原屋

その前を流れる清流に足を浸けて小石を拾う禊の場である。

これを「大汝宮(おなんじ)」参りと称する対象地域は数多いが、ここ栗野では、神さんの棚に納めるまでのそれを「コオリカキ」と呼んでいた。

この月の6月3日は、田植え終わりの垢離取りだった。

禊は榊の葉を小川に浸けることであるが、吉野川での小石拾いもまた禊をともなう垢離取り。

「コオリカキ」を充てる漢字は「垢離掻き」ではないだろうか。

このことは、神社境内に掲げる由緒書に「・・例祭前に、当屋と弟当屋(※次期当屋)が、吉野町河原湯大名持神社前の聖域である潮生渕(※しおぶち)に“垢離かき”と称して禊に行くことである。六根清浄の水浴をして12個の石を持ち帰り、当屋に設けられた須屋(※すや)に入れて例祭当日まで祀るのである」と書いてあった。

ちなみに現当屋のアニトーヤ(兄当屋)に対して受け当屋はオトウトトーヤ(弟当屋)とも呼ぶ。

垣内で選ばれるそれぞれの当屋。

現当屋が住まいする垣内は針ケ谷。

今回の受け当屋が属する垣内は下垣内。

祭りの当番にあたる垣内の順は決まっている。

栗野は全戸で71戸であるが、実際に住む戸数はもっと少ないようだ。

栗野の村は、上出垣内から針ケ谷垣内、下出垣内、中出垣内から再び上出垣内に戻る四つの垣内に送る順送り。

夏祭りから秋祭り、亥の子祭りの当番垣内は順送り。

当番の祭りにあたった垣内の中から決めている当屋が務める。

但し、下出垣内は他の垣内より戸数が多いことから下出垣内にとっての廻りは2回続きになる。

時間ともなれば現当屋も受け当屋も着替える。

白のネクタイを締めたワイシャツ。

黒のスーツ姿に身構えた両人が迎える人は2人。

栗野区長のFさんと菟田野古市場に鎮座する宇太水分神社禰宜の三家(みやけ)邦彦氏のお二人。

親父さんの三家一彦宮司は以前にお会いしたことがある。

平成17年2月7日に行われた祈年祭

拝殿に奉った牛面に天狗の面、お多福の面を置き、唐鋤と馬鍬も並べて行う神事はおんだ祭

氏子の姿はなく、宮司お一人で斎行されていたことを思い出す。

会食を伴う祭り垣内の直会場は、かつて大宇陀町立田原小学校の栗野分校だった。

昭和38年、栗野分校は本校の田原小学校に統合され廃校になった。

その跡地に建築したときわ老人憩いの家は、村の集会所にも利用している。

上座に座った区長と三家禰宜に今回の夏祭りまでの期間を務めた兄当屋と次の秋祭りまでの当屋を受けた下出垣内に属する弟当屋が並んだ。

手前に並べた食卓テーブルに座った人たちは、兄当屋が属する針ケ谷垣内人たち。

中でも兄当屋家の両隣が主に手伝いをするが、針ケ谷垣内は6戸。

手伝いは垣内住民総出のようだ。



直会を始めるにあたって挨拶、口上を述べる兄当屋。

当屋を受けた日は、前年11月の亥の子祭りの日。

祭りを終えて受けた当屋は、ご自宅に神さんを迎えて神祭り。

それから8カ月間はお家で毎日を神祭りしていた。

受けたときも、今日の夏祭りも終え、受け当屋家が神さんを迎える時点までを担う兄当屋。

逆に本日受けた弟当屋は、神さんを迎えたら兄当屋に立ち位置が替わる。

そして、本日は早朝からのゴクツキ作業に感謝である。

お礼を述べて乾杯は区長に。

しばらくの時間を垣内の人たちと過ごす慰労の時間帯でもある。



午後2時に出発するまでの時間に笑顔で振るまっていたそうだ。

地元の堂々久(どどく)で昼食を摂って戻ったから聞いた栗野の直会に垣内の暮らしぶりがわかるようだ。

(H30. 6.24 EOS7D撮影)

栗野岩神社・田休みのお垢離取り

2020年07月13日 11時01分40秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この日は毎年に行われる地域活動がある。

6月と11月は大和郡山市の全域対象に地元区域を一斉に奇麗にするクリーンキャンペーン。

前年は、自治会役員にあたっていたこともあり、塵の回収までお付き合い。

午前中いっぱいは地区から移動するわけにはいかない。

今年は役も離れたが、清掃活動を済ましてから取材地に向かう。

車を出していざ出発するが、後ろ髪を引かれる思い。

後日に聞いた地区の人たちの話によれば、同地区に住まいするHさんのガレージに集まって恒例の宴をしていたという。

それだけで収まることなく、繰り出したみなは市内中央に移動してカラオケに没頭していたそうだ。

毎年の6月第一日曜日は行事取材が重なる日。

午後の行事であれば十分に間に合うが、午前中であれば、取材事情を伝えて出発することもある。

そういうわけで、住まいする地区を出発した時間は午前8時半。

清掃活動を終えてからの出発であるが、行先は宇陀市の大宇陀。

取材先は大字栗野。

1時間半も要する車移動である。

到着した時間は午前11時。

目的地の岩神社に人の姿は見られない。

一週間前の5月27日にも訪れた栗野に、今もしていると話してくれたFさんによれば、朝は早い、という。

その日に「田休みのお垢離取り」のあり方を教えてくださった。

鳥居を潜って岩神社との間を往復していた。

その回数は33回。

お垢離取りは、神社に自生する榊の葉、或いはお家にある木の葉を33枚摘んでもってくる。

その葉を神社北裏に流れる奇麗な小川の水に浸ける。

流水に浸した葉を手にして鳥居を潜る。

岩神社の社殿に向かって、水滴のついた葉を振って飛ばす。

清らかな小川の水で払って清める作法がお垢離取り。

水に浸けた水滴を飛ばして祓う。

33回も繰り返すお垢離取りの作法は、いつしか体力的にもしんどくなり短縮することにした。

本来なら、一人で33回も繰り返す作法であるが、しんどくなったら、例えば連れてきた2人の子どもに、或いは孫にも手伝ってもらう。

33回の垢離取り回数を子どもや孫に分担してもらうワケだ。

子どもを一人前の扱いにした年ごろなら1人で33回。

仮に孫3人ですれば垢離取り回数は11回でアガリになる、という。

平成21年8月23日に行われた桜井市修理枝・八王子神社の風鎮ノ祭の日に行われるお垢離取りもまた榊の葉だった。

数取りは禊の化粧川にある小石。

その小石は神社境内に置く。

その数も33回だったが、高齢化により極端に縮めて数取り石は3個にしている。

奈良市の旧都祁村に属する相河(そうご)町の薬師ごもりの日に行われるお垢離取りもまた33回であったが、当地も高齢化により工夫する垢離取りのあり方。

地区を流れるムカイ川と呼ばれる小川まででかけて、ちぎった南天の葉を川水にしゃっしゃと浸けて清める。

薬師さんに戻って参拝。

再び、小川に出かけて南天の葉で水垢離。

これを33回も繰り返していたが、一日で仕上げるのは身体的に難しくなり、都合3日の間に済ますようにした、という。

山添村の北野でも33回を繰り返すお垢離取りをしていたと聞いた。

天神社参道下にあった小川に浸けて清める葉は椿の葉。

盆踊りの日に行われる会式の日だった、と聞いた。

小川ではなく神社にある手水鉢の水に浸けて33度の参拝を繰り返すのは、奈良市の旧月ヶ瀬村・桃香野八幡神社で行われる枡型・弁天一万度祭に用いる葉もまた椿の葉である。

地域によってはさまざまなあり方がみられるお垢離取りは、一定の行事でもない。

行事もまたさまざまであるが、その日でなければならない地域特有の祓い清めにされる願掛けではないだろうか。

栗野の田休みのお垢離取りに使われる水祓いの葉は榊。

この葉は、願掛けの人数を見越してそれなりの本数を宮役員のNさんが、用意している。

葉の数は33枚。



枝ごと伐った榊を社務所前の石段上に置いていた。

数年前までは、参拝される各自が榊の葉を用意し、お垢離取りをしていた。

尤も神社境内に掲げる由緒書によれば、榊だけでなく照葉樹である。

Fさんが云うように、お家にある葉でも構わない。

柔らかすぎる葉は水に浸けたらよれよれ。

水滴のつく照りのある葉であれば垢離取りができる、ということだった。

33枚の葉がある照葉樹は枝ごともってきていた。

お垢離取りは豊作を願う農家の習俗。

昔は、田植えが終わったそれぞれの家単位でしていた。

田植えを終えたあくる日か、二日ぐらい経った日に垢離取りをしていた、というFさん。

宮さんの岩神社行事にそれはない。

葉付きの枝を集めて提供するようにした、とその後にお会いしたNさんが話してくれた。

境内を見渡したときである。



足元に数枚の葉が散らかっていた。

鳥居を潜ったそのときに落とした水祓いした榊葉である。

ざっと数えた枚数は42枚ほど。

何人の人が来られたのかわからないが、お垢離取りの証しに違いない。

神社に参拝する田植え休みの日。

田植えが無事に終わり、豊作を願っていたと想像する神聖な場に御供がある。



社殿下にある石つくりの花立に賽銭入れもあるが、そこはまた玉ぐしを載せる台でもある。

その賽銭台にあった五枚の葉。



榊の葉を表にのせた洗米は、まさに御供である。

件のFさんが、「垢離取りに、お神酒と洗い米も持っていった。水に浸けた葉っぱ。清めたあとに洗い米を盛ってお神酒とともに供えていた」と、話していた通りの様相に感動する。

垢離取りの時間は、特に決まっていない。

村の人が揃って一斉に参ることもなく、めいめいが順次参拝する、と話してくれた状態であるが、散り散りばらばらの時間帯だったのか、それともたまたま何人かがめぐり合わせに、積もる村の話題に談笑していたのか・・。

感動にシャッターを押していたときに現れた宮役員のNさん。

たぶん来るだろう、と思って私を待っていたそうだ。

数えた葉の枚数は42枚ほど、と伝えたら、垢離取りの枚数は省略したのだろう、という。

一人33枚であれば、5人の場合は165枚。

小川、鳥居、参拝に33往復のところを略していたのであろう、と・・。



神社にいちばん近いところに住むHさんも一緒になって立ち話。

お聞きしたいことはまだまだあるが、長居はできない。

次の取材がある。

取材先は明日香村の上(かむら)。

家さなぶりに行われるナワシロジマイであるが、ひる飯を摂る時間の都合もあり、一旦は離れた栗野の地。

再び戻ってきた時間帯は午後4時だった。

参拝はめいめいの時間帯。

どなたかが参拝されていたら、と思って再訪する。

上(かむら)のナワシロジマイを取材していた写真家のKさんとともに訪れた。

午前中に拝見していた賽銭台。



枚数が2枚に減っていた。

どうも午前中に拝見した雰囲気とはまったく違う様相である。

御供の洗米は、数時間の間に野鳥が食べてしまったのか、それとも・・。

頭の中で疑問符模様がチラホラ出てくる、そのときである。

再びお会いしたNさん。

午前中にあった御供は片づけた、という。



その後の時間帯は不明だが、2人がお垢離取りをされた証しであった。

聞くところによれば、一週間前に伺ったFさんは、午前7時の朝いちばんに参っていたそうだ。

その時間帯に1人、2人・・。

Nさんは、夕方のどれくらいの時間帯まで待機されるのか、と聞けば状況は判断するという。

実は、本日のお垢離取りの参拝に、鳥居から賽銭台までを盛り上げた。

段丘上に固めて参道も、参拝者のことを考えて、サラエで調えたNさんのお役目に感謝である。

見ておきたい神社北裏の小川。

何某かの痕跡があるのでは、と思って目を凝らして見た奇麗な小川。



まさに聖水のような奇麗な谷湧きの水だった。

さて、岩神社に今月行われる村行事がある。

6月の最終日曜日は春日社行事の夏祭りとある。

Nさんが云うには、その行事は田植え終いの夏祭りである。

その日に来てくれたら区長のFさんを紹介する、というありがたいお言葉。

田植え終いは6月末にならんとできない。

村の各家が行う田植え作業。

そのすべてが終わらないと夏祭りは始まらない。

実は、と切りだすNさん。

ハウスに建築用のパイプを組み立てた棚を設営している。

1丁にもなるN家の田んぼ。

ハウスで育苗している苗箱の枚数は150枚。

田植えは、夏祭りを迎えるまでに済ませておくからと・・。

隣で話していたHさん。

Nさんは、村でいちばん遅い田植えだという。

Nさんの出里は、宇陀市榛原の池上。

かつては苗代田にローソクと線香を灯して豊作願いをしていたそうだ。

苗代田に籾撒きをしていた、というから直播の時代。

その場には藁束もあった、という子どものころの記憶を話してくれた。

栗野の今は直播する家はない。

N家以外の栗野のみなは、JA購入の稲苗。

ほぼ揃った日程で田植えを終えるが、ハウスで育苗するNさんは、他家より遅れる。

ある年のお垢離取りは第二日曜日になったこともあったらしいが、今は第一日曜日に定着したようだ。

岩神社の行事は、6月最終日曜日に行われる春日社行事の田植え終いの夏祭りの他、10月第二月曜日に行われる主祭神行事の秋祭りと11月第二日曜日に行なわれる宗像社行事の亥の子祭りがある。

これまで毎年に亘って行ってきた岩神社の三大行事であるが、来年度から三大行事を纏めて1本化する、という。

えっ、である。

大改正ともいえる栗野の行事。

6月の春日社の夏祭りも11月の宗像社の亥の子祭りも廃し、秋祭りだけの一本化。まさかの展開に驚くばかり。

そうとわかれば、栗野行事は、今年が最後になる夏祭りに亥の子祭りは外せない。

他に行事取材があったとしても、栗野行事は先決、最優先。

最後になる今年の夏祭りは、ハリガタニ垣内が最後の役目であるが、垣内在住は6軒だ。

5斗に21臼も搗く御供搗き。

搗き初めに杵と臼で搗く餅搗きも拝見したい。

1臼終えた後は、3台の機械で餅搗き。

ふるに稼働する餅搗きに、電動の餅切り機械も用意するらしいが、なんせ大量の餅搗きをさばくには、例年よりかもっと早くにしないと間に合わない。

時間を早めて朝7時から始めたとしても昼過ぎまでに終わらせなければ、祭りのお渡りは出発できない。

そんなことも話してくださった栗野の夏祭り。

是非とも寄せていただきたく、区長さんによろしくお伝えくださいとお願いした。

(H28. 5.29 SB932SH撮影)
(H30. 6. 3 EOS7D撮影)

大宇陀平尾・I家の雛壇飾り

2020年01月27日 10時17分06秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この日は3月3日の雛祭り。

かつてお家で祭っていた雛壇飾りを町おこしに開放、見学できる地区イベントが多くなった。

不要になったコイノボリを纏めて揚げるのもその一つの好事例。

処分されることなく、再び日の目を見るイベント見たさに観光客が殺到するところも増えている。

その雛祭りに欠かせないのが御供のヒシモチである。

お家でなく神社行事にヒシモチを供えるところは多くない。

現状ではそうであるが、かつては三月節句に供えていたという証言もある。

今もこうした行事をしているところはないのか探してみる。

これまで拝見した奈良県内地域の数か所に、今もなお行事にヒシモチ御供をしている在所があった。

一つは宇陀市大宇陀野依の上巳の節句。

二つ目は山添村切幡の桃の節句。

三つ目に旧都祁村になる奈良市南之庄町の節句。

四つ目は桜井市瀧倉の節句である。

また、奈良県外になるが、京都府相楽郡笠置町切山の節句にも継承されていた。

他所でもありそうにも思えるのだが、神社の年中行事に節句そのもの行事名が見当たらない。

そこで探してみる節句のヒシモチ。

人から聞いたのか、それとも報告資料で知ったのかわからないが、宇陀市大宇陀の大字平尾の水分神社で行われているというメモがあった。

もしかとして3月3日。

世間が賑わいをみせる雛祭りの節句の日に訪れた水分神社。

境内は綺麗に掃除をされていたが、人の気配は感じない。

そうであれば度々訪れては行事、風習、訛り詞などを教えてくださるI家を訪ねるしかない。

そう思って進行の向きを替えた。

ご自宅前まで来たら、一輪車に採取した野菜を載せて運んでいる婦人が見えた。

手を振ったら気づかれた。

節句につきもののヒシモチの件を尋ねてみれば、今日は何もしていないという。

自転車に乗って一緒に戻ってきた孫娘を祝う雛壇飾りがある。

立ち寄ったのだから見て、と云われて座敷に上がらせてもらう。



玄関土間に飾ってあったミニの雛壇はチョコレート会社製。

この年の1月に発売されたばかりの飾れるチョコレートだそうだ。

座敷奥にあるのが本物の七段飾り。



ヒシモチは手間がかかるので、今年はしていないと申し訳なさそうに云われる。

また雛寿司に“かきまぜ“もしてたんやけど、今年は・・・。



“かきまぜ“って何、である。

婦人のS子さんが云うには“かきまぜ“は、ここらへんの訛り詞。

“五目ご飯”とか、“五目メシ”と呼ぶこともある“かきまぜ“は、ちらし寿司のことだった。

こういうお話をしてくださるのも嬉しい民俗語彙。

ありがたいことに、今年のトウヤに電話をしてくださる。

不在で確認はとれなかったが、トウヤさんは「4月になったらヒシモチをしようか」と云っていたそうだ。

Ⅰ家がトウヤを務める場合もヒシモチを作って神社に供えている、という。

そのヒシモチの形は2段。

土台のヒシモチはヨモギを混ぜて搗く。

ヒシモチは一段で、その上に丸い白餅をのせる。

トウヤでなくとも毎年の桃の節句に作って供えていたそうだが、今年はお菓子の雛霰。

高齢になれば少しずつ簡略化しているようだ。

ちなみに今年のトウヤさんは6月のチマキも供えるはずだと話してくれた。

これまではチマキも手造りであったが、今は和菓子屋が販売するチマキになるかもしれないが、トウヤが供えるだけなので、行事日は固定でなく、トウヤ都合の日にしているという。

供えるところを見たいと話したら、そのお願いをトウヤに連絡しておくから・・と。

平尾の集落戸数は30軒。

マツリに出仕される関係家は14軒に減ったという。

大トウ、小トウの二人が年中行事を支えるから、廻りは7年に一度になる。

(H30. 3. 3 SB932SH撮影)
(H30. 3. 3 EOS40D撮影)

栗野の初誕生杉の葉付きのコイノボリ

2019年11月01日 10時24分05秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
大宇陀栗野の岩神社のお垢離取りの様相を話してくださった中出垣内のFさん。

ようやくというか、ほぼ現在の在り方に参拝の時間帯も教えてもらった。

また、6月末辺りの日曜日に朝から杵・臼で搗く餅つきもある夏祭りもあるとわかった。

是非とも訪れたい大宇陀栗野の年中行事である。

国道に出てほんの少しを走ったところにコイノボリが立っていた。

一瞬で判断したそのコイノボリの支柱に思わず急ブレーキをかけた。

奈良県内では滅多に見ることのないてっぺんに杉の葉を残した杉材のコイノボリ支柱である。

千載一遇のこのチャンスを逃しては・・・。

今後も出合うことが少ない貴重な初男児誕生の習俗を撮らせていただきたく呼び鈴を押したK家。

屋内から出てこられた若いお母さんに取材の申し出をお願いして撮らせてもらう。

孫の長男が誕生した祝いに家の山に入ったのはおじいさんだ。

4月の初めに目をつけていた杉材があった。

その杉の木をコイノボリの支柱にする。

伐り出すのはお父さんに旦那さん。

そして弟さんの男3人が伐り出した杉の木は山から運んで自宅まで運んだ。

杉の木の皮を剥いだ美しくした木肌であるが、てっぺんにある葉は切り落とさない。

葉を付けたままの支柱を立てるには掘った穴に埋めるだけでは倒れてしまう。

横から支柱を支える添え木が要る。

外れないように大きなボルトで固定する。

固定といっても、実は傾けることのできる構造物である。

吹き流しに父鯉、母鯉に長男鯉がそろって並べばいいが、この日はなかなか吹いてくれない。

待っていたらふっと風が吹くときもある。

そのときになれば初誕生を祝う鯉のぼりが空に泳ぐ。

鯉のぼりを揚げ始めたのは4月半ば。

風が強い日とか雨天の場合は揚げない。

天気が良くて、できれば風のある日に揚げる。

祝っていた鯉のぼりもそろそろ納めどきにしようと思っていた日に撮らせてもらったのが嬉しい。

このような風習はまったく知らなかったという若いお母さん。

お嫁さんに来て長男が生まれた。

長男のときに葉付きの支柱を立てる。

次男の場合は緑の鯉のぼりを付け足すだけで、新たに支柱を立てるわけではない。

翌年の節句のときの支柱は葉を切りとって矢車に取り換える。

一生に一度の鯉のぼりの支柱の在り方である。

吹き流しに家紋を染めて、子供の名前を入れることも考えたが、最終的にはそれを外したという母親。

昨今の文化的風潮に右へ倣え、であったようだ。

ちなみに栗野の地にもう1軒。

すでに風車に切り替えて揚げていたコイノボリのある家。

石垣風情のカド庭に立てていたB家を訪ねたことがある。

婦人のはなしによれば初孫の長男が生まれたその年に揚げたコイノボリの支柱はヒノキ葉だった。

その年に見かけたコイノボリは2軒。

昨年は1軒が揚げていた。

今年はここK家。

なんとなくであるが、毎年に揚げることはないように思えてきた。

(H30. 5.27 EOS7D撮影)

ようやく見えてきた栗野のお垢離取り

2019年10月31日 10時11分21秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
平成28年の5月29日、調べていた大宇陀栗野のお垢離取り

いつにされるのかわからないものだから、翌週の6月5日も訪れた。

その前の5月15日も調べにきていた。

平成29年の5月8日も訪れて調べてみたが・・。

かつての話題提供をしてくださるが、実施日がとんとわからない。

話してくださったお垢離取り。

全容は見えないが、想像するイメージは見えてきた。

聞き取り調査に来てからこの年で3年目。

実際に、今でもお垢離取りをされている方に出合いたいが、そんなに上手く出会えることはないだろう。

縁を求めてやってきた3年目の栗野の地。

どなたかお会いできればと思って当地を散策した。

火の見櫓から少し南に下ったところに数軒の家がある。

声が聞こえるお家に足が自然と動く。

そこにおられた娘さんと父親に尋ねた栗野のお垢離取り。

村から通知が届いた連絡文書に書いてあった日程は6月上旬の日曜日。

一週目か、二週目なのか。実施時間も書いていない通知文だった。

親子で話してくださった下垣内のNさん。

子供のころの記憶によれば、葉っぱにご飯を盛って供えていたそうだ。

70戸からなる栗野に庚申講はあるが、離脱する家もある。

また、解散した別の講もある、という。

講の営みは当番家で行っていた。

当番の廻りは講中の順。

講中を迎える接待が大層になっていた。

現在は数組の講があるらしい。

話してくださったN家は、農家ではないから、垢離取りは86歳になる隠居のN家が詳しいようだ。

家はそこだ、というから訪ねてみたが不在だった。

本人は不在だったが、庭にすごく素敵な山野草鉢がいっぱいあった。



その美しさに見惚れてしばらくは佇んでいたいイワチドリ



すいぶん前であるが、私もイワチドリを鉢栽培していた。

環境が合わなかったのか、一年ぽっきりだっただけに、蘇る美しさは映像に記憶させてもらった。

そのNさんが、北の方からとぼとぼと歩いてくる。

平成28年の5月15日、神社前を歩いていたNさんである。

2年前にお会いしたときと同じように杖をついて歩いていた。

覚えてはるかな、と思って声をかけたが、「聞こえない」という。

後でわかったが、2年間の経過にずいぶんと耳が遠くになったそうだ。

「お垢離取りってなんですか」と云われたときはショックだった。

逆に言えば、2年前に話してくれた体験談が、実に貴重なもの、と思えるのだ。

Nさんの件は断念。

次はどこに・・。

車道から見える中腹の高台に民家が見える。

なんとなくお家におられるような気配を感じて立ち寄った。

広地に車を停めさせてもらって声をかける。

たしか人影が見えたと思うのに返答はない。

山に登ってしまったのか。

呼び鈴を押せば若い女性が玄関に出てこられた。

お垢離取りの件を尋ねたら、義理のお母さんが詳しい、という。

たしかそこらへんにおったはずだ、というから待っていたら、ひょっこりお顔が見えたFさんに教えを乞う。

出里は隣村の菟田野であるが、垢離取りなんぞはなく、嫁入りしたとき聞かされて驚いたものだった、という。

それから長年に亘ってしてきた垢離取りを「田休みのお垢離取り」と呼んでいる。

中出垣内に住むN家は農家さんだからこそ、すっと口に出る「田休みのお垢離取り」である。

かつては、鳥居を潜って岩神社との間を往復する。

その回数は33回。

垢離取りは、神社に自生する榊の葉、或いは家にある木の葉を33枚摘んでもってくる。

その葉は、神社北裏に流れる小川の水に漬ける。

水に浸した葉を手にして鳥居を潜り、岩神社・社殿に向けて葉についた水滴を飛ばす。

清らかな水で祓い清める作法がお垢離取り。

33回も繰り返すお垢離取り。

いつしか体力的にもしんどくなり短縮することにした。

本来なら、一人で33回も繰り返す作法であるが、しんどくなったら、例えば連れてきた二人の子どもに、或いは孫にも手伝ってもらう。

33回の垢離取り回数を子どもや孫に分担してもらうワケだ。

3人ですれば垢離取り回数は11回でアガリになる、という。

昔は、田植えが終わったそれぞれの家単位でしていた田休みの垢離取り。

F家は田植えを終えたあくる日か、二日ぐらい経った日に垢離取りをしていた。

水で清めた葉をもって神さん参りして、その年の豊作を願っていたのである。

垢離取りには、お神酒と洗い米も持っていった。水に浸けた葉っぱ。

清めたあとに洗い米を盛ってお神酒とともに供えていた、という。

葉に洗米を盛って供える、その場所は社殿下にある一対の花立ての間の祭壇である。

垢離取りの時間は、特に決まっていない。

村の人が揃って一斉に参ることもなく、めいめいが順次参拝する。

F家は朝の7時ころからしている、という。

できれば、F家のあり方を撮らせてもらえばありがたいが、恥ずかしいから、とやんわりお断り・・・。

「岩神社は女の神さんやから」と、いうFさん。

「女は構うことができないので神社行事のすべては男でしていた」が、今の時代そういうわけにもいかなくなった、とも。

岩神社の年中行事に夏祭りと秋祭りに亥の子祭りがある。

栗野の垣内は下垣内に中出垣内。

上垣内にハリガタニ垣内(針ケ谷)垣内の4垣内が廻る当番垣内。

ただ、ハリガタニ垣内の軒数は他の垣内と比べてとても少ない6軒垣内。

その垣内でトーヤ家を選んで祭りを営んできたが、軒数の多い下垣内は軒数分けした2年間の営み。

平成30年の今年であれば秋祭りと亥の子祭りの2回連続の当たりである。

また、中出垣内も軒数が多く、来年の平成31年の夏祭りと秋祭りに当たるそうだ。

(H30. 5.27 SB932SH撮影)

野依を経て栗野のコイノボリ

2018年05月30日 08時48分24秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この日の目的地は吉野町の小名(こな)である。

何年か前に、小名に卯ツキヨウカのテントバナがあったと聞いたことがある。

話してくれたのはHさん。

ただ、Hさんが話してくれた実情は、当地で聞取りをした平成25年。

話してくれた村の人が云ったのは、数年前のこと。

たったの1軒がしていたというテントバナであった。

そのことを存じている人が見つかれば、と思って出かけた。

道中に立ち寄った宇陀市大宇陀の野依。

そうだ、この日は花まつり甘茶かけがあった、と急に思い出しての立ち寄りである。

この年も対応していた両頭家。

小頭家のN夫妻に黙々と今年も清掃されていた大頭家のNさん。

実は、と云い出した今年の灌仏会。

花まつりに甘茶かけをしていたが、今年が最後になったという。

なんという奇遇であるが、写真を撮る気持ちも起らずお参りをさせてもらった。

Nさんお話しによれば、前のお釈迦さんが行方不明になったその年の一時だけの対応である。

急遽、紙製のお釈迦さんを作って、参拝者を迎えたこともあったそうだ。

その翌年に作ってもらったお釈迦さん。

もう15年前のことであるが、お釈迦さんがお釈迦さんのお蔵入りになるのはとても残念に思う。

場を離れるのも辛いが、これが見納めの野依の花まつり。

この日は参拝者も皆無状態。

これもまた残念なことである。

昨年のお礼を伝えて車を走らせる伊勢本街道こと国道370号線。

気持ちの良い風が流れていた。

その風に泳いでいるのはコイノボリ。

思わず車を停めて田植え前の荒起こしをしている耕運機の姿も入れて撮っていた。

振り返ってみたお家に数人が集まっていた。

何事かお話しの最中だったが、気になっている栗野の垢離取り行事についてご存じであれば教えてもらおうと思っての声かけである。

タバコ自動販売機設置家婦人曰く、垢離取りのことは知っているが、行ったことがないという。

残念ながらのことであるが、婦人の出里がなんと野依であった。

住んでいたころの野依である。

村を流れる宇陀川にある小石があった。

その小石を33個。

白山神社前に運んでいた垢離取りを思い出された。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)