マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

9回目の展示は新聞にみる子供の行事

2010年12月31日 08時38分32秒 | しゃしん(カメラのキタムラ展示編)
今回で9回目となったカメラのキタムラ奈良南店の展示。

毎回どういうテーマにしようかと悩まされる。

一昨年から解説文を寄せてほしいと願われてそうした。

昨年は実験的に動画も添えた。

その手法は12月11日から始まった県立民俗博物館の「大和郡山の祭りと行事」企画展に活かした。

さて、今回は・・・。

今年一年間は産経記事で「やまと彩祭」を連載してきた。

これを使ってみようということでここから8作品を選びだした。

テーマは“新聞によむ子供の行事”だ。

奈良県では多彩な行事が各地で行われている。

なかでも子供が主役をつとめる行事のケースも多々みられる。

さまざまな理由で存続できない事例も増えつつある。

少子化等で今年が最後になった行事もあった。

そのような状況においても先輩から教わってきた行事を代々引き継いできた地域がある。



絶やすことなく続けてきた子供の行事。

大役をやり遂げた感動は今でも忘れられないという先輩もいる。

大きな自身に繋がるのであろう。

親たちはそれを見守り健やかな子供の成長を願ってきた。

周りに支えられ、伝えてきた子供の行事にはふるさとを受け継ぐ願いが込められているのだろう。



平成22年1月から毎週掲載してきた「やまと彩祭」は年末をもって終了する。

そのなかから子供が主役となる行事を写真と記事で紹介することにした。

(H22.12.11 SB932SH撮影)
(H22.12.23 SB932SH撮影)

石川町にもあったイノコの日

2010年12月30日 08時16分14秒 | 大和郡山市へ
石川町では12月1日をイノコの日といってアオマメを石臼で摺り潰してクルミモチにしていた。

各戸で行われていたとYさんは話す。

それはクドさん(オクドさんでカマドのこと)や仏壇に供えた。

稲刈りが無事に済んだという家の風習だったという。

長男が座入りすることをイリクと呼ぶ。

それは祭りのトーニンゴになる。

家の順になった現在はトーニンゴをしていない。

「うだて(うたてとも)」なこっちゃで行事を簡略化したそうだ。

「かなわん」という意の「うだて」。

天理の二階堂でもそういうらしい。

その当時はトーニンの家の孫だった。

羽織はかまを着てお渡りをしていた。

烏帽子も被っていた。その名残がトーニン姿にある。

Yさんは農業を営んでいる二老さん。

柿も自宅で作っている。

今年は不作だったと話す。

それでも採り入れた柿は渋を抜いて冷蔵庫で保管していた。

それはとても美味しいヒラダネ。

タネがない柿の品種でヒラダネナシと呼ぶそうだ。

ヘタを焼酎で漬ける。

35度でないとあかんと話す。

それをビニール袋に詰め込んで10日から2週間ほど冷蔵庫でしまっておくそうだ。

シブが抜けたヒラダネは美味すぎる。

(H22.12. 5 記)

みん博・冬の企画展初の試み

2010年12月29日 08時16分55秒 | メモしとこっ!
紹介する写真の選別をほぼ終えたのは先月末だった。

これまでにもあーでもないこーでもないとこぼれる写真はいくらでも出てくる。

選りすぐりの写真でなくちゃと言われるが取り直しするにはもう時間がない。

揃わなけりゃ写真展にもならない。

えいやっで決めた。

それはともかく今回は企画展。

テーマがなけりゃ意味がない。

展示に絶えうる物量もなければ・・・。

もちろんクオリティもだ。

テーマ立ては先生にお任せするとして、一年間あたためていたものがある。

それは行事の動画だ。

それをしたくて昨年にカメラのキタムラ奈良南店で実験的に実施したあれだ。

フォトフレームで描き出す行事の様相。

写真に実音はない。

音が聞こえてきそうな写真はある。

が、私にはその実力がない。

それをカバーするのがフォトフレーム。

写真撮影と同時収録したケータイの動画。

編集もせずにそのままでは能がない。

これにタイトルをつける。

ケータイ画像を一旦変換する。

それをムービーメーカーでタイトルを入れる。

カメラのキタムラでしたような台詞テロップも入れたかったが手間のかかる時間はない。

それをフォトフレームで映し出すには2段階の変換を経なければならない。

これができないのが私の実力。

お助けを扇いだのはいうまでもない。

ヘルプ、ヘルプを何度したことか。

その都度、気長に教えてくださったTさんに感謝する。

ようやく一人でコンバートができるようになったのが10月末だった。

映像時間は行事の内容を考慮して短いものもあれば長回しも・・。

最短は24秒で最長が2分15秒だ。

神社関係の行事が12編、お寺関係の行事は6編だ。

それに講の行事が6編で地域の行事は5編。

合計で30編もの動画がやっとそろった。

「こんなにあった!大和郡山の祭りと行事」の全編上映時間は27分50秒。

不鮮明画像は見られたものではないが臨場感溢れるものになった。

企画展で補助的役割を果たしてもらうつもりだ。

小さな画像であるが画期的な取り組みを是非見聞きしてほしい。

(H22.12. 3 記)

続、慌ただしく駆け回る

2010年12月28日 08時13分10秒 | メモしとこっ!
その翌日も二件の借用に立ち会った。

一つは井戸野。

2年ほど前から度々取材させていただいたお寺さんだ。

昨年の春に訪れた際、奥さんから「床下からこんなものが箱ごと出てきました」と拝見させてもらったときのことだ。

これには驚いた。

そのモノの検証は昨年の7月に実施された。

行事は廃れているが、古きモノはかつての様相を物語る。



もう一つは番条町。

こちらも度々取材でお世話になっている。

年に一度のご開帳されるアレだ。

それがなんと民博で展示されることになった。

まさに出開帳である。

(H22.12. 2 EOS40D撮影)

源九郎稲荷神社のこれから

2010年12月27日 08時48分24秒 | 大和郡山市へ
洞泉寺町に鎮座する源九郎稲荷神社。

親しみを込めてげんくろうさんと呼ばれている。

普段でも人の気が少ない神社だが、信仰深い人たちの参拝をときおり見かけるそうだ。



宮司が亡くなられたことから主斎する人が不在となっている同神社。

ボランティアで神社を清掃している人がみかねて知人の修験者にお声をかけられた。

それを快く承諾された修験者。

お役に立ちたいとご祈祷を申し出られたそうだ。

ありがたいことだと受け入れた神社の代表者。

この日のご祈祷に感謝され参列された。



祭壇には一週間ほど前に代表者が見つけた扁額が置かれている。

石積みされた間から出てきたという扁額は「静守大神」の文字が見える。

ご祈祷のお供えは胡麻をふりかけている四角いモチと丸いだんご。

拝殿の棚にもお供えがある。

一般参拝した人が供えたものらしい赤飯とアブラゲだ。



宮司が不在になったことから、薬園八幡神社にお願いして春の祈願祭を繋ぐようになったが、氏子がいない神社では今後のことが難しい。

これまでは賽銭浄財と先代宮司によって賄われていたそうだ。

町の祭りにも一役買っている縁の白狐のお渡りは3月27日(平成23年)に決まっている。

昭和の初め、洞泉寺町郭の楼主たちが中心となって市内巡行が初められた白狐のお渡り。

その後の昭和58年からは時代行列を含め、お城まつりのメインイベントになった。

祈願祭を終えて出発するお渡り。

お城まつりの白狐のお渡りは、その運営費用を今後どうしていくか、課題は残されているが町の祭りでもある祭典は今後も続けていきたいと話される。

(H22.12. 1 EOS40D撮影)
(H23. 2. 8 文面訂正)

慌ただしく駆け回る

2010年12月26日 07時32分21秒 | メモしとこっ!
とうとう12月に入ってしまった。

今回の「大和郡山の行事と祭り」は民博の企画展。

いままでのような写真だけで紹介するのではなく行事に使われるモノも展示しなくちゃならない。

これまでの2回は行事を取材して聞き取った内容を纏め、写真とともに解説するだけだった。

ところがここにモノが要る。

不要になったものは極力いただいた。

これは小物類だ。

展示にするには相当な数量が要る。

一個、二個のレベルでなく数十個以上もないと展示に絶えられない。

もっと大きなモノが要る。

それも初の公開となるようなものをだ。

その交渉は昨年から進めていた。

可能な限りお願いをしてきた。

それがようやく日の目を見る。

企画展会場は奥になる。

そこを入っていくための仕掛けが必要だ。

度肝を抜くようなものであれば・・・。

それも壮観な様相になるようなものだ。

扉を開ける前にずらりと並ぶ・・・・・。

この構想は半年ほど前に決まった。

それをお借りすることができるのかどうかだ。

行事に使われるのは尤もな道具。

だが、その日以外は門外不出。

そんな大切なモノを貸していただけるのか。おそるおそるお願いをした。

すると返ってきた答えが「あんたのやってることは大事なことや。なんぼでもえーから貸したる」ということだ。

快い承諾は二つの箇所にお願いした結果である。

お二人はまったく同じ返答だった。

涙がでるほどうれしかった。

それから数ヶ月、正式にお借りすることになった。

民博学芸員とともに借用の場に立ち会った。

午前中の一件の白土町は数週間前にお願いしたモノだ。

そこでの取材は一日中滞在していた。

一老や自治会長ら関係代表者も「祭りのことが紹介されるのでこんな嬉しいことはない」といっていた。

お願いしていたモノは拝殿に納めてある。

翌年に見本として使う大切なもの。

それまでだったら構わないと話す二老に感謝する。

午後は二件連続で塩町と洞泉寺町へ。



塩町といえばえびすさん。

ずらりと並べて保管されている福箕。

昭和31年からずーっと残されてきた大切なもの。

それぞれの表情に味わいがある。

重ね合わせることは無理なので愛車に並列積みにした。



次の借用先は洞泉寺町。

親しみを込めてげんくろうさんと呼ばれている神社だ。

普段でも人の気が少ない。

社務所にあがり借用の支度に取りかかった。

おおきなものだけに慎重な取扱が要る。

これは企画展の目玉のひとつになるだろう。



しかもだ。

白狐囃子(作詞 酒井雨紅)を作曲された中山晋平(昭和27年死去)自筆の書も貸してくださるというのだ。

慌ただしくかけずり回った一日はあっという間に過ぎた。

(H22.12. 1 EOS40D撮影)白土町、塩町、洞泉寺町

シナリオ通りにはならんか

2010年12月25日 08時08分51秒 | 民俗を語る
5月に頼まれていた講演会がとうとうやってきた。

どきどき感が増していく。

このときに話すのは何にしようか、と思いながら8月頃からつらつらとシナリオを書いてきた。

取材時のエピソードや聞き取りした内容を束ねていけばなんとかなるだろう。

あれも伝えたい、これも伝えたいとしゃべり文句で書き出した。

若い教員の方にこれからの教育に役立てる。

親としても気にかけておかないことは・・・。

私自身の自戒する人生感も含めて思いつくまま書き出した。

それはなんと8000もの文字数になってしまった。

これを1章の『はじまり』から章立てして再構成した。

『はじまり』に書いたのは「村から祭りが消えていく現状を知る」だ。

まずはスタートラインに立ったわけだ。

2章は『後半の人生に生涯をかける』にして、「火がつきものの奈良の行事、室生村田口の獅子舞で、未知の分野に飛び込む」について書いた。

ステップする章にした。

3章は転じて『飛び込んだ世界は狭い』へ。

「上深川の題目立の出会いから行事の需要を知る」だ。

知ってしまった世界でどうすんのということだ。

4章は『はじまり』に至るプロセスで『きかっけは報道や観光パンフ』。

そのものズバリの章である。

「観光案内の有名行事、テレビや新聞の報道」から「知られていない行事」へと移る。

それは何で、ということで5章は『公開のツール』にした。

「ホームページで公開」は主書きだが書きたかったのは「ネットはガイドブックなのか」だ。

「ハッピーマンデー」の弊害も伝えたかった。

6章で田んぼに目をやる。

農耕行事と祭りの関連性を探るわけだ。

題して『農耕における豊作祈願』とした。

「年初に豊作祈願、生育苗への願い」を主にしてイントロダクション。

そして具体事例で繋げていく。

6章の1は『オンダ祭と祈祷札』。

「田植え祭りのオンダ祭、未経験の子供の学び」へと繋げた。

6章の2は『転換した田植え作業』として「牛は耕耘機に、稲刈りはコンバインへ、地域文化の学習に」を書いた。

ここまでくれば先が見えてくる。

6章の3に『田植え初め』。

「消えてゆく農家の行事」を書いた。

そのものズバリで、現状を知ること。

インパクトがあるのではないかと思って書いた。

そして6章の4を『農耕の節目に』にした。

「節目に豊作を祈る行事、自然災害を避ける祈り、収穫を祝う祭り」を並べた。

農耕行事の本質を簡単に述べてみたかったんだ。

ここからは気がつくであろう先生方に役立ててもらおうと思って、教育現場へのとっかかりを・・・ということで7章は『田植えは生活体験』とした。

「田んぼの体験、一年間の農作業」から「年中行事は学習教材」に繋げた。

それはだれしも学べる8章の『暮らしのなかで教わる』にした。

「三世帯住宅から独立した所帯へ、暮らしの中の行事、子供のときの原体験」と結んだが次はどうする。

というわけで9章に『消えゆく伝統行事』。

「継承への課題が山積み、先ゆく行事」で警鐘を。危機感を煽るわけではないがそれぐらいのことを考えねば次世代がないちゅうことだ。

そしてラストは10章の『伝統行事の記録』。

「知れば知るほど課題が増える、村からのメッセージを伝える」で締めくくった。

そういうことでタイトルは『伝統行事の記録 ~村からのメッセージ~』にして文章に合う写真を挿入した。

この方法はブログをしたためているときの同じやり方だ。

文章があってそこに見合う写真を貼り付けるのだ。

シナリオは1ページを2段組みした資料に整えた。

我ながら驚くほどの体裁になった総数12ページの資料。

中身は伴わないかもしれないが・・・。

講演はレジメ形式でなく、そんな文章を綴った資料に仕立てた。

ところがだ。主催のI先生に添付送付したのだが画像が大きすぎて到着していなかったのだ。

先生が用意してくださっていたのは文章だけ。

あれれ・・。気が付いたのは講演が始まる30分前。

えらいこっちゃと持ってきた資料を印刷してくださった。

間に合った。

それに資料にでてくる新聞記事も紹介しようと3部を印刷してもらった。

これも一緒に配られた。

そして始まった第3回エデュ・カフェ。章立て通りしゃべるつもりが配られた新聞記事につい目がいってしまった。

これがつまずくスタートになった。

延々それを20分。

先生はハラハラドキドキ。

いきなりこの世界に入ってどうすんの。ちゅうことになってしまったがもう戻せない。

着地点を探りながら走っていった。

どうにかこうにか1時間。

これで終わり?と先生。

そうだった。予めセットしておいた映像をまったく見せていなかった。

しっちゃかめっちゃかの講演は質疑応答時間をぶっとばしてしまった。

翌日、先生は言った。

「地域の人々には地域のくらしがあって、そこにはいろんな行事が存在する。人々の地域とは、神社・寺の数だけありますし、たとえば神社には年中行事として4つの大きな行事があります。お寺もと考えると無数の行事があるのですね。田中さんが残りの人生すべてをかけられても回りきらないほどの行事がある・・・そして、地域の存続がとぎれているところもあって行事が消えて言っているようです。

「お金では買えない地域のくらしの象徴としての行事をなんとか存続できるように、教育現場も意識を広げていかないと画一的なものの見方だけになってしまうような気がしました。」

「村の数、人の数だけ多様なくらしがあると言っても過言でない日本社会。それを意識する大事さを教えていただきました。人々の自然との関わりは米作りを中心とした農耕文化を築いてきた日本の歴史をよく表しています。昔、お田植え祭に力を入れたのはそれだけイネを育てるスタートのもみまきは、不安要素だったのでしょう。自然や生き物は人の予想を覆すこともある別の因果律で動いています。その不安を神に託してお祈りをすることで豊かに育つことを願ったのでしょう。自然の摂理の中で暮らしていた人々のくらしの産物なのだと思います。」

「地域の小学校がその地域にどれぐらいのコミュニティーがあり、どのような年中行事が行われているか知り、価値づけていくことが子ども達への継承にも生きていくように思いました。年中行事が消えていくことと同じように地道に取材を続ける田中さんのような人とその取り組みが継続されることも大事ですね。」と。


ありがたいお言葉だ。



その夜は肩の荷がおりて格段に美味いビールを味わえた後宴となった。

その翌日には手作りクッキーをよばれた。

ありがたいお菓子はたびたび口にする。

いつもの味に満足する。

(H22.11.27 SB932SH撮影)

蛙の歌が聞こえてくる

2010年12月24日 07時26分33秒 | しゃしん
11月30日まで近鉄桜井駅南側の喫茶「coffee Think」店で展示された『雨蛙』写真展。

こんにちわと蓮から顔を覗かせるカエル。

風ちゃんじゃないけど立ちつくすカエルの愛嬌姿。

圧巻はカエル跳びだ。

数十枚に描き出されたカエルはあっちへ跳び、こっちへも跳ぶ。

その姿は飛行体。

カエルの姿は小さいのだが写し込まれた山々が雄大すぎて(かどうか)、まるでスカイダイビングしているように大空を飛んでいるようにみえる。

愛くるしいカエルの顔つき。

こんなに表情があっただなんて・・・。

笑っているカエル、泣き顔のカエルがあっても可笑しくないように思えた。

写真が訴えるカエル。

それぞれのカエルたちは何かを語りかけているようだ。

6年簡に亘って撮影し続けてきた野口文男さんはいちばんカエルの気持ちが判るのではないだろうか。

ネコを撮っているんだと言っていた氏。

実は秘かにアマガエルを被写体に選んでいたんだ。

是非ともこの写真にカエルが自ら発した言葉を添えて、蛙の歌が聞こえてくるポエム本を発刊してほしい。

これは願いではなく、それを求める人がここに居るちゅうことだ。

(H22.11.27 SB932SH撮影)

これも製造停止に

2010年12月23日 08時13分01秒 | しゃしん
フイルムカメラは中古だけ。

新品なんてものはどこにもない。フイルム生産も徐々に落ちていくデジタル一辺倒の時代。

先行きは不安だらけのフイルム写真にまたまた暗い影が・・・。

リバーサルに替えて12年が過ぎた。

そのころから愛用しているフイルム保管ケース。

スリーブフイルムケースごと収納できるのだ。

フジカラーネガファイルB5(ハーブ)という商品だ。

これがないというのだ。

確かめてみればなんと製造停止。

フイルム利用者の激変はこういうグッズまで影響がでた。

それどころかバックライトも店頭から消えていった。

ということはルーペも要らんちゅうことだ。

なんということでしょう。

デジタル全盛時代はディスプレイで画像を見る時代なのだ。

それはともかく他店で置いてあるかどうかカメラのキタムラにお願いしてみた。

そうすると他店に一冊ぐらいが残っているらしい。

それがなくなれば私は困る。

仕方がないから10冊手配してもらった。

3、4冊でほぼ一年間の撮影本数になる。

2年半はもつだろう。

その先は・・・。

(H22.11.24 SB932SH撮影)

満願寺古田神社新穀感謝祭

2010年12月22日 07時46分20秒 | 大和郡山市へ
11月23日は祭日の勤労感謝の日。

この日は各地で新穀感謝祭が行われている。

稲は収穫を終えてお酒に替える。

それは白酒とも呼ばれているにごり酒だ。

奈良県では葛城の酒蔵で造られている。

豊作に感謝して新穀で造った白酒を神さんに供える。

宮廷で行われてきたいわゆる新嘗祭にあたる感謝祭だ。

満願寺町の古田神社でもこの祭礼が行われている。

聞くところに寄ればこの日の宮司は市内を駆けめぐるという。

時間差を設けてあっちへこっちへと向かっていく。



古田神社の宮司も午前中は新木に居た。

ここを終えたら次へ向かうそうだ。

氏神さんを一年間守っている村の神主さん夫妻は本殿周り、境内から階段まで落ち葉を集めて綺麗に掃除をしている。

掃いても、掃いても落葉が舞い落ちる風の強い日だった。

本殿の祭壇に供えた白酒などにたくさんの神饌が並ぶ。



そこにはいくつもの祭礼に供えられるシトギもある。

素焼きのカワラケにひたひたしたシトギは一晩で乾いて固まっている。

市内で行われている祭りのなかでも珍しい御供である。

そして始まった神事。修祓、祝詞奏上、玉串奉奠など賑々しく・・・。

それが終われば神主は白酒とシトギを下げた。



湯飲みに注いだ白酒とシトギを持って拝殿に登った。

その席は自治会長や長老、それに参拝者たちだ。

中央には宮司が座る。

一人ずつそれを持っていく神主。

シトギの皿を差し出すと箸で摘む。

ところが表面は固いものだから箸で突っつく。

割れたシトギをほんの少しを摘んで手で受ける。

全員が揃うまでそうしている。

一年間神主を支えて勤めてきた3人のトーヤも同じように受けるが座の席にはつかない。

揃ったらころを見計らい宮司が自治会長に声を掛ける。

「結構です」の言葉が返ってきたら宮司の合図で一斉に口へ運ぶ。

これが古田神社の儀式だ。



味はまったくないが何かが口に残るような感覚になる。

これが本来のコメの味なのかもしれない。

お下がりの白酒を飲んで座が和む。

はじめて口にするトーヤも居た。

まったりとした味に感激される。

白酒では足らんだろうとお神酒も共によばれた。

この日は次の年の村の神主も参拝していた。

翌年に担うための事前学習なのだ。

神主は正月の日の0時から神社の行事を一年間勤める。

実際は大晦日のとんどの準備からだ。

参拝者を暖めるとんどの木材は境内から探し出しておく。

それを燃やして参拝者を待つ神主。

朝3時ころまでだそうだ。

年齢順と決まっている神主。一生に一度だが、トーヤは廻り当番。

12年にいっぺんは廻ってくるそうだ。

新穀のお米から作られるシトギは新穀感謝祭から一年間に亘って、その都度作って供えられる大切な神饌である。

宮司が神事をされる1月の神歳越祭、3月の祈年祭、7月の祇園祭、8月の住吉祭、10月の秋祭り(宵宮)、そして11月の新穀感謝祭の七回となる。

それは拝殿で座につくときだけの行事に限られており、村の神主が勤める正月の元旦祭は除かれる。

シトギを作るのは神主だ。

すり鉢に一握りのお米を入れて水を足す。

それをスリコギで丹念に磨りつぶす。

ドロドロになるまで磨りつぶす。

力は要るしけっこうな時間がかかると自治会長が話した。

ドロドロになったシトギは素焼きのカワラケに盛る。

盛るというよりも平らに浸すというような感じだ。

一晩おくと水分がカワラケに吸い込まれてカラカラになる。

真っ白になったシトギは型くずれもしない固さになるそうだ。

神事を終えた残りもののシトギは神主が持ち帰る。

大切なものだから神棚に供える人もいるらしい。

自治会長はお粥さんに入れて食事したという。

稲作をしている神主は自前のお米で作る。

なければ隣近所から譲ってもらう。

それもなければ新米を買ってくるそうだ。

(H22.11.23 EOS40D撮影)