マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

終止符を打った大柳生の太鼓踊りは有終の舞い

2012年10月31日 06時43分33秒 | 奈良市(東部)へ
集会所に集まってきた村の人たち。

この日は最後となった大柳生の太鼓踊り。

会所の前に立てたシナイは11本。

踊り子たちが背中に括りつける飾りだ。

大柳生の太鼓踊りは三つの垣内、それぞれが毎年交替しながら行われてきた。

踊りの演目は上出が「大ジュンヤク(大神踊か)」、「大ゼンオドリ」、「シノビオドリ(忍び踊)」。西は「屋敷踊り」、「山伏踊り」、「若武者踊り」で、塔坂は「大神踊り」、「忍踊り」、「小ジュンヤク」であった。

シナイの形は垣内によって微妙に形が異なる。

この日は6本の西垣内シナイと5本の上出垣内シナイが用意された。

西垣内のシナイはカラフルな切り紙の飾りで、下部を三段組みにしたヒノキの削り。

上出垣内のシナイは紅白の花飾りで二段である。

7月から毎週のように練習してきた太鼓踊り。

最後の演武に磨きを掛ける。

一人の高校生が初参加した太鼓踊り。

最初で最後の演者である。



衣装を身につけた踊り子たちは村人らによって白いサラシでシナイを身体にしばりつける。

出発の支度を整えたころには天空が怪しい雰囲気になってきた。

真っ黒な雲が立ち込める。

雨が降りだした。

今後も降るのか。それとも止むのか。

決断を迫られる。

ピカっと光る稲妻。

ゴロゴロの音も聞こえだした。

昨日も同じような状況であった県内東部。

天気予報は見事にあたり最後の出番は足止めをくらう。



小止みになった状況を判断されて出発した。

道中においても雷が鳴り続ける。

なんとか辿りついた披露の広場。

着いたとたんに雨は激しくなった。

無情の雨は激しさを増す。

最後となった太鼓踊りにやってきた大勢の人たち。

傘をさして拝見するが、演者にはそれがない。

いつものように挨拶と口上を述べられて始まった。



踊り子は背中に大御幣を付けた四人の大太鼓打ち。

その一部の御幣には「第四号 大正拾年五月二日五十三連隊 渡満凱旋記念軍旗祭奉献 なにがし」とある。

調べてみれば、歩兵第五十三連隊は大正8(1919)年4月29日にシベリア出兵。

同年の6月15日にはスリランカで共産ゲリラと戦い、19日には寛城子で支那軍と交戦したとある。

2年後の大正10(1921)年4月5日において歩兵第十七旅団と守備を交代した上で同月の16日に奈良へ凱旋したようだ。

その後に大柳生へ戻ってきた凱旋兵を迎えたのであろう。

記念した御幣を肩に挿していたのである。

戦記と太鼓踊りの関係は判らないが、言い伝えに出陣、凱旋踊りともある大柳生の太鼓踊りには違いない。

胸に「カッコ(鞨鼓)」と呼ばれる小太鼓は「中踊り」とも呼ばれる踊り子だ。



シナイを背中に括りつけて踊る姿は最後の雄姿。

そうして始まった最初の踊りは「ジュンヤク」。

2曲目は「しのび踊り」だ。

雨が降り続けるなかでの披露は小休止もなく連続で行われる。

ピーヒャラリー、ピーヒャラリー、ピーヒャラピーヒャラピーヒャラ、ピーヒャラリーとともに鉦の音も聞こえてくる。

踊り続けた演者も一旦は身体を休めなくてはもたない。



十数分の休憩を挟んで最後の踊りは「ヤシキ踊り」。

羽織姿で棒状のサイハイを振るのは師匠。

踊り全体の調子をとる。

およそ一時間の太鼓踊りは拍手喝さいで会場を退けた。

やり遂げた踊りに笑みがこぼれる演者たち。

記念写真を撮って解散する。

打上花火に「おおやぎゅう」の歓声もあがって幕を閉じた。

(H24. 8.18 EOS40D撮影)

性能が4万時間のLED電球

2012年10月30日 08時36分42秒 | ぽつりと
我が家のリビングは蛍光灯もあるが、それはメイン。

脇役にダウンライトがある。

その電球はもちろん白熱電球。

球切することもあるので常に買いおきをしている。

近年はLED電球が急速に安価になった。

性能もそうだが大量生産のおかげであろう。

それでも白熱球よりも数段に高い。

家電メーカーもさることながらリビングメーカーも生産している。

各社の性能はどれぐらいの差があるのか判らないが、エコ時代が叫ばれるなか我が家も切り替えた。

それは昨年の9月半ばだ。

特売陳列棚に並んでいたメーカー各社のLED電球を見比べた。

使用していた白熱球と同等の明るさはどれなんだろう。

ケースに書かれていた仕様を見てもさっぱり判らない。

そんなときは店員さんに聞くのが早い。

そうして買った製品はシャープのDL-LA61N(口金はE26)。

一般電球タイプで明るさは600ルーメン。

寿命は4万時間と表示してある。

電球を毎日点けたとして1666日間である。

4年半も保つ計算だ。

実際はそれほど点灯するものでもない。

8時間と計算すれば13年間。

おっとろしいほどの寿命になる。

こんな製品だから買いおきもまったく不要。

明るい毎日が暮らせる。

ダウンライトは四つある。

白熱電球が切れる度にLED電球に切り替えた。

いつ切り替えたのか空箱にその日付けを残しておいた。

ところがだ。

数日前に一つのLED電球が切れた。

一年を待たずに切れたLED電球。

毎日8時間点けたとしても早すぎる。

そんなわけないだろうと思って他の場所と入れ替えてみた。

チカチカと点滅状態がしばらく続いて切れる。

点灯しなくなったLED電球。

十数年も保つと思っていたLED電球が消えた。

不良品が混ざっていたのであろうか。

製品箱に表示してある4万時間は製品保証であろう。

買ったお店はジョーシン大和郡山店。

おそるおそる消えた製品を持って切れたことを店員さんに伝えた。

しばらくすると上位者と思われる店員が現れた。

同じことを伝えた。

ジョーシンは会員カードを持っていいる。

それを差し出して購入履歴を確認された。

買った日付けが出てくる。

購入者であることに間違いないことを確かめられた。

で、答えは「交換します」。

残る三つの寿命。

ロット不良の場合なら同じように切れるのでは思う毎日だ。

(H24. 8.17 SB932SH撮影)

南六条西福寺の施餓鬼

2012年10月29日 07時32分44秒 | 天理市へ
県内各地のお寺で施餓鬼会を行っている施餓鬼会のほとんどは8月時期。

お盆の際に廊下や前庭に供えるのはガキンドサン。

いわゆる家施餓鬼であるが、一般的にお寺で行われているのは寺施餓鬼と呼ばれている。

天理市南六条の西福寺においても施餓鬼があると寺に教わって訪問した。

住職を始めとして本堂に登った檀家さんは如来さんご回在でもお世話になった北方に住む婦人たち。

南六条は大きく分けて北と南の集落。

それぞれに氏神さんと寺をもつ。

三十八神社と旧興蔵寺があるのが北方。

南方には杵築神社と訪れた西福寺。

いずれも融通念仏宗派である。

北方は元柳生、南方は元六条とも呼ばれている地区である。

さて、西福寺の施餓鬼はどことも同じように本堂の外にガキダナを設けられる。

木製の組立式のガキダナは四方を囲っているから内部は判り難い。

北方、南方の檀家たちは新仏のお骨入れを持参して参られる。

鐘を搗いて始まった施餓鬼の法要。

散華、餓鬼法会に続いて赤や青色のカラフルな色あいの幡をもって水焼香をする。



一本の幡を仏飯(ぶっぱん)に挿す。

ガキサンの施す飯である。

そこには椀膳も供えている。

カボチャ、千切りダイコン、サトイモ、コーヤドーフ、ニンジン、コンニャクにオクラなどの煮もの。

ヒジキと豆を煮たものもある膳にはすまし汁も。

箸を置いた方向はガキダナだ。

集まった檀家たちはおよそ30人。

過去帳を詠みあげ、東日本大震災や大水害の諸霊に対して「なーんまいだー なんまいだー」。

お骨を納める新仏の家も法要する。

先祖精霊に塔婆供養。

住職から塔婆を受け取った人はガキダナに移動する。

水に浸したシキビで塔婆をなでるように浸ける。

いわゆる水焼香であるが同寺では「水経義」と呼んでいた。



それを終えてダキダナ下の棚に納める塔婆は桶のなか。

1軒、1軒の法要を勤める塔婆回向。

呼出を受けるたびに席に着いての塔婆回向を終えれば本堂を後にする。

家に帰れば授かった幡を玄関などに挿しておく。

およそ1時間半も費やした施餓鬼会は檀家役員も回向に手を合わせる。

(H24. 8.17 EOS40D撮影)

観音寺町の夏の観音さん

2012年10月28日 07時38分34秒 | 大和郡山市へ
今年の1月に初観音の営みを拝見した観音寺町の観音さん。

真夏の8月にも観音さんの前で西国三十三番ご詠歌を唱えると聞いていたので半年ぶりに訪れた観音堂。

提灯を掲げること、町内に「毎月十七夜 拾壱面観世音」の行燈も同じだ。

お花を飾って祭壇に供物を供える。

御供はニンジン、キュウリ、ジャガイモ。串に挿して供える立て御膳には紅白の水引で括った昆布もある。

八幡宮の一年間の祭礼をされる宮守さんが当番を勤める。

この日集まったのは11人。

外はカンカン照りだ。

近くに住んでいるが日傘もささないともたないという。

堂内に上がれば爽やかな温湿度。

クーラーが設置されたおかげだと感謝する夏の日の観音さん。



みなが揃えば始めるご詠歌。

導師が叩く鉦に合わせて和讃を唱える。

いつも通りに23番で小休止。

お茶で一服したあとは再びご詠歌。

24番から再開する。

炎のような形である燭台のローソクは13本。

風に揺られて消えることもある。

その度に席を立ってローソクに火を灯す当番の人。

クーラーから噴き出す風はローソクの消耗が早い。

ご詠歌の時間はとても気を使う夏の観音さんである。

「ぜんこうじさんのご詠歌、やなぎだ(柳谷観世音)さんのご詠歌、やましろのくにのご詠歌、おくの院のご詠歌、奈良の二月堂さまのご詠歌、大和の国のおふささんのご詠歌に続いて村の観音さまのご詠歌は「みほとけの ちかひを ながやう かんぜおん」。

キン、キン、キン、キン・・・の連打で終えた。

延命十句観音経も唱えるが鉦叩きから木魚に転じる。

叩く速度は一段と速くなり「南無大師 なーむだいし かんぜおん そくしんじょうぶつ」。

三巻の般若心経を唱えて終わった夏の観音さんはおよそ一時間余り。

叩いていた木魚を拝見した。



一部が焼けて焦げている。

いつの時にそうなったのか、経緯を存じないが寄進者の名が残されている。

「木魚 王鱗工(綿)屋庄」の文字がある寄進者は中山直次郎。

叩いていた鉦にも刻印記銘が見られた。

「明治九子年五月 世話人○治田丁 木埜本長次郎」である。

いずれも観音寺村にはその人の名が伝わっているという。

(H24. 8.17 EOS40D撮影)

矢田垣内のオショウライサン送り

2012年10月27日 09時08分58秒 | 大和郡山市へ
矢田垣内のオショウライサンは13日に迎えた。

鉦を叩きながら松明に火を灯して家に戻る。

火は線香に移し替えて先祖さんの仏壇に供えた。

14日は朝におじゅっさんがお念仏。

夜は村の観音講の人たちが新盆の念仏を唱えてくれたT家。

15日は迎えていたオショウライサンを送る日だ。

夕刻のころ。涼しくなったころにはあちこちで鉦の音が聞こえてくる。

垣内のみならず横山辺りからも聞こえてくる。

矢田幼稚園前に広がる田園からも聞こえてくる。

松明の火は見えなかったが鉦を打つ音は遠くまで聞こえる。

行先はそれぞれのようで畑地辺りで手を合わせる家族も居る。

丁度、そのころ横山のMさんも鉦を打ちながら家門を出てきた。

川堤の土手は家から出てすぐのところだ。

抱えていた箕にはウリ、ナスに大きな葉っぱ。

ハクセンコウの御供や何対かの箸もある。

ガキンドさんに供えたものであったのか聞きそびれたが、それを土手に置く。

砂を盛ったところに線香を灯して手を合わせる。

オショウライサンを送られたのだ。

「うちより隣家はちゃんとしている」と云われて示す方角は新盆のT家。

門屋の前で長い松明に火を点ける。



藁で作った松明はおよそ2mにもなる長さだ。

火が点いた松明をそろりそろりと運ぶ。

松明は家を出たすぐ近くの辻まで持っていく。

火が消えてはならないから早めに歩くことはできない。

鉦を叩き続ける息子さん。

松明の燃え具合を確かめながら一緒に向かう。

家族揃って辻に向かう。

その間も叩き続ける鉦の音が垣内に響き渡る。

辻に着けば燃えた松明の火から線香に移す。

そうして般若心経を唱える。



家族揃いの般若心経は墓地に向かって三巻も唱えた。

かつてあった来光寺跡の墓地である。

年の始めの1月に亡くなられた親父さんを葬った墓がある。

「気いつけて無事にお墓に戻ってや、一年後には迎えます」と母親が口にする。

燃やした松明は田に捨てて戻っていった。

そうこうしているうちに再び聞こえてきた鉦の音。

隣家のM家だ。

鉦を叩きながら門屋を出てくる家族。

当主は火を点けた藁松明を持っている。

玄関先で火を点けたのであろう。

同じようにそろそろと歩いていく。

火を絶やさずに運ぶ松明は家先の辻。

オショウライサンを迎えた同じ場所だ。

T家と同じように鉦を叩き続ける婦人。



その場で松明から線香に移し替えた。

線香を地面に挿して同じように来光寺跡墓地に向かって手を合わせるが般若心経を唱えることはない。

そのまた隣家のT家の家人に伺った。

付近では先ほどの2軒だけが松明に火を点けるという。

それぞれの家がそれぞれの方法でオショウライサンを送る。

三日間に亘る垣内のお盆の風習を拝見させていただいた。

貴重なお盆行事の資料として残すとともに取材させていただいた皆さま方に厚く御礼申しあげる次第である。

(H24. 8.15 EOS40D撮影)

矢田垣内の新盆念仏

2012年10月26日 08時19分33秒 | 大和郡山市へ
前日に訪問させていただいた矢田垣内のT家。

新仏の(アラ)タナを祭っている

この夜は村の人たちが寄って新盆の念仏を唱える。

集合場所に集まった垣内の人は20数人。

殆どは男性だが数名の女性も混じる。

新仏を祭った座敷に上がって席に座る。

後列席に座ったのは親族だ。

所有する観音講の鉦を叩いてお念仏。

それぞれの人たちが持参した和讃本も手前に置く。

導師が斎壇前に座って始まったお念仏は御所三十三番国西のご詠歌。

村の観音講がこしらえてくれた和讃本だという。

「1番 きいの国 なちさん」と呼びかけてのご詠歌は「2番 きいの国 きみいでら、3番 きいの国 こかはでら、4番 いづみの国 まきのを寺、5番 いづみの国 ふじい寺、6番 やまとの国 つぼ阪でら、7番 やまとの国 をかでら、8番 やまとの国 はせ寺、9番 ならのなんえんだう(南円堂)、10番 山しろの国 みむろでら、11番 山しろの国 だいごじ、12番 あふみの国 いわまでら、13番 あふみの国 いし山でら、14番 あふみの国 みゐでら(みいでら)、15番 山しろの国 いまぐまの、16番 きゃうと きよ水でら、17番 山しろの国 ろくはら寺、18番 きゃうと ろくかくだう、19番 山しろの国 よしみね寺・・・23番・・・」でひと休み。

差し出されたお茶で一服する。

引き続いて24番・・・のご詠歌を唱える。

番外にこうぼうだいし やたのぢぞうさんを唱えて南無大慈大悲観世音菩薩、延命十句観音経、般若心経を唱えて終えた。

念仏を唱えた人たちは垣内の観音講中は南矢田の組と西矢田の組がある。



村の観音講は毎月の営みを中断されているが、鉦を納めている講箱は一か月に一度は持ち回る。

この夜のお勤めの他にお通夜は中、下垣内の婦人が勤め、退夜(たいや)のときは上、中、下垣内の男性らがご詠歌を唱えたと云う当主。

「若いもんばかりになったらいずれは止めていくんだろうな」と云った。

(H24. 8.14 EOS40D撮影)

白土子供の念仏講の大回り

2012年10月25日 06時44分43秒 | 大和郡山市へ
14日は集落内で行われる毎日の念仏講に加えて集落外へ向かう大外回りも行われる白土町の子供の念仏講。

行程が大幅に増えることから、前日までの出発時間を30分繰り上げて16時半とした。

いつもの通りに浄福寺の門下と本堂前で行ったあとは千束に向かう。

まあまあ距離はあるが、自転車を漕ぐ速度に徒歩では追いつかない。

この年も自転車に跨って追っかけていく。

その間に目に入った地蔵尊と思われる石仏にお供えがあった。

お盆の真っ盛りの今日に供えられたのであろうか。

ドロイモの葉の上にあるのはウリ、ナスビ、ブドウにササゲの豆だ。

丁寧に一膳の箸も添えてあるからムエンサンであるかも知れない。

そういったムエンサンのお供えは新仏の家でも祀られていた。



隣町の石川町の境界になる千束の街道筋は古来の中ツ道。

後世に橘街道と名を替えた街道は、今でも地元の人たちがそう呼ぶ千束の地の街道である。

そこでは南端の辻の橋辺りで太鼓と鉦を叩く。

そこから北に向かって千束のN家の敷地内に移動する。

ここも講中である。

何故にここで行われているのか判らないと云うN家の婦人。

太鼓打ち、鉦叩きは2度行われる。

この年はさらに北上した。

新仏の家に参るのだ。

忙しく駆けずり回る子供たちは一気に終えて橘街道を南下した。

三叉路の信号がある地にはかつて祠があった。

道路を拡張した際に消滅したことからそこでは太鼓も鉦も打たずに通り抜ける。

さらに南下してツチンドと呼ばれる辻堂橋の傍らに祀られている地蔵さんに向かって打ち鳴らす。方角は東を向いていた。

そこから西に向かう。

白土池の堤防を抜けて堤防下で鉦を叩く。

そこは池の取水口にあたる。

その昔、池で亡くなった人を弔うのだという。

もう少し西に向けて行けば田んぼの境目。

そこは牛の弔い地だという牛塚。

かつて、そこで牛を飼っていた。

その牛が亡くなったので弔いの鉦を叩くという。

そこからは集落に向けて北に向かう。

南の辻である。

旧仲家の墓に向かって鉦を叩く。

集落を抜けて北の端のフダワの辻で叩く。

戻って地区の墓地のセセンボで叩く。

そして集落の中央の辻。

旧仲家の玄関先とされる地だ。

それぞれの地で太鼓と鉦を打ち鳴らす。

その間、新仏の家の鉦叩きもあることから効率よくコースを決めて大回りをしてきた。

集落内の新仏の2軒でタナ念仏。

休憩もせずに一挙に2度の太鼓打ち、鉦叩きを行った。

最後に出発地の浄福寺境内に戻ってお勤めを終える。

およそ2時間もかかる大外回りでは急ぎ足でのお勤めである。

7日から連日行われてきた太鼓打ちと鉦叩きの念仏は14日に幕を閉じた。

3カ年に亘る白土町の念仏講調査も同時に終えたのであった。

(H24. 8.14 SB932SH撮影)

菅生送りガキダナのカンゴ

2012年10月24日 06時44分23秒 | 山添村へ
山添村菅生に住むN氏は九代目。

180年ほど前に菅生に移ってきたという。

毛原、月ヶ瀬嵩もあったようだが話題はあちこちに飛んだので判然としない。

ガキダナのカンゴは先祖代々から伝わる作り方。

移ってきた人によってもたらされたのかもしれない。

この日の朝はオカユに青菜のおひたしや漬けものを供えたガキダナ。

真ん中には竹編籠製のカンゴを逆さに置いている。



お昼はご飯に醤油味で煮たノビル。

晩は湯がいたソーメンと生ソーメンを供える。

これは昨年に拝見した。

生のソーメンはオーコを表す。

茹でたソーメンは丸めて輪っかのような形。

これはオーコを縛る紐だという。

ガキダナに供えた食べ物を持って帰るのに担ぐオーコとそれを縛る紐である。

14日の晩はオショウライサンが戻っていくから担ぐ道具が要るということだ。

箸はカキの枝。両脇に花立てを立ててミソハギやオミナエシを飾っていた。

ガキダナのカンゴは13日に作る。

その日の昼は何も供えない。

供えるのは晩になってからだ。

夜になればオショウライサンを迎える。

先祖さんに食べてもらうオチツキダンゴを作って供える。

米粉に小麦粉を混ぜたオチツキダンゴは粉にして熱湯をかけてダンゴにする。

小麦粉を使うのは粘り気をだすためだという。

(H24. 8.14 EOS40D撮影)

松尾サシサバのイタダキ

2012年10月23日 08時28分14秒 | 山添村へ
前日の13日はオショウライサンを迎える日。

日が暮れるころに松明を3本立てて火を点ける。

90度に折った松明は竹の棒に挿し込んでいるお家は山添村の松尾。

昨年のマツリで当家を勤められたH家である。

その年の8月には隣村の北野津越で行われているサシサバのイタダキを取材した。

当主から聞いていたサシサバのイタダキは数十軒の家でもしていると話していた。

店主の家はO商店。

なんでも売っているお店だ。

サシサバはこの店で売っている。

昨年に仕入れたサバは80尾。

2尾で一対とするサシサバであるから40軒が買っていくと想定して仕入れたそうだ。

サシサバは開き。

それを頭から頭を挿しこんで2尾を一対ものにしたのがサシサバ。

頭から挿しこむからそう呼んでいるサシサバはものすごく塩辛い。

両親とも健在であるお家の風習としてサシサバを供える。

松尾でもされている家があると云っていた。

もしかと思いマツリの日に尋ねてみたH家。

14日に供えてイタダキをすると云っていた。

こうした経緯で訪問したH家。



当主は朝にオハギをカキの葉に乗せたムエンサンを祭る。

カキの葉は皿である。

ナスビの具は味噌汁にしてそれもカキの葉に乗せた。

ムエンサンは箕だ。

「ほんまはト(タ)ロミ(箕)だが、今は箕にしている」という。

ドロイモの葉を広げて敷く。

ウリ、トマト、ピーマンにオハギ。

シンコと呼ばれるメリケンダンゴも供える。

オガラの箸も置いておいたムエンサンは13日の夕刻に供える。

14日の昼にはイモやカボチャを供える。

ケンズイのときにはソーメンとモチを供えるという。

線香はナスを台にして挿す。

ローソクに火を灯して手を合わせる。

一服入れたお茶は度々交換する。

常に新しいお茶にするのだといって入れ替えた。



先祖さんの位牌を仏壇から出して座敷の机に並べる。

位牌に記された年代は文化六年(1809)、文政年(1818~)、天保四年(1833)。

当家の歴史を刻む先祖さんの位牌だ。

そこにも様々なお供えをする。

ここでもたえずお茶を入れ替える。

お花はお盆につきもののミソハギだ。

ミソハギはソーメンを食べる箸にもなる。

堅い茎を箸とするのだが、一対にするにはオガラの箸と組み合わせるそうだ。

息子さんが仕事を終えて戻ってきた。

先祖さんを祀った前に供えたオハギ。

カキの葉にそれぞれ乗せて一膳の箸を添えた。

その前に置かれたサシサバの膳。

ドロイモの葉を広げた上に2尾のサシサバがある。

頭から挿し込んでいるサシサバだ。



両親から「いただいとけよー」と声が掛かって、膳を上方にさし上げるような作法をする。

息子さんに続いて奥さんもその作法をするイタダキの膳。

前述したO商店ではサシサバを60尾も仕入れた。

2尾でセットするサシサバは数尾が残っていたことから20軒以上も購入されたようだ。

いつまで続けるか判らないが、されている家がある限り仕入れるという。

両親が揃っている家で行われているサシサバのイタダキ膳はこの日の昼に食べるそうだ。

片親、或いは親無しであれば「帰らはったあとで食べる」という。

(H24. 8.14 EOS40D撮影)

矢田垣内のオショウライサン迎え

2012年10月22日 07時41分19秒 | 大和郡山市へ
矢田垣内のオショウライサン迎えは13日の夕刻だと聞いていた。

家人が叩く鉦の音が聞こえてくれば「うちも始めよう」と云って門を出る。

M家のご婦人が鉦を叩いていた。

カン、カン、カンの音色が集落に響き渡る。

家先の辻に向かったご家族。

ご主人は藁の松明を持っている。

叩き続ける鉦の音が響くなか松明に火を点けた。

火が点けば松明を大事に抱えて家に戻っていく。

そして、玄関先で線香に火を移す。

その絶え間なく鉦を叩き続けている。



ご先祖さんを迎えた線香は仏壇に置かれた。

当家の縁廊下には台座がある。

そこには大きな葉が一枚。

ハスでもなくドロイモの葉でもない。

奈良大和で見られるオショウライサン迎えの葉はハスやドロイモだけだと思っていたがそうではなかった。

その葉は家先に植生している桐の葉だという。

この時期になれば隣近所の人たちが貰いにくるという桐の葉にはササゲのオカイサン(お粥)を一杯。

小皿に盛った。

スイカは御供だ。

オショウライサンの線香は二本。

台にしたナスに挿す。

ローソクを灯して手を合わせる。



コーヤマキを飾った台は「ホウカイサン」と呼ぶ。

「ホウカイサン」は「オショウライサン」の荷物持ち(運ぶ人)だと話す母親。

昔からこうしているという。

「ホウカイサン」とは一体何者なんだろうか。

家人は充てる漢字も判らないという「ホウカイサン」。

もしかとすればだが、「ホウカイ」は「ホッカイ」が訛ったと考えた。

「ホッカイ」は大重(おおじゅう)とも呼ばれる重箱の一つでホッカイ(行器)ではないだろうか。

四角い形もあれば円筒形もある。

食事の容器などを納める塗りの箱だ。

塗りは黒や朱色が多く見られる。

寄贈された行器は県立民俗博物館で展示されたこともある。

そうと考えれば「ホウカイサン」が見えてきた。

ササギ(ササゲ)豆のオカイサン(お粥)は先祖さんを祀る仏壇に9杯供える。

お盆につきもののソーメンもある。

手前には大きな水器。

シキビを添えている。

今夜は家族揃って仏壇の前でご詠歌若しくは般若心経を唱えるそうだ。

垣内では15日の夕刻に同じような作法で藁松明に火を点けてオショウライサンを送るという。

今では稲藁になったが、昔は麦藁だったと母親は話す。

当時は二毛作であったのだろう。

取材を終えて立ち去ろうと思ったときだ。

「良ければオカイサンを食べていき」の一言。



同家のありがたいご厚意を受けてよばれたササギ(ササゲ)豆のオカイサン。

アズキの味と違ってコクもあり、さっぱりして美味しいものである。

この場を借りて御礼申しあげる。

さて、当家の玄関に貼られていたお札に目がいった。



「十二月十二日」のお札だ。

話によれば、親戚筋が結婚式をあげた菊水楼にあったという。

そこで聞いた話が泥棒除けだった。

ありがたいお札を貼っていたが現在は中断しているという。

(H24. 8.13 EOS40D撮影)