マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

矢部のトシコシ

2017年11月30日 09時47分49秒 | 田原本町へ
田原本町矢部に「トシコシ」と呼ぶ行事があると聞いたのは昨年の平成28年7月7日の祇園祭の燈明灯しの夜だった。

ツナカケの場におられたM婦人が教えてくださった「トシコシ」は2月3日。

夕刻になれば各家めいめいがお参りに来て節分の豆を供える。

その際には必ずローソクを立てて火を灯すと云っていた。

話しの様相から神社行事ではないようだ。

川上村吉野町の行事を取材して矢部に着いた時間は午後6時15分前。

夕陽が落ちて暗闇になりかけていた時間帯だった。

先に杵都岐神社に向かおうとしたが、ツナカケの場には、すでにトシコシのお供えをしていた。

ツナカケは真上。藁で編んだ簾型の注連縄が架かっているその真下である。

火が消えたローソクが2本。

オヒネリに包んだ節分の豆がひと包み。

よく見れば隣の岩にのせていた。

しばらく、その場で状況を撮っていたら、集落中央に鎮座する神社の方から歩いてこられた男女二人。

もし、トシコシをされるなら写真を撮らせてもらってもいいでしょうか、と声をかけたら承諾してくださったW夫妻。

薄っすら残る夕暮れの空の下。

豆御供をしてローソクに火を灯す。

お二人が手を合わせていたトワイライトタイム。

残りの時間帯に駆け回る。



夫妻はツナカケの場の交差点向こう側の祠に安置している地蔵さんにも供えて手を合していた。

夫妻の話しによれば、先に神社に参ってきたというから、急いで神社に向かう。

着いた時間帯は午後6時10分前。あちらこちらにローソクの火が見える。

とにかく急ぐ灯りを求めて三社参り。



右から八王神社、榎木神社、愛宕神社であるが、ここに弁天さんがないぞ、と云ったのは孫さんと連れだって参拝に来られたM夫妻。

名刺をお渡しして許可取りした上で撮らせてもらうが、弁天社はどこにあるのだろうか。

三社のローソク立ては社殿下にある囲いの中。

灯りが浮き上がるような光で神々しく見える。

7月7日の祇園祭の燈明灯しもそうだったが、ローソクの灯りで美しさを感じる。

ずっと撮り続けていたい気もあるが、参拝者の情景も、である。

写真ではわかり難い豆御供の場。

それぞれ三房の注連縄下にある。



M家族が次にローソクを灯したのは杵都岐神社拝殿の真ん前にある踏み石に、である。

三社には囲いがあったからローソクの火は煌々と燃えていた。

拝殿前には風除けがないから、ふっと風が吹いたら消えてしまう。



なんとか火を点けて手を合わせる。

M家族が次にお参りする場は杵都岐神社右にある金比羅さんの石碑。

ここも風が吹き抜けだから思うように灯せない。



午後6時になれば辺りは真っ暗闇。

そこに浮かび上がるローソクの火によって幻想的な情景を醸し出す。

次は観音堂・薬師堂に、である。



両堂に祈りを捧げる観音講がある。

取材した平成22年23年当時は9人であったが、今は若い人4人で継いでいる観音講が営む場が観音堂である。

お堂の前にオヒネリに包んだ豆御供。

ここも同じようにローソク灯し。

手造りのような燭台にローソクを立てて火を灯す。

ここでお別れしたM家族は南の辻にあるツナカケの場に地蔵さん参りは7カ所であった。



そうこうしているうちに参拝者はお一人。

F家から西に住むご婦人も承諾してもらってシャッターを押す。



これまで灯されたローソクの火がいつのまにか増えていた。

風吹きも弱まったので火が消えずに参拝者を待ってくれていたかのようだ。



しばらくはどなたも来られない時間帯にローソクの灯りに照らされていた杵都岐神社全景を撮っておく。

少し離れた位置から撮るローソクの灯りは三カ所。

右手に見える石碑が金比羅さんである。

しばらく佇んでいたが、参拝者が途絶えたころを見計らって帰路についた。

ところで弁天さんはどこにあるのか。ぐぐって検索したネット情報によれば、弁天さんの古墳が見つかった。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)

樫尾十二社神社の節分の豆御供

2017年11月29日 09時10分22秒 | 吉野町へ
川上村高原に住むⅠ家の節分を拝見して下ってきた県道169号線。

いつも通る度に気にかけていた神社がある。

吉野町の樫尾(かしお)の地に鎮座する十二社神社である。

車窓に人影が写った。

ガラスウインドウではなく流し目した視線に入った人物は高齢の婦人である。

思わず停車した倉庫前。

カメラをもってその場から駆け付けたら、本社殿に登る急な階段下にじっとしていた。

たぶんにお参りされているのだろう。

その姿に思わずシャッターを押してしまう。

拝礼されて頭を下げておられた婦人の後方。

道路際に建つ木造の鳥居から本社殿を眺める位置に参拝する高齢者を配置してシャッターを押す。

ここからは境内内。

砂利を敷いている境内を歩くには音が出る。

驚かしてはなるまいと、近づくこともしなかった。



時間は短時間と思うが、佇んで拝見していた私の感覚では長時間だった。

立ったままずっと拝んでいた婦人はもう一度頭を下げてお参りを済まされた。

ここでお声をかける。

婦人は昭和6年生まれのSさん。

節分の日には数え年に一つ足した煎り豆を供えて、一巻の般若心経を唱えていたという。

事後承諾になった後ろ姿のお参りに感動したことを伝えたらはにかんでおられた。

毎年、こうしてお参りにくるのは厄祓い。

畑でこけたこともあったのでお参りに来たという。

この日は神事もない節分であるが、村人めいめいが夕刻前に参拝しているという。



そういえば、階段に参られた人が供えていったオヒネリ包みの豆がある。

婦人以外に二人の参拝があった。

時間帯は午後5時前。

夕暮れは近い。

婦人が参っていた階段下両脇の境内に建つ灯籠に正徳五乙未年(1715)の年代刻印が見られる。



「奉寄進 常夜燈 正徳五乙未年十一月吉日 吉野郡樫尾氏子」とあった。

樫尾(かしお)の社務所に掲げていた神社表記に三社。

「十二社神社」、「式内川上鹿塩神社」、「天皇神社」の三社である。

お参りをされていたSさんが話してくださる神社行事。

毎月の1日、15日は朝8時から境内の清掃。

老人会が主となった掃除をしている、という。

どおり、である。

いつ通っても境内が綺麗なのはそういうことだったのだ。

祭りは11月22日と23日。

22日は8時半から一日早いゴクマキをする。

餅搗きは前日の21日。

朝4時に集まる厄年の人。

42歳、61歳の厄年の男性がその日に厄祓いする餅搗きである。

餅搗きは朝6時から搗き始めるというから、早起きもよほどの早起きをしないことには到着しない。

我が家から当地へ行くには1時間以上もかかる。

現況の身体状況では無理があるから断念するが、餅を丸める時間帯であれば、なんとかできるかも・・。

Sさんの話しによれば、歩きで行ったら40分の所に五社神社(※川上鹿塩神社)があるそうだ。

搗いた餅をもって上がって参拝するのは厄年の男性たち。

軽トラに乗って出かけるらしい。

五社神社の他にも天王さんなどミトコ(三所)もあるという各神社に参拝して餅を供えるそうだ。

うち一カ所は十二社神社から見える急な山道の向こうになるという。

そこが五社神社なのかそれとも天王さんなのか。

Sさんが云われる天王さんは社務所に掲げていた神社名の一つ。

天皇神社であろう。

で、あれば天王さんは牛頭天王社が比定されそうである。

23日はゴクマキ。

村の人、大勢が集まってくる、という。

なお、8月14日は樫尾の盆踊りがあるらしい。

村の盆踊りが廃れていく時代になったが、樫尾では今尚盛ん。

一度は拝見したくなってもみる。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)

高原・Ⅰ家の節分

2017年11月28日 08時51分53秒 | 川上村へ
この日の山間部は寒い。

前日までに降った残雪は溶けることなく山々だけでなく集落民家の屋根も白色に染めていた。

冬場は寒い。

外には出ずに割り木の薪を燃やして暖を取る。

こたつはつけっぱなしになるという。

2月3日の節分の日はスコンニャクを作っていた。

水を切って油を落として炒めていたと話す川上村高原に住むⅠ家。

スコンニャクは酢と味噌を塗して胡麻を振って作った。

もう一つのご馳走はニンジンにコンニャク、ダイコンを煮たお煮しめ。

もう一品が節分の日に食べる主食の巻き寿司。

朝から作って晩には食べていたと話していたのは昭和12年生まれの奥さんだ。

親父さんは昭和5年生まれ。

平成15年に訪れて十二社氏神神社行事を取材していたときにお会いした人。

当時は総代・大目付を務めていた。

その後の村の行事に何度も訪れて行事のことを教わった。

川上村辺りに来たときは必ずといっていいほどご自宅を伺った。

その度にお茶してくれるのでついつい長居をしてしまう。

節分の日のご馳走もあるが、習俗もしているというからまたもや訪れた。

昨年の夏の大祭に訪れた際に顔をだしたら、畑作業の手を止めて6年ぶりの語らいになった。

そのときに話してくれたのが節分の日のご馳走と習俗である。

神社行事は午後6時半と聞いているし、それが合図であるのか、「鬼は外 鬼は外 鬼の目うと」の台詞を囃しながら豆を撒く。

村の各戸は大声で遠くへ向けて「オニノメウトー、オニノメウトー」と叫ぶ。

それを聞いた隣家もオニノメウトーと叫ぶと話してくれた。

県内の節分行事は数々あれどこのような台詞は初めて聞くものだ。

「オニノメウトー」を漢字で書けば「鬼の目 打とう」である。

鬼の目を打とうというのは豆撒きにおける所作に発せられる台詞であるが、「鬼の目」を打つにはもう一つ道具が要る。

メツキバの異名があるヒイラギの木である。

メツキバを漢字で充てたら「目突き葉」である。

鬼の目を突いて追い出そうとする節分の習俗を拝見したくなって訪れたのであるが、それは昔のことで今はしていないと云った。

えっ、である。



神社行事も廃れたが、各戸の習俗も消えてしまっていたが、メツキバはⅠ家の玄関脇に挿してあった。

中身の腹や背は焼いて食べる鰯。食べずに残すのが鰯の頭は生魚。

生臭い鰯の匂いで鬼を入らせないようにするまじないである。

メツキバも玄関にさして鬼の目を突いて追い出す。

全国各地で見られる節分の習俗である。

Ⅰ家の玄関脇にはメツキバ以外に、村のお寺である岡室御所・高峯山福源寺で授かった大般若の祈祷護符もあれば、県消防協会が頒布する火の用心の護符もある。

大般若の祈祷護符は1月17日に行われた観音初祈祷行事。

大般若経典六百巻の写経会がなされると聞いているが、未だ拝見していない。

生鰯の頭の匂いが強いので逆に家人が困らんようにラップで包んだのか、それともハエが寄ってこないようにしたのか、聞かずじまいだった。

節分の豆は夜に撒く。



それまでは神棚のエビス・ダイコクさんに供えていた。

煎った大豆は一合枡いっぱいに盛った。

そこにはきっちりメツキバも添えていた。

話しによれば、本来は一升枡で供えるようだ。

供えた一升枡の豆。

二人一緒に手を突っ込んだらあかんと云われて、一番少ない一合枡にまずは移し替える。

その枡にある豆を歳の数だけ数えて取り出す。

豆はほうらくで煎った。

かつてはそうしていたが、今は市販品の豆である。

前述した「オニノメウトー」の豆撒きは孫でも来ておればするかもしれんが、今年はなぁという。

昨年末の12月26日に電話を架けたことがある。

架けた理由はⅠ家の正月習俗であるイタダキゼンの取材願いである。

このときも今年はなぁ、であった。

事態はなんとなくわかったが、奥さんが云うには娘婿が亡くなったというのだ。

服忌だから正月の餅も搗けない。

親父さんは心労で寝込んだままだと云っていた。

孫は年末に見舞いに来るし、イタダキゼンは喪が明けた来年にしてや、と伝えられていた。

この日の親父さんは年が明けても元気なく、打ち拉がれていた。

声をかけても目も開けない状態で炬燵に潜っていた。

うとうと居眠りする親父さんはそっとしておきたい。

その間に巻き寿司を作り始めたのは奥さんだ。

撮らしてもらっても良いですか、と声をかけた承諾願いもお許しがでた。

巻き寿司の具材は四種類。

コーヤドーフに三つ葉とニンジンにシイタケ。

黄色は玉子焼き。

三つ葉は湯がいただけだが、コーヤドーフにニンジン、シイタケは味付けしておいた。

アジシオに隠し味の砂糖を少し塗して焼いた玉子焼きも午前中に作っていた。

ニンジン、シイタケはやや太めに切っておく。



酢飯も予め作っておいて寿司桶で冷ましておいたので準備万端。

Ⅰ家を訪れることは先に電話をしておいた。



私が来るのを待って仕掛け始めた巻き寿司作り。

お皿にそれぞれ5本分の具材を並べて作り始める。

こうしておけば足る、足らないことにはならない。

そういえば、寿司飯も5等分にしていたな、である。

簾巻きを拡げた上に寿司海苔を一枚。

分量測っておいた寿司飯を手で拡げる。

具材を置く順番は特にない。



5本分ずつ並べたから、残り具合がわかる。

巻き忘れも、重複することもないのである。



具材を載せたら一気に簾巻きで巻いていく。

5本の巻き寿司はおよそ十数分で終えた。



子どもが小さかったころは何本も作っていた。

親戚に送る本数も作っていたが、今年は5本。

少なくなってしまったという。

今ではご近所3軒だけがしているという手造り巻き寿司。

Ⅰ家は1合の寿司飯で2本の寿司を巻く。

あんたも食べてや、と差し出された作りたての巻き寿司。



海苔の香りに酢飯の丁度いい具合の味加減が奏でる絶妙のハーモニー。

具材の三つ葉はシャキシャキ感が利いて美味しい。

三つ葉がないスーパーで売っている巻き寿司は巻き寿司ではないと思っているくらいに、三つ葉の存在が大きい。

シイタケもニンジンも口の中でわーっと広がる。

旨い、美味いを連発していただくⅠ家の巻き寿司。

味付けは、昔、我が家で作っていたおふくろ以上の味かもしれない。

ご馳走になってしまったⅠ家の習俗は見られなかったが、巻き寿司作りを見せてくださって、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

Ⅰ家を下って夏の大祭を務めたO家を訪ねたが不在だった。

仕方がないから持参した大祭写真は玄関口にある郵便受けに入れておいた。

それから2日後。

電話を架けたら、すまんことしたと云ってくれる。

実は昨年末の12月に10年間も治療をしていた奥さんを亡くして見送ったというのだ。

辛い話しは2件の訃報も続く。

その訃報に合掌する。

Oさんが云うには、神社のマツリは年に4回だけになったという。

1月7日にしていた七草粥の「トウト トウト」もしなくなったし、豆撒きの「オニノメウトー」もないのが寂しいと電話口で話してくれたのも辛かった。

しかも、Oさんは宮さん勤めをする人が少なくなって、再び、この年も神主勤め。

ご苦労さまですとしか言いようがない。

15年ぐらい前の時代はお伊勢参りに村を代表してお札を授かりに行く伊勢代参もあった。

配る村の戸数が100軒であったからお札の数も100本。

戻ってきてほうぼう散らばっている各家に配っていた。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)

川上村大滝にやってきた移動販売とくし丸

2017年11月27日 09時33分01秒 | 民俗あれこれ(売る編)
およそ8カ月ぶりにやってきた川上村の大滝。

これより高原に向かう途中に聞いておきたい大滝の地蔵さんまつりである。

正式な行事名がそれであるのか、どうもわかっていない。

数年前より探していた地蔵さんまつりがようやく実現できるが、行事日は3月、それとも4月であるのか。

平成28年4月24日に訪れた大滝で出会えた辻井酒店の店主の話しによれば、3月24日であった。

来月になるので念のためと思って辻井商店を伺ってみた。

ごめんくださーいと大きな声をあげたら奥からご婦人が出てこられた。

酒店は親戚になるという辻井商店。

なるほどである。婦人がいうには3月23日に近い日で、だいたいが第三木曜日になるという。

前日の第三水曜日は器械で搗く餅搗き。

隣近所の7人ほどで事前準備。

今年は3月23日の木曜日になりそうだとカレンダーを見てくださったが、なんとなく不安にかられる。

地蔵さんの祭りは、婦人の姑さんが地蔵さんをもってきて始めた行事のようだ。

般若心経三巻唱えて、炊いたアズキゴハンを皆と一緒にその場で食べる。

それからゴクマキをすると云っていた婦人が、嫁入りした翌年の昭和34年9月26日である。

その年に発生した伊勢湾台風によって住まいが流されてしまった。

大雨のその日はみるみるうちに紀の川が洪水状態。

足元にピチャピチャきた途端に流された。

それはほんまに恐ろしかったという。

こうした伊勢湾台風の影響で大滝どころではなく、過去最悪の洪水に下流域も含めては甚大な被害が出た。

伊勢湾台風の洪水によって、紀の川流域治水はもとより日本の災害対策は、根本的に河川改修の変更を迫られた。

その治水をするために生まれた大滝ダム建設であった。

地蔵さんのまつりを取材させていただく旨、お願いをして村を離れようとしたときだ。

商店向かいの場に軽トラが停まっていた。

運転手が飛び出して商店街に建つ何軒かのお家に声をかけていた。

軽トラは全国1000店を目指して広がる移動販売スーパーのとくし丸

県内のスーパーヤマトーと提携したと奈良新聞が報じていたこれだ。

山間部にとってはありがたい新鮮な食料を届けてくれる移動販売スーパー。

欲しいものがあれば要望を叶えてくれるのがありがたいという。

特に車という足がない人は助かると話す生活支援。

尤も、移動販売車は以前から営業されている人がいる。

例えば豆腐屋もそうであるが、生活食材となれば、豆腐一丁では済まされない。

私が初めて見た天理市藤井の村であった。

山間部にやってくる移動販売車が助かりますと、買い物困難者の村人が云っていたことを思い出す。

ただ一点、気がかりなことがある。

私は数年前まで患者さんを自宅まで送り迎えする送迎ドライバーの職に就いていた。

2人制の交替制であったから休みはとれた。

ところが体調を壊して短期、長期間の入院を経験した。

短期間であれば、私が復帰するまで連続勤務で逃げられたが、長期間となれば交替要員が補充されるまではずっと我慢の子、である。

個人事業主であるドライバーさんは仕入から販売に営業もする。

すべて一人の独立体制に休みはない。

その人がずっと健康であることは考えられない。

体調を壊した場合はどうしているのだろうか。

ちなみに「㈱とくし丸」の「とくし」は「篤志」の意味をもって事業名にしたそうだ。

耳に残りそうな、「とく とく とーくっのとくしまるー ・・・ なかまがよってくるとくしまる ♪」のテーマソングがスピーカーから流れてきたら・・・集まってきた。

(H29. 2. 3 SB932SH撮影)

ラ・ムー葛城忍海店の中華丼

2017年11月26日 08時54分32秒 | あれこれテイクアウト
斑鳩町から南下してハタアメ調査に立ち寄る大和高田市

そこら辺りを走行している時間帯はお昼前。

そろそろお腹が空いてきた。

川上村に住む人には電話をかけておこう。

気になっていた村の節分行事。

昨年に拝見した史料には詳しく書いてあった。

そのことについては神社付近に住む人にも聞いていた。

電話をすれば在宅だった。

昔はしていたが、今はなーんもしていないという。

来てもなんもないでと云われるが、住民は家の節分をしているという。

来るんやったらおいでと云われて先を急ぐが、約束できる時間は断定できない。

近くまで来たら電話してやと云われてお腹を満たす。

この日は節分。

スーパーでもコンビニでもどこもかしこも巻き寿司がどどーんと並ぶ。

そんなものには目もくれず格安弁当に目がいく。

こういう機会こそ食べてみたい品物がある。

何種類か店内で製造販売している税抜き184円の格安弁当。

この日はパック盛りの中華丼にした。

前から狙っていたラ・ムーの中華丼。

店内に備えてある電子レンジで1分間設定。

お腹が減っては待ちきれない。

思わず手がいってしまった途中下車、ではなく途中で停止。

それでも温かい丼。

蓋を開けたらほんのりと香りが漂う。

久しぶりの車中食はラ・ムー葛城忍海店の駐車場だ。

コンビニ店であれば、車内で食べているドライバーさんが多い。

どこでも昼食時間帯でよく見かける光景だ。

私もその一人。

ガッツリ食べる中華丼。

味に問題はない。

ないが、ご飯がやや固め。

ふっくらはしていない。

これまで何度も食べているラ・ムーの弁当はご飯が美味いのが定評だ。

尤も、それを云うのは私だけかもしれないが・・・。

電子レンジのチンが足らなかったせいかご飯は固い。

固くても味は申し分ない。

好みの味である。

ただ、ご飯の量が多い。

ちなみにラ・ムー葛城忍海店にでっかい筒かき揚げがある。



税込み価格で100円。

たったの100円に釣られて我が家のお土産に買っておいた。

(H29. 2. 3 SB932SH撮影)

大和高田市岡崎のハタアメ調査

2017年11月25日 09時11分55秒 | 大和高田市へ
昨年だったか、一昨年だったか覚えていないが、ネット情報に大和高田市の岡崎の地でハタアメ(旗飴)をしているようなブログ記事が見つかった。

5色・5本のハタアメを貰いにくる子どもたちはどこに出かけているのだろうか。

子どもたちが貰っていた場所は神社のようであるが、はっきりとしたことは書いていなかった。

そのネット情報はいつしか消えてしまった。

手がかりは岡崎に鎮座する神社である。

で、あれば探してみるしかない。

そう思ってやってきた岡崎の地。

神社は見つかったが春日神社である。

ハタアメを貰える日は初午である。

一か月遅れのニノ初午の場合もあるが、初午行事が行われる神社は稲荷社である。

これまで取材した神社はどことも稲荷社である。

初午の日に何故、ハタアメを供えるのか、このこと自身がわかっていないが、初午=ハタアメである。

その日を知っているのは先輩たちから継いできた初午=ハタアメ情報である。

神社でなくとも商店でも行けばもらえていた。

年に一度の楽しみは奈良県各地にあるが、私の調べでは地区は限定されている。

香芝市、葛城市、広陵町、大和高田市、橿原市、川西町、田原本町、御所市、高取町、桜井市・・・宇陀市榛原であった。

春日神社の氏子であれば、ハタアメ行事のことはわからないだろう。

そうは思ってみても、地区を巡ってみて村の人に聞くしかない。

春日神社がある付近に旧村の佇まいをみせる集落がある。

何軒か呼び鈴を押してはみたが反応がないから諦めて、東側に出る。

そこは新興住宅が建ち並ぶ家々がある。

家の横の畑で自作栽培していた女性がおられたので聞いてみた。

家は新興住宅であっても、神社の近くにお住まいなので自転車で走り回ってハタアメ貰いの子どもたちを見たことがあるかもしれない。

そう、思って尋ねてみたら、「してますょ」であった。

初午行事をしているのは、ここより北側にある小山に鎮座する稲荷社である。

神社は春日神社以外に稲荷社があったのだ。

岡崎の初午は二月に行われる初午行事のようだ。

ただ、2月には「午」の日は2回ある。

1回目は2月12日の日曜日で、2回目は24日の金曜日である。

そのいずれかに初午行事をしている可能性が高い。

いずれか決まれば神社から通知が届くようだ。

婦人は初午の日の9時にお神酒などをお供えているというから通知をいただくそうだ。

たぶん12日であるような気がするが、万が一その日でなければ連絡してくださるというありがたい婦人の出里は川上村の白屋であった。

大滝ダムの建設によって土地そのものが崩壊しかけない状態になった白屋の住民すべてが移転せざるを得ない状況に陥った。

婦人が選んだ道はここ高台の地になる岡崎の地に住処を移して暮らしだった。

大多数が県内平坦部に転居した37年前から岡崎の地で毎年のように初午の日にお供えをしてきたという。

まさか、ここで元白屋の住民に出会えるとは思ってもみない縁に感謝した。

岡崎の稲荷社は現認している時間がない。

帰宅してから探してみれば、三野山(岡崎山)に鎮座する岡崎稲荷神社でわかったが・・・2月12日ではなかった。

前日に婦人が電話してくださったのだ。

2月初午でなく、ニノ初午。

つまり3月の初午であったことがわかった。

2回目の「午」のである。

ここ岡崎で気になる情報がネットにあった。

これもまたブログのようだが、情報を再度探してみても見つからなかったが、寒施行(かんせぎょう)をしているようだ。

稲荷社があるだけに間違ってはいないと思うが、講の存在を確かめなくてはならない。

(H29. 2. 3 SB932SH撮影)

斑鳩町目安・春日神社

2017年11月24日 09時26分15秒 | 斑鳩町へ
斑鳩町目安の春日神社に豆交換があると聞いていた。

その日は「トシコシ」の名で呼ぶ節分行事である。

2年前の平成27年2月3日に訪れた春日神社では当番の宮守さん一人が炒った豆をオヒネリに包んで三方盛りをしていた。

その後にどなたか村の人が参拝して供えた豆を交換している可能性があると思って立ち寄った。

この年は時間帯も考慮して朝10時ころに着くように車を走らせた。

思っていた時間に着いてはみたものの、誰一人としておられない。

しばらく待っては見たものの、どなたも来られないし、2年前に拝見したオヒネリの豆もない。

一日中、置いておくと聞いていたコウジブタもない。

2年前に当番をされたSさんに、この状態を伝えたくてお家を探してみる。

村の人、何人かに聞いたお家の所在が見つかった。

2年前の取材のお礼に記念の写真をさしあげてこの日の現状を伝えた結果は・・・。

前日の前夜。

2月2日の晩10時に宮守の人が豆を準備して供えておく、という。

早い人であれば午前零時になったら参って豆を供える人もおられるから早めに準備をしているというのだ。

一昼夜間、供えた豆はどれぐらいの交換があったのか、神社にずっとおって見張るわけにはいかないから、言葉は悪いが、いわゆる放置状態である。

そして、3日の晩になればコウジブタを回収すると云っていたが、そのコウジブタすらなかったこの日のトシコシ。

この年の当番さんの動きを知りたいものだが・・・。

(H29. 2. 3 記)

山城町椿井・松尾神社の民俗探訪

2017年11月23日 08時14分48秒 | もっと遠くへ(京都編)
午後の時間から始まった京都府南部地域の民俗探訪。時間的に余裕もある、と思っていたが日暮れるのが早い。

少しでも探訪しておきたい民俗調査に終わりがないというか、むしろキリがない。

平成9年(1997)の9月1日、2日の両日は我が家から出発して京都嵯峨野・嵐山間の往復サイクリングをしたことがある。

一泊二日のコースは大和郡山→平城山→玉水→八幡→久我→松尾→嵯峨・嵐山(宿泊)→松尾→久我→八幡→玉水→平城山→大和郡山だった。

今から20年前のころの私は46歳だった。

今じゃ66歳。

「あのとき きーみはわー わかかったー ♪」のフレーズで思わず口ずさんでしまう。

長距離サイクリングをする前に足慣らし。

選んだ目的地が椿井、上狛辺り。

何度か訪れて地域勘を得ていた。

自転車で散策するサイクリングは目についたときにひょっこり路地に入ってしまう史跡巡りも兼ねていた。

山背古道(やましろこどう)を巡るポタリング行動でもあった。

記録も撮っていないから思い出せないが、街道を外れた路地に六角井戸があったのを覚えているが、場所はまったく記憶にない。

あれは一体どこだったのだろうか。

調べてみれば、井戸の所在地は京都府綴喜郡井出町の石垣地区の安養寺近くの玉井頓宮跡であった。

山背古道推進協議会(発足1995年5月)が公開しているHPがある。

HP内には探索に便利な「山背古道探検地図」も公開されているので参照されたい。

さて、調査の目的地である山城町椿井に話しをもどそう。

訪れた神社は松尾神社。

神社に何があるのだろうか。

迎える鳥居は背丈が一段と高い。

色は剥げているが朱塗りであった。



松尾神社は京都府の登録有形文化財。

桃山時代、江戸時代の威容を留める拝殿、表門、境内社御霊神社本殿が指定されている。

中でも本社殿並びに拝所に棟札は国指定重要文化財になっていると示されていた。

松尾神社の解説板書が立ててあったので貼り付けておく。



この地に砂モチ風習や節分の豆などがあるのかどうか。

たまたまというか、神社前にある有料でゴーカート遊びができるゴーカート場施設を所有・管理されている男性に尋ねた結果は、ない、である。

朱の鳥居に架けた注連縄は神社役員さんの手造り。

出来あがれば架ける注連縄は奥の本社殿にも見られる。



大晦日から元日にかけては氏子の初詣参りが多いという神社に残された土塀に魅力を感じた。

風雪というか、朽ちた感が歴史を物語る。

大広間のような空間に風が通り抜ける拝殿。



天井を仰ぎ見ればたくさんの奉納絵馬が飾られていたが、誰が貼りつけたのかわからないが、何枚かの千社札がある。

暗がりであった拝殿天井のそれには「宮原」や「松元」。

たぶんに氏子圏外の人の名であろう。

神社行事情報はあまり得るものはなかったが、7月初めに椿井地区の虫送りがあるという。

その出発地点が松尾神社である。

午後6時、出発に際してご祈祷してもらう松尾神社。

祈祷されたら神社のご神火をもって松明火の移しがある。

神社より下って椿井の田畑を歩いて虫送り。

日程が合えば出かけてみたい。

ちなみに尋ねた1件の民俗。

厄除けなのか、それとも火伏のまじないなのかわからないが、ある史料に初午の日に伏見人形で作られた布袋さんの人形をご存じでしょうか、である。

尋ねた結果は、知らない、であった。

地区の習俗ではなく、個人信仰習俗の可能性が考えられる。

で、あれば、よほどの機会に出会うまで待ち続けることにしよう。

男性がいうには椿井のなかでも、ここら辺は竹林が多いそうだ。

1月から3月は土を入れて竹林の土壌を育てる。

肥も入れているようなことらしいが・・。

これまで中国産の竹に圧倒されてきたが、人気も落ちてきた。

昨今は、国産の竹が脚光を浴びている。

竹林の手入れはたいへんな労力が要る。

広大な土地に拡がる竹林もあれば、高齢化、人手不足によって手入れができず、荒れたところもあるが、今はそういった土地は減少していると話す。

帰路に神堂寺へ向かう集落道から竹林道を下ってきた。

男性が云われた状況が竹林景観を醸成していた。



この写真は調査後に訪れた地で撮った神さんである。

以前からここを通る度に気になっていた。

民家の庭らしき場所にある祠は一体何を祭っているのだろうか、と思っていた。

場所は山城町の椿井-迫間を貫く道路の東側にあった祠である。

車を停車させて近寄ってみたら、キツネさんを祀っていた。

稲荷社と判断できる祠に市販かどうか不明の注連縄を架けていた。

(H29. 2. 2 SB932SH撮影)

京都府南部地方の節分豆の民俗調査

2017年11月22日 09時15分53秒 | もっと遠くへ(京都編)
明日は2月3日。

奈良県内の一部ではあるが神社に供えた節分豆を交換する風習がある。

天理の長滝町では寺院に供える豆である。

先にお参りした人が供えた節分豆を貰って帰るのである。

もちろん参拝者は我がとこの節分豆を供えてからのことであるが・・・。

加茂町銭司で人探しをしていたときである。

軽トラを運転しておられた80歳以上と思える男性に尋ねてみた。

男性は浄土宗派であるから、何もしないという。

だが、真言宗派の家ではヒイラギイワシや豆御供しているという。

真偽はいろんな人に聞かねばならないが、この件は初めて知る民俗である。

尤も「門徒もの知らず・・法華骨なし、禅宗銭なし、浄土情なし」と云って、何の行事もしないのは浄土宗であるが・・・。

男性がいうには春日神社の節分は、当日の午後に宮守さんがヒイラギイワシや炒り豆を準備して神社に調えるようだ。

その日は一斉にではなく、

各戸めいめいが神社に参拝されて節分豆を交換していると話してくれたのがありがたい。

ちなみに昨日の2月1日に取材した木津川市相楽清水の氏子さんの話しによれば、相楽神社でも同じように豆交換はしているようだ。

午後3時ともなれば集落氏子が家で炒った節分豆をもって参拝する。

すでに参った人が供えた豆をもらって帰るという風習である。

また、相楽郡笠置町切山に住む社寺総代のK家の奥さんに聞いた話である。

尤もこの話を直接聞き取られたのは写真家Kさんであるが・・。

チンチンガラガラの名で呼ぶこともあるメザシの頭を枝豆の軸の先に挿して、メヒイラギとともに切山八幡宮の各箇所に供えると聞いた。

これは昼過ぎに供えているが、豆の交換はないという。

地域によってあり方が違うということだ。

こうした風習は奈良県内の事例と同じようなことをするのであろうか。

これまで取材した地域は斑鳩町目安・春日神社のトシコシ、奈良市佐紀中町・門外釣殿神社の節分祭、大和郡山市新木町・新城神社の節分祭、同市額田部北町・推古神社の年越し、田原本町矢部・杵都岐神社および八王神社・榎木神社・愛宕神社の三社の他に金比羅さん、観音堂、薬師堂、ツナカケ場に地蔵尊まで節分豆を供えるトシコシ行事もある。

実に多彩な地域の在り方に感動したわけであるが、今後は足を伸ばして京都府の南部地域も伺ってみたいと思った類事例調査である。

加茂町銭司に笠置町切山を探訪して訪れたのは史料調査。

65歳であれば拝観料が無料になる京都府立山城郷土資料館の樹節展示物を拝見する。

ひと通り見渡して図録を漁る。

目についたのは平成11年10月に催された企画特別展の「花と鬼と仏-春の民俗行事オコナイ-」である。

京都府内すべてではないが、主だった南部地域のオコナイが詳細に載っている。

これは価値ある800円。

廃版になる前に買っておいて再出発。

行先は当施設がある山城町。

それほど遠くない地域を選んだ山城町の椿井。

椿井といえ一番に思い出すのが椿井大塚山古墳である。

昭和28年、当時国鉄奈良線(現JR京都線)の拡幅工事によって古墳後円部が破壊された古墳であるが、その工事に偶然発見された竪穴式石室。

なんと内部から当時最多の32面の三角縁神獣鏡が発見・出土したのであった。

現地にいかなくとも京都府立山城郷土資料館で学ぶこともできるのが嬉しい。

(H29. 2. 2 SB932SH撮影)

山城町綺田よし家の牛丼

2017年11月21日 09時03分02秒 | 食事が主な周辺をお散歩
奈良県の吉野町から一目散に駆け付けた京都府南部の木津川市相楽。

拝見したかった相楽(さがなか)神社の餅花祭を見終えたのは午後1時40分。

昼飯を食べる時間がなくてお腹はもうペコペコである。

ここまでくれば昼食の場は決まり。

ときおり訪れては食べに出かける木津川市山城町の綺田(かばた)。

大河の木津川河川沿いの堤防を走る。

国道24号線に架かる「不動川」信号にある食事処はよし家(いえ)。

左隣に麺食堂はあたったが、こんなに大きな看板はなかったように思える。

左隣のお店は写真でもわかるように「台湾ラーメン 大ちゃん」。

ラーメン以外にも餃子、唐揚げ、おでん、すじ肉表示に吸い込こまれそうになったが、今回も入店したのはよし家(いえ)。

即答で配膳された注文の品は580円の牛丼。



汁椀に香物もあって580円。

味はそのまんまの牛丼。

ちゃちゃっと食べたが、吉野屋の方に軍配を上げたい。

(H29. 2. 1 SB932SH撮影)