マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

竜谷のマツリ

2015年06月30日 08時31分19秒 | 桜井市へ
ハコヤの木でモチを搗いていた桜井市の竜谷(りゅうたに)。

いわゆる千本杵のモチ搗きである。

「エイトッ エイトッ エイトッ エイトッ・・」の掛け声に合わせて杵で搗く。

ハコヤと呼ぶ木はどこかで聞いたことがあるが・・何の木だろうか。

思い出した。

天理市長滝住民によればハコヤは樫の木やと云っていた。

俗名はなかなか思い出せなかったが竜谷でも「樫」の木を「ハコヤ」と呼んでいた。

「ハコヤ」の木は少なくなった。

そのようなことから千本杵は捨てずに、マツリが終わっても大切にしているらしい。

三臼搗くマツリのモチの途中で「サンブツキ」もする。

一臼搗いた直後に搗く「サンブツキ」は「テイワイモチ」の在り方であろう。

「手祝餅」は宮座頭屋のふるまいだ。

「サンブツキ」は「ハンモチ」とも呼ぶもので、見ての通りご飯粒が残っている。

「サンブツキ」は三分ぐらいの搗きで終えるからモチゴメが残っている状態である。

半分がモチ状態であるから「ハンモチ」の名もある。

「どちらでもえーねん」と云う「サンブツキ」のモチは砂糖・醤油に生姜を混ぜてモチにつける。



一般的な食べ方は砂糖醤油味だが、生姜を混ぜた砂糖醤油は私の舌が味わう初めての食感だ。

今まで食べたモチのなかで最も美味いと感じた。

ハッピーマンデーの制度化に伴って11月3日に移したが、かつての竜谷のマツリは10月28日だった。

前日のヨミヤにはトウヤ(頭屋)が作る三角錐型のメシを供えると下見の際に聞いていた。

そのメシの名は「オニギリ」と呼ぶ。

形状から推測するに、県内各地で見られる「キョウノメシ」と同じような形である。

3個の「オニギリ」は四合のご飯を分配して作る。

かつては1個について一升米のご飯で作っていた。

マツリを終えたら頭屋はたばって持ち帰る。

家で食べる量としては余りにも多く食べきれないという意見が出て四合に縮小された。

「オニギリ」は3個。

炊いたご飯(かつては蒸しご飯)をさらし布に入れて「オニギリ」の型を作る。

例年、上手に作られるおじさんがおられるのでいつも頼んでいると話していた。



そのオニギリ作りは千本杵のモチ搗きをしている最中に同時並行で作られる。

この年はさらし布でなく、包んでいたのはラップだった。

円錐形のオニギリは固めの半紙に包まれて水引で括る。

半紙で包めばオニギリは見えなくなる。

そう思って二つは形が判るように撮っておいた。

かつては頭屋の座敷がマツリの場であったが今では公民館。

紅白の幣を垂らした鶴文様の日の丸御幣もある場は祭壇だ。



オニギリはネムノキのまな板に乗せて供える。

プラスチック製のコジュウタに詰めたモチは千本杵で搗いたゴクモチ。

これを「オゴク」と呼ぶ。

充てる漢字は「お御供」であろうか。



神饌御供を並べた奥に古い樽桶が判るだろうか。

日の丸御幣の左横に立てられている。

これは崇めている御分霊とされる祝い樽だ。

紅白の幣には言い伝えがある。

マツリを終えたら村人は幣を授かる。

白色であれば男の子が生まれる。

赤色であれば女の子だ。

孫に男の子が欲しいと願う親は白色を選んだというありがたい幣であると話していた。

竜谷集落の戸数は20戸あまり。



少子化の波は竜谷にもあるが、マツリのときには外孫もやってきて賑やかだ。

おじいさんとともに杵で餅搗きをする子供たち。

それをとらえる両親。

この日の村は笑顔が絶えない。

竜谷のマツリは始めに頭屋祭が行われる。

御幣を立てて「オニギリ」、「オゴク」などを並べる。

神饌はタイにスルメ、ゴボウやハクサイ、ダイコン、カブラ、サトイモ、エビイモなどの野菜に果物のリンゴもある。

10年ほど前までのマツリの場は頭屋の家だった。



今では公民館に移った。

かつての頭屋家を現す「頭屋座中」と書かれた提灯を吊るす。

公民館が建つ場には子安地蔵堂がある。

昔は子供が生まれた祝いに腹帯を奉納していたらしい。



そのお堂に掲げていた二枚の絵馬。

右が閻魔さんの地獄絵で左は地蔵来迎絵を描いていた。



明治37年、明治32年に奉納されたようである。

神職は三輪神社から出仕される二人の神官だ。



幣で祓って祝詞奏上、玉串奉奠をする。

神事を終えた一行は龍谷三輪神社へ向かってお渡りをする。



道中に「ホォーイ ・・ ホォーイ ・・」の詞を発しながらお渡りするがと云っていたが真っ暗な闇の中。

真っ暗の中ではピント合せができなかった。

実際は低く唸り声のような「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」。

神官が「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」を発声されたら後方から「オォォォーイ・・ オォォォーイ ・・」と唱和する。

警蹕のように感じた暗闇道中のお渡りである。

かつては座中の若衆が神饌を収めた飯桶を頭の上にあげてお渡りをしていたそうだ。

昭和32年発刊に発刊された『桜井町史民俗編』によれば明治25年までのお渡りでは座中の女性が担っていたのであった。

後に若衆に移ったとある。



龍谷三輪神社に到着した一行は直ちに幣や神饌を供える。

本殿は見られない龍谷三輪神社。

ご神体は背後の神体山である。



神事が始まるころには村の人たちが神社に集まってきた。

かつてはローソクを灯した提灯の明かりだけだったマツリの夜。

ここでは最近流行りのLEDを使用することもない。

階段を踏み外さないように、足元を照らす白熱灯の投光照明によって村人の安全を配慮した。

拝殿に登るのは頭屋や氏子男性。

婦人たちは上がることもできずに外で見守る。



祝詞奏上、玉串奉奠の次に行われたのは「フリアゲ」神事だ。

これまで頭屋を勤めたことがない人の名を書いたクジを丸めて三方に載せる。



神さんが見下ろす場で神官は幣を付けた真榊を静かに下ろす。

麻苧の先に引っかかったアタリクジを引き上げる。

クジを広げて記入された名前を現認する。

大幣のフリアゲ神事は「トーヤ決め」の儀式である。

これを竜谷では「頭人定め」を神占の正式名称としている。

かつては3月27日の祈年祭のときにしていたようだ。

「フリアゲ」神事を終えた竜谷のマツリは子供の相撲で締められる。

対象者は幼児から中学生までだ。

かつては村氏子の男の子だけだった。

少子化によって男の子は少なくなった。



相撲ができなくなった時代に女の子も加えるようにした。

それも少なくなったから外氏子(外孫)も入れて存続している。

最初にご祝儀を賜った人たちの名を披露する。

それから子供たちが拝殿に登る。

狭い拝殿にどっと登った子供たち。

まずは神官によってお祓いを受ける。



そして始まった幼児の団体戦。

氏子・父親が子供を抱えておしくらまんじゅう(押し競饅頭)のように囲んでよっせよっせ。

周りからは「おー、おー」と掛け声がはいる。

泣きだす幼児もいる。

勝負を求めない相撲を終えた子供たちは神官から手渡される祝儀を受け取って降りる。

次の対象年齢は小学生。



次は中学生へと続く相撲は神前相撲であるが、後から考えてみれば女の子の相撲はなかったように思った。

竜谷の子供相撲を拝見して思い出した天理市の仁興町。

上仁興下仁興のそれぞれで行われていた相撲の在り方とほとんど同じような作法だと思えた。

神前相撲を終えたら直会に移る。

酒杯をいただく氏子はカワラケを手にする。

酒桶から注ぐカワラケ。

酒を一献する際には、田楽味噌をつけたダイコンとショウガスライス切りを手で受けて口にする。

田楽味噌は自家製。

ミリンに酒、砂糖を加えて作ったそうだ。

(H26.11. 3 EOS40D撮影)

竜谷のアゼマメ架けハザ

2015年06月29日 07時28分23秒 | 民俗あれこれ(干す編)
桜井市竜谷の宮座行事を取材していた。

ふっと振りかえれば、畑周りにずらりアゼマメ(大豆)があった。

そこには「ハダ」が立っていた。



上の田や下の田にもある「ハダ」にはアゼマメを架けて干すと話していた。

莢が乾いて豆が黒くなれば下ろして蓆に広げてバンバン叩く。

飛びだした豆は普段の料理に使うものなのか、それとも正月のおせち料理に使うのか聞きそびれた。

(H26.11. 3 EOS40D撮影)

台湾料理燃燃馬司店の台湾らーめん

2015年06月28日 06時47分25秒 | 食事が主な周辺をお散歩
数か月前に開店した台湾料理燃燃(ねんねん)は大和郡山市馬司町の交差点にある。

お店は元あったコンビニ店の建物を再利用したものだ。

一週間に3回は通る送迎道。

昼前ともなれば駐車場にはいっぱい停まっている。

台湾料理といっても辛くはない日本人好のみの味である。

これまで他店で味わってきた。

この日は仕事。

12時半に終えて直行する。

お店の席につくなり注文した台湾ラーメンは380円。

どの台湾料理店であっても同じ値段だ。

これが美味しくてついつい注文してしまう。

2分も経てば席に運ばれた。



ボリュームたっぷりのラーメンの香りが食欲をそそる。

ニラもモヤシも多いように思えた台湾ラーメンは醤油味。

コシが強い麺も多い。

中央にこま切れ豚挽き肉を盛っているのが特徴だが、調べてみれば名古屋が発祥の地のようだ。

台湾料理店の開店は奈良県内で広がっている。

燃燃の台湾ラーメンはトウガラシは大きくはない。

ほんの僅かだ。

この日は小さな子供を連れた二組の家族も来店していた。

前述したように辛くはない台湾料理。

子供にも味わえるので人気沸騰。

もちろんビジネスマンも食事している。

濃い目のスープは醤油味。

混ざった麺が食べても、食べてもなかなか減らない。

量はとても多いのだがにんにく味は感じなかった。

豚肉ミンチの量も多いから完食まで15分もかかってしまった。

僅かなトウガラシも入っているが思うほどの辛さは感じない。

(H26.11. 3 SB932SH撮影)

今木の黒豆天日干し

2015年06月27日 09時48分29秒 | 民俗あれこれ(干す編)
大淀町文化会館からの帰り道。

今木を通りがかったときだ。

県道309号線北側にあったサオカケに下げていたのは大粒の豆。

おそらく丹波の黒豆であろう。

曇天であるが、天日干しの景観を撮っておいた。



帰宅してから黒豆のことが気になった。

干した黒豆は莢(さや)が弾けて実が飛び出る。

落ちた実はどうやって手に入れるのだろうか。

下に蓆を敷くのであろうか。

ある村で拝見した黒豆取り。

乾燥して堅くなった黒豆は枝ごと納屋の前に蓆に並べて布団叩きの様な道具でバンバン叩いていた。

そうすれば莢(さや)から弾けて飛びだす。

それを拾い集めていたことを思い出した。

(H26.11. 1 EOS40D撮影)

畑屋の文化財in大淀町文化会館

2015年06月26日 07時30分51秒 | 民俗を観る
大淀町畑屋の文化財を展示すると知って出かけた。

展示会場は大淀町文化会館。

知らせてくれたのは学芸員の松田度さんだ。

これまで何度かの講演会などに出かけた大淀町文化会館。

平成23年9月の「大淀町の民俗-継承と活性化」もあれば平成26年6月の「三つの野」もあった。

それぞれ講演者によって視点が変わる。

視点が異なるから勉強になる。

そう思ってできる限り民俗に関する講義を聴講したいと思っている。

この日に訪れた時間帯は翌日の展示に際する設営である。



ガラスケースに収めた古い湯釜や伏せ鉦があった。

これらを応対・解説してくださったのは大字持尾の区長さんだ。

湯釜には刻印銘があった。

「畑屋 九頭神之宮 御湯釜 文明十一年(1479)己亥九月十八日」である。

県内事例に古い湯釜がある。

山添村の有形文化財に指定されている大字桐山の湯釜の銘は「切山庄九頭大明神御宮小谷弥七願勧進弥 永正十一年(1514)甲戌六月吉日七月」である。

畑屋の湯釜はそれより古い36年前のものであるが現在は使われていない。

一方、桐山の湯釜は今尚マツリの際に一老が作法される御湯祓いに使われている。

奈良県内で一番古いとされているのは吉野山勝手神社に保管されている湯釜である。

銘は「金峯山下御前湯釜也 康暦元年(1379)後卯月勧進」だ。

これもまた古い湯釜であるが現在は使用されていない。

とはいうものの畑屋の湯釜は文明十一年製。

今から540年前の湯釜は大淀町の文化財に指定してもいいのでは、と思った。

なんでも探偵団ではないが、大切にしてください、である。

展示される畑屋の文化財は湯釜以外に二つある。

いずれも伏せ鉦である。



一つは直径18cmの鉦で「天下一出羽大掾宗味作」とある。

古文書によれば享保時代(1716~)と伝わるそうだ。

もう一つの伏せ鉦は直径13cm。やや小型である。

これもまた「天下一出羽大掾宗味作」の記銘刻印が見られる。

持尾が所有する双盤鉦があるが、今回は写真での展示だ。

松田さんが苦心して何枚かに分けて撮られた双盤鉦は貼りあわせて一枚にされた。



記銘刻印は「奉寄附願主惣且邦衆元禄十二年(1699) 和州吉野郡持尾村金蓮寺 出羽大掾宗味作」だ。

展示物品にワニ口もあった。

記銘刻印は「和州吉野郡畑屋村鎮守 施主 中尾徳左エ門 南無八大龍王 嘉永四辛亥年(1851)四月吉日」である。

伏せ鉦や双盤鉦よりも比較的新しいワニ口である。

他にも文政拾弐年(1829)丑七月十日付けの古文書が展示されていた。

解説によれば実印を押印している「連判銀借用證文之事」だ。

大字持尾村、矢走村、畑屋村、芦原村4カ村の連判状は継ぎ目に捨て印もあれば割り印も見られる証文である。

現在でいう契約書と同じ形式で綴じていた。

借用主は持尾庄屋茂助である。

会場設営は忙しく準備に大わらわであったが、応対してくださった大字持尾区長が話すマツリに興味をもった。

「座講(ざあこう)」と呼ばれる宮座があるという。

祭事の場は天髪(てんぱつ)神社。かつては10月6日、7日にヨミヤと「座」があった。

いつしか一日に纏められて「マツリ」になった。

今では10月第二週の日曜日。

朝から餅搗きをする。

昼にヨバレがあって夜は19時に神主による神事が行われるそうだ。

村の文化財を展示されるなかで応対してくださったことに感謝する。

「息切れしない地域文化はこれからも持続していきたい」と松田さんはいう。

いい言葉に感服する。

伝統というのもそういうものだと思って帰路についた。

(H26.11. 1 EOS40D撮影)

おはし処源ぺい住之江店きつねうどん定食

2015年06月25日 08時42分40秒 | 食事が主な周辺をお散歩
おふくろがこれまで何十年もの長い期間に通院していた大阪市都島の玉城クリニック。

市営バスや市営地下鉄を乗り継いで出かけていた。

お医者さんを替えることは嫌っていたおふくろ。

88歳を過ぎた老人には負担があると思っているが、本人はそう簡単に替えられるものではないと思っていたが、今回、発症した萎縮性胃炎によって大変身した。

内視鏡検査の結果は何もなくともほっとしているが、あまりにも遠い通いはもう耐えられないと観念したのであろう。

居住する住之江の地域診療医・畠中医院に切り替えた。

歩いて10分。

ひょこひょこ出かけるにはそこでいい。

胃炎が治って身体が元通りになれば百貨店大丸まで出かけてしまうおふくろ。

その行為を止めることは必要でないが、薬剤療法の処方箋は移管しなければならない。

かーさんが電話をして手配しておいた玉城クリニック。

処方箋を受け取ってこれまでのお礼を伝える。

看護師さんにもこれまでの応対にお礼を述べる。

隣にある薬剤店もお礼をしておいた。

おふくろはどこでも人気者だったようで、笑顔と温かい言葉をいただく。

先に出かけて診療終えたおふくろを畠中医院で迎える。

処方してもらった北島薬局で薬剤を受け取って住まいに送った。

朝9時に出発した3カ所の医院巡りを終えた時間は午後1時半。

遅くなった昼食の場はどこにするか、である。

住之江には食事処がたくさんある。

いつも同じだと芸がない。

そう思って入店したのは産直鮮魚と寿司・炉端が謳い文句のおはし処源ぺいだ。

ランチタイムは午後3時まで。

なにがあるやらメニューに視線を落とす。

にぎり寿司の盛りや丼ものもあるが、お得な定食もあった。



かーさんは別メニューにあったちらし寿司・天ぷら盛りのおもてなし膳。

HPには掲載されていない膳は税抜き890円。

ちらし寿司もサクサクと揚がった天ぷらはとても美味しいと云う。

サラダもあれば茶碗蒸し、味噌汁もついている。

デザートはマンゴーだ。

一方の私は格安のきつねうどん定食。

税抜き690円だ。



おもてなし膳のちらし寿司から見れば貧相にみえるちらしの具。

膳ではエビ、イカ、サーモンが乗っているが、きつねうどん定食のちらし寿司では細切れのマグロにタコの足。

量はそれほどかわらないが、いずれも美味しくいただける。

先だって入店した魚輝の寿司よりこちらの方が美味しいのである。

きつねのアゲサンが二枚入ったうどん。

コシがあるつるつる麺はするすると喉を通っていった。出汁はすっきりとした昆布出汁・・だと思うが、これは魚輝の方が断然に勝っている。

(H26.10.28 SB932SH撮影)

小夫嵩方の宮座

2015年06月24日 07時21分21秒 | 桜井市へ
10月初めに仮屋に天照皇大神社(てんしょうこうたいじんじゃ)の分霊を遷しましをしていた当屋家。

ここは桜井市山間になる大字の小夫嵩方(おおぶだけほう)。

大字小夫の分かれの村である。

数週間後のこの日は宮座の行事が行われる。

当屋家には天照皇大神社の幟や五色の吹き流し旗を立てていた。

座敷に設えた祭壇に分霊を遷したヤカタがある。

小夫嵩方は上・下垣内合わせて13戸の集落。

昭和56年は18戸だったがその後に16戸となった。

さらに減り続けた戸数が13戸なのだ。

氏子らが参集された当屋家で神事が行われる。

祓えの儀が行われ室内で献饌される。



祝詞を奏上されるのは度々お世話になっている桑山宮司。

兼社は数多い。

烏帽子を被った当人は白装束の狩衣姿。

玉串を奉奠されて撤饌される。

これより始まるのが神遷しである。

宮司と当人は白マスクに白手袋姿。

室内電灯を消して当人以外の人たちは屋外に退出する。

当人以外はだれも見ることもできない神遷しはオオオォーの警蹕だけが屋外に聞こえてくる。

神遷し神事を終えた小夫嵩方の氏子たち。



笹と竹杖を持つ警護を先頭に天照皇大神社の幟、五色の旗、盾矛、唐櫃、当人、宮司らが渡行の列を組んで天照皇大神社を目指す。

警護は笹を左右に振ってツユハライ。



神さんが通る道を祓い清めていく。

この日は澄みきった青天。

空の青さが目にしみる。

標高はおよそ550mの山間地。

集落が点々としている通りを渡っていく。



背景に集落や山々を入れて撮らせてもらったお渡り行列。

長閑な山間にすこぶる感動してシャッターを押す。

大きな鏡餅を納めた唐櫃担ぎの後方はマスク・手袋・足袋のすべてが白。



装束も白色の仮衣姿の当人だ。

神さんを遷したヤカタに白い布を被せている。

渡行はおよそ10分間。

距離はそれほどでもないが急坂道の参道を登っていく。



幟を立てた拝殿。

奥に鎮座する本殿に神さんを遷された。

神事を見守る当人家族は拝殿の外。

厳かに行われる場に向かって手を合せていた当屋家の当主。



当人を息子に代を譲った父親は外からそっと見守る。

お供えは2社分ある拝殿。

本社に一式、高張提灯を立てた末社の山王神社と琴平神社にも一式だが、末社の社前ではなく拝殿の柱辺りであった。



当人と当主が内外に分かれて手を合せていた。

神遷しを終えた小夫嵩方の宮座。

御供を下げてしばらくすれば全員が社務所に上がる。

これより始まる儀式は当屋渡し。

上座中央に宮司。

右は当人。

左はマツリ総代が席に着く。

上席に向かったのは二人の給仕。



カワラケを持つ宮司に酒を注ぐが酒は口にしない。

これより謡曲が謡われるのだ。

謡いはカセットテープ。

奏でる曲は「高砂」だ。



目出度い謡が流れる間はずっと待つ。

終われば一口、二口、三口で飲み干す。

次は当人に注がれる。

同じように「高砂」が流される間はじっと待つ。

終われば宮司と同様に。

一口、二口、三口で飲み干す。

次は宮司に移る。

動画で撮っても静止画像。

静止画像で撮っても代わり映えしない画像だが周囲の人たちは神妙な顔つきで見守る。

同じように作法をした次は受け当屋に移る。

同じように作法をされて宮司に戻る。

当人から受け当屋に酒を飲み交わす間を取り持つ役目である。

こうした作法は三三九度。



固めの盃で当屋渡しを終えれば直会となる。

給仕は木製の湯とうで酒を注ぎ回る。

(H26.10.26 EOS40D撮影)

山田原の祭り

2015年06月23日 09時12分15秒 | 大和郡山市へ
かつては矢田坐久志玉比古神社と同じ日に祭りをしていたが、矢田のふるさと祭りが盛況になったことから祭事日を替えることになった矢田町の山田原。

なだらかな田園が広がる。

大和郡山市の矢田町は北に矢田坐久志玉比古神社が鎮座する。

矢田丘陵の東側にある里山だったが、40年前に大規模開発されて新興住宅が広がる田園都市のような状況になった。

新しい町は矢田山町に泉原町。

山を崩して開発されたように聞く。

それより南側にある地区が山田原。

さらに南へ下れば山田町になる。

大和郡山市の矢田町は市内で「いちばん広いんや」と山田原住民は話す。

矢田郷は北矢田、横山、南矢田、岡、丸尾、新(しむら)の六ケ大字。

北に航空祖神を祀る矢田坐久志玉比古神社がある。

南端になる山田原も矢田郷中にあったが、諸事情で「ずいぶん前に脱けた」やに聞く。

北と南に挟まれる山懐は40年前に大規模開発された新興住宅が建ち並ぶ。

この日のマツリは山田原の祭り

鎮守社の白砂子(しらすなこ)社に集まる。

その地の小字は白砂子である。

氏神さんは京都の愛宕神社から分霊を遷された火伏せの神さんに八百萬の神々。

山田原の五穀豊穣、家内安全を願って百十数年にもなると伝わる。

タイやコンブ、スルメ、ドロイモ、ナスビ、サツマイモ、キャベツ、ダイコン、ピーマンや果物のカキやキウイを供える。

宮司曰く、タイなどの魚は腹側を神さんに向ける。

コイは背中側になるという。

祓えの詞を唱えてからは祓えの儀。

神事を経て村を巡行する神輿の無事を願って宮司がキリヌサを撒いて祓い清める。

神輿と呼んでいるが形は赤、黄、紺の三層からなる布団太鼓である。

そして白砂子大神に祝詞を奏上する。

祝詞は神輿の安全な巡行を願って安全祈願もされる。

玉串奉奠は自治会代表(この年は事情で副会長が代行)に老人会代表や子供会代表も、である。

一同拝礼されて警蹕・閉扉で終える。

奉ったサカキの幣は神輿に取り付ける。

太鼓台は神輿に転じたのである。



やや小型の神輿は子供が太鼓を打ちながら村内を巡行する。

人数は少ないが先頭で綱を曳く男の子はとても元気だ。



青空が抜ける矢田丘陵が美しい。

ぐるっと南下して戻ってきた神輿。



後方にある住居は新町の泉原町だ。

ここは山を切り崩して開発された。



途中に出合った村の人はご祝儀を手渡す。

神輿はまたもや南下して隣村の山田町の境目まで巡行していった。



この日は山田原コニュニティセンターで採れ立ての地元産野菜などを格安で販売している。

一人で何個も買えばすぐになくなってしまうからと後先を考えて購入される。

村人思いの買い方だ。

この日は急がねばならない。

来年こそは買っておきたい採れたて野菜に思いを残して桜井市の山間に向けて出発した。

(H26.10.26 EOS40D撮影)

勢野西のイネコキ

2015年06月21日 08時31分47秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
神社行事の取材の合間である。

参道階段下にある田園景観を眺めていた。

ここは近鉄生駒線が通っている。

祭祀の際にも電車が通る音が聞こえてくる。

旧村民家の屋根瓦が光っていた。

その向こうに見えたのはサオカケしている天日干しの稲が並んでいた。

行事が始まった時間帯は覆っていたブルーシートを下ろす作業をしていた。

間に合えば拝見させていただこうと思っていた。

直会が終わったのは昼前だ。



イネコキ作業をされていた場に向かった。

イネコキ機は三菱農機のMH400。

榛原山辺三で拝見したイネコキ機械とほぼ同じ型である。



近くに寄って撮影の承諾を得た家族総出のイネコキ。

天日干しした稲を竿から降ろして機械に通す。

脱穀である。

脱穀米が袋に溜まれば自動的にブザーが鳴る。

そうすれば隣に設営したモミスリ機に運ぶ。

これもまた三菱農機のMF-S281。

ホースから奇麗になったお米がほくほくと出てくる。



作業の邪魔をするわけにはいかないので短時間で撮らせていただいた。

田んぼでサツマイモ引きをしていた男性の話しによれば勢野で唯一のイネコキ・モミスリ農家だそうだ。



2~3週間ほど天日干ししたお米は甘くて美味しいと云う。

家族が食べる量を作付けしている農家。



JAに出荷すれば機械乾燥したお米と混ぜて販売するので美味さが消えてしまうそうだ。

(H26.10.25 EOS40D撮影)