マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

山城町涌出宮を探訪

2018年01月31日 09時35分13秒 | もっと遠くへ(京都編)
木津川市山城町平尾に鎮座する涌出宮(わきでのみや)に「女座の祭り」があると京都府立山城郷土資料館が昭和59年10月に発刊した企画展の『祈りと暮らし』図録に載せていた。

その行事は今でもされているのだろうか。

図録には3月末とあるから期日ははっきりしない。

ネットをぐぐってみれば「京都府観光ガイド」サイトに広報されていた。

今年の日程なのか不明な点がある。

確かな情報にしたく遅瀬を離れた。

遅瀬からは月ヶ瀬ダムから北に向かうと京都府の南山城村に入る。

そこまではどれぐらいの時間がかかるやら。

とにかく車を走らせる。

南山城村から木津川沿いに下って木津川市に入る。

涌出の宮は同市の山城町平尾。

カーナビゲーションをセットするが涌出の宮はどこだかわからない。

とにかく主要部に行けばなんとかなるだろうと走らせる。

ふっと画面に出現した涌出の宮はJR奈良線の棚倉駅の真ん前。

そこに貼ってあった行事の案内はまぎれもない「女座の祭」である。



日程は3月20日の春分の日とある。

時間は10時であるが、座中の了解を得なくてはならない。

駅前にはどなたも通る気配はない。

付近に住む人であれば、何らかの情報がわかるかもしれないと思って理容室の女性に尋ねる。

その人が紹介した家はすぐ近く。

呼び出しベルを鳴らして教えを乞う。

家人が云うにはうちではなく別の地域の人たちになるという。

家人の家は男座。

もう何カ所も男座。

逆に女座は南の地域。

該当地がどうもわかりにくい。

そうであれば神社の宮司さんに尋ねた方がいいだろうと教えてもらった電話番号。

かけてみればすぐ近くだった。

取材申し出をさせていただいたが『祈りと暮らし』図録に掲載されていたころよりも状況にかなりの変化があるそうだ。

図録によれば女座は大平尾地区の中村座と岡之座。

それが該当地区のようだ。

昼ごろになれば両座の当屋家におなごしさん(女衆)が参集する。

その日の朝、当屋の当主は野菜の大根を包丁で切って「なぞらえもの」を作る。

図録には当時の様相を伝える写真が掲載されている。

「なぞらえもの」の大根は2本。

三方に盛って床の間に飾る。

女衆はその前に座って会食をする。

食事を済ませば「なぞらえもの」や神饌を持って涌出宮に参る。

「なぞらえもの」は男根を模したもののようだ。

先端に朱を入れているらしい。

供えた「なぞらえもの」は子どものできない女性が食べると子供が生まれると云われているから神社にやってきて貰う。

「なぞらえもの」は増殖を示すシンボル。

民間信仰が残っていることはわかったが、貰いに来る人があるのかどうか、その日にならないとわからないようだ。

御供上げ、御供下げの取材は承諾いただいたが、座の在り方は変容され、当屋家の会食ではなく料理屋になっているという。

奈良県内の行事に伊勢講とか庚申講がある。

一部の地域ではヤド家の営みではなく料理屋に出かけて食事をするケースが増えつつある。

涌出宮の女座も同じような状況であったろう。

女座の在り方は掴めたが、先に教えてくださった男座の家人も宮司さんも行事のお薦めは居籠祭り。

行事の様相を纏めたDVDがあると相方に手渡された特別版。

要約版は女座に来られたときにでも、と云ってくださる。

ありがたく御礼をするとともに、これまで3日間で行われてきた居籠祭りは2日間に短縮されたそうだ。

そうであっても来年の予定は今からでも組み替えなければ、と思った。

神社由来表記に「いごもり祭は与力座の運営により、古川座・歩射(びしゃ)座・尾崎座が参画して祭祀が行われる。

室町期の農耕儀礼と古代神事をよく温存しているといわれる祈年祭である。

拝殿に掲示している資料を拝見すると、「2月15日午後8時ころに門(かど)の儀・大松明の儀/2月16日午後2時ころに勧請縄奉納の儀/17日午後2時から4時は饗応(あえ)の儀、御田の儀/他見をはばかる神事は2月15日午前1時~18日午前5時の森廻り神事・野塚神事・御供炊き神事・四ツ塚神事」と書いてある。

ただ、宮司が云われるように、現在は第三土曜日に門(かど)の儀・大松明の儀、翌日の第三日曜日の午前中が勧請縄奉納の儀で饗応(あえ)の儀、御田の儀は午後の神事であるようだ。

(H29. 3.15 SB932SH撮影)

カメラのキタムラ奈良南店・第16回写真展-竿干し風景-

2018年01月30日 10時10分47秒 | しゃしん(カメラのキタムラ展示編)
平成14年から始まったカメラのキタムラ奈良南店(奈良県奈良市杏町153)での写真展は今回で16回目。

これほど長く続けてこられたのも、異動で各地に転勤されていった店長や副店長のおかげ。

この場を借りて歴代の人たちに感謝申しあげる。

3年前に揚げたテーマは「食を干す」。

昨年は「ハダがある景観に」。

今回は「干す」テーマの3作目。

「干す」3部作のラストに選んだサブテーマは「竿干し風景」。

どこにでもあるような・・。

それは誰しも見たことがある日常的な干しもの。

何気もないから、つい見逃してしまうありふれた日常を切りとる。

外干しが多い中、部屋干しもある。

私がとらえたそれぞれの景観に民の暮らしがある。

風景的景観に見惚れつつ、撮らせていただいた「暮らしの民俗」を伝えたい。

そう、思って、今回もまた、8枚組み写真で展示することにした。

今回は副店長のMさんに加工してもらった裏張り作業。

16年目になった今回の展示。

店長をはじめとして奈良南店のみなさまのおかげでありまする。

今年もまた感謝の一年が始まったことが嬉しくもあり、また来年もと励みになる正月展示である。

今回もエクセルで作った解説シートを展示場にさりげなく置いた。



展示期間は来月の2月初めのころまで。

(H30. 1. 3 SB932SH撮影)

遅瀬の年中行事

2018年01月29日 09時22分45秒 | 楽しみにしておこうっと
遅瀬の初祈祷である。

地蔵寺の床の間に遺してあったハゼの木に挟んだ2本のごーさん札を拝見していた。

ハゼの木をもって米寿を祝う。

早朝から作業を始める古い版木でごーさん刷り。

朱印を一枚、一枚押して作られる。

遅瀬は65戸の集落。

かつては版木刷りも多かったが、JAから稲苗を購入するようになった関係で苗代作りをすることはなくなった。

そういう関係があって、ごーさん札を立てる苗代もない、時代になってからとんと見なくなった。

刷る枚数は極端に減った。

かつては、各家が四方の木肌を削った家の男の人数分だけハゼ木に“ソミンノシソンナリ”の文字を書いて祈祷してもらっていた。

床たたきのダンジョーや額押しもしていたが・・今はしていないという。

初祈祷行事は版木刷りを終えてから住職による法会がある。

枚数は少なくしたが、それでも余るという祈祷したハゼの木のごーさんは、苗代がなくとも、無理やり渡して貰って帰ってもらうそうだ。

遅瀬の初祈祷を初めて知ったのは平成22年10月10日の村当家祭行事の取材に来たときだ。

表小屋のガラス窓に挿していたごーさん札であった。



ところで遅瀬の寺行事は季節ごとに行われている。

3月は初午の厄除け大般若祈祷会。

同月21日は彼岸会。

7月20日前後は収蔵する経典の虫干し。

8月はどの地域でもある施餓鬼行事の盆供養もある。

10月の16日に近い日には氏神さんの行事もある。

また、山添村など付近の山間地区にもあるフクマル行事がある。

氏子総代らが云うには、数軒でしているらしい。

家から出てきた家長は藁に火を点けてとんど焚きにする。

その際に唱える詞が“フクマル コッコイ”とか、“フクマル コイコイ”、或いは“フクマル コッコー”など、フクマル呼びをする。

大工棟梁家がしている時間帯は除夜の鐘撞のころのようだ。

さまざまな行事のことを教えてくださる総代ら。

「遅瀬」の村名は二つからきているという。

一つは郡山藩の「おそせ」。

もう一つは藤堂藩の「うそせ」。

「おそせ」は「遅瀬」であるが、「うそせ」を充てる漢字は動物のカワウソの「(川)獺」の漢字だと話していた。

(H22.10.10 EOS40D撮影)

遅瀬・地蔵寺の涅槃会

2018年01月28日 09時00分06秒 | 山添村へ
山添村遅瀬の行事取材はずいぶんと間が空いた。

「マジャラク」とはどのような形であるのか。

拝見したく訪れたのは平成22年の10月10日

その日に寺行事があると聞いて伺った場所は集会所にもなっている中南寺(なかなんじ)。

毎月の17日に集まってくる観音講の営みである。

訪れたのは平成23年の9月17日だった。

遅瀬にはもう一つの寺がある。

場所は村当家祭が行われた八柱神社。

その年は生まれたばかりの男児がいなくて村当家(むらどー)

対象の幼児がおれば本来の当家祭になる。

神事を終えた一行は公民館でもある八柱神社の参籠所に上がって「座」の営みが行われる。

その参籠所奥にあるお部屋が地蔵寺。

その場で正月初めの初祈祷が行われる。

そう聞いていたが、なかなか都合がつかなくて未だに拝見できていないが、祈祷したハゼの木に挟んだごーさん札があると聞いていた。

あれから7年も経過した。

当時にお会いできた長老たちは元気にされているのだろうか。

村の代表者も替わったことだろう。

気にはなるものの、どうするか迷っていてもしかたないので、毎年の年賀状を届けてくれるUさん家を訪ねる。

訪れたのは通院を終えてからだった。

天理市内から山添村に走る。

お家は見つかったがUさんは職場におられるということだった。

訪ねた職場は山添村の役場だった。

受付にお願いしたら出てこられた。

久しぶりに顔を合わせてお願いする現在の氏子総代を紹介していただく。

尤も紹介は電話でのこと。

地蔵寺で行われる涅槃会取材の許可取りができてほっとする。

参籠所の扉の向こうには人がおられる。

声がするから扉を開けて声をかける。

どうぞ、と云われて上がらせてもらった参籠所の奥の部屋におられた3人の氏子総代にご挨拶をさせてもらった。

こうして拝見するこの日の行事は涅槃会。

地蔵寺の正面壁に掲げていた涅槃図はとても大きい。

高さは200cm。

幅は165cmの涅槃会は彩色が美しい。

劣化もない涅槃図の最幅は表装部分を入れて185cm。

氏子総代らが云うには15年ほど前に表装をし直したということだった。

遅瀬の涅槃図は猫もいる珍しい様式だと話される。

探してみれば右下にちょこんといてはる。

涅槃図に猫が描かれているといえば、京都の東福寺である。

縦が15mの横幅が8m。

とてつもなく大きい大涅槃図は室町時代の応永十五年(1408)の作。

私は未だ拝見しない大涅槃図にたいへん珍しい特徴があるという。

それが「猫」である。

東福寺ではこの猫を「魔除けの猫」縁起として伝わっているそうだ。

一般的に涅槃図は「」を描くことはないそうだ。

遅瀬の涅槃図にも「猫」が描かれていた。

「猫」の表情、構図はまったく違うが、珍しい。

村も自慢する涅槃図であるが、調べてみれば他所にもあるようだ。

ネット検索して見つかったお寺は千葉県安房郡鋸南町にある瑞雲山天寧寺

寺名は不明だが神奈川県にある寺院にもあるらしい。

また、茨城県守谷市にある雲光山華厳院清瀧寺にも涅槃図があるそうだ。

探してみれば奈良県内にもあるがわかった。

一つは橿原市正連寺大日堂にも。

記録によれば涅槃図を寄進したのは、当時橿原市豊田町住民。

寄進年代は延享三年(1746)。

同寺では涅槃会の法会をすることなく大日堂資料室で拝見できるそうだ。

ネット探しはそれぐらいにするが、FBでの知人たちからここにもあると伝えてくれた猫有り涅槃図。

一つ京都市東山区の御寺泉涌寺の涅槃図である。知人がいうには縦が16m。

横幅が8mもある。

凄いとしか言いようのない大きさは日本一とか・・で、吊り上げるだけでもたいへんな作業を伴う。

また、薬師寺東京別院にもあるとメールで伝えてくださった。

年に数回行われる特別大写経会のうちの2月13日~15日が釈迦涅槃会。

同院のHPにその日程が書かれていないことから特別な方の写経会であろう。

ちなみにその涅槃図の年代は天正五年(1579)である。

もう一人のFB知人が伝えてくれた山添村勝原の涅槃図。

私も実際に拝見したことはあるが実測はしていない。

寄進年代が寛文十年(1670)とわかったのはこの年に訪れた2月11日だった。

年代ばかり気になっていたので、猫があることは失念していた。

県内だけでなく、探してみれば全国あちこちにあるような気がしてきた猫入り涅槃図。

先に挙げた東福寺HPの解説によれば、同寺の涅槃図は室町時代の画聖とされる兆殿司(吉山明兆;きつさんみんちょう)によって描かれたとある。

寺伝によれば、裏山の谷から絵具を銜えた猫が現われて献じた。

そのことを大いに喜んだ画僧明兆はお礼に描き加えたという説話に続きがある。

涅槃図には鼠がいる。

その鼠が薬袋をかじって落とそうとしていたので猫が阻止したとうのだ。

三重県鈴鹿市にある龍光寺

同寺にも猫が描かれた涅槃図がある。

毎年3月の第二土曜日より3日間に亘って行われる「かんべの寝釈迦まつり」と呼ぶ涅槃会である。

同寺の涅槃図も吉山明兆の作。

東福寺は龍光寺の大本山。

その関係があったものと推定される。

紹介するブログによれば、同じく三重県津市榊原町にある林性寺にも。

同寺は毎年3月14日より3日間に亘ってご開帳されているが、東福寺繋がりでもなさそうだ。

暗黙のルールを外して猫を涅槃図に描き加えた吉山明兆は正平七年(1352)~永享三年(1431)。

室町前期、後期に亘って活躍した臨済宗の画僧。

明兆以前には猫入り涅槃図の存在が見られないとすれば、各地に存在する猫入り涅槃図は、応永十五年(1408)明兆作の東福寺涅槃図を模して各地の絵師が描いてきたものと考えられる。

長々と猫入り涅槃図について調べてきたが、話しは遅瀬の涅槃会に戻そう。

遅瀬の涅槃図を納めている「涅槃像入箱」に目を移す。

その箱に墨書文字がある。

「大和國山辺郡遅瀬村地蔵寺什物」とある表面。

黒光りはしているものの古さはそれほどでもないように思えた。

ただ、念のためと思って表面の蓋を裏返してみたら文字がでてきた。

「昔 明治十五年春貳月新調現在越後國高橋教連」とあった。

やはり、時代は新しい。

とはいっても明治時代のことである。

さらに拝見した「涅槃像入箱」。

今度は底の裏面である。

表も裏もひっくり返したあらゆる面から探りを得る。

その結果が報われること・・。

箱の側面に貼ってあった白いシールの印刷文字が「釈迦念仏供養(涅槃会)掛図」。

いや、これではなく底面に、あった薄っすらとした墨書文字は「干時 正徳六丙申(1716)三月十□五日」である。



正徳年間は西暦1711-1716年/6月まで。

「涅槃像入箱」の底面を拝見してようやく年代がはっきりした。

法会を終えてから拝見した涅槃図の裏面にも墨書があった。

「添上郡月瀬村大字尾山 表具再調人 岡本重五郎 長老世話人(連名で西山菊松 長島岩松 奥端猪々松 井戸根市松 上峰駒石 井尾□吉 永谷岩吉 井戸元由松 昭岩松 今中由松 以上10名) 昭和四年七月二十二日調之」とあった。

15年ほど前の表装し直しどころか、89年前に再調されていたのだった。

「涅槃像入箱」などを拝見させているころに来られた僧侶は山添村大字春日の龍厳山不動院住職の前川良基さんである。

平成26年の9月5日に行われた自寺院の高野山結縁行脚である。

直近にお会いしたのは2カ月前に行われた大字大西のオコナイであった。

支度を調えて始まった地蔵寺の涅槃会。



総代はご本尊を安置するところに立てた燭台に火を灯す。

本堂には総代の他、区長に7人のネンヨ(以前は8人/8組だった)と呼ばれる組長さんらが座る。

地蔵寺の空間は広い。



壁際いっぱいに座られているから超広角でもない限り、全員が座る様相は撮れなかったことをお詫びする。

まずは礼拝。

そしてお堂は・・・。

漢語、和語で唱える涅槃の法会。

お釈迦さんの入滅について讀まれた釈迦仏法要和讃を唱える。

節をつけてゆっくりとした調子で唱える。

時間にしてはおよそ30分。



その途中に廻される焼香。

一人、一人に廻される。

和讃を終えたら般若心経に移る。



そして礼拝で法会を終えた。

住職が云うには、山添村の涅槃会はここ遅瀬と上津しかない。

そう云われたが、僧侶の姿のない涅槃会は勝原にある。

(H29. 3.15 EOS40D撮影)

るんるん帰りのリハビリ運動

2018年01月27日 09時50分44秒 | むびょうそくさい
リハビリ運動が始まってこの日で通算59回目。

毎日の訓練とすればまるまる2カ月間。

心臓が元通りの動きになるよう願って出かけた外来棟。

今回も受付を済ませてリハビリ室に行く。

この日も心電図機器を装着して運動に臨む。

そのときの心拍数は43-45拍。

準備体操前の状態では50-51拍になる。

自然と上昇する心拍数が嬉しい。

整備体操の次はスクワット運動。

心拍数は52-53拍。

運動方法によっては55-58拍にもなる。

この日も順調なスタートを切った。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は116-68。

脈拍は58-60拍。

この日もいつもと変わらぬ状況。踏み始めて1分後のワークは55。

心拍数は61-62拍。

回転しだしてから2分後の脈拍は58-60拍。

変化に乏しい上昇。

波に乗れないというか・・・。

6分後の血圧は137-65。脈拍は67-68拍。

11分後の血圧は149-63。心拍数は73-74拍。

16分後の血圧は140-60。脈拍は68-69拍。

21分後の血圧は162-62。脈拍は68-69拍。

変化のない状況が続く。

そんな状況が安定していると診断したリハビリ療法士のIさんが声をかけた。

先週に伝えたいつまで続くやら、に対する結果である。

その結果は嬉しいお言葉。

なんと、なんとの卒業である。

今日で終わりでなく3月末を以ってご卒業おめでとうということになった。

心臓手術後のリハビリ運動を始めた日は退院十日後の平成27年8月25日

その日から始まったのであるが、当初は1カ月に一度の運動であった。

サイクルは私の決断で一週間ごとにしたのはカテーテル焼却処置をしてからのことだ。

2度目の退院後の復帰のリハビリはその年の12月24日に再開した7回目。

週間体制にしたのは翌年の平成28年2月23日の11回目からだ。

心臓ペースメーカーをしなくちゃならんような状態に陥った。

体内残留の薬のせいだといわれて焦った。

運動すればわが身の心臓も考えてくれるだろうと訓練機会を早めた。

その結果はすぐに現れなかったが、少しずつ、少しずつ。

一進一退の状況ではあったが、ほんとに少しずつ、である。

やがて安定的な状態になった。

起床時、安静時は40拍まで届かない低い心拍数であるが、リハビリ運動や自宅周辺を歩く状態であれば心拍数は60拍前後になる。

動いておればまったく問題はない。とはいえ一日中を動き回っているわけにはいかない。

ただ、状態は順調に推移し、心臓ポンプの動きは安定化したといえる。

そういう判断で卒通告された卒業である。

その通告に心はるんるん。

目の前が明るくなったように思えた。

ラスト、26分後の血圧は146-61。

脈拍は68-69拍で終えた。

リハビリ療法士のIさん同様に診察してくれたGリハビリ療法士も喜んでくれる。

入院したときの主治医だったK循環器医師も喜んでくれる。

当時の私の心臓をよく知る主治医である。

そのときの心臓は僧帽弁が壊れてぐちゃぐちゃ。

長期間に亘る治療を経て成形手術

その後に発症したの心不全治療の経皮的カテーテル心筋焼灼(しょうしゃく)処置もご存じである。

感謝に絶えない医師、療法士のみなさん方にはたいへん世話になった。

今後の生活は歩行運動も欠かせず、そして民俗行事の取材も・・と云えばお世話になったこの場所、先生方も撮ってかまわないという。

嬉しいお言葉に最終日はカメラを持っていくことにした。

ただ、気になるのが毎日の状態を記録している健康手帳である。

もう、貰えないのですね、といえば、そんなことはない、いつでも受付に申し付けてくれたら無料配布するという。

リハビリ運動は卒業だが循環器内科診察は3カ月おき。

血管外科診察は半年に一度がある。

そのときにリハビリ室へ来てもらって顔出しして元気な姿を見せてくださいと云う。

これもまた嬉しいお言葉を背中にるんるん気分で外来棟を出た。

(H29. 3.14 SB932SH撮影)

大岩・涅槃会の日に拝見する村の文化財

2018年01月26日 09時31分59秒 | 楽しみにしておこうっと
フェースブック(以下FBと表記する)で知り合った大淀町大岩のK区長は、3月に大日堂で旧安楽寺涅槃図を掲げて涅槃会をすると伝えていた。

K区長がリクエストしてくださったFBで繋がったのは平成29年の1月19日のころ。

かつては御所市戸毛にも立山があったと伝えてくれた。

50年前ではあるが、貴重な体験をされていた。

体験した年代は10歳のころの子供時代。

そこでサイダーを飲んでいたという。

区長が住む大字大岩は戸毛より一山超えた南側にある地である。

大字戸毛に立山があったと知った私は隣村の高取町丹生谷に住むNさんに尋ねた。

戸毛、丹生谷、大岩はまさに近隣の村。

一山を境にある地区である。

Nさんはあったという情報を基に地域在住の何人かに聞き取り調査をされた。

その結果わかったことは、確かにあったということだった。

Nさんから送られてきたメール文は「場所は戸毛の街道沿い。時期は8月23日と24日の地蔵盆の時。規模は街道沿いの町家や倉庫等数カ所で、夜店も出て花火もあがって賑やかでした。主催は、昔は商工会が主催し、その後戸毛の各隣組が、それぞれが一つの山を出したようです。動きがあるような山もあり、作り手が戸毛でいなくなった時に、上市の作り手から購入した事もあったという情報も得ました。いつまでやっていたのかは定かでないです。昭和40年頃まであったかな。今では元の戸毛小学校跡で同時期にイベントが行なわれています」。

続けて送ってきたメール文に「それは凄い人盛りでした。私が住む地区は高取町丹生谷ですが葛駅を挟んで西側が御所市戸毛、子供のころの買物の場、遊びの場でした。7月の23日、24日は隣の高取町谷田の地蔵さんで花火が上がり、8月には戸毛の地蔵さんで沢山の夜店が出て花火もあがり・・・。懐かしいです」とある。

さらに続くメール文は「場所は葛駅前でなく、飛鳥時代の紀路→高野街道→中街道(奈良~五條)→現県道高取-五條線の街道筋で行なわれました。当時は奈良交通のバスが御所~下市まで運行されており、この街道を走っていました。現在では国道309号戸毛バイパスが出来、車もそちらへシフトしましたが、御所市のコミュニティバスはこの旧街道を走っています」。

「カーバイト燈で照らされた夜店では、たこやきなどの食べ物やサイダーなどの飲物、金魚すくい、型抜き、あてもの、お面等が売られ、その日だけに和菓子屋が販売する「しんこ」(赤福のようなあんころ餅)が何よりの楽しみでした。今でもこの“しんこ”は存在します」だった。

Nさんの思い出話は尽きない。

貴重な体験話しにある「上市の作り手から購入した事もあった」という下りである。

実は上市町に今でも立山を実施していることがわかった。

平成28年7月30日にその実態を聞取りしていた中に“六軒町の立山”は橿原市の八木町に引き取られていたということだ。

上市の立山は廃れて、今では六軒町でしか見られないが、かつては街道沿いに連なる隣町でもしていたというこから、いずれかの町が戸毛に譲られたのであろう。

お二人の記憶が上市の立山に繋がったのであった。

さて、大岩の涅槃会である。

間に合うかどうかは、明日香村大字上(かむら)で行われていた「ハッコウサン」次第だった。

大岩の涅槃会は午後2時から行われると聞いていた。

上(かむら)の「ハッコウサン」の行事が始まる時間は午後1時。

短時間で終わりそうな気配だったが、直会も含めれば1時間以上も要する。

上(かむら)の村人たちに失礼してそこそこ早めに退席する。

明日香村から大淀町へ行くには一山越える。

距離はざっとみて片道12km。

距離はそれほどでもないが、カーブ道にアップダウン道。

しかも初めて訪問する大字大岩。

涅槃会をすると云っていた大日堂の場所すらわからない。

あっちでもない、こっちでもないと車を走らせたら町経営のパークゴルフ場を貫く峠道まで行ってしまった。

Uターンして下ったところに行事帰りの男性に尋ねた大日堂の場はわかった。

場所だけでもと思っていたが、お堂に待っていた人がいた。

丁度終わったばかりで扉を締めようとしたときに、村の人から訪問者が来たという連絡が入ったから待っていたといったのは区長さんだった。

時間は午後3時を過ぎていた。

ありがたいことに仕舞ったばかりの涅槃図を広げてくださった。

屋根瓦の風化に板材の腐食による雨漏りが激しかったことから、平成24年度に改修工事を実施された大日堂。



その工事のおかげもあって屋根裏から延宝八年(1680)の銘を刻んだ鬼瓦が発見されたそうだ。

安置されている仏像に木造大日如来坐像がある。

元禄十年(1697)に他所から移されたと伝わるが、来歴は定かでない。

平安時代後期の作と考えられている大日如来に伝わる話しがある。

「夏の日照りが続いたとき、大日さんが雨を降らせてくれると、お堂の前で雨乞い行事が行われていた」という伝承である。

大淀町に貴重な民俗行事を伝える大日如来。

吉野地域でも優れた仏像としての価値が認められて平成2年に大淀町の有形文化財に指定されたと町のHPに書いてある。

涅槃会行事には間に合わなかったが、89歳のおばあさん(区長の母親)が唄っていた雨乞いの詞章があると史料を見せてくれた。



書き遺した詞章史料は「たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん」とある。

今にも母親が唄う声が聞こえてきそうな詞章である。

県内事例に「雨たんもれ・・・」と唄っていた事例は数多くあるが、全文が遺っている事例は多くない。

しかも自筆。

後世に遺しておきたいという思いが伝わる貴重な史料である。

大岩の雨乞い行事に、現存する打ち鉦も遺されていた。



外縁含む全幅直径は32cm。

縁部分を除けば28cm。

内径は25cmで高さは9cmの打ち鉦に刻印があった。

「和刕吉野郡大岩村安楽寺 住僧楽誉極念代 寶永三丙戌歳十月十五日 施主念佛講中」である。

寶永三丙戌歳は西暦1706年。

製作した年より雨乞い道具として叩いていたと推定してもざっと数えて310年間。

打つ鉦の音に合わせて「雨たんもれ」と唄っていた。



打ち継がれてきた鉦の音色はどことなく優しい。

大日堂は明治時代に廃寺になった。

現存する扁額に「安楽寺」とあったことから、寺の小堂であったようだ。

その「安楽寺」の刻印がある打ち鉦は大岩の歴史を物語ってくれる。

打ち鉦を寄進したのは当時の念仏講中であったことがわかる。

これまで私が拝見した雨乞いに打っていたとされる鉦の事例は2枚ある。

桜井市萱森・集福寺薬師堂の六斎念仏講が所有する雨乞い鉦と奈良市法蓮町の阿弥陀講が所有する農休みのアマヨロコビに叩いていた鉦である。

いずれも年代を示す刻印はないが、作者は西村左近宗春であった。

戦後間もないころまでしていた大岩の雨乞い。

今から70年も前のことである。

標高240mにある尾根道に井戸のように湧く泥水を掬って、「タンゴオケ(肥桶)」に入れて運んで尾根を下りた。そして、「雨たんもれ」と云いながら大日堂の屋根に泥水を放り投げていた。

行列を組んで尾根の井戸に向かうときに唄ったのが「雨たんもれ」である。

長らく井戸の所在がわからなかったが、現在77歳の男性が兄とともに行ったことのある記憶を頼りに探してみたら見つかった。

僅かに残っていた頭の中の記憶を頼りに探し当てた。

その地はまさに尾根であるようだ。

日照りであっても水が湧く不思議な地の池。

名前のない池であるが、そこは“大日さんの井戸”の呼称がある池。

高取町丹生谷の微妙な地域内になるそうだが、隣村の御所市葛と大淀町大岩3村の境界地点。

尾根そのものになる場に池がある。

そこには大日如来がおたびらをしていたという。

おたびらとは大和方言で“胡坐“を意味する。

おたびらしていた大日如来は大岩の大日堂に連れてきて納まったと伝わる

“大日さんの井戸”から運んできた泥水は大日堂の屋根に放り投げた。

その屋根を洗い流そうとしたら、雨が降ってきたという。

泥水が汚れておれば、なお一層の効果があったという。

雨乞いの詞章に打ち鉦。

そして、“大日さんの井戸”。

三つ揃った大岩の雨乞いは文化財。

90歳の男性体験者が生きている間に再現、復活したいと区長が話してくれたのが印象的だった。

この日の涅槃行事取材は翌年に持ち越しとなったが、雨乞い行事の復活に力添えができれば、と思った。



また、3月の涅槃会以外に大日堂行事は2月の「大日さん」と呼ぶ行事もあるそうだ。

大日堂は元真言宗派。

区としては宗派替えもあって現在は浄土真宗。

大岩区は東垣内と西垣内の二つ。

同じ浄土真宗であっても寺は異なる。

東垣内は大蔵寺。

西は西照寺になるそうだ。

また、月に一度は「おっぱん」を供えているらしい。

「おっぱん」は「仏飯(ぶっぱん)」である。

その「おっぱん」を盛る杯がある。

杯を納めている箱は当番が持ち回りする。

この日行われた涅槃会にも「おっぱん」をしていたという。

長々と話してくださった区長が云う。

家に来てもらったら、貴重な鰐口をみせてあげようと、いうことで上がらせてもらう。

箱に納めていた鰐口に刻印がみられる。



「城山国 相楽郡 賀茂 東明寺 永享ニノ十 六月十七日」と読めた鰐口は西暦1430年に製作されたものだった。

今から588年前に製作されたと考えられる城山国相楽郡賀茂(現京都府加茂町兎並寺山)東明寺の鰐口が何故に区長家にある経緯はわかっていない。

加茂町と大岩の繋がりすらわからない、という。

調べてみれば、加茂町に日蓮宗寺院の燈明寺がある。

寺伝の元禄九年記の「東明寺縁起」によれば奈良時代の行基が開基したと伝わるそうだ。

東明寺”は法人登記があるものの現在は廃寺同然にある燈明寺であったようだ。

“東明寺”は建武年間(1334-1336)の兵乱で廃絶したのち、康正年間(1455-1456)に天台宗の僧忍禅が復興したそうだ。

鰐口の製作年が永享ニ年(1430)とあることから、復興する前から寺の存在はあったとしても、持ち主を失っていたのではないだろうか。

製作はしたものの行き場を失った鰐口が、どういう経緯で大岩に行きついたかは不明であるが、これもまた歴史を物語る逸物である。

また、区長が伝えてきたFBメールがある。

「奈良県薬業史によると、文久三年(1863)に大淀町大岩に合薬業を営んでいた人がいたそうです。私の家には“重訂 古今方彙(安永九年(1780)版本”が残っています。なぜに我が家に残っているのか、大岩の薬業の歴史をこれから調べていこうと思っています)とあった。

数々の歴史文化がある大岩に魅力をもったのは云うまでもない。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)

上のハッコウサン

2018年01月25日 10時32分39秒 | 明日香村へ
明日香村の大字上(かむら)に「ハッコウサン」と呼ぶ行事があると知ったのは、上(かむら)に家さなぶり習俗を探しにきたときだ。

祭事の場は長安寺の一堂とされる薬師堂である。

本来は3月11日の行事日であったが、現在は村の人たちが集まりやすい第二日曜に移された。

薬師堂に祭っている小像が「八講さん」。

つまりは藤原鎌足公である。

年に一度の開帳に飛鳥坐神社の飛鳥宮司が出仕されて神事をされる。

伝承によれば、藤原鎌足公の子、藤原定恵は多武峰の山上、山腹、山下に建てたという「八講堂」の一寺として薬師如来像と鎌足公の木像を奉ったそうだ。

3月12日が鎌足公の縁日。

昭和62年3月に発刊された飛鳥民俗調査会編集の『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

Ⅵ章「飛鳥と多武峰」によれば、談山神社の郷中になる多武峰北麓の桜井市側。

大字横柿、今井谷、生田、浅古、下、倉橋、下居組(下居・針道・鹿路)、音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻り。

つまり8年に一度が先に挙げた大字の順に毎年交替する八講祭を営んでいる。

かつては大字それぞれにあった小堂の八講堂で行われてきたが、近年になって、すべての大字が祭事の場を談山神社の神廟拝所で行うようにされた。

しかも縁日であった12日ではなく近い日曜日に移して行っている。

一方、明日香村にも八講祭がある。

その在り方を調査された柏木喜一氏が足を運んだ結果、次の大字で行われていたことがわかった。

明日香村の八講祭は「八講さん」或いは「明神講」の名であった。

桜井市側と同じようだが、また異なる在り方。

大字上(かむら)の八講祭は鎌足木造立像を祭る。

桧前の八講祭は村4戸の藤原鎌足講営みに当番家で鎌足親子三像掛図を掲げる。

大根田は観音寺で区長預かりの鎌足親子三像掛図を掲げて立御膳を供える。

入谷は大正期に中断したものの、「ハッコウサン」の営みがあったそうだ。

また、明神講行事として営みをしている地域は細川、尾曽、小原、東山、八釣、阪田がある。

細川は14戸の西垣内と東垣内が毎年1月実施の輪番当番が鎌足尊像掛図を掲げる。

尾曽は8戸。

1月庚申の日に区長家で鎌足公掛図掲げて初集会をする。

小原は7戸。

毎年1月末に鎌足親子三人像を床の間掲げる。

東山は10戸。

1月に当番家で鎌足親子三人像を祀る。

八釣は1月14日に当屋家で鎌足公の掛図を掲げる。

その日は午前10時に講中が寄合って三巻の般若心経を唱える。

阪田は宮座の当屋が翌年正月中に営み。

鎌足親子三人像を祭って立御膳を供える。

かつては稲渕や飛鳥にも営みがあったようだ。

また、桜井市の高家では1月中に旧中垣内の三組/四組が組共有の鎌足親子三人像と鎌足公掛図を当屋家に掲げる。

同じく桜井市大福の八講祭は1月1日と8月15日に大織冠尊像掲げる。

多武峰以外の周辺地域にこれほど多くの「ハッコウサン」営みがあったとは驚くべきことである。

『飛鳥の民俗』による「八講祭」の起源である。

「はじめは山階寺の維摩経が天台宗系になって、法華八講を多武峰中興の祖増賀上人がはじめたとの説があるが、私(柏木喜一)は民間行事として大織冠を(大和)郡山へ遷座したため郷中が一層結束を固くしたための行事なのだと思う。そのことを明らかにする文書がある。八釣の区有文書である二通の『談山権現講式』。天正十三年(1585)酉卯月五日文書と元和七年(1621)二月上旬文書である。この二通は昭和18年12月15日に当時の八釣妙法寺住職が写した文書。末尾に“右は天正十三年談山寺院台の命により郡山に移転せし際、寺領二三村民悲哀の極、相談して八講堂を組織し、毎年各村に尊影を巡奉して祀った」とあった。 

ここでいう山階寺については興福寺のHPにこう記されている。

「南都七大寺の一つとして隆盛した興福寺は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)夫人の鏡大王によって建てられた山背国山階陶原を起源とし、その後は藤原氏の氏寺として星霜を重ねてきた・・中略・・興福寺の起源とされており・・」とある。

さて、『飛鳥の民俗 Ⅵ章 飛鳥と多武峰』にある明日香村・上(かむら)の「ハッコウサン」である。

「3月12日に薬師堂にまつる鎌足の木像の入ったヤカタの開帳をする。予め、月当番が御膳を用意して供えておく。午後、区長中心に村中が寄ったところに神主が来てミユ(御湯)でお祓い、祭典となる。お供えは立御膳といって大根、人参、ほうれん草などを立てて飾る。別に一対の大鯣(するめ)を広げて立てて供える。元は弁当持ちで参り、夕方まで遊んだというが、今は簡単にお下がりのお神酒とするめで直会して解散」しているらしい。

区長こと総代にも了解をとってやってきた。

奇しくもこの日は3月12日。

元々の縁日と第二日曜日が重なった嬉しい日であった。

指定された場所に車を停めて山に向かう。

薬師堂はそれほど遠くない地にある。

当番役は焚き木に火を起こして湯立てていた。

湯釜は古くもないが、年号などの刻印は見られない羽釜である。

御湯作法に必要な熊笹にお神酒、洗い米も用意していた。

薬師堂本堂は扉を全開。



本尊の木像薬師如来坐像もご開帳。

明日香村史料によれば本尊薬師さんは平安時代中期の造立になるそうだ。

本尊左側にある四体は四天王像。

本尊薬師さんと同じ時代の造立。

両像とも明日香村の有形文化財に指定されているが、右の脇像はわかっていないというが、十一面観音菩薩立像である。

大字上(かむら)にあった寺は長安寺に教雲寺、薬師堂の三カ寺。

江戸時代中期のころである。

本尊左下にあるヤカタに鎌足公神像を納めている。

さらにその下にあるのが御供。

大根、白菜、ほうれん草、キャベツ、サツマイモ、レンコンにシイタケ。するめに果物のリンゴもあるが、立て御膳様式ではなかった。

しばらくすれば飛鳥宮司が来られた。

神事は御湯である。

御湯作法は先に拝見したことがある。

平成28年6月19日に行われた気都和既(けつわき)神社の村さなぶりである。

大字上(かむら)の戸数は11戸。

上垣内が4軒であるから下垣内は7軒になる。



役員、当番が御湯作法に周りを囲む。

熊笹と青竹の御幣を手にして作法をされる宮司の着衣が汚れないように裾を掴んで対応していた。



その姿は土砂降りに行われた村さなぶりのときと同じであった。

御湯を終えれば宮司をはじめとして一同は薬師堂に登る。

開帳していた鎌足公を奉るヤカタに御簾を下ろされた。

宮司曰く、鎌足公は神さん。

見てはならぬ、撮ってはならぬということであったが、先に拝見していたときの薬師堂ではご開帳姿。

胡坐姿であるが、左足を下ろしていたお姿であった。

多武峰郷中の八講祭における掛図は藤原鎌足父子肖像。

父子ともどものご神像であるが、御簾もないので、その状態で拝することができる。

昭和32年発刊に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、かつて大字多武峰は神式であった。

下居は神仏習合、その他の村はすべて仏式であった。

いつのころか寺は廃れて神式に移っていく過程がある。

明日香村においても寺は廃れて神式に移る。

こうして神主が寺行事に祝詞を奏上されるようになったのはいつごろなのだろうか。



本尊、鎌足公の宝前にローロクを灯して祝詞奏上。

神妙に拝聴する村人たち。

こうして一年に一度の八講祭を終えた。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)

里道に華梅

2018年01月24日 08時45分26秒 | 明日香村へ
なにげない毎日を穏やかに迎える、なんて今日は気持ちの良い日なんだろうか。

そう思える明日香村の上(かむら)。

窓を開けると爽やかな風が通り抜ける。

この場は薬師堂に登っていく村の里道(りどう)。

平成21年12月に開通したアスファルト新道が里道を跨っていた。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)

ラ・ムー桜井店のスパイス香る合鴨にぎり寿司

2018年01月23日 08時27分16秒 | あれこれテイクアウト
上(かむら)の行事は午後1時。

30分前までには着いておきたい村行事。

それまで済ませておきたいのが昼飯だ。

ここへ来るまでに買っておいた8貫にぎりの寿司がある。

買ったお店はラ・ムーの桜井店。

取材地に向かうまでに買っておきたいものがある。

取材が終わればまた買ってしまう格安スーパーは、度々入店しては品定めをしている。

この日のこの時間に売っているものもあれば、夕方近くになれば売り切れている商品もある。

そんなこともあるから一度目の入店で買っておくことも度々ある。

この日に買った商品はイカゲソの天ぷら。

大きな足にごくほくする揚がり加減。

家に持ち帰って夜食の一品になる。

私の食べ方はウスターソース絡め。

塩、胡椒や天つゆで食べる方は多いが、子供のころから身体の中に味がしみこんでいるソース味。

ただ、キスなどのような魚天ぷらはそうしない。

やはり出汁である。

これより食べるのは税抜き184円で売っているパイス香る合鴨にぎり寿司だ。

売り場に袋もんの山葵や醤油、甘酢生姜が置いていない。

寿司売り場であればあるのだが、弁当や総菜売り場にはそれがない。

わざわざ取りにいくこともないだろうと思って断念する。

村人から指定された車の停め処でお寿司をいただく。

この日は春がもう来たのか、を思わせる清々しい天候。

青空が広がってピーカン照り。

車中は温かゾーンになった。

窓を解放したら気持ちの良い風が通り抜ける。

さて、お味はどうか。

これが意外や意外に美味いのである。

合鴨は多分に出汁を通したような感じだ。

ぐつぐつ煮ることはできないだろう。

合鴨を煮えたぎったところに入れたらちりちりに曲がるであろう。

合鴨は品種改良によって3千年前に家畜化された食肉用のカモ。

野生のマガモを品種改良してできあがったアヒルの交雑種である。

最近は通販でも見かけるようになった鴨鍋セットのお取り寄せ。

人気の商品であるが、好き嫌いもあるようだ。

私は高野山有料道路にあったレストランで食べた鴨鍋が初体験だった。

40年以上も前のことだ。

味が濃いというのが印象的だった鴨鍋の材料は狩猟で捕ったマガモだったと思う。

なんせ昔のことだから曖昧な記憶である。

さて、スパイス香る合鴨にぎり寿司のお味である。

これがなんとも・・・寿司飯に合うのである。

味がしみて美味しい合鴨は堅くもなく柔らかくもない。

程よい嚙み心地がたまらない。

次から次へとパクパク寿司。

山葵も醤油も甘酢生姜も、なーんもいらねえ。

8貫入ってたったの184円。

一貫当たりは23円。

あり得ない値段に美味しい合鴨にぎり寿司はスパイスも効いて美味すぎる。

脂身がある方、ない方、いずれも美味しくいただいた。

ちなみに数日後に入店したラ・ムー京終店にもあったことを付記しておく。

(H29. 3.12 SB932SH撮影)

中・小北稲荷神社の厄除け祈願の初午祭

2018年01月22日 10時11分22秒 | 広陵町へ
今月の3月3日に訪れた広陵町中(萱野)の小北(こぎた)稲荷神社。

初午祭にハタアメが配られると知って訪れたが、応対してくださった権禰宜さん夫妻の話しによれば今年はハタアメを入手することができなくなったが神事ごとはしていると話してくれた。

また、当神社行事に出仕されている三郷町の坂本巫女さんは、この行事に参拝される信者さんにご祈祷の剣舞神楽をしていると聞いている。

ハタアメはもう供えることはできなくなったが、神事ごとや境内で行われる護摩焚きを拝見したく寄らせてもらった。

高田川堤防東側に鎮座する小北稲荷神社の創建は欽明天皇の時代に遡るようだ。

天孫降臨の際にお伴した三十二柱の神々と五柱の稲荷神に食物の神である保食神(うけもちのかみ)に仕えた小北大明神を合わせて三十八社を祭っていたという。

前日の7日にも訪れた小北稲荷神社に初午祭を案内するポスターが貼ってあった。

厄除開運、家内安全、商売繁盛に大祈祷・神楽。

そして、大護摩に護摩木を焚いて厄祓い。

しかも、餅撒きに神酒、御守、いなり飴の無料授与もあると書いてある。

着いた時間は9時半。

信者さんたちは神事に拝殿に上っておられた。

宮司、権禰宜さんに巫女さんも上っている。

そのうちに始まった儀式を拝観するにはガラス越し。



受付されている場から拝観していた。

拝殿正面に赤地に白抜き染めした開運厄除け祈願の幟旗が2本。



境内入口付近にも幟旗がずらりと並んで参拝者を迎えていた。

なんとなく奉納した人たちの名前を見ていた。

油性マーカーで書かれた名前は「高橋礼華」。

えっ、である。

名前を書いたところから上に見上げた。

そこにあった文字は「必勝リオオリンピック」だ。

リオオリンピックは2016年(平成28年)、ブラジルのリオデジャネイロで開催された第31回オリンピック競技大会である。

開催期間は平成28年の8月5日から21日までの17日間。

活躍された日本選手が取得したメダル数は金メダルが12枚。

銀メダルが8枚で銅メダルは21枚の成績を勝ち取った。



「高橋礼華」といえば、相方の「松友美佐紀」とともにペアを組んだ女子ダブルスで日本バドミントン史上初の金メダルを獲得した二人。

なぜにここ小北稲荷神社の開運厄除け祈願に名前があるのか。

実は「高橋礼華」選手の生まれ故郷は橿原市。

橿原市立白橿南小学校(橿原ジュニア所属)におられた有名選手。

おばあさんが小北稲荷神社の信者さんであることから縁があった孫の高橋礼華さん。

いわば氏神さんに必勝を願って幟旗を揚げたようだ。



ちなみに相方の「松友美佐紀」さんも幟旗を揚げている。

願掛けは「バドミントン 必勝リオオリンピック」。

拝殿正面に立てていた2本は、獲得した金メダルも、といいたいが、それはなく幟旗は凱旋したかのように昇陽の光を堂々と浴びていた。
 
拝殿内で神事が行われている時間帯であってもおみくじをする参拝者は多い。

そのうち拝殿廻りを動き回っている参拝者に気づく。

せわしくなく動く人もおられるが、ゆっくり回る人も・・・。

おそらく願掛けにお百度参りをしているのでは、と思った。

動きをじっと拝見していたときにわかった竹箆がある。

目を近付けたら「心願成就」の文字があった。

願主の名はそれぞれある。



同名願主の竹箆が何本も置いてあった場は狛犬さんのまたぐらだ。

高齢の婦人がお百度参りをしていた。

廻り終えてから伺った話しによれば、33回も廻っているという。

願掛けの回数は33回。

何周廻ったかわかるように竹箆をもって数えている。

33回の回数で思い起こすのは神仏に祈願する心身清浄、禊ぎの垢離取りである。

奈良県内の行事に垢離取りをするという地域は少なくない。

願掛けに「一万度」と称する地域もまた少なからずやある。

県内事例で最も多い行事は風の祈祷である。

一般的に云われるお百度参りのように境内をぐるぐる回る。

その周回数を数える道具はここ小北稲荷神社と同様の竹箆である。

願いが叶った人が後々に奉納されたと思われる竹箆の本数は多い。

どなたでも使えるように願掛けを遂げたから利用してください、ということだろうか。

数取り竹箆事例は、民俗探訪に訪れた京都府加茂町銭司の日蓮宗妙見山本照寺にもあった。

稲荷神社の境内社は数多い。



その一つずつでもないようだが、お百度参りをされているいくつかのところにお供えを置いている人もいる。



お酒や餅、揚げさんもあったが、何個か目についたのが「浄焰」の焼印を押した饅頭である。

この「浄焰」焼印がわかったのは、手水鉢にあった拭きタオルである。



なんとなく牛玉宝印にも思えるような文様を染めたタオルに「清水」、「浄焰」とあったからだ。

寄進者のお名前かどうか存知しないが、饅頭の焼印が「浄焰」紋様によく似ていたからそう思った。

ちなみにお百度参りをされていた高齢の婦人が云うには「浄焰」饅頭は常用饅頭。

饅頭は「おいなりさん」だと云っていた。

お茶受けの常用饅頭は初午に供えるからお店で買ってきたと話してくれた婦人は33回も廻ることができない身体。



仕方ないので廻る回数はぐっと減らした「短縮型にさせてもらっています」、と、申しわけなさそうに云われていたのが印象に残った。



ところで境内にお百度石がある。

ずっと拝見していたが、そこを支点に廻っていなかったように思えた。

そうこうしているうちに厄除け祈願の神事が終わった。



宮司、権禰宜さん、巫女さんらが拝殿から出てこられ、神饌御供を並べた護摩焚きの場に移られた。

護摩焚き神事に並ばれたのは宮司、権禰宜さんに二人の女性。

ある方の話しによれば、お稲荷さんに神託を伺うイナリサゲ(稲荷下げ)の人だと聞いた。

厄よけの護摩焚きを囲むようにしている参拝者は多い。

「今日はこぎたはんのはつうまや」という人もいる。



祓詞、修祓、降神の儀。

そのとき同時に音花火が揚がった。

そして献饌、祝詞を奏上されて始まった護摩焚き。

藁束を詰めた青竹を手にしたイナリサゲさんが動いた場所は拝殿受付。

オヒカリから移してもらったご神火を授かる。



2本ともメラメラと燃え上がった基火を交差させ、そして護摩焚き内部に入れて点火した。

瞬く間に燃え上がる護摩壇。

音を立てて燃え上がるとともに煙も舞い上がる。

もうもうたる煙が辺りを覆う。



火の勢いを操っているようかに見えた作法。

護摩の火を自在に制御する術であろうか。

修法気合いに「気」を込めて火を動かしているようかに見えた。



火が大きくならないように予め汲んでいた水を柄杓で護摩壇にかける。

それと同時に始まった護摩木に願いを込めた願主の読み上げ。

厄除け願いの護摩木を一本、或いは纏めて護摩火に投入する。

火は舞い上がり、煙が立ち上る。

風も舞い上がったかのように火の手は吹きあがる。



火の勢いを鎮める水やり。

火の勢いは衰えるが、熱気は冷まされることもない。

10分以上も燃え上がった護摩壇に枕にした材の骨組みが現われる。



子どもたちも見守っているが、護摩焚きはまだまだ終わらない。

点火されてからおよそ40分も経ったころだ。

護摩壇の残り火に近寄る人がいる。

下着のシャツを乾かしているのだろうか。

お話しを伺えば、残り火のご利益をもらっているということだった。



下着シャツは乾かしているのではなく、この護摩焚きに来ることができない病者さんが普段に着用している下着を家族が代わりにもってきて、残り火に当てれば病気が治ると聞いてそうしているという。

下着だけではなく病者さんが使っているタオルも残り火にあてる。

「浄火」の火にはご利益がある。

下着やタオルを持ち帰って使えば病気が治ると信じられたから、そうしている民間信仰。

先に拝見したお百度参りも民間信仰。

ありがたい初午行事にお会いした私は巫女さんからも「気」を入れてもらった。

小北稲荷神社の厄除け祈願の初午祭は参拝者に振る舞われる御供撒きもある。



窓を開けた拝殿より放り投げられる御供餅。

土がついても大丈夫なように袋に入れて投げる。

子どもも大人も手が伸びていた。

(H29. 3. 7 SB932SH撮影)
(H29. 3. 8 EOS40D撮影)