マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

高山大北のお大師さん

2012年05月10日 06時46分28秒 | 生駒市へ
3月21日はお大師さんと云って家で祀っているお大師さんを拝んでいる生駒市高山の大北地区。

かつて地区には講があった。

選ばれた代表者は四国八十八か所に参っていた。

毎年のことだったとK家の母親が話す。

四国に出かけなくとも地区でお大師さんを祀れば近くで順拝ができるのではと、クボシンゾウさん他、3、4人が発起人となって始まった大北地区のお大師さん。

明治34年のことである。

かつては前庭に祠を建てて祀っていたというKA家は発起人の一人で先々代。

昨年にネンニョを勤めた無足人座の一人だ。

先祖が祀ったお大師さんを代々継いで守ってきた。

そのころは屋外だったことから外のヤカタと呼んでいた。

自宅を建て替えた際に屋内に遷したお大師さん。

それから「ウチマツリ」にしたという。

奥の左端に草履(木靴であろう)、右端は徳利と思われるものが置かれている。

お大師さんの左手は数珠で右手に独鈷を持つ。

台座の幅は30cmで高さも30cm。

大きい大師像だと思える。

「イライラしているときに拝むと怒ったらあかんで」というような眼差しで優しく微笑むというKA家の祖母。

「ソトマツリ」していたときよりも優しく穏やかなお顔立ちになったと思うと話す奥さん。

見る側がどういう気持ちであるか、見透かされているように思ったお大師さんは十九番だという。

大北地区ではこのように各家で祀っていたが、どこがどのようにされているか判っていない。

家を一軒ずつ訪ねるわけにもいかない。

拝見する機会は難しいと思われ、KA家に教えられたKB家を訪ねた。

無足人座の長老であるKB氏が云うには、皆が出し合ったお金で講の代表者らが四国八十八所を巡っていた。

お大師さんを信心していたというに、おそらく大師講。

ところが「いつまで持つんや」と意見が出て高山でお大師像を買って八十八所を作ろうということになった。

大北高山地区の傍示(ほうじ)北の庄田から芝までの講中が祀るようになった。

向露寺(むくろじ)、大北(おおきた)、久保、宮方(みやかた)などを含め、一日で巡れるよう八十八番までとした。

辻は共同で祀った。

お大師さんは木造や石造などさまざま。

大阪で造って貰ったという家もあった。

四国八十八所と同じようにお接待もした。それは3月21日。

地区の子供がお供えやお金を持って大北の四国八十八を巡ったらお菓子をあげた。

その様相は9月に行われている月見どろぼうと同じようだったと話す。

今ではそんな光景もなくなったが、お大師さんに助けて貰ったという人が毎年のように参っていた人もいたそうだ。

家と家の横の関係は薄れたがこの日は今でも灯明をあげてお供えをするKB家は「ソトマツリ」の七十五番。

これが本来の形だという。



「この日もそうやけど毎日はお供えしてるんや」とゴマドーフとご飯を供えて手を合わす。

お大師さんは座像。

左手が数珠で右手に独鈷を持つ。

その下には藁草履と木靴が置かれている。

今ではだれも貰いに来ることがなくなったが、貴重な風習事例だと学者が大北地区を調べに来たことがあるという。

現時点、その結果報告は聞きおよびもしないという。

高山のお大師さんのありさまは今でも行われている大和郡山の番条町のお大師さんとよく似ていると思うのであった。

(H24. 3.21 EOS40D撮影)

高山の月見どろぼう

2011年10月09日 06時06分41秒 | 生駒市へ
「お月さんが出ている間に、こっそりだまって供えものをいただくんや」という風習がある生駒市高山町。

秋の七草の一つであるオミナエシが咲く里山である。

仲秋の名月にあたる十五夜。

この日は家ごとにススキやハギなどの花を添えて月見だんごを供える。

十五夜は芋名月とも呼ばれているサトイモの収穫日。

栽培が簡単で保存がきく。それをお月さまに供えて収穫に感謝する。

イモを包丁で皮を剥けば白い肌をだす。

月に見立てて丸いイモを供える。

月見だんごの原形はここにある。

秋の恵みを縁側に供えて、月の神さんが舞い降りるように目印のススキを立てる。

真っ暗な夜。こそこそとやってくる子供たち。

長い竹などでだんごを挿して盗っていく。

大人たちは懐かしいと口々にいう北田の人たち。



村公認の月見どろぼうであるが、昨今はだんごに変わってお菓子やジュースになっている。

各戸まちまちだが、お月見のお供えはほどんどの家が縁側や玄関口などに供えている。

いずれの場所であっても月の神さんを見上げる位置にある。

子供は男の子、女の子だが小学生までと決まっている月見どろぼう。



中学生になれば、お菓子は一人一つずつだという自然発生的なルールを指導する立場になるそうだ。

昔は黙って盗るのが当然であったが現在では日暮れ前。

里山に薄れゆく空の青さが残る時間帯に開始されるだけに「こんばんは」と声をかけるようになった。

小さな子供は親も付き添いでついて回る。

御供はなにもお菓子だけとは限らない。

その家の夕食にだされるものもある。

ドロイモを煮たものやおでんも出したそうだ。

「タマゴを串に挿して盗っていった子もいたなー」と回顧される婦人もいる。

御供は足らんようになれば家人がそれを補う。

「出てきたらあかんでー、どろぼうやから」と口走って走り去っていく子供たち。



数時間をかけて大北地区を駆け巡る。

その戸数はおよそ200軒だそうだ。

西の地区から富雄川向こうの東へ行くころには真っ暗だ。

このような月見どろぼうは同地区だけでなく庄田(しょうだ)や久保でもあるらしい。



ところで、大和郡山市丹後庄町に住むMさんの家では、その夜はお月さんが見えるように家中の「カド」にススキにハギなどのお花を添えて、お神酒、おせんまい(米)、塩を供えている。

「カド」とは家中にある庭先のことだといい、稲藁などを干した場所であることからこれを「カドボシ」と呼んでいた。

また、額田部に住むYさんの話によれば名月の夜は猿沢池に行って足を浸けたそうだ。

シモヤケにならないというまじないらしい。

お月見は15個ほどの白玉ダンゴを供える。

家の観音さんにも供える。

それは今でも変わらない家の風習だそうだ。

後日に後述するオカリヤも「カド」に祭っていた。

このように大和郡山市旧村では「カド」が祭りの場となることを付け加えておこう。

(H23. 9.12 EOS40D撮影)

往馬大社鶏追神事

2008年02月05日 09時02分17秒 | 生駒市へ
神職二人は拝殿で神事を行ったあと、氏子らとともに下の境内に下りてくる。

二人の氏子は北座に、もう一方の氏子二人は南座に座し、神職は高座(お旅所)に登る。

北座、南座の氏子衆への祓えの儀、祝詞奏上ののち、手に提灯を持った神職は北に向かって歩き、「これはどこの鶏じゃ 大勝院の鶏じゃ」の往路。

復路は「これはどこの鶏じゃ 宝勝院の鶏じゃ」と唱和しながら足下をカタコト、カタコトと鳴らしながら鶏を追う所作をする。

三つ目の最後は「これはどこの鶏じゃ 往馬大社の鶏じゃ」と唱えて終える。

その間、氏子も同じようにカタコト、カタコトと音を立てて床を踏み歩き、鶏を追う神事が終わる。

(H20. 1. 1 Kiss Digtal N撮影)

続、往馬神社火祭りゴムシン

2007年11月02日 08時13分24秒 | 生駒市へ
当日午前中に作られたススキの穂で作られたゴムシン(御無神といいゴムシとも呼ばれる)がずらりと並べられている。

奉幣神事の最中、ゴムシンを手に持った若者は長さ3m、重さ60kgの大松明によじ登って突き刺していく。

速さを競う火祭り祭典のひとつだ。

(H19.10. 5 Kiss Digtal N撮影)