マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

高山の風習

2012年01月31日 08時52分49秒 | 民俗あれこれ(職人編)
かつて「センギョしよう」と声を掛け合って4軒の人がカンセンギョ(寒施行)に出かけた。

山を越えて山中に入った。

キツネ岩と呼ぶ岩があった。

それは「イワイダン」と呼んでいた。

「ハッチョウ岩」の手前から登ったというから山越えした先は大阪交野(かたの)市の私市(きさいち)だった。

その道は工場ができたりして道がなくなった。

歩くこともなくなったので自然と消滅したそうだ。

ところどころの場所にセンギョをしていた。

センギョのお供えはセキハンのおにぎりにメザシ一匹だった。

イナリサンに供えるので紙包みを敷いておにぎりに三角のアゲサンを乗せたという。

「ハッチョウ岩」ですき焼きをして食べていた。

今でいうハイキングのような感じだったと話す高山住民のKさん。

断片的だが、五歳ぐらいの頃の記憶を思い出すように話す。

男性ばかりだったから青年団のような寄合だったかもと。

年齢から数えてみれば昭和30年代のことだと思うと話された。

高山ではかつて何組かの講があった。

そのひとつに伊勢講があげられる。

講は10数軒だったが解散された。

行者講もあった。

それは高山の金丸講と呼ばれていた。

平成元年に護摩を焚いたことを覚えているそうだ。

庚申講は7軒だった。

高山にある寺というから法楽寺。

そこに庚申塚の石塔があるらしい。

今でもされているかも知れないとKさんは話す。

お話をしてくださったKさんは茶筅型花器を製造販売されている。

先代は竹伐り人だった。

茶筅の原材料を調達されてきた。

高山は茶筅の里として知られている。

室町時代から歴史を繋げてきた伝統の技をもつ。

その茶筅を工夫してはどうかとお姉さんの旦那さんが始めた茶筅型花器製造。



伐採から加工業へと大きく展開した事業を引き継いでいる。

応接間、床の間、玄関、サイドテーブルに彩りを添える芸術的な作品は新婚祝いや新築祝いの贈答用として注文があるという。

普段はその花器を作っているのだが、冬場は箸作りになる。

12月の1カ月間は青竹(マダケ)の箸作り一本。

年末まで作業をするので正月を迎える準備もできないと話す。

一年間の普段箸や祝い箸など。

フシを残したのが初釜などの茶席用途になるという。

「竹は決して真っすぐではないのです」と話しながら歪み具合を調整される。



青竹を小刀で割ってから荒削り。

同じ小刀で何度か削って奇麗にされる。

作業の場といえば家の内。

ご主人、奥さん、母親も一緒になって作られる。

それぞれの作業場の台は手作り。

高さも長さも身体に合わせた造りにしている。



母親の台は50年以上も経過していると話しながら作業を進めていく。

手慣れた作業は次から次へと箸に生まれ変わっていく。

「これをあげよう」と渡されたのはゴゼンバシ。

五膳ある黒い色の竹箸だ。



この原材料はススダケ。

煤が付いたという竹だ。

これを手に入れるのが難しいという。

古民家で見たことがある天井の竹。

整然と敷きつけられたススダケ。

竃や囲炉裏の煙が天井を抜けていく。

燻されたススダケに年数を感じたものだった。

そのススダケは暮らしておれば獲るわけにはいかない。

改築のときにしか手に入らないのだ。

そんな貴重なススダケの箸をいただいた。

お正月のお節を食べる際に使ってみようとありがたく持ち帰った。

竹箸はしなやかでとても持ち易い。

以前に使っていた竹製の箸は丸箸だったが、これは四角。

木製の割り箸よりも手に馴染む。

滑らない箸は先が細いので料理を摘まむのも最適だ。

硬いものを摘まむ際は折れそうに思えたがそうではなかった。

箸はしなるだけだ。

硬くて柔らかい竹は、竹の特性が直接手に伝わる。

ちなみに白い茶筅がある。

それはハチクが原材料だそうだ。

ハチクが誕生したときは紅い色。

それが次第に白くなるという。

引き続き、作業の邪魔にならない程度に高山の風習などを聞かせていただいた。

年末が近いことから大晦日や正月時期のことを教えてもらった。

高山といえば大晦日に庭先に砂を用いる風習がある。

それぞれの家でされている行事だけにどこでされているか判らなかった。

思いきってKさんに尋ねてみたところ、「我が家でもしていた」という。

15年前に住んでいた元の家は自宅から上にある。

そこでされていた「オヒサン」の砂。

砂というよりも粘土系の山土だった。

赤い土を庭先に撒いていた。

「土まくでー」と言って、日暮れまでに玄関先に撒いた形は丸い形。

ゆらゆらと曲げた何本かの筋を丸い形の外側に描く。

どのような図形になるのか書いてもらった。

それはまさしく太陽のような「オヒサン」の姿だった。

幼稚園児どころかだれでも太陽といえばそれを描く。

そして「オヒサン」と玄関口の間に梯子のような線形を描く。

どういう意味があるのか判らないがいつもそうしていたと話す。

大和郡山市内で見られた砂の道は神さんが通る道だと言っていた。

もしかとすればだが、高山の「オヒサン」は歳神さんではないだろうか。

「オヒサン」は梯子(階段かも)を登って家内にやってくる。

そう考えてもおかしくはないと思う。

その砂の道は奥さんの実家でもしていたという。

橿原市の葛本町というから葛本神社辺りを調べてみたいものだ。

高山地区で今でも行われているのがお大師さん。

行事の名称は判らないが四国八十八のお大師さんが各家にあるという。

それは明治39年に作られたもので1軒ずつ安置したそうだ。

K家もお大師さんを祀っている。

3月21日にはそれぞれの人が参りに来るそうだ。

屋内に祀ってあるお大師さんは屋形ごと外にだしておけば、供えたお菓子やセンベイ、タマゴをもらいに子供がやってくるという。

近所のおばあさんも参りにくるようだ。

9月に行われている「月見どろぼう」のような様相であるという。

(H23.12.24 EOS40D撮影)

家の行事記録

2012年01月30日 06時44分39秒 | 山添村へ
県内のとある村に住む男性は家の行事のメモを残されている。

そのことを知ったのは田の虫送りを終えたときだった。

真っ暗な路上で話をしていた。

作法など、ことの詳細を聞きたくて訪ねていった。

記録はオコナイや弓初めなど村の行事も記されている。

数年前に取材させていただいたオコナイでは子供が樫の木の棒で縁を叩いていたようだ。

その叩き方は神主が教えていたのだった。

オコナイではごーさんが配られる。

それは春の社日の際に苗代へ挿す。

苗はJAで購入するようになってからは田んぼに変わった。



昨年同月にはこの地を訪れていた。

ひょいと見つかったのがオコナイのごーさんだった。

まさか、それを立てていたのがご主人だったとは思いもせんなんだ。

1月7日は山の神。

「カギヒキ」の際に唄われている歌詞があった。

「西の国のいとはた 東の国のいとばた 赤牛は米つけて うちの蔵へどっさりこ」の台詞を残したのは先代だそうだ。

1月11日は農耕の初めとして行われる「打ち初め」。

家の田畑を鍬で三回打つ所作をする。

年のはじめに五穀豊穣を願って田畑を耕すのだ。

その場には持っていった洗い米と小豆を供えて豊作を祈る。

同月14日はブトの口焼き。

ブトは蚋と書いてブヨとも呼ぶ身体を刺す虫だ。

その夜は火鉢に火を点ける。

餅をちぎっていろんな害虫の名前を言いながら火で焼く。

焼くモチはブトの変わり身であろう。

農耕の際に刺されないように、或いはハミ(ヘビ)に噛まれないようにとするまじないである。

それをしておけば一年中、虫に刺されないといって最後にモチを食べてしまう。

虫を退治したという意味があるのだろう。

現在は成人の日に行われているとんどの日。

同月15日は小豆粥を炊く。

モチを少し入れて神棚に供える。

その日の朝は各大字でとんどが行われる。

書き初めの書を燃やしているとんどだ。

その火でモチを焼いて持ち帰り一枚ずつ家人とともに食べる。

とんどで焼いた青竹は狐色になる。

その部分を削り取って持ち帰り、味噌桶の蓋の上に置く。

そうしておけば味噌の味が変わらないという。

植え初め、植え終いもあったが極めつけは「オツキヨウカ」だ。

前庭の塀に括りつけたオツキヨウカ。

長い竹を竿のようにして立てる。

その先には紅いベニツツジと黄色い花のヤマブキを十字に括っている。

それは毎年されており毎回写真を撮っている。

記念の一枚は「平成○年 お月八日」の看板をあげて撮っているのだ。

話だけではその大きさが判らなかったが写真で事実が見えた。

前日の7日午後に作っておいて夜に立てる。

お神酒などをおまして翌日はそのままにしておく。

そうして9日の午前中には倒してしまうという。

先月はイノコモチも作ったというご主人の話の様子はいつか確かめてみたい。

(H22.12.20 SB932SH撮影)
(H23.12.23 記)

岩屋の寺行事

2012年01月29日 09時11分28秒 | 山添村へ
籠りをされている権現講の人たちから稲荷講や興隆寺で行われるオコナイのことを聞いた。

オコナイがあることを知ったのは1月の権現講の取材を終えて村を抜けていたときのことだった。

そこで目にした畑の印し。

牛玉宝印の書が挿された竹を田んぼで見つけたのである。



宝印書が存在するにはオコナイがあると思って尋ねてみた。

それは2種類あるという。

オコナイをされているのは興隆寺。

1月6日には水田に豊作を祈るお札。

いわゆるミトマツリであるが、JAから苗を購入するようになってからは水神さんに祀ると言って井戸などの水まわりに供える。

同月15日に行われるガンジョウエではオカホ(陸稲)の豊作を祈るお札を授かって畑に挿しておくのだという。

今年の1月23日に見つけたごーさんのお札はそれであったのだ。

立てている竹はかつてウルシの木だった。

ウルシの木を見つけるのも困難だし、被れるからと数年前にススダケに替えたという。

ウルシの木を探すのは1月10日に行われていた正月ドーゲが役目を担っていたそうだ。

ドーゲは「堂下」の漢字を充てる月当番の呼び名だ。

オコナイのお供えにモチゴメがある。

それは枯れたホウの葉に包んだものだ。

12月初めころから集めに山へ行って採ってくる。

それを蒸して葉を柔らかくする。

さらして(乾かして)モチゴメの洗い米を中に入れてお寺に持っていくようだ。

オコナイの法要を営んでいるとき、「ダンジョー」と住職が声をあげると太鼓打ちが太鼓を打つ。

かつてはそのときにフジの枝木を持つ子供が寺の床を叩いたそうだ。

「ダンジョー」はおそらくランジョウ(乱声)の作法であろう。

ランジョウが訛ってダンジョーと呼ばれるようになったと思われる。

その行為をしているときだ。

ドーゲは供えた注連縄を担いで大急ぎで八柱神社のほうに走っていく。

目指す先は名張と室生を繋ぐ県道だ。

神社横を通る道を跨ぐように注連縄を掛ける。

このような同様の状況下で注連縄掛けをされている室生深野のオコナイを思い起こす。

お札が2種類もあるオコナイ取材は行先を決めていた行事よりも優先して調査しなければならない。

なお、稲荷講の様子はどうかと言えば伏見のお稲荷さんに代参する行事だそうだ。

それは3月第一土曜か日曜辺りらしいが供物を授かってくるだけだという。

3月末か4月初旬には「イナリヤブ」、「イナリサン」と呼ばれる2か所に参って護摩を焚いて祈るというからそちらは確認したい。

1月7日には山の神のカギヒキがある。

「にしのくにのいとわた ひがしのくらのぜにかね」などと唱和してカギヒキをするらしい。



岩屋の山の神は5か所あるというが、すでに3か所は確認している。

朝早い時間帯だけに起きることができればいいのだが・・・。

(H23. 1.10 EOS40D撮影)
(H23. 1.23 EOS40D撮影)
(H23.12.23 記)

岩屋十二社権現十二月の権現講

2012年01月28日 09時00分47秒 | 山添村へ
紀州熊野神社の権現さんを祀っているという山添村岩屋の十二社権現。

急な山道を登りつめたところに鎮座する。

静寂な森中に囲まれた地は聖地なのであろう。

権現さんを祀っているのは岩屋の権現講の人たち。

100軒ほどある集落のうちの11軒が講中である。

かつては14軒で営んでいた権現講の籠り。

早朝から集まって山道や社周りを奇麗に清掃された。

その日の午後に籠りとなる。

籠りは寒冷期の12月と1月に行われている。

講中には婦人たちも居る。

「腰も曲がって急な山道はこたえる」と言いながら登ってきた婦人たち。

ゆっくり時間をかけて登ってくる。

手水で清めて社に向かいお参りをする。

お参りをする前には講元がお供えをしておく。

お神酒に大きな二段の重ねモチ。

塩や洗い米に野菜も供えた。

そのころには男性たちも登ってきた。

一同が揃うと社殿に向かって大祓えの祝詞を唱和する。

ピューピューと冷たい風が山にある社を吹きぬけていく。

ときおり鬱蒼とした社地に光が射し込む。

1月の籠りにはめいめいが参拝するのだが12月は揃って参られるのだ。

お参りを済ませた人たちは、籠りをするためにわざわざ建てた籠り所にあがる。

婦人たちは下りてくるのも時間がかかる。



とんどの残り火で冷えた身体を温めて談笑してから入っていった。

座布団を敷いた円座は当番の人が前もって用意された。



パック詰め料理を配膳された席に座る講中たち。

供えた洗い米を手で受けてそのまま口にする人もいる。

講元からの報告を受けたあとはお神酒をいただきながら籠りの場に移った。

(H23.12.23 EOS40D撮影)

額田部の道

2012年01月27日 09時05分04秒 | 大和郡山市へ
額田部に住む婦人たちに聞いたフダバ(札場)。

この辻はお伊勢参りに至る案内が貼りだされたという。

この辻から北に数十メートルも歩けば大神宮の石燈籠がある。

ここから伊勢参りに旅だったのであろう。

フダバと呼ばれる辻の西側へ下る坂を「アカサカ」と呼ぶそうだ。

そこから大和中央道を跨いでいけば西町に到着する。



そこには良福寺が佇んでいた。

2月25日の文殊会では串挿しモチを畳形に御供するらしい。

西町に向かう途中に地蔵さんを祀る祠があった。



大きな石造りの地蔵さんは西谷垣内の地蔵と聞いたことを思い出す。

たしか7月24日の夕刻に地蔵盆をされていると・・・。

その付近を「アカモン」と呼んでいた婦人もいる。

「サカ」は「坂」で「モン」は「門」と思われるのだが、「アカ」とは何なんであろうか。

そういえばフダバの辻から南に「カマクラ坂」と呼ばれる道がある。

春日神社辺りから下っていく道だ。

地形から読み取れるようにここら辺りは高台になっている額田部の旧道。

「カマクラ」は「窯」で「クラ」は「蔵」と想定するのだが確信はもてない。

「カマクラ」坂から西方に窯跡がある。

窯倉墓とも呼ばれている先にあるのが額田部窯跡だ。

昭和4年に国重要文化財に指定された史蹟(昭和3年に発見)は鎌倉時代に瓦を焼いていたとされる。

叡尊、忍性によって再興された額安寺の所用瓦を焼いていたという。

もしかとすればだが「アカ」とはその地にあった赤土。

それをこねて瓦にしたのだろうか。

さらに南へ足を伸ばすと額安寺に着く。

その南側にある五社さん、かつて大和川の土手堤下にあった。

Yさんの話によればお家を100年前に建て替えをしたので五社さんはそれぐらい前に建立されたようだ。

その大和川が氾濫して水ツキした。

五社さんがあった付近はドタ(泥田)だった。

そこに住んでいた人はそういうこともあって「カマクラ坂」と呼ばれるほうの高台に移ったと話す。

大正7年10月に建之された刻銘がある五社明神はその時代とほぼ一致するのではないか。

と、思っていたがそうではなかった。

寛永十一年(1634年)に書かれた額安寺絵図には寺内に入っているのだ。

絵図に伽藍配置された額安寺境内。

東側には道一本挟んで推古神社がある。

北東角から登った道筋向こうには廟が。

額安寺五輪塔(鎌倉墓)である。

カマクラ坂道と呼ばれている左側だ。

今は見られないが南大門(現駐車場辺り)から南側にYさんが言ってたドタ(泥田)は「荒田畝余 田一反九畝と六畝」と表記されている。

現在は工場が並ぶところだ。

その間というか、境内東南角に五社明神が描かれている。

上から住吉、春日、天照太神、八幡、白山権現の並びである。

これらは現在位置とまったく同じである。


五社明神は平成H23年10月8日に撮影した。

今も昔もほぼ変わらない風情を残す額田部の道がここにある。

(H23.12.22 SB932SH撮影)

法蓮町常陸神社十二月例祭

2012年01月26日 06時43分28秒 | 奈良市へ
毎月19日は法蓮町常陸(ひたち)神社の例祭日。

この日も法蓮会所方の阿弥陀講の方々が例祭の営みに奉仕されている。

65歳以上の男女で構成される「阿弥陀講」の人たちは別名に老人会とも呼ばれている講衆だ。

この日も子供の誕生や安産を願う人たちで賑わったと話す。

若い親にその親たちも朝早くからお参りにくる。

常陸と書いて「ひたち」。

それが訛って転じ、「ひだち」から「産後の肥立ち」への語呂合わせから同神社に参る人は多い。

「ひだったん」とか「ひだっつぁん」と愛称で呼ばれる神社であるが、昼からともなれば閑散とする。

なかには下の世話にならんようにと御利益を求める高齢のご婦人も参拝される。



そうしてお参りに来た人たちが立てた五色の幡がずらりと並んでいた。

毎月の19日は例祭であるが12月は「ひだち御膳」が振舞われる。



ニンジン、ゴボウ、シイタケ、コンニャク、アブラゲに釜いっぱいに新米はこぶ出汁にひたひたする。

醤油と少々のお酒で味付けて炊く。

出来上がったらコウコの漬け物を添えてパックに詰める。

それが「ひだち御膳」だ。

この日の参拝者はおよそ170人。

お札を掲げられて始まった月並祭は祓えの儀のあとに神職が幣を振る。

右に左に前方、後方へと振る。

拝殿に登った代表者参拝者は頭を下げて、木の幣で祓われる。

玉串奉奠を終えるとその場で直会が始まる。



供えられたにごり酒は今年の新穀で作られたお酒だ。

カワラケに注がれて一人ずつ神さんの前でいただいていく。

神さんが宿る神殿はお山(ヒサゴ山)の下。

別称にひょうたん山という名がある。

かつてその頂上で行われた奉納漫才(吉本興業)で賑わったという。

(H23.12.19 EOS40D撮影)

脇本の庚申トウゲ

2012年01月25日 06時41分38秒 | 桜井市へ
桜井市の脇本は大きく分けて内垣内と町垣内からなる。

内垣内は元々の垣内であり町垣内は新たに加わった垣内である。

内垣内は伊勢に向かう長谷街道筋に集落がある。

春日神社の前の道だとされるが本来は妙楽寺裏の道がそうであったとMさんは話す。

判り辛い細い道であるが・・・。

その街道筋にあるのが西垣内、中垣内、東垣内の並び。

さらに南方にある中出垣内は中垣内の一部。

長谷川(大和川上流)に沿った街道筋だ。

その西側にあるのが下ノ町(したのちょう)と上ノ町(かみのちょう)垣内。

合わせて五つの垣内となる。

その5垣内にはそれぞれ庚申講があるらしい。

下ノ町垣内に住むNさん家の玄関には庚申杖が掛けられている。

閏年に行われた「庚申トウゲ」の庚申杖だ。

閏年は4年に一度。前々の閏年に行われた杖であるというから8年前。

次のヤクに回ってきたら外すといわれたが下ノ町垣内の庚申講中は8軒。

ひと回りするには32年間もかかる。

生きていればと仮定すれば110歳近い年齢になると話す。

8月にはかつてメシを炊いて食べていた風日待ちが行われているようだ。

ちなみにNさんの話によれば春日神社の棟木に「ビク」の文字が書かれてあったそうだ。

それは「比丘尼」ではなく「比丘」であると思われる。

出家の僧であったのか。

1月に行われている春日神社の御供撒き。

その際には牛玉宝印を参拝に来た子供たちに朱印を額に押す作法がある。

それを「えっぽだんご」と称している。

おそらく「えんぶだごん」が訛っていつしか「えっぽだんご」になったと思われる仏事の行事だ。

棟木まで調べなくてはならなくなってしまった脇本の民俗取材に終わりはない。

(H23.12.18 EOS40D撮影)

十二月十二日のお札

2012年01月24日 08時40分27秒 | 民俗あれこれ(護符編)
一週間ほど前に電話で聞き取りをしたN家を尋ねた。

「ここに貼っているのです」と示された玄関。

逆さにした「十二月十二日」の文字が見える。

30枚も書いたというお札は泥棒除けの札。

伏見稲荷大社から授かったカラフルな幣(志るしの杉)やしゃもじまでもある玄関口だ。

しゃもじには「大社」の名があるが社名はテープで見えない。

「外しても構わない」と仰るがそういうわけにはいかない。

そのままであるのが当家にとっての祓えなのだからと断った。

「十二月十二日」のお札は「ここにもある」と案内されたリビング。

その部屋の窓に貼られていた。

Nさんは近所のNおばあさんに教えてもらったという。

そのことも確かめなければならないので訪問した。

息子さんのK氏の話によればだ。

親父さんが朝倉台に移転した青果店から教えてもらったという。

親父さんが10年前に亡くなってからお札貼りは止めてしまったという。

ここで泥棒除けの伝播調査が途絶えてしまった。

(H23.12.18 EOS40D撮影)

脇本魔除けの矢立

2012年01月23日 06時47分26秒 | 桜井市へ
村に疫病が入ってこないように祈る行事にオコナイがある。

いわゆる修正会である。

主にお寺の廊下や床を叩いて悪病を追い出す作法にランジョウがある。

用いられる木はフジやサクラ、あるいはウルシというのもある。

木を叩くことなく太鼓を打ち音によって追い払う作法もある。

また、村の入り口にあたる下流の川にカンジョウナワを掛けるツナカケがある。

疫病は下流からやってくると信じられ結界のツナを張るのである。

それによって村を守るという。

これを「川切り」と呼ぶ地域もある。

地域によって様々な営みである。

そのような事例の他に村周りの数か所に祈祷札を挿す行事もある。

山添村の大塩や春日で行われている風祈祷である。

天理市西井戸町も同じように挿すが村の田んぼすべてに亘っている。

風祈祷は大風が村にやってこないようにと願う行事だ。

祈祷されたお札は大風除けを願うものだ。

奈良市都祁南之庄町の虫祈祷では村外れの地に祈祷札を挿す。

虫送りに際して虫の法要をされた祈祷札である。

それは白石、上深川、小倉、針ケ別所など。

室生の笠間川沿いの無山、染田、小原、下笠間でも同様に行われている。

尤もこのお札は田畑を荒らす虫を村から追い出して供養のためのお札で疫病除けではない。

いずれにしても、このような行事が行われているのは主に山麓や山間。

奈良盆地部では稀である。

さて、桜井市脇本ではどうしているかと言えば、村の境目にあたる東と西に矢を立てるのである。

例年ならその矢は12本。

閏年ならば13本だ。

ひと月ごとの本数を立てて一年間の悪病除けをするのだ。

この日は朝から春日神社の鳥居に掛けられる大注連縄が頭屋の庭先で作られる。

作るのは宮座衆と手伝いさんらだ。

脇本の宮座は八人衆。

新入りは10月中旬に行われる頭屋渡しを受けて八人衆入りをする。

一般的にはミナライを経て行事を覚えていくのだが、脇本ではいきなりその日から祭祀を勤める座の人となる。

春日神社における宮座の儀式はその頭屋渡し、二月の朔座、そしてこの日に行われる大縄掛けが主な宮座の行事になる。

主なというのは座の行事が頭屋宅で行われるというわけだ。

座入りした頭屋は一年ずつ繰りあがって勤めは8年間。

たいへんなことだけに頭屋を受け入れる家は引き手が現れないと総代らは溢される。

新頭屋にとって初の仕事が大注連縄作りなのである。

一方、屋内では神主や一老が矢を作る。

魔よけの矢と呼ばれている矢だ。

昼の休憩を挟んで再び注連縄作りが始まった。

できあがった太い注連縄はオーコに通して頭屋と一老が運ぶ。



サガリの松葉房を二つの桶に入れてオーコを担ぐ。

もう一人は魔よけの矢を抱えた。

興味を覚えた頭屋の子供たちも随行する。

神社に到着すれば直ちに二人の座衆は別行動をとる。



魔除けの矢とされる矢は東の黒崎垣内との境界の田んぼにそれぞれ一年の月数を地面に突き挿す。

この年は閏年だけに矢は13本だ。

矢羽根の角度はいずれも手前側に向けて矢の先は隣の村となる。

そこを済ませば西側にあたる慈恩寺垣内との境界へ出向く。

その場所は決まっているのだが、数年前に建てられた壁面で場所が判らなくなっていた。



ここであろうと東と同じように13本の矢を立てた。

その形態を見に来た葛城のY氏曰く、昔は立てた矢の距離が離れていたという。

それぞれの矢は地区に災いが入って来ないようにと村の安全を祈り斜めに立てる。

そうして矢立てを終えた二人が戻ったのは春日神社。

平成20年の取材時では鳥居脇にある樹木に掛けられていた。

その後に設えたポール棒に移ったが注連縄掛けの作業は手がかかる。

三つのホングリの位置調整をして間に八本のサガリ松房をぶら下げる。



中央のホングリには奉書に包んだ丸い切炭と米、アワ、ムギ、アズキなどの五穀を取り付けて完成した。

神饌を祭壇に供え、神社に向かって祓えの儀、祝詞奏上などの神事を終えて大縄掛けを終えた。

神社の前では度々発掘調査が行われている。

この年の8月には第17次調査の現地説明会があったそうだ。

7世紀後半(飛鳥時代)の大型掘立柱の遺構が検出された。

泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)の可能性が高まったという。

この日に訪れたときも発掘地はブルーシートに覆われていた。

第18次調査であろうか。

何度か発掘された個所はM家の前。

何次調査のときか不明だが、怪しい病気にかかったと話す。

その後の調査のときも再びややこしい病気になったという。

今回は「どうなるんやろか」と言いながら大縄掛けに応援されたのであった。

(H23.12.18 EOS40D撮影)

下ツ道八条北遺跡発掘調査現地説明会

2012年01月22日 08時49分27秒 | 民俗を観る
名阪国道郡山ジャンクション建設に伴って、平成23年の5月から発掘をされてきた下ツ道八条北遺跡。

場所はと言えば奈良県大和郡山市の南端に位置する八条町にある。

北側に向かえば伊豆七条町。

両町の境目が名阪国道にあたる。

南に向かえば天理市の二階堂の街道に続く一直線の道、それが古代の大道である下ツ道だ。

藤原京と平城京を造るにあたって造営基準になった大道である。

発掘調査地は旧添上郡と添下郡との境目。

現在の大和郡山市と天理市の境目となる。

発掘調査地の北端は伊豆七条町と八条町の境界にあたるが天理市の南六条との境目でもある。

そこは東から流れてくる布留の川が存在する。

その傍らにサカキの枝を立てる行事がある。

10月1日に行われている南六条北方の三十八神社の祭礼である。

石上神宮の領域すべてに亘って目印を立てる地の一つにあたる。

神宮の領域、つまり布留郷の領域を明確にするための傍示杭立てであった。

当時取材したのは平成20年。



そのときから始まっていたジャンクション工事によって「サカキ立ての場所を替えなければ」と二人の頭屋が話していたことを思い出す。

平城京南端になる羅城門跡から南へ約14.6km。

藤原京の西側、橿原市五条野の見瀬丸山古墳まで続く基幹の大道である。

平城京の大極殿までの朱雀大路を加えれば全長23kmにもおよぶ南北を貫く大道で、平城京のずっと北は西海道、藤原京の先は和歌山方面の南海道と繋がる。

それだけの距離すべてを発掘することは不可能に近い。

何らかの建設が伴うことで所々の様相が出現するのだが、断片的で全容解明はこの先も不可能であろう。

過去、数か所に亘って下ツ道の発掘調査があったが、今回の発掘距離は183m。

これだけの長さの大道を一挙に発掘されたのは初めてのことだけに期待が寄せられる。

下ツ道を基準に条里制が敷かれた。

田んぼはそれに合わせて四角だった。

奈良盆地の土地の利用は計画的に造られていたのだ。

下ツ道の名は天武元年。

壬申の乱の記に始めて登場するそうだ。

大量の援軍を得て、飛鳥で軍隊を立て直した大海人皇子。

上ツ道、中ツ道、下ツ道の三か所に分けて北からやってきた近江軍を迎え撃ったというくだりである。

8世紀の奈良時代。

710年に元明天皇の詔により平城京に遷都され、桓武天皇によって平安京に都が遷った794年までの期間だ。

昨年にイベントされた平城京遷都1300年祭には多くの観光客が訪れた。

その人たちの多くは平城京跡に来られたのであったが、古代の大道を歩いた人はどれぐらいであったのだろうか。

都の発掘などでは古代史ファンが多く詰めかける。

道の発掘には興味を持つ人はそれほど多くない。

都跡には宮中や官吏の様相が掴めるが、道を歩いて人はどのようにしていたのだろうか。

都を支える人々の暮らしぶりがどうであったのかだ。

それを教えてくれるのが道だと思って現地説明会にやってきた。

下ツ道八条北遺跡の調査範囲の幅は東西の溝にある。

路面は残っていなかったが東西の側溝が確認できたと解説者は話す。

東の側溝幅は7mから11mもある。

深さは1.4から2mの深い溝。

南北の底は10cmほどの差。

緩やかに流れる溝だった。



溝が掘られたのは8世紀初頭というから平城遷都前であろう。

そこには東西に並ぶ杭列があった。

水位を調節する施設であったと想定されるようだ。

その溝からは大量の奈良時代の土器や瓦、和同開珎、ウマやウシの骨などが出土した。



ウマやウシの骨は広い範囲から出土されているのだが、それが祭祀に使われたものなのか、捨てられたものなのか判明していない。

ウマは軍馬とも考えられるし、ウシは運搬に使役されたのではないだろうか。

下ツ道を往来する大きな動物は人や物を運ぶ大切な役目だったのではないだろうか。

役目を終えたウマやウシを手厚く葬った。

なんてことはできない時代。



養老の令(757年施行)によればウシやウマは解体してバラバラに。

皮と脳(髄)、角に分解。胃(胆のう)からは牛の胆石を取ることを定めているそうだ。

皮はなめし皮にして再利用しなければならない時代だった。

骨は卜占のように祭祀に使われた。

そんなことを想像してみた。



出土された遺物は会場にミニ展示されていた。

斎串(いぐし)が出土したことから祭祀の存在を物語っている。



骨には右脛骨や中足骨のウマ骨。

ウシの左距骨、中足骨、指骨、踵骨、足根骨などが並べられている。

その横には解説がなかったが右大腿骨の犬の骨もある。

飼っていた愛犬だったのだろうか。



初鋳708年の和同開珎、初鋳907年の延喜通貨、八陵鏡、銅製の鈴の金属製品。



土器には軒瓦、土馬(どば)、「西」や「太」の文字が記された墨書土器や8世紀終わりから9世紀初めの土器にミニチュアの土器もある。

これも祭祀に使われていたのではないだろうか。

西側溝と考えられる細い溝が3条。

いずれも幅は1.2mから1.8m。

深さは20cmから50cmと東に比べて小規模。

常に水が流れていたとは思えにくい深さである。

この溝からも同時期の土器や瓦が出土されたが少量だったそうだ。

路面幅は約19mであったと推定されている下ツ道の両側溝の中心から中心までの距離は約23m。

朱雀大路や稗田遺跡で発掘された距離と同じである。

この道幅がずっと繋がっていたと思えばどれぐらいの工事期間を要したのだろうか。

工事人も相当な人数であったろう。

使役に駆りだされた人たちは奈良盆地の住む人だけでは済まないだろう。

真っすぐな道を造るには精巧な測量技術がいるだろう。

そんな記録は一切残っていない。

古代の道に思いをはせる、しかないのである。



解説がなかったが、興味をもったのは東側溝に付随するような形の丸い水面がある。

段々になっており顔でも洗えるような円形が数個ある。

炊事場か洗濯池のような感じに見えたのは私だけであろうか。

それにしても東側溝の溝は幅が広くて深い。

稗田遺跡で発掘された図面を見れば同じような幅、深さの側溝である。

その模式図では八条北遺跡よりももっと広くて深い。

南側で発掘された八条遺跡もその方角だが、幅、深さはほぼ同じだ。

朱雀大路ではそれほどもない幅と深さ。

そこで思ったのが東側溝は水路であったのではないかと・・・。

羅城門辺りまでを運搬する大道には人や動物が往来する。

水路には低底船を浮かべてそこにモノを乗せて運んでいく。

かつて水田を行き交う田船のような形。

それは櫂で漕ぐのではなくて大道から綱で曳いていく。

水位を調節する杭列は長距離に亘る水路、つまり運河としてその役目にあったのではないだろうか。



そんな光景を思い浮かべたのであったが解説者は杭列があることからそれを否定された。

平安遷都されたあとの大和奈良。

10世紀になれば下ツ道は利用されることなく水田に移り替っていく。

表面の田んぼは平安時代に作られたと解説される。

奈良の都が京都に遷って大道は役目を終えて田んぼになったのだ。

特に東側が顕著な田んぼだった八条北遺跡。

解説者は最後に言った。

西溝の2が本命の奈良時代で、西溝の1と3は平安時代に掘られた、東溝は見当たらないそうだ。

近世の井戸も発見された八条北遺跡。

大和郡山のボランティアガイドクラブの人たちや八条町の住民も訪れていた。

ガイドクラブは観光案内の知識として、町びとは町内を通る下ツ道を拝見することによって地域の誇りと愛着を抱いたのではないだろうか。

これほど大規模に亘って発掘された下ツ道官道。

できるならば公園化してはどうか。

下ツ道を訪れる人にとってここがそうだったのだと感慨深げに見る。

埋め戻さずにそこをアクリルのようなもので覆ってしまう。

そうなれば深さも道幅も実感をもっていただける。

奈良の古代を知る恰好の発掘地であるだけに・・・。

(H23.12.18 EOS40D撮影)