マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

矢部杵都岐神社のヨミヤ参り

2017年06月16日 08時44分16秒 | 田原本町へ
境内にずらりと提灯を立てる。

灯りが点くころには村の人たちが大勢寄ってきて参拝する。

矢部は家の提灯をもってヨミヤ参りをすると話していた婦人がいる。

その人はいつも和装で出かけると云っていた。

そんな姿を見たくてやってきた田原本町矢部。

鎮守の神社は杵都岐(きづき)神社である。

そういえば秋の祭りには伺ったことはなかった。

祭りの日は一般的な神事だと話す。

そうであれば夜のマツリの雰囲気を味わいたい。

早めに出かけて関係者に取材願いをしたい。

そう思って出かけた矢部。

着いた時間帯にいたのは近所の子どもたちだ。

自転車に跨って来たという。

鬼ごっこなのかわからないが既に立ててあった提灯辺りで遊んでいた。



社殿をいえばこれもまた神饌も供えていた。

ヨミヤの準備も終わっていたのである。



しばらくというかそれほど時間も経っていないころに男の人たちがやってきてローソクに火を点けていく。

底蓋を開けて火を点けたローソクを提灯内に入れる。

時間帯は午後5時半だった。

10月半ばも過ぎれば日が暮れると同時に夕闇に進んでいく。

1分、2分と時間が進む度に提灯の灯りが濃さを増していく。

撮りごろといえば撮りごろである。



神社の提灯に火が灯されたことを知って村の人も家の提灯に火を点けていた。

提灯は鳥居を潜って神社拝殿に向かって参られるに仕掛けている。

そう思うのである。

こういう在り方は天理市武蔵町も同じだ。

県内のあちこちで見られる形態であろう。

神社の提灯に火が灯されたことを知って村の人も家の提灯に火を点けていた。

設営並びに提灯灯しをしていた人たちは自治会役員。

祭礼の出仕される神職の手配から参拝者を迎えてお神酒を注ぐ役目をしている。

矢部は100戸の集落。

参拝者は多いという。

村に案内している時間は午後6時。

ヨミヤに大勢の人たちがやってくる。

ところが肝心かなめの神職が来られない。

連絡した時間が間違ったのか、それとも・・・。

緊急連絡する電話の返答は30分間違っていたということだ。



「こちら矢部放送、秋祭りは午後6時でしたが、神主さんのご都合で30分遅れの開催となります。よろしくお願いします」のアナウンスが村設置のスピーカーから聞こえてきた。

やむを得ないアクシデントに村全域に届くようにアナウンスされた。

大急ぎで支度した神職が到着した。

神職が位置する場は拝殿。



参拝者がお供えを役員に渡してから幣串で祓ってくださる。



低い声で祓の詞を唱えてから幣串で祓う。

頭を下げた参拝者に振る幣は左右に数度。

ありがたい祓はヨミヤの祓い。



祓ってもらえば役員から御供下げの紅白のハクセンコウをいただく。

次の参拝者も同じようにお供え、祓い、御供下げいただき。

次から次への順番待ち行列は鳥居辺りまで伸びていた。

祓ってもらった参拝者は拝殿右側に廻って本殿の前に向かう。



その場に立ってから氏神さんに向かって拝礼。

一般的な神事もそうだが、祓の儀があってから神事。

祝詞奏上などが行われる。



矢部のヨミヤに祝詞奏上は見られないが、まずは祓の儀を済ませてから拝むのである。

この形式は6月のさなぶりも11月の新嘗祭も同じようにして行われている。



神さんのお参りを済ませばお神酒をいただく。

役員さんがどうぞと差し出すカワラケにお神酒を注いでその場でいただく。

参拝者が少なくなって待ち行列が途切れるようになった時間帯は午後7時ころ。

和装で参ると話していたご夫妻も参拝するこの夜のお月さんはほぼまん丸。

前日は満月であった。



見ることはなかったが、この日の夜もまん丸お月さん。

老眼の私の目ではそう見えた。

(H28.10.17 EOS40D撮影)

黒田孝霊神社のヤマモリ

2017年04月25日 08時53分51秒 | 田原本町へ
8月7日に取材した田原本町・佐味のヤマモリで聞いた黒田のヤマモリ。

今でもしていると佐味の人たちが云っていた

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に黒田のヤマモリの記事がある。

「以前のヤマモリは9月1日の早朝から村中の人が川の雑魚取りをし、それを弁当のご馳走に加えて、夕方からお宮さんの庭で帖地を吊り、むしろを敷き、そこで弁当を開いた。ヤマモリに参会した者は村から少しの振る舞いが出た。現在はこの日に婦人会、老人会、子供会が歌をうたったりして楽しむ」と書いてあった。

『田原本町の年中行事』は続けて次のようなことを書いていた。

「日待、風日待、ヤマモリ、八朔のヤマモリなどの呼称があるが、多くは八朔の村行事で共同祈願の夜籠りの姿が顕著である。ヤマモリはやまごもり(やま籠り)であろう」である。

たぶんに調査・執筆された保仙純剛(ほせんすみひさ)氏の判断であろう。

私もそう思うが「やま」とは何ぞえ、である。

以前、このことについて教わった同町法貴寺の藤本保宮司が云った「夜」は「よる」であるが、「よ」或は「や」でもある

「よるごもり」が訛って「やごもり」。

さらに濁音が消えて「やこもり」から何故か「やまもり」に転化したと考えられるのだ。

「やま」は「山」でもない。

「夜」なのである。

夜の間に籠るから「ヤマモリ」であるが、未だ、他の論証はみられない。

田原本町の黒田で行われていると聞いて予め訪れた鎮守社は孝霊(こうれい)神社。

辺りを見回しても人影が見当たらない。

境内に登ってとりあえず参拝した日は8月24日である。

神社には祭神や由緒を書いた掲示板が立っていた。

孝霊(こうれい)神社は元々あった法楽寺の鎮守社であるが、明治時代の初期にこの地に遷座した。

旧地より移した際に移した灯籠に明和七年(1770)の記銘があると書かれてあった。

今より247年前に寄進された灯籠のようだ。

また、田原本町観光協会が立てた掲示板には明治二年(1869)の『申請状之事』文書に遷座のことが書いてあったと伝える。

むしろその掲示板に書いてあった長禄三年(1459)の「法楽寺伽藍坊院図板繪(絵)」に当時の孝霊神社に法楽寺本坊、本堂、多宝塔、御影堂、鐘楼、宝蔵、山門などを配置した様相を伝える絵図でよくわかる。

もう一つは明治21年に築造した黒田池築造絵馬を紹介する映像に興味がわいた。

それぐらいしか得るものがなかった下見の日。

鳥居を潜って階段を下りたら道路向こうにある角地に立つ婦人がおられた。

行事日が何時であるのか尋ねてみれば毎年の9月1日。

午後6時には村の人たちが参詣して境内でヤマモリをしていると話してくれた。

日程・時刻がわかれば早めに着いて関係者に取材を申し出ようと思って出かけた。

着いた時間帯は午後5時。

少し早いと思っていたが境内にはブルーシートを敷いて準備を整えていた人たちがおられた。

数人の人たちは婦人会の役員さん。

30年前の昔は綺麗な服を着て子供連れの婦人が着ていたと話す。

何人かの男性もおられる。

その中におられた男性が私の名前で呼んだ。

なんという奇遇であろうか。

男性は存じているSさん。

かつて大和郡山市の職員の教育関係者だった。

ずいぶん前のことだがお世話になっていた大和郡山市の施設である少年自然の家の館長だった。

Sさんの名前は橿原市の飯高町でも聞いたことがある。

平成20年の3月2日に行われた飯高町のお綱祭の取材のときにお会いした地区役員のMさんはSさんのことを長年の友人だと云っていたことを思い出した。

その年はたしか大和郡山市内の校長先生になっていた。

矢田山の自然観察でばったり出会ったことも思い出。

取材に来てくれたことは驚きでもあるが嬉しさあってお互いが手を握るのも自然にそうなった。

この日は自治会の役員の務め。

会費を徴収するなど受付をしていた。

時間も午後5時半を過ぎるころには次から次へと村の人たちがやってくる。



まずは氏神さんに向かって手を合わす。

そうして境内に戻って準備されたシートに座る。

黒田は105戸の大字であるが旧村戸数は80戸。

他所から転居された新しい人たちもおられるが旧村戸数としては多いほうになるだろう。

一人の婦人が云った言葉に黒田のヤマモリは八朔と重なっているかも・・・である。

たぶんに私もそう思う。

8月末にされる地区は若干数あるが、圧倒的に多い日は9月1日である。

田の水の井出があるのは大字黒田の境界地になる三宅町伴堂(ともんど)の境目。

黒田池から流れでた排水は下流の伴堂に向けて流れるが、井出がその境界にある。

井出を開けなければ伴堂への供給はできない。

9月の始めは農作業が忙しくなるのでその景気づけだという人もおれば、井出の水納めに感謝する夜籠りかもという人もいる。

黒田のヤマモリは婦人会、自治会役員、老人会に神社方の世話人もおられるが男性のなかには農家の方も多い。

井出の話しができる人は間違いなく農家の人たちである。

その黒田池が築造された絵馬に「新溜池工事實景之主図 明治廿壱年壱月着手同年五月成功」という具合だから短期間の工事だった。

笠を被ってモッコ運びをしている工夫の姿もあればシャッポ帽を被る工事委員のすがたもなる。

当時の民俗を伝える絵馬は貴重な村の資産。



ガラス張りであるが、神社拝殿内に納めた絵馬を拝見することができる。

そういえば鳥居脇にある灯籠に明治二十一年九月の銘記年がある。

遷座したときに建てた灯籠であろう。

そのすぐ近くの場に建つ石灯籠があった。

刻まれた文字は大神宮。文化四卯(1807)十二月吉日とあるから遷座の際に持ちこまれたのか、それとも元々のこの地にあったのか、断定できない大神宮の石塔である。

やがてブルートーンの夕暮れ時。



午後6時も過ぎれば頼んでいた弁当を貰った人たちで埋め尽くされる。

役員たちはブルーシートをして場を調えてはいるものの村の人たちは座布団、

或は折りたたみ椅子を持ってくる人も・・。

よくよく見れば北と南に分かれて座っている。



北側は女性ばかり。

南の方は男性ばかり。

自然体にそうなっているように思えた黒田のヤマモリは自治会長の挨拶で「籠り」が始まる。

籠りと云っても数時間。

一夜をずっと朝まで籠ることはない。



午後6時半ともなれば神さんに供えたお神酒を下げて皆に配られる。

照明のライトは境内を明るくする。



男性も女性もそれぞれが座った場で談笑を重ねる。



一時解散は午後7時。

残った人たちはその後も宴を続けていたようだ。

ちなみに長老が云った話がある。

「尾崎常次郎が中心となって黒田池を築造した。井出を開いて苗代田に水を入れた。米の神さんやと云ってモミダネを蒔いて田植えをした。農業を営む者にとっては水が一番大切や。井出の一つにジャコ取りがあった」という。

池を浚えて残った池の水がすくなくなったところに魚が跳ねる。

それを掬い捕って食べたのがジャコである。

もちろん生ではない。

ここ黒田ではないが、煮て食べたと話していた老婦の話だ。

続けて話す黒田池に纏わる農水の話題提供。

「米の水が穂も稔らせる。今年も育ったんでお礼に参って神さんの前で食べる。それが神さんとともに食するヤマモリや。この時期になれば田んぼに水は要らん。井出のおった魚を捕るのもこの時期や」と話してくれたのが印象に残る。

この日のヤマモリには神職は登場しない。

秋の祭りなどの祭礼に出仕される神職は大字八尾の鏡作神社の宮司と聞いた。

秋の祭りは10月の第二土曜がヨミヤで翌日の第二日曜が祭りである。

ヨミヤは午後6時の参拝。

鏡作神社里巫女による参拝者鈴祓いがある。

第二日曜は祭りの繁盛日。

奈良県内で二番目に多い地区の行事である。

二番目と聞いて、何でと思われる人は多いだろう。

一番多いのは地蔵盆である。

7月にされるところもあれば8月も。

地区に神社は一つであっても地区にある地蔵尊は辻ごとにあるから数えきれないほどに膨れ上がる。

それはともかく黒田の祭りは桃太郎神輿が町内を巡行する

神輿に続いて子供が打つ太鼓神輿も出るようだ。

(H28. 8.24 SB932SH撮影)
(H28. 9. 1 EOS40D撮影)

矢部・N家のオムカエ

2017年03月28日 08時22分06秒 | 田原本町へ
前月の7月7日に訪れた際にお家のお盆の在り方を教えてくださったN家婦人。

かつてはお茶作りをしていた。

その時代のお盆は新茶を飲んでいたという。

お盆に必ず要るのはカンピョウである。

そのカンピョウはご主人が栽培、皮を剥いて塀中で干している。

その景観を撮らせてもらったのは前々月の6月26日

青空に映える美しい白に見惚れていた。

お盆にはハスの葉も必須。

なければドロイモの葉を代わりに使う。

アサガラが要るのは新仏のときだけ。

白いアサガラの材で作った梯子をかけていた。

14日は先祖さんのお迎え。

近くを流れる堤防まで出かけて火を点けた線香を持ち帰る。

ゼンマイの干したんとかオアゲとかを供える。

お茶は5杯並べる。

夜はズイキのおひたし。

これらの御供はハスの葉を広げて載せる。

その晩は西国三十三番のご詠歌を唱える。

翌日の15日は先祖さんの送り。

昼はカンピョウとコーヤドーフの炊いたん。

オタチのソーメンを食べる。

午後3時はスイカを割ってから、送りに出かける。

送りのときには先祖さんに食べてもらうようにパックの弁当を持っていく。

その弁当は川に投げる。

昔はそのままだったが、現在は一旦家に戻ってから再び川にでかけて弁当を引き上げて回収する。

寝る前に味噌汁にコイモの炊いたんをカドマクの中で食べることなど、家や村の平均的な在り方を聞かせてもらった。

矢部に伝統行事がある。

毎年の5月5日に行われている綱掛け行事だ。

毎年交替する当番の組にあたれば農具、牛絵(角に牛玉宝印)を作る。

一品、一枚ずつを手造りする。

それは行事のときに村の全戸に配られる。

いただいたミニチュア農具のクワやスキ、牛絵は家の守り神。

玄関に飾っている。

同家は玄関口の柱に何枚かのお札を貼っていた。



一枚は「立春大吉」。

毘沙門天招福で名高い信貴山の大本山千手院だ。

その下に目を下ろせば逆さに貼った「十二月十二日」のお札もあった。

以前に貼ったお札は剥がれかけ。

何枚も貼っていたようだ。

この「十二月十二日」のお札についてテレビで放映された。

矢部のお札ではないが、葛城市にお住まいの男性は今でもしているという話題に大阪に住む人の事例紹介である。

放送はNHK奈良放送局で月曜から金曜までの毎週にある「ならナビ」というニュース併用の情報番組だ。

それはともかく矢部のお盆の話しに戻そう。

先祖さんを祭っている仏間に上がらせてもらう。

仏壇の前に設えた場にはお供えをいっぱい並べている。



スイカは二種類。

一種は黒いからでんすけスイカではないだろうか。

いやそこまで黒くないから別種だ。

それはともかくスイカのタネの8割以上が奈良県産である。

そのこととお盆の供え物と特に関係性はないと思うが、スイカの他にキュウリやナスビが5本ずつ。

サツマイモ、トウモロコシ、ピーマン、パプリカ、トマトにブドウ、メロンなどの果物も。

キュウリやナスビはお盆に欠かせないお供え物だが当家は足を付けることはない。

これらのお供えはハスの葉。

入手不可の場合はドロイモの葉で代用する。

お供えが多いだけに枚数も一枚、二枚・・。

野菜、果物を並べた手前にお茶を注いだぐい飲み椀が五つある。

お茶は汲んで一時間後には新しいお茶に入れ替える。

一時間おきに入れ替えるから忙しい。

このような言葉は調査させてもらった人たちが一様に云う台詞である。

ナスビとキュウリが5本。

お茶も5杯とくれば、仏飯にさしたお箸も5膳である。



5人の先祖さんなのかどうかわからないが、昔からそうしているようだ。

その下にあるのは御膳である。



膳は五つの椀である。

中央に昆布豆の椀。

四隅にご飯の椀、コイモの煮物椀、チクワとカニカマボコ、ナスビの椀にナスビの汁椀である。

先祖さんがきやはったときには御膳にアンコロモチも供えていたという。

昼の御膳はアゲサンにゼンマイのたいたん。

晩はズイキのおひたし。

寝る前にコイモを入れた味噌汁を供える。

翌日の15日は先祖さんの送り。

昼にカンピョウやコーヤドーフの煮物にオタチソーメンがある。

午後3時ともなればパックに詰めた弁当を持たせて送る。

送る場所は飛鳥川の堤防だ。

その場に籠を置いてハスの葉を敷いた。

スイカや持っていったオタチソメーンも置く。

線香に火を点けて送る。

その際、送りのお供えを乗せた籠はひっくり返す。

かつてはこうして送った弁当やお供えは川に投げていたが今は禁止されているので持ち帰って始末する。

迎えの13日は朝の7時に出向いた堤防で線香に火を点けている。

その線香の火が消えないように家に戻る。

その日は融通念仏宗派安楽寺の住職が巡拝されて各戸ごとに先祖供養に参ってくれる。

その時間帯の都合もあって朝の7時になるそうだ。

安楽寺辺りをぐるりと巡拝されるから早い。

南の地区は昼頃になるらしい。

お迎えした晩は西国三十三番のご詠歌を唱える。

1番の青岸渡寺から始まるご詠歌は長丁場。

24番の中山寺で休憩するか、それとも後ろの25番で休憩するかは花山法皇が決めはったからそれに従うようだ。

亡くなったときも唱えるご詠歌は四十九日にも唱える。

ところで同家ではガキサン(餓鬼)にもお供えをする。

ガキサンにもお茶を入れ替える。

入れ替えた古い茶は家の周りに捨てる。

先祖さんのお茶もあるから毎日4リッターのお茶になるようだ。

1時間おきに入れ替えている量はその話しでよくわかる。

今では周りがコンクリートになったから捨てるお茶が跳ねて跡形がつく。

土だった時代にしていたお茶捨て。

今はすることがない。

ちなみにガキサンの施しといって御膳の残りも捨てるようだ。

(H28. 8.14 EOS40D撮影)

佐味・七日盆のヤマモリ

2017年03月17日 10時23分32秒 | 田原本町へ
数日前までは毎日が夕立。

3日、4日、5日連続の夕立は県内の至る処、というか局所的にどこかで降っていた夕立の雨。

この日はどうかと心配していたが青空が広がったままだった。

夕立であっても境内で行われるヤマモリには食事を伴う村の行事。

境内がびしょびしょ状態になれば中断せざるを得ない。

2年前は夕立ではなかったものの雨が降り続けたことによってやむなく中止された田原本町佐味の七日盆のヤマモリ。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に佐味の七日盆のヤマモリの記事があった。

「七日盆にあらんたな(新棚)を祭る。過去一年の間に亡くなった方の御霊は仏壇でなく、部の場に棚を設けて祭る。仏壇、仏具に墓掃除をして墓参りをする。この日には八尾の安養寺のように夜の8時に墓会式をする。七日盆はササギのご飯にズイキのおひたし。コイモやアゲを供えてササギご飯を食べる。盆行事は七日盆から始まっており、井戸替えをする処もある。佐味では8月7日にヤマモリがあって村中が組(垣内)ごとにご馳走を作って夕方からお宮さんに庭に家の提灯を吊って会食をする・・・」とあった。

その記事が気になって訪れたのが平成25年の9月15日だった。

先月、佐味に住む男性から電話があった。

夕方のヤマモリに境内でよばれるハンゴロシオニギリを作ると教えてもらって、この日の午前中に取材させてもらった。

「8月7日の七日盆に、それぞれの垣内の当番は垣内の家からモチ米5合を集めて、それに村から出る米を合わせて、七日の日に握り飯とおかずを作り、お宮さんの境内にむしろを敷いて村中の者が集まって会食する」という記述から佐味のヤマモリは七日盆が絡んでいたと思われたが、墓掃除、墓参りといった動きは聞き及ばない。

ただ、長老たちや一部の人達からも佐味のヤマモリは七日盆のヤマモリと呼ぶのが正しいだろうと話していた。

萱森で行われたラントバさん塔参りの取材を終えて再び現地入りした田原本町の佐味。

着いた時間は夕方の午後6時過ぎ。

境内は賑わっていた。



そうとう広い境内は組の人がそれぞれ座る位置にブルーシートを敷いていた。

オレンジ色のシートもあるが筵やゴザは見られない。

古き時代の敷物は見られないのはどこともである。

旧村佐味は100戸の集落。

大きな村に組分けは6組。

以前は垣内分けであったが、今の呼称は組であるが垣内名を教えてもらった。

1組は北垣内、2組も北垣内。3組、4組とも中垣内。5組、6組とも南垣内である。

つまり、北地区から中地区、そして南地区へと下った垣内名は、終戦後に北から南へ。

1組から6組の組制に名称を替えたのである。

それぞれの組が境内に分かれてシートを敷くが、毎年同じ場でなく一年交代で場を替えていくそうだ。

ハンゴロシオニギリが出来あがったのは昼を越した午後1時半にもなったという。

夕方のヤマモリが始まるまでの午後の部。

スーパーボールにジャンケン大会。

お菓子のつかみ取りに金魚すくいも。

過去は花火もしていたが、危険がともなうということで中断したが午後7時からは境内でビンゴゲームもしているヤマモリ行事は込みこみの村のイベント行事でもある。

佐味はかつてこの位置にあった集落ではなかったと住民が云った。

いつの時代かわからないが、曽我川が大雨で氾濫した。

それを治めるために東から西に移ったという。

村の端に小字西ノ辻がある。

それが端っこにあたる。

東に残った集落がある。

そこも佐味の地。

満田のほうがそれであって佐味の出垣内になるという。

曽我川が氾濫した話は前年の平成27年の9月13日に取材した八王子講行事のときにも聞いた。

八王子講の話しはそのときに流れ着いたハッタサンのヤカタを祭ったことである。

地図で見ればわかる現在の曽我川の流れを佐味と西隣村の百済との境界地。

現在の境界線を辿ってみればその一部に大きく蛇行している処がわかる。

それが元々あったと思える曽我川の流れ。

大和郡山市の額田部町と南に大和川を境にある川西町の吐田である。

現在地図の境界線も蛇行している。

それが元々あった大和川の流れである。

さて、杵で突くように搗いて作ったハンゴロシオニギリは5個入りパックに詰めて配られた。

かつてのおかずのご馳走はクジラのベーコンもあった。

串にさしたコロ肉もあった。

コンニャクにアゲも入れて炊いたカントダキをしていたという。

懐かしい話しをされるのは高齢者。

昭和29年のころだったという。

カントダキは見られないが6組はその場で焼き肉をしていた。


生イカも焼く豪華な馳走に食べてやと云われてよばれた。

これは炭火焼。

当番の人たちがつぎから次へと焼いていた。



もうもうと立ち込める煙は天に昇っていくが、焼き肉の香りは境内いっぱいに広がった。

他の組に人たちはそういうことはしていないが、それぞれの組の場には朝から作っていたハンゴロシオニギリが盛られている



6組は黒ゴマのオニギリもあるが、独自に作った色があるオニギリに焼きイカ、焼き肉でビールもお酒もぐいぐい。

そのうちに日が暮れだした。

天を指さす住民たち。



ジェット機が飛んでいるわけでなくお月さんが昇ってきたのだ。

天から微笑んでいるように見える白く輝くお月さんは下弦の月。



その下ではビンゴゲームに行列ができた。

子どもたちが楽しみにしていたビンゴゲームに群がる。



それとは関係なく組の飲食に時が過ぎていく。

解散は夜の8時ごろ。

会場に残っていた子供たちはボール蹴りをして夏休みを楽しんでいた。

今夜の籠りに嫌な蚊は飛んでいない。

そうなった理由は下支えしている役員の人たちのおかげだ。

この日の清掃前に処置をしていたのは雑草に住み着いている夏の虫退治。

村人の身体に影響のないように抑え気味の殺虫剤を撒いていたと云う。

(H28. 8. 7 EOS40D撮影)

佐味・ヤマモリの復活ハンゴロシオニギリ

2017年03月15日 06時47分20秒 | 田原本町へ
「今年のヤマモリは8月7日の夕方。

午前中は朝から皆が集まってヤマモリ行事に食べるオニギリを作る。

35年ぶりに復活することになったシロゴハンのオニギリが・・」と、7月21日に架けてきた電話の主は田原本町佐味住民のFさんだった。

Fさんは平成27年9月13日に取材した八王子講の講中。

そう思っていたが違っていた。

今夕にお会いした電話主のFさんは天神社前に住む男性だった。

講中でもなかったのだ。

Fさんにお会いしたのはそれ以前の平成26年の8月3日のことである。

天神社境内に村の人たちがそれぞれゴザを敷いて手造りの弁当を広げて食べる行事を調べに来ていた。

行事名称は「ヤマモリ」である。

訪れた3日は日曜日だった。

「ヤマモリ」行事を尋ねて訪れたのはこの日が始めてではなかった。

平成25年の9月15日も訪れている。調べていた佐味の「八王子講」の調査である。

どなたが関係しているのかさっぱり掴めなかったので翌日の16日も訪れた。

何軒かのお家を訪ねてわかったのはヤマモリの日だった。

本来は8月1日だったが、今は第一日曜日になったということである。

訪れた3日は日曜日であったが、「ヤマモリ」は前日から降り出した雨の影響で中止となったのだ。

中止となれば村が頼んでいたパック詰め料理やビールが不要になる。

不要になった飲食料は村の各戸に配る。

それをしていたのは二人の婦人だった。

残念やねと云われたがいつかは拝見したい「ヤマモリ」行事。

そのことを覚えていたFさんが電話をしてくださったのだ。

その日にお会いした方々には名刺を渡していた。

そのことも覚えておられて電話を架けた。

ありがたいことである。

なお、Fさんとお会いしたが、当時はお名前も聞いていなくて・・。

だが、八王子講中の手がかりを教えてもらった。

それによってようやく取材することができたのが佐味の八王子講であった。

Fさんが電話で伝えてくださったこの年の「ヤマモリ」は8月7日の日曜日。

夕方の午後6時ころから村の人たちが神社にやってくる。

朝の9時には長寿会、子供会がヤマモリのオニギリを作る。

オニギリはモチゴメとウルチ米を半々の分量で作る。

ずいぶん前の時代はしていたオニギリであるが、復活するのだという。

また、夜は境内でカントダキも作って食べるという。

ありがたい情報である。

Fさんが電話で云ったモチゴメとウルチ米を半々の量で作るというのはハンゴロシ。

県内事例によく聞くご飯、若しくは餅の名前である。

半分、半分だから「半」ゴロシである。

80歳のFYさんが云うには35年ぶり。

久方ぶりに復活するハンゴロシオニギリ作りの作業場は神社前の一角にある。



着いたときは子どもたちの賑やかな声が青空にこだましていた。

何人いるのか数えられないぐらいに多い。

眩しい真夏の光を浴びてキラキラしている。



子どもたちが一所懸命に洗っているのはパックである。

村総代や副総代が云うにはできるだけ子供たちに参加してもらって大人は声をかけるだけ。

つまりは体験重視。

今後の担い手は子どもが引き継いでいく。

そのことによって佐味の文化を継承していくということだ。

復活のきっかけになったのは田原本町の青少年健全育成推薦地区になったことが起因である。

青少年健全育成推薦地区は毎年替わるそうだが、「町民の人の温かさや優しさ、人と人との繋がりの大切さ、集団や社会のルールを守ることの大切さなどを子どもたちに育み地域ぐるみで取り組むために毎年選定している生涯学習課の制度」のようである。

子どもたちにとっても村にとってもいい機会に乗っかる。

そう思って見た子供たちの表情が光っていたのである。

子どもたちは佐味の子供会。

大人もいるがおにぎりを握ることのすべては子どもがしていた。

一方、お年寄りたちは張り切った。

かつてあったハンゴロシオニギリを知る人たちは後継者に伝授する。

体験していた年齢層は80歳前後の高齢者。

63歳の村総代は見ているだけだったという年代はいつごろか。

30年前、もっと前だったかもしれない。

そのずいぶん前の時代のハンゴロシオニギリのレシピはない。

作るというのはどこの行事もレシピは作っていない。

経験によって代を継ぐのである。

高齢者は体験者。

その記憶を頼りにハンゴロシオニギリを作る。

この日の取材は中途半端になりそうだ。

佐味を離れる時間はぎりぎりの10時過ぎ。

ここより東方の山間部の萱森で行われるラントバさん塔参りの取材がある。



なんとか間に合うように・・かってな願いに村総代も長老ら老人会、ご婦人たちの婦人会はそれなら一臼だけでもと作り始めてくださった。

着いたときにはすでに一臼の米は蒸していた。

それさえ間に合えばと云って動いてくれた。

蒸し上がりの飯はひっくり返して石臼に落とす。

この日のハンゴロシオニギリの材料は60kgのお米。

13臼も石臼で搗く。



搗くといっても餅つきのようなぺったん、ぺったんではない。

杵をご飯に突っ込んで押すように搗く。

コネコネとこねるように重しをかけながら搗く。

押し搗きのような感じで搗くことを「コヅキ」と呼ぶ。

餅搗きのような餅のひっくり返しはない。

それはないがシャモジで少しずつ掘り返すような感じで混ぜ込む。

これをハンゴロシの搗き方だという。



ちょっと摘まんで搗き具合を確かめる長老。

もうちょっとやなの声に再び搗く。

そこまでいくには事前の作業がある。

まずは米洗い。

水に浸けて米をしめらす。

まずは粳米を蒸す。

そこに糯米を混ぜて水をかける。

30分待って再び蒸す。

つまりは粳米、糯米半分ずつを時間差つけて蒸すのである。

手間のかかるハンゴロシオニギリ作り方はここんところが味噌である。

搗き終わったハンゴロシ状態のご飯。

材が半々なので餅と云えばよいのか・・。



搗いたハンゴロシはシャモジで掬って半切りに移していく。

餅ならひょいと持ち上げて移せるが、これもまた手間のかかる作業である。

こうしてできあがったハンゴロシは手で握る。



教わったとおりに作業する子供たちは真剣だ。

村の人に食べてもらうオニギリは堅くは握らない。

シオを軽く手につけて握る。

握ったら黒ゴマを振りかける。

毎年交替する組によって味に差があった。



この日は予め、コウジブタにシオも黒ゴマも撒いていた。

ふっくら感に握ったオニギリはコウジブタで転がす。

お母さんが握っていたように手で握る子どももいる。

みんなで作るハンゴロシオニギリは1800個も作ったと聞いたのは夕方に再びやってきたときのことだ。

(H28. 8. 7 EOS40D撮影)

法貴寺のゴウシンさんの御湯

2017年02月09日 08時51分43秒 | 田原本町へ
7月16日は県内各地でゴウシンサン行事がある。

天理市庵治町の在り方を拝見して急いだ田原本町。

これまでにも取材した処に大字の法貴寺がある。

田原本町の大字法貴寺のゴウシンさんは2カ所で行われている。

前回の取材は3年前の平成25年7月16日。

同然ながらの同一日である。

法貴寺の「ゴウシンさん」行事は神事。

斎主される宮司は法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。

幾度となく行事などの取材にいつもお世話になっている。

ゴウシンさんの行事に湯祓いがある。

御湯の作法をするのは法貴寺在住の小学生の巫女さんである。

宮司さん、巫女さんは一度に揃って2カ所の行事をすることはできない。

若干の時間を遅らせることによって成り立っている。

始めに行われる場は川西講中のゴウシンさんであるが、先に着いた場は川東惣講大神宮のゴウシンさんだった。

宮司さんと巫女さんが来られる前にしておく祭りの設営。

四方に忌竹を立てて細い竹を架ける。

そこに「宮ノ前 寺内 南垣内 市場講中」の文字がある提灯を掲げる。

垣内は四つ。

提灯も四つあるのは垣内の数である。

古くもなく、新しくもない湯釜も設えて湯を沸かしておく。

ここでは雑木ではなく不要になった構造物の木片をばらして燃やしていた。

川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。

寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。

西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。

そこを境に川西、川東に分かれていたのである。

昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。

田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。

その後、5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。

その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。

かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。

そのような作業を見届けて始めに行われる川西講中のゴウシンさんに向かう。

歩いた距離は遠くでもなく近くでもない200mの距離にある寛政八年(1796)六月に川西講中が寄進された大神宮の石塔がある。

宮司さんが来られる前に設える。

湯釜も火を焚いて湯を沸かしていた人たちは5人の婦人。

以前に取材したときも婦人だった。

いつもそうなのか判らないが、毎年交替する前田、西南、西口、北、観音寺の五垣内の人たちが川西講中のゴウシンさんを世話している。

準備が調ったころに出仕された宮司を迎えて神事が行われる。

祓え、祝詞奏上など神事を斎主する宮司。

法貴寺集落を東西に通り抜ける街道は車の往来が激しい。



身を寄せながら神事に臨まれる。

数年前に行われた川西のゴウシンさんには御簾や提灯もあったが、平成25年と同様にこの年も見られない。

10年前の行事のときは忌竹を設えたそうだ。

どうやら当番をする組によってあり方が違うのかも知れない。

今年は西から東へと繋げるゴウシンさんであるが、いつか思い出せないが、東から西へと移動する場合もあったという。

宮司さんが神事を終えるころにやってくる里の女児巫女。

民家前に設えた湯釜に向かって御湯の作法をする。

始めに幣を振る。

その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。

笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。

次に洗い米を湯釜に投入して、湯釜に塩、酒を注いで清める。

御湯の禊祓いである。



大神宮に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。

鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。

参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いを終える。

巫女さんが湯祓いをしている最中に宮司さんは川東へ移動する。

追っかけるにはまだ早い。

神事や湯祓いを済ませて後片付け。

釜の湯を捨てて通路を清掃する。

湯釜は蔵に収納する。

それから始まった湯祓いの笹付け。



御幣も笹も束にして大神宮の石塔に括り付ける。

この作業を経て一連のゴウシンさん行事を終えるのである。

川西講中のゴウシンさんを見届けて大急ぎで向かった東の大神宮は、宮司さんによる神事は終わっていた。

今まさに始まろうとしていた御湯作法には間にあったが、里の女児巫女が作法する御湯は川西講中の場合と同じである。



こうして神事を終えたら巫女さんも戻っていった。

ここ川東も後片付けをするが川西がしていたような御湯の御幣と笹はそのままだ。

川東惣講大神宮の石塔に括ることなく解散された。

(H28. 7.16 EOS40D撮影)

矢部の祇園祭の燈明灯し

2017年01月20日 09時22分47秒 | 田原本町へ
ハツホ講のハツホサン参りに訪れた際に通る集落道に神社がある。

田原本町矢部に鎮座する杵都岐神社である。

この日は鳥居横に提灯を立てていた。

提灯があるということは祭りごとがある。

で、なければ提灯など立てるわけがない。

そう、思ってハツホ講の人たちに聞けば、この日から始まった祇園祭の提灯だというのだ。

矢部の祇園祭は7月7日から15日まで続く。

田原本町で一番の盛り上がりを見せる祇園祭は本町通りの津島神社。

今でこそ第三土曜、日曜になったが本来の祇園祭は7日から14日まであった。

ところが矢部では一日多い15日までだという。

神事は7月10日。

午後2時より田原本町の多に鎮座する多坐弥志理都比古神社の多宮司が斎主を務めて斎行される。

神事はたぶんに一般的だと思えるが、毎日に行われるのは燈明灯しである。

灯すのは夕方の日暮れ時。

決まった時間はないが、7日からの毎夜に一日当番で灯すのは班分けした1組から10組の村人たち。

日程数と一致しない組数が不思議だが、おそらくいずれかの組は分割していると思われる。

ハツホサンの行事に直会をされていた矢部公民館を退室して伺っていた祇園祭の燈明灯しを拝見しようと思って神社に向かった。

距離は向かうほどの距離もなく十数メートル。

うっすらと灯りが見えた。

拝殿前に立つ燭台。

何本も灯せるような構造に数本のローソク火があった。

何人かの人が動いた。

時間帯は午後7時15分。

手にはローソクとマッチ箱。

この日から始った祇園祭の燈明灯である。

立ち去られた直後の状況を撮らせていただく。

話しに聞いていた13カ所はどれがどれなのか判らないが、神社左手にある小社は四つ。



それぞれに何本ものローソクに火を灯していた。

右端は「八王神社」。



暗がりで神社名を判別できなかった小社を一つ飛ばして「榎木神社」。

左端に「愛宕神社」とある。

拝殿の右側に建つ石碑的なものがある。

それは金比羅神社。

ここにもローソクを灯していた。

境内というか広場と呼んでいいのか判らないが北地に建つ観音堂にもローソクを灯している。



これで13カ所・・ではなくもっとありそうだ。

後述する迫りくる夕焼けの情景を撮ってから足を伸ばした。

南にある辻に、である。

そこは地蔵尊もあれば5月5日に行われる綱掛け行事に綱を張ったツナカケ場である。

時間帯は午後7時半を過ぎていた。真っ暗な状況であるが、地蔵尊もツナカケ場もローソクを立てた痕跡はなかった。

「ツナカケサン」の場辺りに住んでいるM婦人の話しによれば当番の組よってはする組としない組があるらしい。

Mさんが住む組は目と鼻の処にあるので間違いなくここでも燈明を灯しているという。

先ほどに神社辺りの灯籠とか小社に燈明灯しをしていた婦人たちはここまでやってこなかったようだと話していた。

祇園祭の燈明灯しの在り方を話してくださったM婦人は他にも行事が矢部にあると云う。

一つは矢部といえば決まって返ってくる行事は「ツナカケ」である。

それは取材したこともあるので存じている。

他にはといえばさなぶり行事。

これもまた存じているが・・、といえば3月1日の厄払いである。

その日は搗いたモチを知り合いなどに配るらしい。

男性の厄の年齢は42歳、60歳に88歳の本厄。

88歳の米寿祝いに手形を押す。

シャモジも祝いに配る。

県内事例によく見かける祝いの在り方は矢部にもあったのだ。

2月3日はトシコシ。

いわゆる節分の年越しである。

夕方になればめいめいが煎った大豆を氏神さんなど10カ所に供える。

地蔵尊もツナカケ場もそうである。

大豆を供えると同時にローソクも立てる。

大豆の数量は各家によって異なる。

例えば家族構成が6人であれば豆は6個。

8人家族であれば8個という具合になる。

節分に馴染みのあるヒイラギイワシを挿す家も多いようだ。

10月17日は杵都岐神社のヨミヤ。

村の人たちはハツホサンに拝見した家の提灯をもってきて参拝する。

着物姿で参る人もいるらしい。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

七夕日の夕焼け

2017年01月19日 09時43分02秒 | 田原本町へ
ハツホサンの行事に直会をされていた矢部公民館を退室したときのことである。

ドアを開けて出たらそこは夕陽が迫っていた。

時間帯は午後6時50分だった。

空はまだ青い。

白い雲がこちらに向かって流れてくる。

流れは筋を引いて広がった。

気持ちのいい情景を撮った時間は直会が始まる時間帯。

しばらくの時間は直会の在り方を取材していた。

乾杯を済まされたら女子会。

その場に居座るわけにはいかずに退室したのである。

それが感動の時間になるとは・・・。



想像、予期を越えた真っ赤な夕陽が同じような光景に迫ってくる。

あまりにも突然に焼けたように思えたぐらいの状況であった。

時間帯は午後7時20分。

30分後の出来事に夢中でシャッターをきりまくった。

撮った画像を数か月経ってから再見した。

感動は薄れていた。

あのときの感動はどこから湧き上がるものだったのか、思い出せない。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

矢部・ハツホ講のハツホサン参り

2017年01月18日 09時51分49秒 | 田原本町へ
ハツホ講のハツホサン参りがあると教えてもらったのはカンピョウ干しを拝見した日だった。

干して居られたご主人に教えてもらって訪れた田原本町矢部。

ご主人が住まいする組にハツホ講が祀っているハツホサンの祠がある。

同組には他にも家中で祭っているハツホサンもあるらしいが、8軒からなるハツホ講が祭っているのは集落内にある辻に建っている八王子社である。

同社は東垣内のハツホ講の人たちで、毎年のこの日に行事を行ってきた。

かつては社の前の道にミシロ(筵が訛った)を敷いて寄り合って般若心経を唱えていたという。

八王子社は一般的に読めば「ハチオージ」或は「ハチオウジ」である。

それが訛って「ハツオージ」或は「ハツオウジ」になった。

さらに訛って八王子社を「さん」付けして「ハツオサン」。

さらに訛って「ハツホサン」になったと考えるのが妥当かと思える。

講の名も八王子講から「ハツホ講」に変化したのであろう。

文書若しくは講帳簿があれば確認できるが・・・。

間違ってはならないのが、「初穂」である。

「初穂」はたしかに「ハツホ」と呼ぶが、秋の収穫に先だって神さんに捧げる稲穂のことである。

従ってハツホ講のお供えに「初穂料」は存在しない。

当番の人はカンピョウ干しをされていたN家。



到着した私たちに気を配ってくださり、早めに供えの準備に取り掛かってくれた。

家庭で使っている小型のテーブルが祭壇になる。

社が建つ地は筋道より少し高いところにある。

やむなくテーブルに高さ調整にブロックを置く。

しばらくすれば家から持ち出した提灯をもつご婦人方がやってくる。



提灯は家の提灯。

それぞれ家特有の家紋がある。

この家紋を「ジョウモン」と呼んでいた。

「ジョウモン」を充てる漢字は何であろうか。

「常紋」それとも「定紋」・・・。

調べてみれば家紋に定紋(じょうもん)と替紋(かえもん)の二種類があるそうだ。

定紋は表の紋で替紋は裏紋。

家紋は一種だけでなく何種ももつことができるらしい。

らしいが続くが専門家でもないので、らしい表現にとどめる。

家を代表する公式な紋を家紋と呼び、勲功や婚姻などで新しく加えられた家紋を替紋、或は控え紋と呼ぶようだが、それによる上下の格差はない。

提灯家紋の話題はそれぐらいにするが、秋祭りのヨミヤにも登場するという。

これは例年のことであるが、特別なときにも提灯は登場する。

婦人の話しによれば棟上げなどで大工さんを送るときにも使うそうだ。

棟上げには御幣を持って送ったという。

また、目出度い結納のときにも・・。

家の幕は二色。

下が紺色で上は白色だったという。



神饌はコンブにスルメ。

シイタケ、ナスビ、トマトにこの日は特別にN家が栽培した黒スイカまである。

お供えも整えたころ、あちらこちらからやってきたご婦人たちはめいめいが提灯をぶら下げる。

いずれも提灯は村では小田原提灯と呼んでいたが、形が違う。

どちらかと云えば丸型・ナツメ型提灯・・・それとも瓜成り提灯。

吊るす道具は竹製。

持ち手付きの提灯(送り提灯)は運ぶのが便利である。

そこから突き出る自在カギ。

それで垂らした紐にさっと引っかけられるから吊りやすい。

ネットで調べてみれば、手持ちする竹製部分の呼び名は「ひばし」。

八女ちょうちんのHPでは「送り提灯」と呼ぶようだ。

8軒並んだ提灯は新しいものもあれば古くから使われてきた風合いをもつものもある。

やや小さ目のローソクを挿して火を点ける。



サカキを飾った社にも火を灯す。

一同が揃ったところで導師が一歩前にでる。

これより始めるのが般若心経。



一巻唱えて「やーて やーて」で終えた。

かつてのお供えに「あもう炊いた(甘くなった表現)ソラマメ」を供えていた。

直会の場は社前に敷いたゴザ。

村の人らは筵が訛った「ミシロ」を敷いて寄り合っていたそうだ。

座布団はそれぞれが持ち込み。

夏は暑いから扇風機の風もいったと話す。

夜10時ぐらいまではこの場で過ごしていたという。

同じ日には別の講があって、その講中が祭っているハツホサンをしているらしい。

講中は4軒。

参拝した4軒はザルカゴに入れたソラマメを分けてくれたそうだ。

東垣内の7組は8軒のハツホ講であるが、7組には1軒で営む講もあるという。

他の組になるが、そこにも1軒で営む講もあるらしい。

それはともかく、かつての在り方にお供えは炊いたソラマメの他、くず餅にお寿司などいろいろあった。。

御供のお下がりに子供たちが狙っていたのはお菓子にソラマメだったそうだが、今は見ることのない少子化。

集落内に入り込む車の往来に場を動かねばならない状態になる。

「ハッタサンはよう雨が降る。参拝するときは雨も上がっているが・・」と回顧される婦人もいる。

ソラマメはオタフクマメだったようだ。

前年に収穫したマメは干す。

冷やして保存する。

ハツホサンが近づけば水に入れて戻す。

砂糖を入れて崩れないように炊く。

これが難しいという調理法。

塩で味付けして食べられる状態に調理する。

大皿に盛ったソラマメを供える。

御供は下げてみなで分け合って食べた。

調理が難しく、若いもんは、ようせんから、と云って、数年前にしなくなったそうだ。



般若心経を唱えた一行は提灯、御供下げなどを手分けして運ぶ。

神酒口そのままのお神酒も運ぶ。

向かう先は村の会所である矢部公民館。

冷暖房が利いているし、車の心配も要らない。

安心して婦人会ならぬ女子会ができるという。

運んできた提灯はどこに引っかけるか。



面白いことに白板の棚である。

灯りを消してローソクを灯すわけにはいかないが、珍しい光景を見た。

神饌御供のコンブやスルメは鋏切り。

手分けして配膳する席にはお寿司盛り合わせパックもある。

お酒ではなくお茶で乾杯するのも女子会。

一時的とはいえ、家の用事から解放された婦人たちのにこやかな顔にお礼を伝えて退室した。

(H28. 6.26 EOS40D撮影)
(H28. 7. 7 EOS40D撮影)

土用干し迎えの真夏日

2017年01月17日 09時53分25秒 | 田原本町へ
矢部のさぶらき行事は前月の6月19日に行われた。

村全戸の田植えが終わって行われる村行事である。

その日から一週間後の26日に訪れたときに拝見した塀中のカンピョウ干しにはとても感動した。

さぶらき行事は来年に持ち越しとなったが、カンピョウ干しは成りものもあるが天候次第で何度かのチャンスがある。

しかし、だ。

チャンスはあってもいつの日に干すのかは、お天道さん次第。

もしかとすれば、と思っていたが、白い垂れ紐はなかった。

この日は連日の真夏日。

立っているだけで汗が流れていく。

田植えが終わって3週間ほど。

植えた苗はすくすくと育っていた。

青葉が天に向かって伸びていく。

土用干しまでまだ日にちがいる。

今年の土用の入りは7月19日。

2週間ほど待たなければならない。

それまでは田んぼの水をたっぷり吸い込んで成長する。

育ってきた稲の分けつが盛んになるころが土用入り。

根も張り出した稲は水田に広がった。



青空に白い雲も広がった真夏日。

気温は7月に入ってから32度。

この日は34度に汗だくであるが、爽やかな色に染まった青空で気分も晴れる。

タコの足が広がる土用干しはまだまだ、だ。

(H28. 7. 7 EOS40D撮影)