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性差別社会と親子でどう向き合うか?

2018年12月12日 | 社会・経済

  時事オピニオン imidas  2018/12/07

    身近にあふれるセクシズム、ジェンダーギャップ。わが子を性差別や性暴力の加害者にしないために

 

太田啓子  (弁護士)

 (構成・文/仲藤里美)

 

 露骨な性差別、セクハラ事件が頻繁に起こる昨今。それでも、そういった事実を頑迷に認めたくないという人たちがいる。財務省セクハラ騒動の際にも、中高年幹部を集めてセクハラについて研修をした様子が報道されたが、あれは本当に効果があったのだろうか? 大人になってから、それは人権侵害だと教えたところで、差別的な態度は直らないのではないか? と疑問に思う。

 ジェンダー差別について発言を続ける太田啓子弁護士に、これから社会に出ていく子どもたちにどのようにこの現状を教えていったらいいのか、性差別の社会と親子でどう向き合うか、お話をうかがった。

    今回のテーマは、〈わが子を性差別や性暴力の加害者にしないために〉ですが、これは私が、二人の息子を育てる中で日々、考えていることでもあります。息子たちは今、小学校4年生と1年生。彼らが成長したときに、平気で性差別的なことを口にするような男性になってしまったらどうしよう──。日常の中で、しばしばそう感じることがあるのです。

 

「偏差値エリート」大学生たちの性暴力事件

 

 そんな不安を抱いてしまうのは、息子たちが日々接している今の日本社会に大きな問題を感じるからです。学校での性教育は不十分で、性についてのきちんとした知識を身に付ける機会がほとんどない。さらには、そもそも社会全体に人権についての理解が乏しく、非常に性差別的な性暴力表現があふれている。これほど性差別に寛容な、それどころか無自覚に性差別を助長するような社会の中で育っていったら、性的なこと、ジェンダー的なことに対するとらえ方がゆがんでしまっても全くおかしくない、とさえ思います。

  2016年には、いわゆる「エリート」大学生による性暴力事件が相次ぎました。東大生が集団で女子大生に強制わいせつ行為をして逮捕、起訴され有罪判決。さらに、千葉大の医学部生と研修医が酩酊した女性に準強制わいせつ行為をしたとして逮捕、起訴され、これも有罪判決。さらに、不起訴処分となりましたが慶応大学でも集団強姦事件があったと報道されました。こうした一連の事件を見ていると、どれだけ「勉強」ができて偏差値が高い大学に通っていても、そのことと人権意識の有無、とりわけ性差別への感覚の鋭さには関係がないのだとつくづく感じさせられます。

   女性を一方的にモノのように扱うこのような性暴力は、女性を見下す発想がなければ行い得ないものです。東大生の事件では、法廷で被告人らが犯行に至った自らの心情について「大学に入って他大学の女性と会うことが多くなると、彼女らは『自分より頭が悪い』と考えるようになり、相手の気持ちが考えられなくなった」などと述べたと報じられました。性暴力は相手を自分より「下」であると見下げる意識、要するに差別意識に根差すものだということを、明白に示す供述だと感じます。この被告人らについては東大生だという自負も相手を「下」に見る意識を強めたのかもしれませんが、それだけではなく、あらゆる性暴力の根底には女性を「下」に見る、「下」に置きたいという性差別意識があるのではないでしょうか。

   全体から見れば一部とはいえ、若い男性の間にここまで強い性差別的価値観が広がっていることは衝撃です。日本国内では「高度」なほうの教育を受けてきたはずの彼らに、そうした価値観が育っていたのは一体なぜなのだろうと考えずにいられません。やはり、学校での性教育が全く不十分なこと、性差別はいけないということを社会全体で教育していこうという発想が乏しすぎることが背景にあるのではないかと思います。

 

性差別と性暴力表現にあふれた日本社会

 

 たとえば、テレビのバラエティ番組などを見ていても、女性を貶めたり、同性愛者を嘲笑したりするような表現や、性暴力を娯楽のネタにしているような表現に気になることがあります。

  2017年の話になりますが、フジテレビの番組で「保毛尾田保毛男(ほもおだ ほもお)」という、同性愛者を揶揄したキャラクターにタレントが扮してのコントが放映されました。差別表現だと批判を集め、フジテレビは後に謝罪しましたが、いまだにこんなことが許されると考えていたのかと驚きました。

   また、18年の夏に放映されていた日本テレビの「24時間テレビ」でも、びっくりするような企画がありました。女性のモデルや芸人が、上はTシャツ、下は水着のビキニパンツという格好で「お尻相撲」をして、その様子を見ながら、スタジオの男性タレントらが「あのお尻の形がいい」などと品評するのです。ちょっと信じがたいような時代錯誤ぶりで、暗澹たる気持ちになりました。

   こういうことを指摘すると「お笑いなんだから」「ジョークがわからない」「表現の自由だろう」と批判されがちです。でも、差別の対象に直接的に「死ね」「消えろ」などと言うことはしなくても、特定の属性をゆがめてデフォルメしてからかうことで貶めたり、女性を一方的に性的対象として配置するというのは、ある意味差別の「王道」ともいえるやり方なのではないでしょうか。十分な性教育を受けず、性差別はなくさなくてはいけないという基本的価値観を身に付けることもないまま成長していけば、このような表現の問題を指摘されても根本的な意味がわからないのではないかと感じることがしばしばあります。

   女性の写真や動画、イラストを使用した企業や官公庁のCMやポスターでも、近年何度も「炎上」騒動がありました。女性タレントによる性的な表現が批判を集めた宮城県の観光PR動画や、性的比喩を多用したサントリーのアルコール飲料CM、女性の容貌を揶揄するようなルミネのCMなどが記憶に新しいところです。

   このような「性差別を巡って問題になる表現」は大きく二つに分けられます。一つは女性の身体を性的に強調するなど、女性を一方的に性的対象として描くもの。もう一つは、男女の性別役割を固定的に描くというジェンダー差別です。

   前者に関しては、女性の胸やお尻など性的なパーツを極端に強調したようなグラビアやイラストが、コンビニや電車、駅の売店など、誰もが出入りする公共空間にあふれていて、子どもの目にも容易に触れるような状況であることをずっと懸念しています。もちろん、私的空間で私的にそのような表現物を楽しむことは問題ありませんが、それと公共空間にそのような表現物を置くこととは全く別です。子どもが性差別に親和的な価値観を持たないよう、間違った性的知識を持つことのないよう、公共空間のあり方について大人が責任を持って真剣に考えるのが成熟した社会だと思うのですが、今の日本はそれにはほど遠い状況だと感じます。

   さらには、地方自治体など公的な機関までもが、ポスターや宣伝物で性差別に無頓着な表現をしばしば利用しているのも、非常に問題だと思っています。おそらくは広告代理店などに丸投げか、「こういうのが若い人に人気だから」という程度の軽い発想でつくられたものなのでしょう。でも、私的な主体ではなく公的機関の表現物を公共空間に出す場合には、いっそう明確に「性差別的な目線がない」表現であることが求められると思います。これについては、たとえば埼玉県の「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」などが参考になります。

「女性が嫌がっている」様子に欲情することを肯定的に描写することの問題

   さらに、私が気になっているのは、女性を性的対象として描く表現物に、女性が性的接触を明らかに嫌がっているように描かれているものが少なくないことです。AVにも、「レイプもの」「痴漢もの」など、明白な性暴力を娯楽対象として描くものがありますね。その中には、レイプだったけれど途中から女性が性的に快感を得て興奮し始めるというような描写もあります。

  そういうものをおよそ作ってはいけない、見てはいけない、というわけではありません。性的嗜好も内心に留まる限り自由です。制作、流通、観賞のどの過程でも他者の人権を侵害せず、TPOをわきまえている限りは、批判対象にはならないと思います。

   でも、そうした表現物を、性的知識が不十分で、性暴力とはどういうものかもわかっていない子どもの目に触れさせないという社会全体での配慮は必要です。その重要性が社会全体できちんと共有されているとは言いがたいのが現状だと感じています。さすがにAVは一般的にはゾーニングされている(子どもの目に触れないよう、置く場所等に一定の配慮がされている)とは思いますが、肌を多く露出した女性が恥ずかしがったり嫌がったりしているようなイラストや、顔は幼いのに胸やお尻が極端に大きく描かれた女性の身体のイラストは、子ども含む全年齢対象の漫画などでもよくあります。

 「相手が性的接触を嫌がっていること」を性的に興奮する対象として描く表現がなぜ気になるのか。それは、性暴力を軽視する価値観形成に影響しないだろうかと思うからです。

   性教育が徹底され、性暴力がどれだけ被害者に深刻な影響を及ぼすかが常識となっている社会であれば、このような表現物の氾濫も、そこまで気にならないのかもしれません。でも、実際には今の日本社会では、性教育はあまりに貧弱です。まともな性教育を受けないままで、性暴力の描写を娯楽として楽しむような表現物に何度も触れていたら、性暴力の何が悪いのかも十分わからず、性差別を空気のように吸いこんで内面化していってしまうこともあるのではないでしょうか。

   どんなものに性的に興奮するかというのは、個人差もありますが、ある程度社会で、文化的につくられている面もあるでしょう。そう考えると、全年齢対象で子どもも見るようなイラストや漫画で、あるいはゾーニングされていない空間で、「相手が嫌がっている様子は『エロい』『性的な興奮をかきたてるものだ』」というメッセージを無頓着に送り続けることには、やはり問題があると思うのです。

   これは、「性差別的な表現物や、性暴力を娯楽として描く表現物を見た人は即、性犯罪を犯すに違いない」といった短絡的なことを言っているわけではありません。

   ただ、私が実際に被害者代理人を担当したある集団強姦事件で見たことですが、加害者らは「強姦目的で拉致した女性の体を触っても全く反応がなく、性的興奮を示さないので拍子抜けしてしらけた」と供述していました。彼らは、強姦でも相手は性的に興奮すると思いこんでいたのですね。彼らの思いこみが何に影響されて形成されたものなのかの証明は難しいですが、どこかでそのような表現物に接することで、そうした刷り込みを受けたということもあり得るのではないでしょうか。

   そうはいっても、もちろん、表現物に影響されて実際に性暴力加害に及ぶ人はごく少数でしょう。でも、性暴力が蔓延する現状を踏まえれば、ただ性暴力を実際に行わなければいいというものではありません。

   たとえば、性差別の現状をきちんと理解し、性暴力被害者の声を真摯に聞こうという態度が取れる人──性暴力被害の告発の重要性をちゃんと理解していて、間違っても「男性と夜に二人で飲みにいったらホテルにいくのが当たり前だろう」というような「二次加害」をしない。痴漢被害がどれだけひどいかという話題が出たときに「でも痴漢冤罪もひどいよね」と何の根拠もなく口をはさんだりしない。女性差別の深刻さが論じられているときに、ただその議論を妨げたいためだけに「男性差別もある」と決まり文句のように割り込んできたりしない。現実社会でもインターネット上でも、誰かに性的嫌がらせをしている人を見かけたら介入して助け、加害者に怒りを感じる。そういう人が社会の多数を占める状況なのであれば、私自身もこんなに性差別的表現について懸念しないのではないかと思います。けれど、残念ながら今の日本社会がそうではない以上、性差別的価値観を維持・形成し、性暴力を軽視させることにつながる可能性のある表現物は、問題があるとして批判せざるを得ません。

 

性加害の場面を「男の子のやんちゃでほほえましい悪戯」扱いしないでほしい

 

 要するに、子どもにまともな性教育が行われていない社会では、子どもが接する性的情報が一種の「教科書」になってしまうところがあると思うのです。

   たとえば子どもたちに人気のアニメ『ドラえもん』でも、気になることは時々あります。のび太くんが、しずかちゃんの入浴シーンやスカートの中を偶然見たり、見ることができそうになったりして「ラッキー」と言う場面は、今でもしばしば登場するようです。こういうシーンが、ストーリー上の必然性もなく、単なる「ちょっと笑えるエピソード」という位置づけなのがすごく問題だと思っています。

   現実には、たとえ相手の「うっかり」であっても、下着や入浴中の姿を見られてしまったというのは女性にとって相当不快な記憶で、深い心の傷になることもある。そんな深刻なシチュエーションを「笑えるエピソード」という位置づけで描くというのは、性被害を軽視させる危険性をはらむと思います。

   こういう話をすると、まるで私が「『ドラえもん』を見たために、女の子のお風呂を覗いてもいいんだと思って実際に覗く男の子がたくさん生まれる」と主張しているかのように批判する人がいるのですが、そんなことを言っているわけではありません。ただ、こういう表現が性被害を軽視していることは事実で、そのことが受け手の価値観にある程度影響を及ぼす可能性はあるだろうということです。

  こうした「ラッキー」な場面の後、しずかちゃんはのび太くんをひっぱたいて「大嫌い!」「のび太さんのエッチ!」などと言うけれど、それでおしまい。またすぐ一緒に遊んでいる場面が出てきたりします。「漫画だから」と言ってしまえばそれまでですが、やっぱり「スカートの中を覗かれる/覗かれかける」という、確実に相手にとっては性被害にあたる行為を矮小化して、「わざとじゃなかったからいいんだ」「男の子のやんちゃな悪戯でほほえましい」と免責してしまっている部分がある。少なくとも、そういう描き方になっているということを、作り手は認識する必要があると思います。これは、表現者の社会的責任意識を問うということです。

  先に触れた、男女の性別役割を固定的に描く「ジェンダー差別」についても、気になることはたくさんあります。たとえば、ニュースやバラエティ番組で、男性が「ものをよく知っている」解説役、それを感心して聞いて相槌を打つのは若い女性……という組み合わせがいまだに目立つこと。こんな時代錯誤な構図がいまだに多くの番組でまかり通っていることにも驚かされるし、制作側も恥ずかしくないのだろうかと思ってしまいますね。こういうことのジェンダーバランスは、意識的にとっていかないといけないはずです。

 

性差別的な価値観を持たせないための教育を、小さいうちから

 

 こうした「性差別社会」をどうしたら変えていけるのかと考えると、大人になってからの教育だけでは遅いと思うのです。もちろん、最近企業や役所で広がってきたように、セクハラをした人に研修を義務づける、セクハラ言動をする人は人事上マイナスに評価して絶対要職に就けない、といったことは大切です。ただ、それで「こうした行為や発言がなぜ許されないのか」という根本的なことを、本当に内心まで浸透させられるか、納得させられるかというと、やはり非常に時間がかかるし、限界もあるのではないかと思います。

それよりも、可能な限り若い──むしろ幼いうちから、性差別的な価値観を持たせないための教育をすることに、もっと力を注ぐべきなのではないでしょうか。今の世の中は本当にひどい性差別社会だという前提に立った上で、特に男の子には差別する人にならないように、加害者にならないように意識しながら育てていく必要があると思っています。

   私も今、息子たちと一緒にテレビを見ているときなどに、何かひっかかる表現があれば「こういうことは失礼だから言っちゃダメ」「これは女性に嫌な思いをさせることだからやらないでね」と、一つひとつ指摘するようにしています。口うるさく聞こえるだろうけれど、やっぱり言わなくてはならない、と思って。まだ小学生ですから、「なぜよくないのか」まではわかっていないかもしれませんが、少なくとも息子たちにとって一番身近な女性である私が、こういうことを見て・聞いて嫌な気持ちになるんだということだけは伝えたいと思っています。

  また、駅などで「痴漢はダメ」というポスターを見て、息子が「痴漢って何?」と聞いてきたことがあります。「こっちは触られたくないのに触られることだよ。女の子の被害が多いけど、男の子の被害もあるよ。本当に怖くて嫌な思いをするものなんだよ」と説明しました。

  性教育の漫画や絵本なども、かなり小さいときから息子たちには読ませています。「特に、水着で隠れるところ」は、その人だけの大事な場所だから、相手が誰でも、触らせてはいけないし、相手がいいと言わなかったらあなたも触ってはいけないんだよ、というようなことは繰り返し伝えています。

   東京医科大学で、入試の際の不正が明らかになったときも、性差別についてのわかりやすい題材だと思っていろいろ話をしました。「同じテストで男の子も女の子も100点取ったのに、女の子だけ80点だったということにされていたら、どう思う?」と。そこから、「女の人は昔、選挙権もなかったんだよ」とか、「今も女性の政治家はすごく少ない」「会社に勤めてもお給料が男性より安いとか、子育てなどが始まると長く働き続けづらいとか、いろいろな不利益が今もあるんだよ」という話もしました。どこまで理解しているかは全くわかりませんが、女性が不利な立場になりやすい、こういう社会構造があるんだということは、早め早めに教えたほうがいいと思っています。

   特に男の子の場合、自分で望んでそう生まれてきたわけではないけれど、この社会では構造的に有利な面の多い特性を持って生まれてきたのだという認識は持てるように育てたほうがいいのではないでしょうか。もちろん、子どもたち自身に責任があるわけではありませんから、男の子を責めるというのではなく、社会を構成する大人に成長していく中で、そういう社会は変えなくちゃいけないねという意識を育てていってほしいと願っています。

 

女の子に伝えたいこと

 

 私には娘がいないので、女の子に直接話す機会というのはなかなかないのですが、娘がいたら、やはり性差別構造のことは早い時期から教えると思います。そして、私も引き続き他の仲間と一緒にこの構造を変えるためになんとか闘い続けると伝えて、あなたは性差別に屈しなくていい、私たちが可能な限り大人として守るから、あなたもいずれ一緒に闘う大人の一人になってくれたら嬉しいというようなことを言うかもしれません。

   私自身が10代の頃を思い出すと、いろいろな葛藤が本当に強い時期でした。男の子にモテたいという思いはあって、しかし「モテる」タイプではなかったので、「モテる」タイプに擬態しようとしてみたり、それが上手くいっても葛藤し、いかなくても落ち込み、ということを繰り返していたような気がします。若い女性向けの女性誌で「愛されメイク」とか「モテ力」などの言葉が並んでいるのを見ると、あの頃の自分の葛藤を思い出して複雑な思いになります。

   娘がいたら、モテたいと思っても(思わなくても)もちろんいいけど、「男の子に好かれるためにバカなふりをするのはやめておけ」という一言は結構繰り返し伝えたい気がします。エマ・ワトソンの国連でのスピーチなども読ませたいです。視野を広く持って、世代の上下、また、違う国に、自分を自分らしく表現して素敵に生きている女性がたくさんいるということを知る機会をなるべくつくってあげたいです。 

女性が性被害に遭いやすいということは、私自身も何度も被害を経験していますし、そんなことを娘に伝えるのは本当に胸痛むことですが、やはり伝えるでしょうね。そして、なるべく被害に遭わないように工夫するように、もし被害に遭っても絶対被害者は悪くない、悪いのは加害者だ、と繰り返し教えます。若年層の「デートDV」にも深刻なものがありますので、どんなに好きな男性からでも、嫌なことをされたら嫌だと言えるようにもエンパワーしたいです。

 

差別的な男性を減らしていく──次の世代への「レガシー」として

 

 もちろん、家庭だけで「性差別や性暴力の加害者に/被害者にしない」ことが実現できるかといえば、そうではありません。どんなに親が頑張っても、周囲の人に引きずられる部分もあるだろうし、メディアの影響も大きい。社会全体の「差別しない」レベルを上げていかなくてはどうしようもないと思います。

   そのためには、やっぱり一人ひとりが「おかしい」と思うことに対して声を上げていくことです。地道なことですが、それが実を結んでいくことは確実にあると信じています。

  統計があるわけではありませんが、知人から見聞きする話などでは、今20代とか30代前半くらいの若い世代の男性は、自分の父親世代より、家事や育児を柔軟に分担する傾向があるように感じます。

   また、かつて、「スカートめくり」は私の通っていた幼稚園や学校でも見かけたし、多分アニメや漫画などにもそういうシーンが登場していました。でも今では、現実でも漫画でもあまり聞かないですよね。私の体感に過ぎませんが、明らかに激減しています。これはやっぱり、名もない市民が「スカートめくりはやっちゃいけないことだ、性暴力だ」ということをいろんな場で口にして、その積み重ねによって「やっぱりよくないよね」という意識が社会全体で醸成された結果ではないかと思います。社会内の自浄作用が働いて、性暴力の一形態が絶滅に近くなったということでしょう。そんなふうに、意見交換を重ねながら、だんだん性差別的ではない「新しい常識」をつくっていくことは、私たちにもこれからももっとできるのではないでしょうか。

   それは、次の世代の若い女性たちのためにも、私たちの世代がやらなくてはならないことです。かつて、先人たちは長い闘いの末に女性参政権を勝ち取って、私たちに手渡してくれました。では、次に私たちができること、次の世代にレガシー(遺産)として残せるものは何だろうと考えたら、特に男の子を育てている者としては、「差別的な男性を減らすこと」「性差別構造と一緒に闘う男性をもっと増やすこと」なのではないかと。そんなことを今、考えています。

 


今年を表す漢字が発表された。「災」
「自然」災害が多かったからだろう。
災いがいつまでも災いとして人のこれからを左右してしまう。
すべてが自己責任として受け入れなければならない。
なんとか、元の生活に戻してあげることはできないものだろうか?
私も65歳の時に暴風の被害を受け、ビニールハウスを全滅にしてしまった。
災い転じて・・・
転じれる人がどれだけいよう。

PC,どうやら直ったようです。回線の不具合まで重なってしまい「災い」でしょうね。
PCのほうは自分でいろいろ試したのですが結局はダメ。専門家に来てもらいました。最終的にはPC内のごみ・ほこりが誤作動を起こしていたようです。きれいに掃除をしてもらいました。
蓋は簡単に開けられますので年に1度くらいは開けて掃除をお勧めいたします。私も肝に銘じて・・・