荻野洋一 映画等覚書ブログ

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アン

2021-08-20 01:25:25 | アート
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婁正鋼(ろう・せいこう)展 @ホワイトストーンギャラリー銀座本館

2020-06-11 05:01:00 | アート
 ホワイトストーンギャラリー銀座本館に、婁正鋼(ろう・せいこう)の個展〈コンテンポラリーアートとして華開く宋元画〉を見に行ってきた。パンデミック以来はじめて訪れた銀座は、当然のことながら以前の華麗さとは似ても似つかぬ、閑散とした街となっていた。

 中国・黒竜江省出身の女性書家・画家の婁正鋼は20歳から日本在住し、数多くの書画を発表してきた。書と絵画を横断し、現代美術と古美術を横断する婁の筆業に、私は以前から魅了されてきた。そしてその訳を、コロナ禍の只中で開催されている今回の個展ではっきりと理解することができた。彼女は西伊豆に隠棲し、食べる・寝る以外の時間はつねに、アトリエにこもって筆を取っているとのことだ。金のためでも名誉のためでもない。ただ、筆を取ることを選び取ってしまう、その静かな狂気に、私は共感する。

 ホワイトストーンギャラリーには数多くの絵画が並んだ。その多くは西伊豆の海を思わせる、波濤のバリエーションに見える。個展名に「宋元画」と銘打っている以上、作者側としてもこれらが山水画であることを認めているということだろう。地形であり、水景である。そしてアンフォルメルの抽象画にも近い。風景であると同時に、作家の精神遊行のみちすじでもあるだろう。つまり脳内地図である。

 そして、もちろん書。絵であることを深く志向しながら、筆の走りによってそれらが書の痕跡を、かえって炙り出しているようにも思える。この様態の両義性、多義性が私を捕らえて離さない。1枚1枚を凝視しているうちに、私は陶磁器の展示を見ている時の自分を思い出してもいた。うつわの中に視線は進入していき、表面の文様を、表面のひび割れを、器体の凹凸を、微小な旅人となって這い回る。そのとき、平面であるはずの婁正鋼の抽象画は、陶磁器の「景色」に変化している。

 〈コンテンポラリーアートとして華開く宋元画〉。たしかに、これは現代美術であると同時に、オーセンティックな宋元の山水でもある。宋元の峻厳なる陶磁でもある。そのように私は理解しつつ鑑賞を進めた。それはちょうど、バッハがバロック音楽であると同時に現代音楽として聴取可能であるような、そういう閾に婁正鋼がいることを、知っていく小旅行のようだった。


ホワイトストーンギャラリー銀座本館にて、6/21(日)まで
婁正鋼 個展〈コンテンポラリーアートとして華開く宋元画〉

アンリ・カルティエ=ブレッソン、そしてソール・ライターについて

2017-06-19 22:31:55 | アート
 先日、脚の悪い老母をわざわざ京都に連れ回した。荻野家の菩提寺である宗派の総本山である知恩院に初参拝させることが主目的である。2日目はあいにく雨に祟られたため、おもに美術館、博物館と屋内観光におとなしく収まった。
 知恩院参拝のあと、祇園の「鍵善良房」で葛きりを食べ、その並びの「何必館」でアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真展を見た。老母はブレッソンの写真よりも地階の魯山人の器展示のほうが興味を抱いていたようだ。まあそれはそれとして、同館のポスターやバナーに採用された『ムフタール街』(1952)という写真は、私の最も愛するブレッソンの作品である。10歳に満たぬ少年が赤ワインのボトルを2本抱えている。おそらく親のお遣いなのだろう。酒瓶を持って歩くことが大人じみて鼻高々だったのか、得意げな微笑を浮かべている。
 ブレッソンの展示を見て刺激を受けたため、東京の自宅に戻っても、ロバート・フランクの『THE AMERICANS』(1958)から十文字美信『感性のバケモノになりたい』(2007)、マルティナ・ホーグランド・イヴァノフ『FAR TOO CLOSE』(2011)などなど、いろいろと手持ちの写真集を片っ端からパラパラとめくっていた。ロバート・フランクについては最近、ドキュメンタリー映画『Don't Blink』も公開されたが、これはじつにいい作品だった。もし機会があったらご覧いただきたいと思う。

 にわかの写真熱を充当してくれたのが、試写と試写の移動途中に時間が少しあって寄ることのできたBunkamuraザ・ミュージアムのソール・ライター展〈ニューヨークが生んだ伝説〉である。この人の写真展を初めて見たが、感動的な発見となった。とくに素晴らしいのが、1950年代から60年代にかけてニューヨークの市井を撮影したまま現像もされずにソール・ライターの自宅スタジオに放置されていたカラー写真の作品群である。この時代の写真作品はモノクロームであることが普通だろう。表現と呼べる写真はつねにモノクロームだった。ところが、ソール・ライターはカラーフィルムの色彩を好んだようである。
 この時代のニューヨークをカラーで見ることができるのは、ハリウッドのテクニカラー作品以外にはほとんどないと思う。後代に生きる私たちにとってソール・ライターのカラー写真作品は、テクニカラーのハリウッド映画に連なるものである。赤い傘が、オレンジの帽子が、緑の青信号が、ねずみ色の残雪が、まっ黒な遮蔽物が、真っ白なワイシャツが、いずれも眩しい。目を喜ばせる。
 ソール・ライターは写真家であり、画家だった。日本美術に精通した彼の抽象画は、禅僧の描く山水と墨蹟であったり、ニコラ・ド・スタールの色彩の横溢であったり、ロラン・バルトが戯れに筆を走らせたざっかけない水彩のようであったりする。やはり、目を喜ばせる。


Bunkamura ザ・ミュージアムにて6/25(日)まで(以後、2018年春に伊丹市立美術館に巡回)
http://www.bunkamura.co.jp/

サイ・トゥオンブリーの写真について

2016-09-02 00:22:22 | アート
 過激なまでにざっくばらんな筆運びでならしたサイ・トゥオンブリーの絵画作品やドローイング作品は、一滴の絵の具の垂れぐあいが、一本の鉛筆の線が、子どもにさえ不可能なほどのたどたどしさを誇示している。ほとんど稚戯、落書きにも思えるその筆致を、しかしロラン・バルトは全面肯定した。「《子どもっぽい》だろうか、TWの筆跡は。もちろん、そうだ。しかし、また、何かが余計にある。あるいは、何かが足りない。あるいは、何かが一緒にある。」
 子どもの稚拙さは、大人に達しようと力んだり勉強したり、母親に愛されたかったりした結果だ。トゥオンブリーの筆跡にはもっとノンビリとだらしない余剰がある。「軽やかな蜜蜂の飛翔の跡」と呼ばれるその筆跡は、シュポルテ(支持体)の鉱物性を際立たせ、ジャンル間の差異を縮ませる。
 絵画、ドローイング、彫刻。そして最後に遅れて、写真が彼の表現方法に追加された。ボワボワとピントの合っていない静物や花弁、絵画や遺跡の部分写真は、ディテールの鉱物性がクロースアップされ、見る者の感覚を攪拌し、一緒くたにする。そのときトゥオンブリーは「古代ローマ」などとつぶやいて、私たちを戯れに幻惑する。では、この古代との連関を強弁する姿勢は、擬態にすぎないのか? おそらく彼は、本気で古代ローマ文明の正統的嫡子だと自認していたのだと思う。
 今回のDIC川村記念美術館(千葉県・佐倉)の《サイ・トゥオンブリーの写真——変奏のリリシズム》(2016年4月23日〜8月28日)によって、初めてトゥオンブリーの写真作品の全貌を楽しむことができた。前回、彼の写真を見られたのはいつだったか? ——それは六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートのゲルハルト・リヒターとトゥオンブリーの二人展で、確かあれはトゥオンブリーが亡くなる1ヶ月ほど前のことだったはずだ。ヒマワリの花びらをピンぼけで撮ったドライプリントが数点出ていた。
 今回では、トゥオンブリーが亡くなる年の2011年に撮影した最晩年の作品も展示された。それは、サン・バルテルミー島の墓地を写した数点である。墓石、十字架、朝鮮アサガオの花びら、そして見上げた際にさっとシャッターを押したのだろう青空に雲の写真一葉である。


DIC川村記念美術館(千葉県佐倉市)
http://kawamura-museum.dic.co.jp

松本裕子Objet展@Gallery SU

2016-07-25 23:44:08 | アート
 東京・麻布台のGallery SUで見た松本裕子さん(ふだんは「涙ガラス制作所」として活動 今回初めて本名を知った)のオブジェ展が素晴らしく、2回も見に行ってしまった。この作家を知ったのは偶然で、わが「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」時代の編集委員仲間である廣瀬純の著書『暴力階級とは何か』(2015 航思社刊)の表紙を飾った写真家・中村早さんの作品展を今冬に見に行った際に、一緒に松本裕子さんのガラス工芸作品も展示されており、その見た目は矮小・繊細・脆弱に見えながら、頑強さと放縦さとを体現するガラス作品の数々に、感銘を受けたのである。
 今回はガラス作品ではなく、木彫作品の展示だった。女性のクビが4体ほど。手首が2体ほど。ガラスと立体図形の組み合わせが数点。そして鳥の翼が1対。女性のクビをゆっくり回していくと、木彫とはいえ、彼女たちには固有の人格が宿っていることが手に取るにように分かる。いずれの顔も愁いを帯びて笑顔はないが、決して暗く沈んではいない。むしろ話しかけられるのを待っているような、何かを待機しているような表情に見える。そしていずれのクビにも共通する、後ろで束ねた髪の毛。目は口ほどに物を言い、というが、後ろ頭の髪の束も私には雄弁に思える。感覚の集約を感じさせるのだ。
 そして、鳥の翼。翼の単体で、胴体は作者によって放置され、今回は展示されなかったのだという。胴体から切り離され、無残にもがれた翼はそれでも凛とした威厳を失っておらず、マグネットによってさまざまな鉄にぴょんと吸い付いて、ペットのようにも見える。もがれた翼といえば、どうしてもヴィム・ヴェンダースの代表作『ベルリン 天使の詩』(1987)における、天使から切り離された翼を思い出す。そしてそれは元はといえば『嘆きの天使』(1930)のマルレーネ・ディートリッヒに遡っていく。
 ディートリッヒの時代錯誤な翼を復活させたのが、ディズニー映画『マレフィセント』(2014)におけるアンジェリーナ・ジョリーのもがれた両翼だった。ジェームズ・キャメロン、ティム・バートン、サム・ライミの美術監督を歴任したロバート・ストロンバーグの監督デビュー作である『マレフィセント』には、美術畑出身ならでは美学がたしかに花開いていた。
 そんな、あらぬ夢想と共に、同ギャラリーで松本さんの作品たちを見つめてきた。全作品が売れてしまった最終日、展示を終えた作品たちは梱包され、私たち鑑賞者はもちろん、作者本人のもとからも立ち去っていくのだろう。あらたな持ち主のもとで、マレフィセントの羽のごとくそれは保管されていくのだろう。そうした感慨と共に、ロベール・クートラス(クトゥラ)のコレクションをもつGallery SUの美しい昭和モダニズム(1936頃築)の洋館を後にした。


Gallery SU(東京・麻布台)
http://gallery-su.jp/exhibitions/2016/07/objet-1.html