荻野洋一 映画等覚書ブログ

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映画関連各種忘年会の記録

2008-12-30 23:29:00 | 味覚
 新宿2丁目で「映画芸術」誌の忘年会。ビンゴの賞品は同誌362号。小川徹の追悼と清順の『夢二』が特集された1991年夏号である。吉行淳之介、工藤幸雄、内田栄一、川喜多和子、田山力哉といった現在はもう鬼籍に入った人々が、癌で逝った小川徹を悼む文章を載せている。その他、故笠原和夫が『ゴッドファーザーPART III』のレビューを書いているのも興味深いが、変わり種としては、現在は「横審」で有名な内舘牧子がなぜか『シェルタリング・スカイ』の評を書いているのが微笑ましい。
 1991年夏といえば、ちょうど私たちが「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌の創刊を果たしてまもなくの頃である。これ以後の「映画芸術」誌は、「カイエ」を仮想敵とする編集方針が濃厚に打ち出されていったように記憶していたが、本号に掲載された崔洋一のコラムの冒頭に、“ 荒井晴彦が言うところの「『カイエ・デュ・シネマ』みたいに」とは、生産現場としての映画の現在の蘇生である ” 云々とこんな一節が見える。これはもちろんフランス本国版を念頭に置いた発言であろう。いずれにせよ今となっては、なしくずしの話であるが。

 途中、青山真治監督に連れ出され、少し離れた店に行くと、中原昌也および安井豊、それから初対面の人々としては、先日に機関紙『シネ砦』の第2号(左写真)を発行したばかりの映画美学校・安井豊ゼミの一門、さらに評価の高い2つの映画批評ブログ「gojogojo.com」の作者や、「Contre Champ」の作者・葛生賢といった人々が酒宴を催していた。『シネ砦』第2号についてしばし議論したはずだが、詳細は失念。

 同じ店の少し離れたテーブルでは、偶然にも大学時代の先輩諸氏が宴席を囲んでおり、はばかりに立った際に「荻野じゃない?」という声がかかり、そちらの席に合流して数時間の映画談義。
 再び安井/青山テーブルに戻ると、ジェームズ・グレイの新作『アンダーカヴァー』が2008年のベスト1だという議論が上がっている。これはぜひ見逃すべからざる作品と心得ることとした。

 早朝、安井/青山グループ解散の後は、中原昌也に案内されるままゴールデン街へ向かい、朝8時くらいに年越しの挨拶を述べて去る。

 実は、「映画芸術」忘年会の前に、日本橋小網町の某割烹にて、穴子の白焼きを肴にひとり酒をしてから、都営地下鉄で新宿に向かったわけであり、翌朝まで随分アルコールを摂取したにも関わらず、まったく酔えない日であった。このシラフぶりが批評的精神の覚醒と繋がっていればよいのだが、どうやらそうでもないところが我ながら嘆かわしい。やはり、同業種の各氏とのコミュニケーションには、それなりの張りというか気合みたいなものを体内に知らず知らず分泌してしまっているのだろう。


P.S.
『シネ砦』創刊号についての記事はこちらをクリック

2008年ベストテンの選考

2008-12-28 05:01:00 | 映画
 先日「映画芸術」誌より、ベストテン&ワーストテン選考の依頼が初めて来て、ようやく昨夜になって選んで送り返した。1位に選んだのは北野武『アキレスと亀』だが、これはたけし映画に対する昨今の悪評に反発する意味も加味している。ちなみに黒沢清『トウキョウソナタ』は3位に投じたが、これが1位でもおかしくはない。これ以上ばらすのもなんだから、あとは選評文ともども、発売時に誌面上でご笑読いただければ幸いである。

 それから、生まれて初めてワーストテンというものをこしらえてみて、これほど興奮を掻き立てられる作業だとは知らなかった。「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌(休刊)やプロフェッショナル大賞などでベストテンの選考を経験してきたが、ワーストテンを選んでみようという発想はなぜか持ったことがなかった。ラズベリー賞の実行者たちは、こんなエキサイティングな気分を毎年味わっていたのか。そういえばむかし10代の終わりに、『映画はいかにして死ぬか』(フィルムアート社)の巻末に付されていた蓮實重彦の年度別ワーストテンを眺めながら、すっかり興奮させられたことがあったっけ(あれもたしか「映芸」に毎年提出していたリストをまとめたものだった)。
 要らぬ恨みを買う可能性が少なからずあるが、ワースト選考もうまく使えば、批評の一基準として、1年に1回くらいはあっていい儀式ではないかと思った。

ルンバの巨匠チャビエル・クガ

2008-12-24 11:24:00 | 音楽・音響
 写真は、バルセロナ出身、キューバ育ちのルンバの巨匠チャビエル・クガ(1900-1990 英語名ザビア・クガート)楽団によるベストアルバム2枚。バルセロナ市内を移動中に聴いてみたが、現代のカタルーニャの雰囲気とはいまひとつマッチしないという現象が面白い。
 左写真のアルバムには、香港のウォン・カーウァイ監督が『欲望の翼』『2046』で愛着深く使用していた、『My Shawl』(1934)、『Siboney』(作曲はE・レクオーナ)、『Perfidia』(1941)なども収録されている。いずれも名曲だけれども、とりわけ『Perfidia』の、明朗な中にもわずかながら物悲しさを漂わせるメロディが最高である。
 話はいきなり飛ぶが、つい最近仕事でゴダールの『軽蔑』(1963)のサウンドトラックを聴きなおす必要があったのだが、今さらながらこれは傑作。ジョルジュ・ドルリューはやはり天才ですな(ドルリューを、ゴダール映画でもって褒めるというのも少し違う気がするが)。
 ドルリューとかルグランとか、現代だとフィリップ・サルドあたりの、フランスの映画音楽家が作る、やたらとロマンティックなアダージョは、なぜかは知らないが、大好きなのである。『恋のエチュード』の音楽に胸を掻きむしられた御仁は数多くおられるだろうし、テシネの『ランデヴー』なんてのも黄昏れたい時にもってこいである。

Catalonia is NOT Spain.

2008-12-21 10:05:00 | サッカー
 今年のUEFA EURO 2008でスペインが完璧な内容で優勝したことに対し、カタルーニャ人も含めて、スペイン国民の大多数が祝祭感に包まれたのは、本当のことだ。この雰囲気は10年前のワールドカップ優勝時のフランスを思わせる。しかしだからといって、最近、日本人の勝手なスペイン観で、「スペインはひとつになった。もう分離独立主義は古い」などということをまことしやかに触れ回る論者が結構いる。

 しかしこれは手前勝手な嘘だと思う。クラシコの中継では抜かれていなかったが、今年のクラシコの観客席にははっきりと、「Catalonia is NOT Spain」の横断幕がでかでかと掲げられていた。この標語がカタルーニャ語でもスペイン語でもなく、英語で表記されているのが意義深い。国際映像の中継でこの横断幕が抜かれなかった(以前に一度抜かれたことがある)のは、世界数十ヶ国で放送されるクラシコの政治的影響力を配慮しての措置であろう。