荻野洋一 映画等覚書ブログ

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突然ですが、日本橋を去ることになりました その1

2017-07-05 02:01:48 | 身辺雑記
 突然だが、東京中央区の日本橋中洲を離れることになった。私としては、ここ2~3年のあいだ薄らと考えていたことだったので、突然というわけでもないのだが、さんざんSNS上などで日本橋自慢みたいなことを偉そうに書いておいて何なのだとお思いの方も、ひょっとするといらっしゃらないとも限らない。

 しかしながら、私はもともと日本橋に縁もゆかりもない人間だ。2002年の夏、ここへ越してきたのは諸般の事情もあったが、やはり永井荷風、佐藤春夫、小山内薫といった私の愛する作家たちが跳梁跋扈し、小津安二郎がグルメ日記を書いたこの街に住むのは、ヨーロッパの都市に赴く以上のエキゾチズムを感じさせたのだ。そもそもこのブログ自体、2007年春に、日本橋散歩日記みたいな気分で始めたものである(前身のauoneブログ時代)。20代のアシスタント時代、浜町の東京テレビセンター(通称テレセン …テレビだけでなく、宮崎駿をはじめとして数多くの映画作家がここでポスプロをおこなう)でダビング作業を終えたあと、浜町、人形町と歩き回り、同僚の男と「なんて良い町なんだ」と感激して以来の思い入れある場所だった。

 私が現在住むマンションの前には、かつて成瀬巳喜男監督『乱れる』の水野の女将の宅として使われた料亭があった。その料亭はまた、小津安二郎監督『秋日和』の序盤で、原節子の亡夫の七回忌を終えた一同が酒宴をもよおす料亭でもあり、座敷はこの料亭の寸法を合わせたセットだろうが、窓からの夜実景はこの料亭から撮られた。
 その隣は、増村保造監督『女経 第一話 耳を噛みたがる女』で若尾文子が出入りする左幸子のアパートがあった場所である。なおそのアパートは、戦争で焼けるまでは「中洲病院」だった。永井荷風が『断腸亭日乗』の中で、「川向こう」を徘徊する前に必ず寄って整腸の注射を打ってもらった病院である。じつはそこは産婦人科なのだけれど。

 日本橋を去るのも、来たときと同様に諸般の事情によるもの。そして私自身の、変化への欲動もないとは言えない。移転先は市谷の某町である。独居老人である母に何かあれば、すばやく駆けつけねばならない年令である。メトロ副都心線と有楽町線が好ましい。そういう交通的な都合が一番の理由だろうか。その老母が青春時代を過ごしたのは、新宿の戸山町であり、いっぽう父の出身地は四谷である。荻野家代々の墓が新宿にあり、くしくも私のこんどの新居は、自分の墓から歩いて数分という距離とあいなった。私は幼いころ、なぜ父方の墓が母の実家のそばにあるのかが、まったく理解できなかった。なにか理由があるのかと必死に考えたが、単に偶然だったのである。
 まあ要するに、いま、私も心身共に墓に近づいた、ということか。

 日本橋に残した愛おしき店や人々――私はそれらに触れんがために、たびたび日本橋を再訪し続けることになろう。