荻野洋一 映画等覚書ブログ

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閉館間近のブリヂストン美術館で見たカトリーヌ・エスラン

2015-02-26 01:35:00 | アート
 いまブリヂストン美術館(東京・京橋)で《ベスト・オブ・ザ・ベスト》という展示を催している。館蔵の名品を選りすぐって前期・後期に分けて見せるという趣向である。同美術館が入居するビルが取り壊され、あらたに新築されるまで長期間にわたって閉館することが決まったため、ファンにお別れの挨拶といったところである。
 ただブリヂストン美術館に限って見れば、さして建てなおしの必要を感じないというのが率直な意見である。オリンピックに向けてかどうかは知らぬが、昨今の東京は、どうも不可解なる再開発で資源の無駄遣いをしているように思えてならない。再開発してあらたに街開きしたところで、数年するとすぐに陳腐化し、閑古鳥が鳴いてしまう。なぜこんなにも再開発のヒット打率が低いということを、開発業者たちはわからないのだろう? 開発時の受注によって潤えばいいという近視眼的なやり方だ。もちろんブリヂストン美術館のビル建てなおしがそんな近視眼的な再開発の一種かどうかは知らないし、興味もない。ただ、新築時の希望を言わせてもらうなら、展示面積は現在の倍くらいあるといい。いまのスペースは少し狭いように思う。

 そんな経済面の事情とはなんの関係もなく、すばらしい美術との出会いは必ずある。ジャン・フォートリエや趙無極(ザオ・ウーキー)といった最近お気に入りの作家たちとの出会い、再会、そしてしばしのお別れ。なかんずくオーギュスト・ルノワール1917年の作品「花のついた帽子の女」に出会った。モデルとなった少女はデデという名前だが、娼婦ではない。デデとは、のちのカトリーヌ・エスラン。つまりルノワールの次男ジャンの妻になる女優で、将来、ジャンが監督する映画『チャールストン』『女優ナナ』においてヒロインをつとめることになる人である。
 映画で見るカトリーヌ・エスランは、激しい欲望と情熱をたぎらせた恐ろしい女性に見える。しかし「花のついた帽子の女」での彼女は、まさに父ルノワールの少女像そのもので、オレンジ色や小麦色など暖色で塗り込められ、どこまでも明るく爛漫たる生の輝きがその横顔にあふれている。ソファか籐椅子かに前のめりに寄りかかる少女の上半身の傾斜具合は、この少女がいかにルノワール家の調度品に慣れ親しみ、緊張を解いているかを雄弁に物語る。あくまで推測だが、この絵の時点で、おそらく少女はこの家の次男と肉体的交渉を済ませていたのではないだろうか?
 『女優ナナ』(1926)を見たことのある映画ファンなら、見ておいて損はない絵画だろう。国立西洋美術館(東京・上野公園)のアンドレ・ドラン作「ジャン・ルノワール夫人(カトリーヌ・ヘスリング)」(1923頃)と比較しながら見るとおもしろいと思う。


ブリヂストン美術館(東京・京橋)の《ベスト・オブ・ザ・ベスト》は5/17(日)まで(3/31に展示替えあり)
http://www.bridgestone-museum.gr.jp

『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』 青山真治

2015-02-24 02:00:32 | ラジオ・テレビ
 ドラマ『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』が、原作となったミステリー小説にどの程度忠実に作られたものなのかはわからない。しかしオリジナル脚本と見まごうほど、演出を担当した青山真治的記号が横溢している。
 ドラマ初回の冒頭いきなり主人公の弁護士(三上博史)が死体を遺棄するシーンから始まるが、それはどしゃ降りの夜のできごとである。『サッド ヴァケイション』『共喰い』といった作品を、嵐という気象がどれほど映画的に活気づけたかを思い出してみるとき、「死体に触れたのは、これが2度目だ」という主人公のモノローグが、青山映画に課された原罪に触れていることに気づかざるを得ない。青山映画の原罪とは何かというと、その多くが父殺しか、それに準ずる殺人だ。殺人によって生じた喪失、あるいは入獄は、青山映画がほとんどつねに、知られざる古代神話のリメイクであるという現実に根ざしているのではないか。青山の出身地である北九州という土地がそうした神話性を召喚してやまないのか、それとも中上健次的な妄執の再燃なのか、おそらくその混淆であろう。ここでの三上博史もまた原罪の人であり、彼は中学生の時に5歳幼女を日本刀で斬殺し、取り調べの席で「誰でも良かったんです。とにかく人殺しをやってみたかった」とうそぶき、精神異常と診断されて医療少年院に収監された過去をもつ。刃物での斬殺という血なまぐささは、青山映画にふさわしい。
 「人殺しの前科をもつ弁護士」などという突拍子もない設定は秀逸だが、かといって見る側が期待するジョン・ガーフィールド的な悪徳弁護士の社会派作品というわけではない。むしろ三上博史はフィリップ・マーロウのような探偵として振る舞う。保険金目当ての殺人なのか、それとも生命維持装置の誤作動なのかといったソープオペラまがいのサスペンスを愚直に跡づけながら(三上博史がマーロウのように聞き込み調査を反復しながら)、後に起きた殺人が前に起きた殺人のリメイクになっているという連鎖的構造──殺人者、被害者、殺人者の母といった人間関係の二重性、三重性──が、古代神話の反復性のごとく浮かび上がる。この多重性を増幅する装置として、留置所の面会室がまたしてもメイン舞台となる。ガラスなり鉄格子なりを隔てたこの面会室という舞台で「母と息子」が対峙する。これほど青山的な構図はない。
 登場人物たちははっきりとした性格付けをなされている一方で、どこか茫洋としてとらえどころがない。三上博史は、殺人という自分の罪を償おうとしつつも、自分を見捨てた母親を許せないという感情に苛まれつづける。彼は母親という存在を内面的に肥大化させ、フィルム・ノワールのファム・ファタールに見立てて「女は男を裏切る」という宿命論とともに生きているのではないか。「お前さんは憐れな奴だ」とリリー・フランキーの刑事が三上博史をつめたく罵倒するとき、真行寺君枝、薬師丸ひろ子、石田えり、田中裕子 etc.といった母親たち──時に主人公をファム・ファタールのように裏切り、時に肥大化しつつ母系一族の祖として再-君臨してみせる母親たち──をいっこうに対象化できない幼児性への憐憫として聞こえる。
 ただひとりだけ、ファム・ファタールでも卑弥呼でもない、ゼロ記号のような女が登場する。それは少年院時代の仲間であり、彼女はいまではピアニストになっている。ベートーヴェンのピアノソナタ〈熱情〉の暗く沈潜していく短調の旋律が、主人公と彼女を取り結ぶ。女ピアニストは贖罪の記号として、この曲を弾く直前に必ず燭台のろうそくに火を灯す。この小さな炎が主人公の希望となり、苦悶の源ともなる。コンサート会場でろうそくの炎とピアノソナタの演奏にしたたか打ちのめされ、ホール外へと退散する三上博史の苦悶はすばらしく、私たちがこれまでサイレント期から現代まで見てきた数多くの映画のなかの罪人たちのごとく怯え、顔を歪ませ、危なげな歩みで、孤独で、と同時に狂気の影を残し、つまりは非常に感動的な演技だった。そしてコンサート会場の外は、不穏な光が闇のなかで明滅している。
 しかも、この炎は何にも還元されないのである。私はこのろうそくの炎が最終回で何かを語りかけ、贖罪の同志としてのピアニストと主人公を再び結びつけていくものと期待した。しかし、ふたりの贖罪の道程はしょせん交わらざる2本の道なのである。生涯をかけた贖罪という宿命を義務づけられた男女に、カットバックというメロドラマ性は赦されない。この女ピアニストは少年院時代こそ美少女によって演じられていたが、いまとなってはもはや人称性さえはぎ取られ、贖罪の伴奏者としてのみ現れる。そもそもどんな女優が演じているのかさえはっきり示さないという、異常なアングルが選択されている。しかしその代償として、主人公は彼の贖罪を、少なからぬ人々に見守られているという実感を得ることで、物語の決着を図ってもらえるわけである。これがはたして決着と言えるのかどうか、それは受け手によってさまざまだと思う。
 少年院で主人公の指導教官役をつとめた中原丈雄が、今回のドラマ全体をみごとに引き締めた。事あるごとに中原丈雄が主人公にむかって静かに心臓をトン、トンと叩き、「生きろよ、生きて、一生償うんだぞ」と諭す。そのトントンはこの指導教官の一生をも規定していることだろう。『ユリイカ』のなかで役所広司と宮崎あおいが、寝静まった夜のバスで、コツ、コツと壁を叩いて反応しあい続ける。あの渇いた小さい打音が、肥大化した母性、原罪で血塗られた神話性の反復という苦悶から、ただひとつ救ってくれる、わずかな希望なのかもしれない。


2015年1月~2月にかけてWOWOW〈連続ドラマW〉枠で放映
http://www.wowow.co.jp/dramaw/sonata/

『深夜食堂』 松岡錠司

2015-02-18 23:48:38 | 映画
 2009年暮れに興行的惨敗を喫した『スノープリンス 禁じられた恋のメロディ』から、はや5年余の歳月が流れてしまった。松岡錠司監督の久々の新作は、TBS深夜ドラマのスピンオフである。松岡としては、同ドラマが放送開始された2009年の時点ですでに映画化を画策したようだが、話が出ては消えしていたようで、それが今ようやく結実した格好となった。長く映画の演出から離れていた松岡にとって、これは自身の演出の健在を示す機会であり、また、来るべき時にむけたウォーミングアップでもあろう。深夜ドラマのスピンオフはいわば現代のプログラムピクチャーであって、作り手の純粋な技術が験される場だ。
 新宿歌舞伎町の狭い路地にある「めしや」というのが、この映画の空間である。「コ」の字型をしたカウンターに客が囲むように腰かけ、「めしや」の主人・小林薫の出すビールや熱燗およびナポリタン、ウィンナー、タラコ、豚汁といった大衆的な料理、それから他愛ない会話、これらをひとしきり愉しんで帰る。深夜0時から朝7時までという営業時間が、客の性質にある種の色をつける。また客の側も、オンでもオフでもない独特な顔を見せているのだろう。
 また、この「コ」の字型空間は、告解室でもある。登場人物が進退窮まって(と言ったら大げさだが、ようするにそんな精神状態で)店に現れ、小林薫はみごとに客の精神を強制再起動させる裏スイッチとなるような図星のメニューで遇し、それを食べた客にゲロさせるのである。裏スイッチが入ると、客は自己吐露が止まらなくなる。ここから先はある種の演出放棄にも似たカットバックあるのみ。小林薫はやおら煙草に火をつけ、客の自己吐露を聴いてやるための態勢をいつのまにか整えている。一生懸命に語る客と、それを聴くカウンセラーとしての小林のカットバックが2、3度繰り返される。そして、このカットバックに説得力を持たせるための裏工作に、松岡は余念がない。そしてその裏工作の加担者たる『バタアシ金魚』の高岡早紀と筒井道隆、『東京タワー』の小林薫、オダギリジョー、安藤玉恵、小林麻子、吉本菜穂子ら、新旧松岡組の面々がすばらしい。これで渡辺美佐子、夏川結衣が出ていたらなお良かったが。
 ここでは松岡の悪魔的なまでの映画的才覚は、そのツノを隠している。それは近い将来見られることだろう。その時に楽しみを取っておこうではないか。松岡錠司の映画というのは、人生に絶望した人々を映画の力で復活させようという遠大な試みなのである。今回の「めしや」でもその一端は伺えるだろう。「めしや」での無銭飲食をきっかけに救われてゆく多部未華子のエピソードの末尾シーン、厨房ごしに料亭の廊下を見通す縦構図の画面に、イタリア・バロック期のドメニコ・スカルラッティ作曲「チェンバロ・ソナタ イ長調 K.208」のピアノ版がかかる時、私の目に涙がわっと湧いた。秘かに同調してくれる人は多いと思うが、松岡錠司という人は初期作品のころからずっとクラシック音楽の使い方が日本一うまい人だと思う。選曲センス、使いどころ、入り方、切り方、そのすべてが完璧である。


全国東映系ほかにて上映中
http://meshiya-movie.com
*上写真は、楽天地シネマ錦糸町で配布されていた、タコ型切れ込みウィンナーのレシピ付き冊子

『エクソダス: 神と王』 リドリー・スコット

2015-02-15 14:25:59 | 映画
 リドリー・スコットの新作『エクソダス: 神と王』は「出エジプト記」(Exodus)の映画化で、あまりにもアレゴリカルな題材選択に困惑させられる。半年あまりのあいだに『ノア 約束の舟』に続いて、旧約聖書の3Dスペクタクル化を2度も見ることになった。ダーレン・アロノフスキーの場合ユダヤ人だからいいとして、スコット家はたしかイギリスで代々続く由緒ある軍人家庭だったはず。なぜ今さら『十戒』のリメイクを見せられねばならないのか。
 イスラエルの民のエジプト脱出をファラオが許可しなかったことで、エジプトに「十の災い」がもたらされる。最初これらの災いは、イスラエル側による漁村や農村への(いわば今風に言えば)無差別テロという形をとる。しかし「やり方が手ぬるい」と神は指導者のモーゼを叱りつけ、「見ていろ」と告げて、エジプトの都市や農村に神の鉄槌が下される。現在のような難しい中東情勢の真っ只中にあって、これら手加減なしの悲惨な災いを3Dスペクタクルでくわしく見せつける意図がどうも摑みかねる。なにかアレゴリカルな意図が込められているのかと疑わしい考えが浮かんできてしまう。
 モーゼが赤ん坊のときにエジプトの王室に引き取られ、王子の弟として育てられたと描かれるのは示唆的だ。旧約聖書の「創世記」に、カインのアベル殺しがすでに語られていたからである。兄弟の愛憎的確執が『エクソダス: 神と王』のメインモチーフですらある。モーゼは、乳母だと思っていた女が実の姉であることを知らされて、この女から突然、聴きなれぬ「モーシェ」というイスラエル訛り(?)の呼び名で呼ばれ、泡喰った顔となる。と同時にこの呼び名の発動が、兄弟の別離を意味してもいたわけである。
 映画のエンドクレジットで「弟トニーに捧げる」という追悼の辞が黒味に白文字のスーパーで現れる。これには少しばかりほろりとさせられた。兄弟の別離の映画を、リドリー・スコットは自身の亡き弟への献辞で締めた。弟トニー・スコットも高名な映画監督だった。トム・クルーズをスーパースターにした『トップガン』(1986)が代表作だ。
 そもそも映画の歴史は最初に、弟による兄殺しで始まっている。リュミエール社のシネマトグラフが、発明王エジソンの開発した兄貴分のキネトスコープを殺すことによって、映画史が始まったのだ。異なる宗教への不寛容とすさまじい攻撃、そして「兄弟」という問題。これらの二重三重のアレゴリーが、本作をよけいに不透明なものとしている。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国上映中
http://www.foxmovies-jp.com/exodus/

『ジョーカー・ゲーム』 入江悠

2015-02-11 05:58:05 | 映画
 『SR サイタマノラッパー』の入江悠監督の新作『ジョーカー・ゲーム』は「シネマトゥデイ」の取材によれば、この監督の生来のエンタメ志向が発揮されているのだという。「(『サイタマノラッパー』のような)生々しいリアルな青春群像も好きなんですけれど、それだけやっていると妙にかっこつけているというか、子どもの頃の自分にウソをついているような気」がしたため、今回はジャッキー・チェンへのオマージュはじめ「おかげでやりたいことができました」ということなので、その点では喜ばしい。小出恵介、山本浩司、渋川清彦、光石研など、この手のエンタメ大作であまり見ないキャスティングが奏功している。
 しかし大上段に構えるならば、ゴダールの『新ドイツ零年』(1991)がスパイ活劇というジャンルの廃炉を宣言して以後の今日、スパイ活劇が可能なのか?という問題がそもそも残る。もちろん『ワールド・オブ・ライズ』や『ミッション:インポッシブル』シリーズなど、いくらでもスパイ活劇は製作されてはいるし、『007』ですら延命している。東西冷戦が消滅しても、狂信的テロ集団などがスパイ活劇の延命に寄与している。では、それらの合戦に(今のところ)組しない日本でスパイ活劇は可能なのか?
 その解答として『ジョーカー・ゲーム』は、第二次世界大戦前夜のアジアを想定する。昭南(シンガポールの旧和名)とおぼしき無国籍都市でイギリス・アメリカ・ドイツの機関を暗躍させ、中国女に化けた日本の女スパイを配置したことにより、すべてが可能となるのだ。戦前戦中への回帰。この条件下なら増村保造の『陸軍中野学校』(1966)を甦らせることが可能だ。亀梨和也は市川雷蔵、伊勢谷友介は加東大介、深田恭子は小川真由美の生まれ変わりである。雷蔵をジャッキー化し、ルパン化するというのが今回の製作意図であろう。「亀梨和也の細いマユがジャニーズのアイドルにしか見えない」という批判は的外れなものである。本当らしさはここでは問題とならない。
 しかし私たちは大日本帝国の諜報員が、えらそうな米国外交官や手ごわい英国スパイを向こうにまわして、善玉として振る舞う光景を目にすることとなる。大日本帝国がこれほどしっかりと善玉として扱われるのは、いつ以来のことであろうか? もちろん陸軍内の主戦派幕僚の前近代的マッチョ性が諸悪の根源として担保されはするものの、主旋律をなすのは、諜報的インテリジェンスによって日本を逆転勝利に導くという、おそらくなにがしかの理由で達成され得なかった理想の再現なのである。今回「こけ猿の壺」とされたのが新型兵器(原子爆弾)の設計図のマイクロフィルムで、本作は、ドイツ人科学者の発明した設計図を日本が入手に成功するまでの物語である。原子爆弾の設計図を帝国陸軍が手に入れるというハッピーエンドを、全国シネコンの観客がポップコーンを頬ばりながら受け止める。
 エンタメという隠れ蓑によって図らずも立ち上がってしまった「アベノミクス映画」という新ジャンルのことを思う。『永遠の0』(2013)は精巧に計画されたアベノミクスの思想的プロパガンダであったが、『ジョーカー・ゲーム』の場合は、若手インディーズ監督の夢と才能を活用しつつ、企図を消した草の根的なプロパガンダとなっている。『FLOWERS』(2010)が図らずも「女は子どもを産む機械」的反動思想の体現となってしまったのと同根である。私はだからこの日本的スパイ活劇の復活に、哀しみを抱いた。そしてその哀しみの表明は、製作側の不興を買うだろう。彼らはこの作品を作れて幸福だからである。そのこと自体にも私は哀しみを感じる。埼玉のラッパーはもういない。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映中
http://www.jokergame-movie.com/