荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『テッド』 セス・マクファーレン

2013-04-28 09:57:50 | 映画
 1個のクマのぬいぐるみが意志を持ち、会話能力を持つに至ったのは、友のいない孤独な少年の願いを気まぐれな神が聞き入れた結果らしいのだが、このクマのぬいぐるみは、少年が成人した後も彼を密着マークしつづけ、今となっては夢の残骸として厄介者となった。とはいえ、ドラッグ依存のぬいぐるみというブラックなユーモアが観客にもたらすのは、パロディ元ネタ探しの答え合わせであるとか、「ああ、こういう馬鹿いる」といった微苦笑程度であって、作者がもし市民社会の公序良俗に亀裂を入れる、あるいは映画の語りの制度性に亀裂を入れるインパクトを期待しながら製作したのだとしたら、残念ながらそれは叶ってはいない。
 恋人からの着メロにダース・ベイダーのマーチを設定したりする精神、あるいはブライアン・メイがサントラを担当した『フラッシュ・ゴードン』(1980)をはじめとする少年期の受容体験を成人後も後生大事にする精神というのは、同時代に育った私においてすら本当によくわからないものである(ようするに、変化を厭う自分大事の精神ということでしかない)。「少年の夢」とやらが大のオトナのあいだでなんの後ろめたさも伴わずに大手を振って歩く趨勢は、昨今ますます強まっているように思える。この無邪気さに対して、世界はもっと抑圧的に振る舞うべきではないか。
 中年となった主人公(マーク・ウォルバーグ)とクマのぬいぐるみは長年にわたって自堕落な依存関係に陥っているが、この映画で最も無惨なのはマーク・ウォルバーグの恋人(ミラ・クニス)だ。この依存関係に警鐘を鳴らし、「自分かクマか、どちらかを選べ」と迫った彼女もまた、やがてこの自堕落なサークルの仲間入りを余儀なくされるのだ。そして、あたかもその選択が彼女自身の意志によっておこなわれた、というようなシナリオにしている点──そしてそれらの事象がすべて、世界で最も知的かつ進歩的な地域とされるマサチューセッツ州の女性によって許容されたかのように仕向けている点──こそが、本作の真に邪悪なキモだろう。事実はこれとは異なり、ミラ・クニスもまた自堕落な依存ゲームの誘惑に屈したに過ぎない。


シネマメディアージュ(東京・お台場)ほか全国各地でM.O.
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『だいじょうぶ3組』 廣木隆一

2013-04-24 02:39:37 | 映画
 「東宝幹事作品としては久々の大コケとなってる」と友人Hから便りがあった廣木隆一の新作『だいじょうぶ3組』がなかなか悪くない。近作である『雷桜』『軽蔑』そして先日の『きいろいゾウ』はいずれも良いと言えず(『軽蔑』に、映画・TV出演拒否の緑魔子を引っ張りだしているのが嫉妬に値するが)し、『RIVER』は未見だが、久々に廣木らしい伸び伸びした映画となっているのではないか。乙武洋匡の原作・主演という時点でまず映画として不審の念を抱かせはするのだけれど、しかしこれが案外と学級ものとしては絶妙かつクールな距離を計測した作品となっている。『4TEEN フォーティーン』(2004)あるいは『きみの友だち』(2008)のころの廣木だ。脚本は『800 TWO LAP RUNNERS』(1994)以来、何本か廣木作品を書き、鶴橋康夫の傑作『天国への階段』(2002)ほか、根岸吉太郎『雪に願うこと』(2005)、成島出『孤高のメス』(2010)を書いた名手・加藤正人。
 学級と身体障害という主題としては、清水宏『しいのみ学園』(1955)またはサミュエル・フラー『裸のキッス』(1964)の系譜に属し、学校という空間が単に通底器に過ぎないという醒めた認識の点では、その精神性において最も近いのが稲垣浩の『手をつなぐ子等』(1948)または『忘れられた子等』(1949)ではないだろうか。主演の乙武洋匡に笠智衆を重ね、校長役の余貴美子に徳川夢声を重ね、生徒の母親役の渡辺真起子に『手をつなぐ子等』におけるあの伝説的にすばらしい杉村春子の母親役を重ね見るのは過ぎたる行為であろうか。
 『余命1ヶ月の花嫁』以来の廣木映画出演の榮倉奈々が、国分太一のちょっと中途半端な恋人役を演じ、そのありようが通り一遍だったのはやや悔やまれる。『余命1ヶ月~』以後は青山真治、瀬々敬久の傑作を通ってきた彼女だけに、もう少しどうにかできたのではと思った。


TOHOシネマズ錦糸町など各所で続映中
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『舟を編む』 石井裕也

2013-04-22 07:25:31 | 映画
 これまで他の場所で役立たず扱いされた無垢なる精神が、幸運にも適材適所に配されて、難行成就の原動力となる。アスペルガー症とおぼしき症状を呈する『舟を編む』の主人公(松田龍平)は、苦手の出版営業部から辞書編集部に異動となってから、がぜん生気を帯びる。松田龍平は背を丸めてへこへこと不安そうに見えるが、彼の前傾姿勢は、足かけ10年以上におよぶ辞書編纂作業にとって最適の姿勢となるだろう。彼は真に生きる場所を得、いい上司と同僚に恵まれ、可憐な伴侶(宮崎あおい)にも恵まれていく。
 無垢なる精神が運命の作動装置を通じて、期せずして成功譚にめぐり逢う。過剰反応の誹りも免れまいが、これはいわば『スミス都へ行く』(1939)といったフランク・キャプラの人民喜劇につらなるのではないか。猫背の冴えない主人公を、周囲が寄ってたかって珍重する。欠落をかかえた無垢なる野蛮人が、承認欲求ゲームの賭け金を一本被りでかっさらっていく。
 石井裕也監督の作品にはいつも、もうひとつ映画として何か足りないという感想を持ってきたし、今回もその点が突破されたわけではないのだが、一風変わった風俗映画の範囲を出なかった過去作品からは一足飛びの進歩がある。
 加藤剛、伊佐山ひろ子にこういう大きな役があてがわれているのが素晴らしい。ただしわれわれ世代から見ると、加藤剛と八千草薫が夫婦役というのは、違和感を禁じ得ない。この二人は世代がぜんぜん違うという認識だ。八千草というと、1950年代の撮影所システム全盛期の娘役。加藤は『砂の器』『影の車』といった70年代の松本清張もののサスペンスで美丈夫の主人公を演じているのである。じつは7歳しか離れていないのだが…。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開中
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銀座シネパトスの閉館

2013-04-19 02:36:24 | 映画
 3月末日をもって東京・銀座三原橋地下街のシネパトス1・2・3が閉館となったことは、各紙の報道のとおりである。「昭和の風景がまたひとつ消滅する」といったニュアンスで思いのほか大きく報じられた。私は、ピンク&洋ピンの「銀座地球座」「銀座名画座」時代は入る機会がなかったが、1988年夏にシネパトスとしてリニューアル・オープンしてからは、たびたびお世話になった。
 たしかこけら落としはウェイン・ワン(王穎)監督の『スラムダンス』(1987)だったはず。この作品は『アマデウス』でモーツァルトを演じたトム・ハルスほかヴァージニア・マドセン、ハリー・ディーン・スタントン共演、夜の描写の魅惑的な、かぐわしいB級テイストの好篇だったが、時の映画批評誌『リュミエール』が表紙に採用、一転して作家の映画として厚遇された。ウェイン・ワンは、続く『夜明けのスローボート』(一碗茶 1989)などは中国返還前の香港市内の巨大な映画館で見てひどく感動した覚えがある。この人の噂は最近はあまり聞かなくなってきた。元気に映画を撮っているのだろうか? シネパトスではまさに玉石混淆さまざまな映画を見てきたが、ソクーロフの『太陽』(2005)の時には予想外の大ヒットとなり、溢れる人混みを目の当たりにして、あえなく諦めた。後にも先にも三原橋があれほど活気を帯びるのを目撃したのは、あの時ただ一度である。

 最後の記念に、映画評論家の樋口尚文が監督したシネパトス閉館記念作品『インターミッション』を見に行った。なかなかの盛況だったが、水野晴郎の『シベ超』と似たような匂いというか、「ゴダールよりセガール、ロメールよりセガール。でもやっぱりゴダールもいいわね」などといった歯の浮くようなセリフが大真面目にやり取りされるけったいな内容であった。香川京子や小山明子など、キャストがあまりにも豪華なので、よけいに珍品ぶりがきわだってくる。
 3月31日、シネパトス3での最終日の最後の回は成瀬巳喜男の『銀座化粧』(1951)だというのが泣ける。『銀座化粧』の劇中ではまだ三原橋は文字どおり橋であり、晴海通りを横切って三十間堀川が流れていた。田中絹代が「もうすぐこの水も埋め立てられてしまう」と三十間堀川の消滅を惜しむシーンがある。事実、『銀座化粧』公開の翌年に川は埋め立てられ、早くも三原橋地下街が完成している。その3年後となる川島雄三『銀座二十四帖』(1955)では、月丘夢路が、三十間堀川沿いのビルから川のあったはずの階下を見下ろしながら、三橋達也にむかって「ご覧よコニィ(三橋の役名)、あんたの大好きな銀座の街も、どんどん変わっちまうのさ」と語りかけている。

 今後、三原橋がどうなるのか私は知らない。だから勝手な夢想に興じさせてもらうなら、今回、地下街が破壊される以上、いっそのこと川に戻してしまえばいい。銀座の街にアムステルダム風の水景が忽然と出現したら、それはそれでおしゃれではないか?

『ライジング・ドラゴン』 ジャッキー・チェン

2013-04-16 07:06:58 | 映画
 最新作『ライジング・ドラゴン』のエンドクレジットの途中、成龍(ジャッキー・チェン)の声でお別れの挨拶があり、これまでの支持、声援に感謝の意を述べる。曰く「これがわが最後のアクション大作」とのこと。これが最後ゆえの気合か、『ライジング・ドラゴン』でも時流に乗ることなく、30余年変わらない肉弾戦的アクションが息つく暇もなく繰り広げられる。
 世界各地に散在し、オークションで取引される清朝時代の美術品。それらは第二次アヘン戦争(1856-60)の戦勝国たる英仏両国によって略奪されたものだ。中国人の登場人物のひとりがフランス人に向かって「あなた方の祖先が卑劣にもアジアの途上国から文化財を略奪していった」と言うと、フランス人が答えて曰く「当時のわれわれにとって、清は超大国だという認識だった」。この問答のなかに『ライジング・ドラゴン』のすべてが込められている。
 かなめは、失われた文化財の名を借りた失地回復運動──つまり勃興せる現代中国人の愛国運動が本作の原動力である。途中、ジャッキー・チェンやヤオ・シントンらのグループがフランスの貴族邸宅から古美術を怪盗ルパンよろしく盗難するシーンがあるが、それはあたかも「愛国無罪」の主張のごとく正当化される(「もともとこれらの品は、われらのものだから」)。
 正直に言うと、四方田犬彦らが一時期唱えていたアジア映画における活劇という文脈によるジャッキー・チェン称揚はわからなくはないけれど、私はあの人なつっこい笑顔に映画的ななにがしかを感じたことがない。そういう冷めた観客にとって、中国の増長する愛国主義には付き合いきれないという無関心と、問答無用な活劇性への称揚──このふたつの間で揺れざるを得ないというところに『ライジング・ドラゴン』あるいは昨今のドニー・イェン作品に対する受容の難しさがある。


角川シネマ有楽町、シネマメディアージュほか全国で公開中
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