1個のクマのぬいぐるみが意志を持ち、会話能力を持つに至ったのは、友のいない孤独な少年の願いを気まぐれな神が聞き入れた結果らしいのだが、このクマのぬいぐるみは、少年が成人した後も彼を密着マークしつづけ、今となっては夢の残骸として厄介者となった。とはいえ、ドラッグ依存のぬいぐるみというブラックなユーモアが観客にもたらすのは、パロディ元ネタ探しの答え合わせであるとか、「ああ、こういう馬鹿いる」といった微苦笑程度であって、作者がもし市民社会の公序良俗に亀裂を入れる、あるいは映画の語りの制度性に亀裂を入れるインパクトを期待しながら製作したのだとしたら、残念ながらそれは叶ってはいない。
恋人からの着メロにダース・ベイダーのマーチを設定したりする精神、あるいはブライアン・メイがサントラを担当した『フラッシュ・ゴードン』(1980)をはじめとする少年期の受容体験を成人後も後生大事にする精神というのは、同時代に育った私においてすら本当によくわからないものである(ようするに、変化を厭う自分大事の精神ということでしかない)。「少年の夢」とやらが大のオトナのあいだでなんの後ろめたさも伴わずに大手を振って歩く趨勢は、昨今ますます強まっているように思える。この無邪気さに対して、世界はもっと抑圧的に振る舞うべきではないか。
中年となった主人公(マーク・ウォルバーグ)とクマのぬいぐるみは長年にわたって自堕落な依存関係に陥っているが、この映画で最も無惨なのはマーク・ウォルバーグの恋人(ミラ・クニス)だ。この依存関係に警鐘を鳴らし、「自分かクマか、どちらかを選べ」と迫った彼女もまた、やがてこの自堕落なサークルの仲間入りを余儀なくされるのだ。そして、あたかもその選択が彼女自身の意志によっておこなわれた、というようなシナリオにしている点──そしてそれらの事象がすべて、世界で最も知的かつ進歩的な地域とされるマサチューセッツ州の女性によって許容されたかのように仕向けている点──こそが、本作の真に邪悪なキモだろう。事実はこれとは異なり、ミラ・クニスもまた自堕落な依存ゲームの誘惑に屈したに過ぎない。
シネマメディアージュ(東京・お台場)ほか全国各地でM.O.
http://ted-movie.jp
恋人からの着メロにダース・ベイダーのマーチを設定したりする精神、あるいはブライアン・メイがサントラを担当した『フラッシュ・ゴードン』(1980)をはじめとする少年期の受容体験を成人後も後生大事にする精神というのは、同時代に育った私においてすら本当によくわからないものである(ようするに、変化を厭う自分大事の精神ということでしかない)。「少年の夢」とやらが大のオトナのあいだでなんの後ろめたさも伴わずに大手を振って歩く趨勢は、昨今ますます強まっているように思える。この無邪気さに対して、世界はもっと抑圧的に振る舞うべきではないか。
中年となった主人公(マーク・ウォルバーグ)とクマのぬいぐるみは長年にわたって自堕落な依存関係に陥っているが、この映画で最も無惨なのはマーク・ウォルバーグの恋人(ミラ・クニス)だ。この依存関係に警鐘を鳴らし、「自分かクマか、どちらかを選べ」と迫った彼女もまた、やがてこの自堕落なサークルの仲間入りを余儀なくされるのだ。そして、あたかもその選択が彼女自身の意志によっておこなわれた、というようなシナリオにしている点──そしてそれらの事象がすべて、世界で最も知的かつ進歩的な地域とされるマサチューセッツ州の女性によって許容されたかのように仕向けている点──こそが、本作の真に邪悪なキモだろう。事実はこれとは異なり、ミラ・クニスもまた自堕落な依存ゲームの誘惑に屈したに過ぎない。
シネマメディアージュ(東京・お台場)ほか全国各地でM.O.
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