荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『人生スイッチ』をめぐる非-映画的な戯談

2015-08-28 03:36:20 | 映画
 先日たまさかアルゼンチン人ナレーターと仕事をしたばかりである。スタジオで待っていたら、そのナレーター氏Dと、スペイン女性Cがやって来た。この女性はマネージャーではなく、スペイン語の指導係だという。アルゼンチンだって母語はスペイン語なのだから、スペイン語指導は必要ないというのは認識不足である。われわれ門外漢の耳でも、アメリカ映画とイギリス映画の英語の違いくらいは分からぬでもない。ブラジル映画とポルトガル映画を見ていても、同じポルトガル語でもずいぶんと違うことに気づかずにはいられない。
 アルゼンチン人のスペイン語は、やや語尾の母音が豊かに伸びすぎるきらいがあると思った。首都ブエノスアイレスを中心にイタリア系住民のプレゼンスが高いことも関連しているかと思われる。スペイン語の堪能な人に言わせると、アルゼンチン人のスペイン語はひどく聞きづらいそうである。メッシやアグエロの訛りは非常に聞き取りにくいとのこと。
 それと、スペイン語で最も特徴的と言ってもいい「lla」「lle」「llo」について。パエリア Paella、あるいはセビリア Sevilla、あるいは作家のバルガス・リョサ Vargas Llosaくらいは挙げたらいいだろうか? これは「ジャ」「ジェ」「ジョ」と発音してもいいし、昔はもう少し上品に「リャ」「リェ」「リョ」と発音した。バルセロナなどカタルーニャ地方では、もっと軟弱に「ヤ」「イェ」「ヨ」に聞こえる。つまり、これらの中間的な音である。首都マドリーで上の単語を聞くかぎり、それぞれ「パエージャ」「セビージャ」「バルガス・ジョサ」と聞こえる。
 以前、バルガス・リョサの故郷ペルーのカメラマンと仕事したことがあって、ロケの移動途中でバルガス・リョサの写真展が開催されている看板を見た私がその名を言うと、「そうだね、バルガス・ジョサだ」と答えていた。ペルー本国でもバルガス・リョサではなく「バルガス・ジョサ」に近いらしい。アルゼンチン人ナレーター氏Dも、この「LL-」の音を「ジャ」行で発音していたが、スペイン女性C(アストゥリアス自治州ヒホン近郊出身、とのこと)は、これを「ヤ」に近い音に訂正していた。彼女いわく、「パエーイャ」「セビーイャ」みたいな音感である。
 もうひとつ報告しておくと、「z」の音について。Martínezはマルティネ、Suárezはスアレ、Gonlezはゴンである。「z」はスペイン語では「ザ」行にならない。濁らずに「サ」行で発音する。もちろんD氏もそのように発音していた。ところがC女史が「ちがう」と言ってきた。単なる「サ」行ではなく、スペイン本国では、英語の「th」のように舌の先っちょを軽く噛んで、[θ] のように無声音で発音するとのこと。ゴンの「サ」の部分と語末の「ス」の部分を [θ] 音で言ってみると、たしかにぐっとスペイン人ぽい音になる。
 このレコーディング作業をおこなった4日後に、ヒューマントラストシネマ有楽町でアルゼンチン映画『人生スイッチ』を見た。注意深く聴いていたが、たしかにアルゼンチン人のスペイン語そのものだと納得した次第である。「z」の音は舌を噛んでいなかった。

山本義隆 著『原子・原子核・原子力』

2015-08-25 01:24:33 | 
 駿台予備学校(東京・お茶の水)で物理を教える山本義隆の新著『原子・原子核・原子力』(岩波書店)を読んでみた。不肖私が学参以外の理系本をみずから買うのは、恥ずかしながら生まれて初めてのことである。山本義隆という人は、駿台のおもに東大理系・医系コースの物理を教えていたと記憶している。私は私立文系志望でノホホンと過ごしたので、あまり縁がない。ただ、高2の夏休みに夏季講習を受けた際、どういうわけか各教科の東大コース主力級が教壇に立ったので、山本の物理も受けることができた。
 山本義隆にかぎらず、駿台というところは、東大・京大の旧左翼の闘士がドロップアウトして、学者としての生命を絶たれて吹きだまった亡命の地という印象があった。だからこそ講義も面白かったと言えるし、世界史の授業で(早大政経の対策と称して)チャップリンがなぜアメリカを追われてスイスに亡命したのかを解説してくれたり(赤狩り史)、19~20世紀のアメリカ農民運動史をこまかく検証したり、それがのちに、ロブ・ニルソンの傑作『ノーザン・ライツ』(1979)を見る上での基盤となったりしてくれたものである。左翼学者の書いた本は、反原発のバイアスがア・プリオリにかかっていると、原発推進派は主張するだろう。しかし、原子物理学は客観であり、嘘はつかない。政治的なバイアスがかかっているのは、いわゆる御用学者ら推進派のほうだろう。

 今週も東京メトロに乗っていると、「WEDGE」なる、JR東海が出している醜悪きわまりない月刊誌の中吊り広告に、“遅すぎる再稼働──原発規制は的外れ” などという文字がおどっている。先日、鹿児島県の川内原発が再稼働した。この再稼働の陳情をすすめるために東京に単身赴任していた九州電力のサラリーマンと、私はおととしから去年にかけて飲み友だちになったのだが、再稼働の当事者たる彼でさえこっそり言ってくれたのは、「原子力発電が100%安全とはやはり言えない」とのこと。「ただね、ホントにコストが安いんですよ」とも。環境には優しくないが、経済には優しいそうだ。
 しかし山本義隆の本書は、そのコストの安さという原発推進側の言い分も完全否定する。タービン動力に対するコストは安いかもしれないが、火力や水力発電が、需要の増減に応じて供給を微調整できるのとちがって、原発はつねにフル稼働しかできない。稼働すればするほど電力を無駄にしている。そしてその無駄な熱量は海中に捨てられる。原発沖の海に起きている「温排水汚染」という聞き慣れぬ汚染を知っておかねばならない。海がお湯になり、生態系が年々狂っている。しかもその温排水は「許容量」の範囲とはいえ、放射能を含んでいるのだ。
 さらにこの「許容量」なるタームも、うさん臭いと山本は書く。「許容量」の数値は、原発を稼働する側が勝手に言っているものに過ぎない。国際機関のICRP(放射線防御委員会)は年間被曝量の限度を、一般人1ミリシーベルト、作業員は50ミリシーベルトと勧告している。ところが、福島原発事故のあと、日本の原子力委員会はなんの根拠もなしに、一般人の限度を20ミリシーベルト、作業員250ミリシーベルトに引き上げてしまった。国際基準の20倍もの放射能を、私たち日本人は「耐えがたきを耐え」なければならない。
 2011年3月の福島原発事故で、日本全国および太平洋上、周辺諸国にばらまかれた危険なセシウム137は、広島の原子爆弾のなんと168発分だったそうである。核分裂の活発なセシウム137が一桁台に減るまでには100年かかるし、仮に一桁に減ったからといって安全とも言えない。原発事故当時、放射能汚染で死んだ住人は一人もいない、と保守派論客は鬼の首を取ったように叫んだものだ。しかし、セシウム137の影響は数年後に出るのか、幾世代かあとに出るのか、分かっていないのである。セシウム137の影響は出てからでは遅い。
 さらに悪いことに、メルトダウンした何トンもの核燃料は圧力容器を溶かし、今年(2015年)4月以降は岩盤を突き抜け、地下水に達したとも言われている。そこでまた豊富な地下水と、きわめて危険なトリチウムが直接ふれて、原発事故当時を大幅に上回る大規模な水素爆発が起こる可能性が指摘されている。そうなったら、もう一巻の終わりである。
 仮に原発がいっさい事故を起こさずに稼働し得たとしても、発電のあとに生じる放射性廃棄物は、元の原料と同じ質量だけ残る。「死の灰」をふくむこの放射性廃棄物が安定化し、無害になるまでに10万年単位が必要である。それまで人類は、責任をもって冷却容器を維持しうるのか。アメリカのような広大な砂漠を抱えた人口密度の少ない国ですら、廃棄場所を見つけられないでいるのに、地下水だらけで地震と火山ばかりの日本が、「悪魔の元素」といわれるプルトニウムなど放射性廃棄物を今後ずっと冷却保存できる保証は、まったくない。原発推進派の主張する「原発はコストが安い」という議論には、この10万年単位の冷却保存の費用を含んでいない。
 原発の原料であるウランの埋蔵量は、あと100年かそこら程度だという。20世紀に始まり、あと100年しかもたない原子力発電という短命な技術のために、私たちの子孫は、危険な放射性廃棄物の冷却保存に、多大な労力と財力を支払わねばならない。現在もなお急ピッチで開発されている、アフリカやカナダ、オーストラリアのウラン鉱床は掘ったら掘りっぱなし、野晒しにされた鉱山の残土からは、危険な放射性ラドン・ガスが45億年にわたって(つまり人類史的には、半永久的に)放出し続けるのである。原子力発電所の再稼働は、未来の子孫に対する不払いのツケに過ぎない。

刊行中のチャールズ・ラム 著『エリア随筆』全4巻完訳について

2015-08-21 02:44:28 | 
 チャールズ・ラム(1775-1834)の『エリア随筆』は、随筆と戯曲の国イギリスを代表する名著で、遠く明治以来、日本の読書人のあいだでも愛読されてきた。私は作者チャールズ・ラムについて、南條竹則 著『人生はうしろ向きに』(集英社新書 2011)で一章を割いて論じられているのを読んで、がぜん興味を抱いた(そしてこの南條『人生はうしろ向きに』じたい、珠玉の随筆にほかならぬのだが)。そして、昨年より満を持して、南條による邦訳で『完訳 エリア随筆』全4巻の刊行が始まったのである(国書刊行会)。
 南條も書いているように『エリア随筆』には、イギリスという文明の最も魅力的な部分が詰まっている。それは保守主義であるという。政治的に保守ということではなく、生活信条と文化的価値観の上で〈新しいもの=優れたもの〉という短絡を良しとしない姿勢、という意味での保守主義である。だからこの保守という言葉を、世界中の愚劣な反動主義や、某島国のファッショ的傾向なんかとは区別しなくてはならない。チャールズ・ラムが保守であるのは、マルグリット・デュラスがそうであるのと同じ意味なのである。
 ロンドンのシティ中心部に生まれたラムは、クライスツ・ホスピタルという学校に7年間通ったあと、大学進学をあきらめた。生家が裕福でなかったため、一会社員としての人生を歩む。「南洋商会」、のちには「東インド会社」の経理係として勤めるかたわら、詩、随筆、劇評、児童向けの文学入門などを執筆している。友人のコールリッジやワーズワースほどの詩作の才には恵まれなかったものの、雑誌に寄稿した演劇批評の記事や、偽名による連載『エリア随筆』は人気を呼び、イギリス文学史に確固たる名を刻んでいる。
 しかしながら、彼の人生はバラ色ではない。最愛の人との恋は実らず、生涯独身に終わった。そして彼の人生を決定づけたのは、1796年9月22日に起こった家庭内の悲劇である。病弱な父母の介護と、内職仕事に疲れ果てた姉のメアリー・ラムが、躁鬱病の発作を起こし、そこにあった包丁で母の胸を一突きしてしまった。母エリザベスは即死。いったん精神病院に収監されたメアリーを、弟チャールズ・ラムは、自分が責任をもって姉を監視し、面倒を見ることを条件に、姉を自宅に引き取る許可を当局から引き出したのだ。『人生はうしろ向きに』の南條は書く。曰く「この時ラムは21歳だったが、彼の青春は終わったのである。」
 『エリア随筆 I 正篇[上]』の最終章でラム自身が書いているように、「二重の独身生活」の始まりである。独身者の身体というものが条件でなければ、誕生し得ない文彩のありようがある。それを、『エリア随筆』があざやかに証明している。新邦訳はすでに全4巻中、2冊が既刊。引き続き「III」と「IV」が2015年内に出ると予告されている。国書刊行会のHP新刊情報に掲載されないので、わずかな不安を感じるが、泰然と続刊の報を待ちたい。

ロクス・ソルス レーモン・ルーセルの印象

2015-08-17 19:37:35 | アート
 日本国内の美術展や博物展は、すでに海外でキュレートされた展示の並行輸入が多く、世界規模に通用するオリジナルの企画が少なすぎると批判されている。また、私も同じような批判を書いたこともある。しかし、問題は並行輸入が多いことではなく、並行輸入すべきものがされないという点にもあるように思う。世界には、より多くの視線を集めるべきすばらしい美術展があるのに、そうならない。だからこそ、地球の反対側に旅をする理由も生まれるのであるが。

 2011年の秋の終わり、ロケ撮影のために私はマドリーにいた。仕事が終わって帰国の前日か、もしくは当日の朝だったか忘れたが、アトーチャ駅前の国立ソフィア王妃芸術センターを訪れた。ピカソの『ゲルニカ』を所蔵することで有名な、近現代専門の国立美術館である(東京でいうならプラド=東博、ソフィア=東近美)。
 私はふつうに常設展を見に来ただけなのだが、企画展にぐっと引き寄せられた。《ロクス・ソルス レーモン・ルーセルの印象》というタイトルだった。なつかしいレーモン・ルーセル(1877-1933)の名前。わが学生時代のペヨトル工房の全盛期の重要な固有名詞だが、すっかり意識の奥底へと沈殿していたものだ。最近、部屋の中を整理していて、その時の図録が本棚の億から出てきた。ぺらぺらとめくってみる。
 ダダイスト、シュルレアリストたちから熱狂的に支持された以外は、その奇怪かつ難解な作風が理解されないまま、失意と蕩尽の果ての1933年、薬物中毒のためシチリア島で客死したレーモン・ルーセルだが、死後60年後に、トランクルームに眠っていた9個の段ボール箱が、パリ国立図書館に寄贈された。私がマドリーで見ることになった展覧会は、この段ボール9箱のお披露目であった。パリ国立図書館の協力のもと、2011年から2012年にかけてマドリーのソフィア王妃芸術センター、ポルトのセラルヴェス現代美術館を巡回したのである。
 新発見の詩、小説、スケッチ、ポートレイト写真、書類といった遺品が展示され、『ロクス・ソルス』『アフリカの印象』の演劇上演時のスチール写真やポスターのほか、ミシェル・レリス、アンリ・ルソー、ポール・デルヴォー、サルバドール・ダリ、ポール・エリュアール、マン・レイ(図録表紙はマン・レイ作 写真参照)、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアら、関連人物たちの作品ならびにルーセルを絶讃する肉筆原稿、ジョルジュ・メリエスのサイレント映画etc, と、きわめてにぎやかな企画展である。
 かつてソフィア王妃芸術センターで見て「これはいい企画だな」と思ったものに、エドワード・スタイケンの写真展があったが、あれも忘れたころに世田谷美術館が持ってきてくれた。レーモン・ルーセルも忘れたころに見られるといいのだが。

『わが恋の旅路』 篠田正浩

2015-08-14 15:57:32 | 映画
 岩下志麻という女優の出演作として最も世界で知られているのは、小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(1962)であることは、議論の余地がない。小津がもっと長生きしていたら、この女優の人生はまったく別のものとなっていただろう。その次には、篠田正浩との結婚後第2作『心中天網島』(1967)あたりがくるだろうか。はばかりながら私の趣味を言わせてもらうなら、加藤剛との愛欲に溺れていくシングルマザーを演じた『影の車』(1970 野村芳太郎)での色気にはぞくぞくさせられる。『極妻』以降はイメージが固定化した格好で、ちょっと気の毒だが、『極妻』直前に出た山田太一シナリオのドラマ『早春スケッチブック』(1983)の訳あり主婦の役が秀逸だった。このドラマでは、実際の又従兄弟にあたる河原崎長一郎と夫婦を演じている。血は繋がっているのに、岩下と河原崎はまったく似ていない。
 スカパーで放送された『わが恋の旅路』(1961)は、のちに結婚することになる篠田と岩下のコンビ作としては、同年の『夕陽に赤い俺の顔』に次いで2作目となる。本作の翌年、岩下志麻は『秋刀魚の味』の主演に大抜擢され、「女優王国」とながく謳われた松竹の新エースに成長していく。また、篠田と早大で同窓の寺山修司をシナリオにむかえた作品としては『乾いた湖』『夕陽に赤い俺の顔』に次いで3作目となる。篠田と寺山のシナリオ関係は、寺山自身が監督業に乗り出すまで続く。
 すっかり前置きが長くなってしまった。しかし、この小文は前置きだけでいいような気もしている。『わが恋の旅路』はじつは例の曽野綾子の原作の映画化だ。現在では、軍事独裁政治を礼讃したり、原発事故に際し東京電力を弁護したり、日本にアパルトヘイトの導入を提案したり、悪い冗談のような反動思想で世間を騒がせる存在である。近著を一冊読んでみたが、読むに耐えぬ代物であった。初期作品の映画化『わが恋の旅路』にしたところで、(原作には当たっていないため、映画の内容に限って言えば)甘い心理主義といったところである。
 ブルジョワ青年(渡辺文雄)と不幸な結婚をした岩下志麻が、買い物の途中で交通事故に遭い、記憶喪失になる。手に負えなくなった夫は去り、かつての恋人(川津祐介)の献身的な介助によって、記憶と真の愛を取り戻す、という内容である。精神分析に手を突っ込んでいるが、甘ったれた不徹底さで、ニューロティックロマンとしての体もなしていない。
 1960年代初頭の横浜の街並みがあざやかに切り取られているのが、本作の最も価値ある点である。かつて清水宏が『港の日本娘』(1933)、『金環蝕』(1934)、『恋も忘れて』(1937)で爆発的な喚起力をもってとらえたモダニズム都市・横浜の、日活の無国籍アクションでさんざんしゃぶり尽くされたあとの最後の残滓が、この『わが恋の旅路』には、世を忍ぶようにして写りこんでいる。港を眼下にのぞむ見ず知らずの外人邸宅の、芝生の庭に打ち捨てられた芝刈り機。私はあれを、曽野綾子の陳腐な心理主義的小道具としてではなく、モダニズム都市の残滓の映画的物証として見つめた。