荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『神々と男たち』 グザヴィエ・ボーヴォワ(@東京国際映画祭)

2010-10-29 01:55:53 | 映画
 開催中の東京国際映画祭にて、カンヌ映画祭グランプリ(審査員特別賞に相当)受賞作『神々と男たち』(2010)を見る。
 北アフリカ、アルジェリアの人里離れた荒地に建つキリスト教修道院は、イスラム教過激派のいつ来るとも知れぬ攻撃に対して、まったく無防備である。安全地帯への避難も、軍による警護も拒んでしまい、修行と布教を愚直に継続することを選んだフランス人修道士たちがいだく日々の不安と自問自答が、静謐に、だが力み勇んで語られてゆく。「晩課(夕刻のお務め)」で彼らが朗々と歌う聖歌は毎日レパートリーを異にするが、選曲がそのつど、僻地で孤立した修道士たちの心情そのものをすくい取っていて、的確すぎるほど的確である。

 そして、まるで「最後の晩餐」のような夜。少し陽気な修道士(村の無料診療所を営む医師でもある)がワインのボトルを持ってきて、カセットデッキでチャイコフスキー『「白鳥の湖」より 情景』を大音量で流す。
 撮影のキャロリーヌ・シャンプティエは、十字を切ってから着席する修道士一同とおごそかに息を合わせつつ、カメラ位置をミニクレーンを用いてわずかに下降させてみせる。この下降のワンカットが、非常に利いている。そして、チャイコフスキーのいくぶん通俗的で大仰な旋律が、厳格ひとすじの一同を、しばし祝祭のような微笑へと誘いこむ。その微笑は、過激派活動地帯への残留という愚直なる決断を下した自分たちへの自嘲であると同時に、みずからの危険をかえりみなかった主イエスの道のりをなぞっているという、崇高なる誇らしさの笑みでもあっただろう。ワイン好きの人なら、こんな状況下で飲むワインという飲み物が、いかに美味で官能的か想像に難くないはずである。

 だが、祝祭は永く続かない。食事がさして進まぬうちに、微笑の饗宴は早くも、焦燥の表情に取って代わられてゆく。このあたりのカットバックとパンニングを組み合わせた一連のシークエンスは、グザヴィエ・ボーヴォワの面目躍如である(じつは私はここで何度目かの落涙)。愛、情熱、妄執……サイレント期から映画は、殉教に対して最大の熱狂を示してきたのではなかったか。俳優でもある彼の監督作品は、90年代中盤にぴあフィルムフェスティバルで『忘るるなかれ、汝いつかは死にゆくを』(1995)を見ただけだが、キアラ・マストロヤンニの美しさ、ジョン・ケイルの音楽も相まって、強い印象を受けた作品だった。
 どこまでも無垢で無防備なこの修道院は、現代世界における私たち人類の脆弱なる存在そのものの、露骨なアレゴリーである。聞けば、マジックアワー配給で国内公開が決定したとのこと。ロードショー上映の際は、ぜひとも広く見られるべき傑作であろう。落涙必至である。


東京国際映画祭の《WORLD CINEMA》部門で上映
http://www.tiff-jp.net/

五言絶句「夕暮に中洲をみる」

2010-10-28 02:28:45 | 身辺雑記
 この春、漢詩を一篇つくりました。ある人の詠んだ俳句への返歌としてつくったものですが、恥を忍んで掲示してみましょう。タテではなく、ヨコ書きになっています。


夕 暮 看 中 洲
草 影 黒 波 白
孤 鳥 啼 周 遊
愁 春 待 日 落

(読みくだし)
夕暮(せきぼ)に中洲(ちゅうしゅう)をみる
草影(そうえい)黒く、波白し
孤鳥(こちょう)啼きて、周遊せり
春を愁ひて、日の落つるを待たん


 どんな絶望のさなかにあっても、たとえば明日に癌の告知を受けたとしても、吹けば飛ぶようなこのブログを、それでもわたくしは涼しい顔で続けてみることとしよう。そんな思いもこめました。
 お陰様をもちまして、本ブログもこの10月で開設1周年を迎えました(前身ブログを含めると、足かけ3年半にも及びますが)。本当にたくさんのご愛顧を有難うございます。訪問者の皆様、少しでも機嫌よく、共に年を取って参りましょう。

auoneブログの旧記事、復刻のお知らせ

2010-10-24 09:22:29 | 記録・連絡・消息
 恒例の〈auoneブログ旧記事・復刻プロジェクト〉。きょうは、2008年4月分を復刻いたしました。お時間ある時にでも、ご一読いただければ幸いです。

 この月に登場する人名は、草森紳一、ウェス・アンダーソン、サタジット・レイ、オリヴィエ・アサイヤス、王羲之、永井荷風、梅本洋一、ジェームズ・ワン、イル・ジャルディーノ・アルモニコ、ジョエル&イーサン・コーエン…といった人々です。


P.S.
写真は、秋深まる静嘉堂(東京・世田谷区)玄関前に咲くキバナコスモスを写す。

『妖術』 ク・ヘソン(@東京国際映画祭)

2010-10-22 05:27:30 | 映画
 東京国際映画祭の事前試写にて、韓国の清純派アイドル、ク・ヘソン(具恵善)の監督デビュー作『妖術』(2010)を見た。
 この人は以前、『ソドンヨ』(2005)という韓流ドラマで、織物と染色を研究する百済の宮人役を演じているのを見たことがあるが、なんとも可憐というか清純というか、とても映画作家をめざしているようには見えなかった(写真参照)。
 しかし、人は見かけで判断してはいけない。アイドルとして荒稼ぎしながらも、監督修行に余念がなかったらしい。2008年に初演出した安楽死についての短編『愉快なお手伝い』が、表参道ヒルズで開催されたShort Shorts Film Festival & Asia 2010で外国人として初めて話題賞を受賞し、作曲もやり小説も出版し、昨年は絵画の個展もやったというから、そんな(鼻息の荒い)人なのだろう。

 本作は、韓国の音楽大学でチェロを学ぶ男子生徒たちの儚げな学生生活をじつに甘ずっぱく撮影しており、また、いま流行りの「7D」的な被写界深度を浅くしたカッコいいボケアシ画面が頻出する。「付き合いきれない」とも当初感じたのだったが、これが徐々に挽回されて、執拗に反復されるオカルト的な連想、過度にノスタルジックかつメランコリックな回想が、作り手の熱に浮かされて暴走し、度を超すたびに面白さを増していった。しかも、過去と現在、さらに死後の未来までが何食わぬ顔で同じ時制の上を生きている。分かりやすく言えば、戸川純とケイト・ブッシュの韓国的な昇華といったところか。
 公演中に吐血して引っこんだ天才の親友を介抱し終えた気弱な主人公が、血染めの盛装、血染めのチェロのまま、親友顔負けの鬼気迫る演奏を披露して、観客の喝采を得ていくくだりなどは、「映画史上この上ない感動」(カタログ)というより、変態的といったほうが正確だろう。
 傑作とまでは言うまいが、奇作、異色作として永く記憶に留まるカルト的な1本となるかもしれない。フランツ・リスト作曲『愛の夢』3番が使用される映画に駄作なし、という、わが根拠薄弱なジンクス(例:鈴木重吉監督『雁來紅(かりそめのくちべに)』1934)は、とりあえず今回も維持された。


本作は、TIFF《アジアの風 アジア中東パノラマ》内で上映(10/26 & 10/28)
http://www.tiff-jp.net/
ク・ヘソン(구혜선)公式サイト
http://www.kuhyesun.com/

静嘉堂文庫《中国陶磁名品展》

2010-10-19 00:09:29 | アート
 東京・二子玉川の静嘉堂を訪れ、秋の深まりが感じられる陰緑の丘陵を登って、《中国陶磁名品展》を見る。ここの曜変天目や、磁州窯の掻落し、修内司と判明した氷裂文の香炉、鈞窯の澱青釉鉢など、過去に幾度となく、東京のはずれのはずれにあるこの館を訪れたゆえ、すっかりおなじみとなった作品も少なくない。しかし、それでも飽くことがないのである。

 工芸の美とは用途の美であって、ただ眺めて何が楽しいのか、と多くの人に尋ねられる。使ってナンボ、これには私も同意することにやぶさかではない。
 しかし、そうでない未知の世界が確かにある。ただ眺める、という無為な行為のなかに無上の悦楽を見出すことができるもの。そうした極上の作品に接し慣れ、作品の発する崇高な力に鍛えられてくると、高級ブランド店で10万円の皿を見ても、東美の正札会で20万円の花生けをさすっても、ただのガラクタ、とまでは吐き捨てぬまでも、作品に飲まれずににらみ返せるようになる。これは恐ろしい麻薬のようなものだ。普段は自宅で安手の皿にパスタを盛っている俗人がいま、柄にもない大言壮語を吐いているわけだが、実際そうなのである。

 ましてや何を隠そう、この静嘉堂のなかの幾つかの作品は、世界でも類例なき最高のもの。稲妻に打たれるような五官の震えを、1メートルの距離でもじゅうぶんに感じることができる。
 また、作品の来歴を読みこむ──たとえば、宋代に中国・福建省の窯で焼かれ、室町幕府に納められたこの茶碗は、巡りめぐって数百年後、病中の春日局を見舞った徳川家光公が、手ずから煎じ薬を飲ませた時にも使われたが、局は感激と最大の感謝を表明しながらも、悟られぬように肌襦袢の内側に煎じ薬を流しこんだ(家光公が過去に大病した際に、乳母だった局は願掛けとして、自分が病に倒れても今後はいっさいの治療を受けぬと誓いを立てたことがあったため)、とかそういうエロティックとさえ形容しうる曰く付きの美談なり、伝世次第なりを知識として知っておくこと──のも、ひとつのキャプションとしては一興である。


同展は、静嘉堂文庫美術館(東京・世田谷岡本町)にて12月5日(日)まで開催
http://www.seikado.or.jp/