荻野洋一 映画等覚書ブログ

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クロード・レヴィ=ストロース 著『ブラジルへの郷愁』

2011-01-29 07:47:35 | 
 1995年に邦訳の初版が出、その後絶版になっていたクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の写真+キャプション集『ブラジルへの郷愁』が、先々月、単行本サイズに縮刷され再刊された(中央公論新社 刊)。1930~39年のブラジル滞在を記した代表的著作のひとつ『悲しき熱帯』(1955)の39年後の別版で、ブラジル内陸部に居住するカデュヴェオ族、ボロロ族、ナンビクワラ族、ムンデ族、トゥピ=カワイブ族を、若き日のレヴィ=ストロース自身が愛機のライカで撮影した180点のスナップとキャプション文で編まれている。
 この本の出版に際してレヴィ=ストロースが取った姿勢は、全否定とまでは言わないまでも、非常にアンビバレントなものだ。「あらためて眺めてみると、これらの写真はある空白の印象、レンズには元来とらえられないはずのものの、欠如の印象を、私に与える。」と序文に寄せている。また、彼はこうも言っている。「核による地球全体におよぶ破滅のあとで、あちこちの散在して生きのびている人の群れを想像してみるといい。」

 訳者の川田順造も、あとがきにこう書き残している。「著者が地の果てと思われるような奥地にまで訪ねて行った先に発見したのは、『未開人』の原初の姿ではなく、白人の侵略の300年余りの歴史の中で、追われ、殺され、落魄して『未開になった』人々だった」と。彼らは、16世紀まではアマゾン川流域に高度な都市文明を築き、白亜の屋敷と豊饒なる食糧倉庫、そして花咲き乱れる庭園に囲まれて揚々と暮らしていたが、20世紀の彼らは無残にも、ジャングルの中で全裸で地べたに寝起きしている。それでも、彼らに向けられる著者のファインダ越しのまなざしはどこまでも温かいのだが、その温かみがかえって、のちに著者自身を暗くさせてしまう、ということだろうか。
 Tristes tropiques(悲しき熱帯)とは、最終戦争や環境汚染の果てに現出されるであろう私たちの未来をも、指し示している。かぎりなく「未開」としか思えぬナンビクワラ族の素っ裸の女たちの笑顔を眺めながら、たしかに私は居心地の悪さも感じとらざるを得ない。

『ソーシャル・ネットワーク』 デヴィッド・フィンチャー

2011-01-27 00:44:07 | 映画
 誰ひとりとして共感できるキャラクターが出てこない意表を突いた人物配置ながら、不思議と引き込まれてしまうという、これはかなり珍しい作品ではないだろうか。
 脚本のアーロン・ソーキンの名前は覚えていなかったが、『ア・フュー・グッドメン』『アメリカン・プレジデント』などのロブ・ライナー組と知るとイメージしやすい。もともとは舞台畑らしく、たしかにちょっと『十二人の怒れる男』(1957)のような舞台劇テイストが感じられる。とはいえここは素直に、デヴィッド・フィンチャーの切れ味鋭い演出を賞讃すべきなのだろう。マサチューセッツ州の裁判所でたびたび開かれる聴聞会で、当事者は出席者に対してというより、窓に向かってモノローグ的にまくし立てている。

 さらに、民族間闘争の様相を呈しているのは、やや古風すぎるかもしれないが、おもしろいことはおもしろい。米国の名門大学ハーバードにおける階級ピラミッドの頂点に位置するのは、東部WASP出身のエリート的な「ファイナル・クラブズ」会員たちであり、この尻馬にインド系資産家の子息が加勢している。
 一方、Facebookを立ち上げることになる主人公マーク・ザッカーバーグは、ニューヨーク郊外のユダヤ系家庭の出で、思いを寄せるドイツ系の女子学生についつい悪態をついてしまう冒頭のエピソードは、深層心理としてあまりにも理解しやすい。あたかもジェノサイド(民族純化、対集団抹消行為)が、百万遍の侮辱でも償われ得ないとでも主張しているかのように。また、WASPの兄弟を出し抜いて一山当てるザッカーバーグに加勢するのは、ルームメイトのエドゥアルド・サヴェリンである。彼はユダヤ系ブラジル人で、フロリダに移民してきた一族の出身。本作の登場人物中、最も下層の立場となる。
 ちなみに、インド系の子息役を、早世した英国の映画作家アンソニー・ミンゲラ(1954-2008)の息子マックス・ミンゲラが演じているのは、ハリウッド流の皮肉だと言っていい。ミンゲラ家はイタリア・ナポリの出自らしいが、単に色黒なのでインド人役にキャスティングされたものと思われる。『アレキサンダー』(2004)におけるロザリオ・ドーソンと同様の滑稽さである。

 どう見ても、関わり合わない方が得策だった人間同士が、不意な接点を持ってしまったことから、異常なストレスを抱えて込んでいく展開は、例のないユニークさである。しかもそのストレスと革新的な事業の発展が、セットになっているのである。あえて挙げるなら、大島渚『愛と希望の街』(1959)あたりが最も近似した作品と思える。となると、Facebookは川崎駅前で何度も売られる鳩なのか?


丸の内ピカデリー(東京・有楽町)ほか、全国で公開中
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『人生万歳!』 ウディ・アレン

2011-01-25 01:46:14 | 映画
 最も厳密な試みが、時として自由闊達さを獲得することがある。これと同じように、最も厭世的な人物が、なんらかの作用によって最も単純な幸福へと至ることがあるのかどうか。ウディ・アレンの第40作『人生万歳!』(2009)が辿ってみせる “愛と偶然の戯れ” 実験は、それを観察する私たちの側をも自由闊達にしてくれる。
 1970年代、アレンがまだ『アニー・ホール』や『マンハッタン』を製作していた時代に書かれた脚本が、引き出しの奥から30余年ぶりに陽の目を見たのが本作だ。『メリンダとメリンダ』(2004)以来のニューヨーク・ロケというのが、正直にうれしい。アレンの映画には、人をすぐに虜にする要素がある。そのあと、いったんは敬遠するようになり、しかしまた再び愛せるようになってくる。観客の心情の変遷に、アレンの映画はうねりながら同調してくれるようである。
 マリヴォー的なカップルの交換遊戯、それからバーナード・ショー『ピグマリオン』(1913年初演)あたりから着想を得たとおぼしきストーリーは、なんとも軽薄の極みで、出会いの演出にはなんの装飾もない。バーやカフェで「偶然」知り合う、街角で「偶然」ぶつかりそうになる、軒下でうずくまる家出娘を「偶然」発見する。なんと、「ユニクロ」で服を物色中にわあっと再会するカップルまで出てくる。軽薄すぎて、考え込んでしまうほどだ。絶妙な演出の居合術みたいなものがどうやらあるらしく、ウディ・アレンというのは、今さらながらにすごい映画作家だと思わざるを得ない。

 ちなみに本作の直後にも、『You Will Meet a Tall Dark Stranger』『Midnight in Paris』と、新作がバンバン量産されている。後者は、初のパリ・ロケなどと謳われているが、思いついただけでも、セーヌ河畔でのダンスシーンを持つ『世界中がアイ・ラヴ・ユー』(1996)があるので、初というのは事実誤認だろう。TOHO系で拡大公開された前作『それでも恋するバルセロナ』(2008)をのぞいてここ15年くらいは、アレンといえば恵比寿ガーデンシネマ(写真は、同館の外景)の御用達だった。したがって同館がなくなってしまうと、はたして上記2作の日本公開がちゃんとなされるのか、いささか心配になってくる。


恵比寿ガーデンシネマほか、全国で順次公開
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auoneブログの旧記事、復刻のお知らせ

2011-01-19 01:35:11 | 記録・連絡・消息
 恒例の〈auoneブログ旧記事・復刻プロジェクト〉。きょうは、2008年9月分を復刻いたしました。お時間ある時にでも、ご一読いただければ幸いです。

 この月に登場する人名は、M・ナイト・シャマラン、ジャック・ドワイヨン、家城巳代治、葛井欣士郎、黒沢清、ピーター・バーグ、千葉香奈子、成瀬巳喜男、ティムール・ベクマンベトフ、クリストフ・ルセ、マリア・バジョ、井関種雄、五所平之助、川崎弘子、ジョン・ファヴロー、ロバート・ダウニーJr.…といった人々です。
 葛井欣士郎の著書『遺言』のレビュー、およびそこから派生した幼少期におけるわが新宿の追憶をアップし、ATG初代代表の井関種雄を経由して川崎弘子へと向かう小文をアップしました。これは、「nobody」サイトに最近書かれた梅本洋一氏の新宿についてのエッセイ「新宿の『夏』、パリの『雪』」と併せて読んでいただけるとうれしいです。

『最後の忠臣蔵』 杉田成道

2011-01-16 02:49:38 | 映画
 杉田成道というと、ドラマ『北の国から』の演出者として有名だけれども、私はこの人の作品をまったく見たことがない。「en-taxi」誌に連載された彼の私小説も初回こそ読んだが、つまらないので、そのうちに読むのをやめてしまった。
 ではなぜこの『最後の忠臣蔵』をわざわざ見たのかというと、田中陽造がシナリオを書いているためであり、やはりさすがと言うべきか、なかなかうまい設定の原作を、じつに情緒たっぷりに脚本化している。私はこの「情緒」という単語に対して、オーソドックスかつ安易な使い方を普段はしているけれども、田中陽造のシナリオを「情緒たっぷり」などと表現した場合、それは一筋縄ではいかない含みをもってしまう。一見、取って付けたかのような文楽(近松『曽根崎心中』)のインサートも、後半ではすっかり、作品の世界観を潜在的に補強していた。もちろんメジャーだから、田中色満開とは行かないが、よく目を凝らしてみると、かなり凶暴なこともやっている。
 ハリウッドも、日本の洋画市場の停滞にほとほと手を焼いていると見え、ついに日本映画の製作にまで手を染めている。この『最後の忠臣蔵』はワーナー・ブラザース作品である。しかし、グローバル市場を見据えた成果物かというと、まったくそんなことはなく、きわめてドメスティックな題材である赤穂浪士の後日譚を、ひたすら日本人観客のみ(とくにシルバー世代)に向けて供給している。もちろんインドでも米国でも、ドメスティックなコンテクストに沿った作品の供給は、それなりの商いなのであり、このこと自体は悪いことではまったくない。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町)ほか、全国で公開中
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