荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『グレートウォール』 張芸謀

2017-05-07 05:38:43 | 映画
 結局のところ、張芸謀(チャン・イーモウ)をどう評価すべきなのか? もうひとつ映画作家としての輪郭がはっきりしてこないし、あまり積極的に評価したいとも思わない。しかしながら、文化大革命を描いた前作『妻への家路』(2014)における前半のクライマックスである主人公夫婦の密会シーン——密会場所である駅の連絡橋にむかう妻(コン・リー)、逃走中の思想犯である夫、夫を追う当局の捜査陣、バレエの主役の座欲しさに父を当局に売った娘の4者のめくるめくカットバック——の、何十カットにも増幅され、サスペンスが宙づりになったまま引き伸ばされていくこのシーンは、まるで映画が発明されて間もない時代の産物のごとく、いまだ私たちがグリフィスの時代、エイゼンシュテインの時代を生きているかのごとく蠢いていた。

 張芸謀の最新作『グレートウォール』は、マット・デイモンを招聘し、中国史上最高額の予算をかけたCGベースの史劇アクションとして見るなら、単につまらなさそうな空疎な超大作にすぎない。『ワールド・ウォーZ』の原作者マックス・ブルックスが、『グレートウォール』の原案スタッフに入っており、まさにこの2作は似たようなイメージに収まる。しかし上のような、無償の運動論的サスペンスとしてとらえた場合の張芸謀映画は、別の表情も見せてくれるかもしれない。
 万里の長城をめぐり、映画は2つの再考をうながす。1つめは長城建設の真の理由である。史実としては、北方民族の侵攻を防ぐためというものだ。しかしこの映画は、モンスターの侵攻を防ぐのが真の建設理由だと説く。ようするにこれは、単にモンスターパニックムービーなのである。
 2つめは長城の用途についてである。これがこの映画の最も素晴らしい部分だ。長城の屋上に無数の飛び込み台が設置され、体重の軽い女子部隊が命綱をつけ、バンジージャンプの要領で落下し、モンスターを長槍で退治してから命綱によって上方に退散する。ハアー!なるほど、万里の長城はこうやって戦争で活用されたわけか。長城とは、トランプ大統領が提唱する移民防止壁ではなかったのだ。ワイヤーアクションの元となる装置、上下運動をくり返しつつ敵を殺戮するための装置だったのだ。

 ところで、中国を代表する歴史大作に、日本の一映画評論家がいちゃもんをつけるのもナンであるが、宋王朝の軍人たちがモンスターのことを「饕餮(とうてつ)」と呼んでいたのが、非常に気になった。たしかに「饕餮」とは怪獣のことだ。私のような青銅器ファンにとっては、饕餮は鳳凰や爬虫類などと並んで、最も親しみのある文様である。殷から西周、東周、春秋戦国時代にかけて青銅器にあしらわれた饕餮文は不気味きわまりなく、紀元前の人々の美的感覚は途方もないとしか言いようがない。ただ、この世のあらゆるものを食い尽くす饕餮は、魔を喰らう、凶事を喰らう、いわば魔除けとしても描かれていたのである。
 日々の美術鑑賞の場において、私のような者はグロテスクなモンスターの図像である「饕餮文」を魔除けとして、ルーペで細部まで拝んで有り難がっている。だから今回の映画で、饕餮の名が取り沙汰されたことじたいをうれしく思う一方、残忍かつ野蛮な異民族(古くは匈奴や鮮卑、中世ではモンゴル族、満州族、19世紀ではイギリス、20世紀では日本のことだ)のアレゴリーと化したのは、非常に居心地悪かった。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で上映
http://greatwall-movie.jp

『ムーンライト』 バリー・ジェンキンス

2017-05-01 06:21:25 | 映画
 マイアミのリバティ・スクエアという麻薬・犯罪多発地区で撮影された、泥の中から芽が出る蓮の花のような、朦朧とした夜の美しい月をすくい取ろうとしている映画である。マイアミというと、『マイアミバイス』などの警察映画、アクション映画ばかりが思い浮かぶが、ニコラス・レイの密猟映画『エヴァグレイズを渡る風』(1958)なんていういかにもフィフティーズ的な傑作もある。いずれにせよ、明るい南国の陽光とは裏腹に、油断の許さない暗黒街のイメージがある。ロケーション期間中、スタッフ&キャストにはボディガードが付いた(とはいえ監督自身が地元出身のため、地区の住人はロケに危害を加えなかったそうだ)。
 薬物中毒の売春婦の息子シャロンは、リバティ・スクエアの子どもたちに絶えずいじめられている。シャロンを、小学生、高校生、成人期と3つのパートに描き分け、それを別々のアフリカ系アメリカ人俳優が演じている。面白いことに、その身体的特徴がはなはだしく異なり、別人にしか見えない。小学生のシャロンは小柄で「リトル」とあだ名されている。高校生のシャロンはひょろりと細長く、ゲイに目覚める。彼の孤立と鬱屈ぶりは、ヴィンセント・ミネリ『お茶と同情』(1956)のシスターボーイを思い出させる。そして、大人になったシャロンは筋肉質に肉体改造し、高級車のスピーカーでヒップホップを聴いている。
 『お茶と同情』では、シスターボーイを精神的に助ける舎監の妻をデボラ・カーが非常に印象的に演じていたが、この『ムーンライト』にも、似たような慈愛に満ちた年上の女性が登場する。テレサという、麻薬密売ボスの恋人である。このすてきなアフリカ系女性と主人公シャロンの擬似的な母子関係はずっと続くが、画面上からは前半だけでいなくなってしまう。私たち観客はもっとこのテレサという女性を見続けたいと思い、後半における彼女の不在を寂しく思う。父性の喪失、そして母性の稀薄は、主人公あるいは作者にとって、取り返しのつかない宿命としてあるのだろう。
 アトランタに転居したシャロンが久しぶりにマイアミに帰省して、高校時代の親友(じつは恋心を寄せていた)ケヴィンに会いに行く、夜のダイナーのシーンが出色である。ケヴィンはシャロンに最初は気づかない。ケヴィンは高校時代の裏切りをシャロンに詫びたものの、タフガイとなったシャロンの風貌変化にとまどいを隠せない。登場人物たちの記憶と体験はしっかりとした紐帯で留まっているものの、じっさいのところ3つの時代はもはや別々の作品と言ってよく、撮影手法も色調もまったく異なる。シャロンと母親、シャロンとケヴィンの再会を、ヨリの切り返しで見せていく第3パートは、堂々たるメロドラマへと傾斜し、私たち観客を揺さぶるだろう。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で公開
http://moonlight-movie.jp