荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『レヴェナント 蘇えりし者』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

2016-05-26 03:53:03 | 映画
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ作品はご多分に洩れず、留保つきの微笑みと共に迎えるといった案配だった。どうもこの人はあれもこれもとやり過ぎで、引き算をする勇気がないように思える。しかし、時には過剰の只中にまみれてみたいという欲望もまた、人に活気を与える。
 昨春に『バードマン』のレビューを書いた際、エマニュエル・ルベツキ(正確なスペイン語表記はエマヌエル・ルベスキ)のグリグリと駆けずり回る超絶技巧のカメラワークが映画賞を総なめするのは腑に落ちない、と書いたが、もう降参である。現代はスピルバーグの時代でもキャメロンの時代でもない。ルベスキの時代である。『赤い薔薇ソースの伝説』(1992)が東京国際映画祭で上映されたのが、このメキシコ人撮影監督が日本に紹介された最初だと思うが、最近5年間を見ると、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』『トゥ・ザ・ワンダー』の2本、アルフォンソ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』、そしてイニャリトゥ『バードマン』『レヴェナント』の撮影をやっており、これは天下人と同義であろう。
 アメリカ開拓時代初期、毛皮猟師団のガイドをつとめるヒュー・グラスという実在の人物が、死の淵から蘇り、息子を殺した猟師仲間を追跡する物語である。設定だけ見れば、完全に西部劇だが、本作には西部劇たろうという意志はまったくない。合衆国の南のメキシコ人イニャリトゥから見れば、これは「北部劇」である。復讐が主人公ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)の道行きのモチベーションになっているけれども、むしろ映画に活気を与えるのは、熊との格闘、吹雪、怪我、疲労といった、自然界が主人公に与える試練のスペクタクルである。この画面がもたらす興奮はドーピング違反と言いたくなるほどで、ここまでやれば、私は文句を言うのをやめたい。

 明確に述べるほど整理できていないので、ただ触れるに留める件があって、それは北米インディアン(先住アメリカン)の神話性を、主人公ヒュー・グラスがかなりなぞっているように思えることだ。いま読んでいる本のひとつに、最近邦訳が出たばかりのクロード・レヴィ=ストロース著『大山猫の物語』(みすず書房 刊)という本があって、大怪我をして血膿だらけの男が動物の毛皮をかぶって化ける、というエピソードが、アメリカ大陸各部族に伝わる神話の中で縦断的に変奏されていると論じている。
 ヒュー・グラスは映画の中で2度、毛皮をかぶる。最初はみずから倒した熊の毛皮。2度目は、崖から落下死した馬の体内で一夜を過ごすため。そして彼は生傷と血膿だらけの身体である。さらにレヴィ=ストロースは書く。「毎日毎日、女には、骨のかけらを包んでおいたシカの皮からかすかな物音がするのが聞こえる。やがてとうとうそこから痛めつけられ傷だらけのオオヤマネコが姿を現わす。何度かの蒸気浴のおかげで回復する(下線筆者)。コヨーテはそのことを確かめにやってくる。無人となった村でオオヤマネコに出逢ったコヨーテは、自分の無実を主張して罪をクマになすりつけ、復讐するように勧めて、援助を申し出る。」
 傷だらけのオオヤマネコは蒸気浴を使うように、ディカプリオも、一人旅のインディアンによって蒸気浴治療を受けていた。オオヤマネコを陥れようとするコヨーテはさしずめ、本作の悪役フィッツジェラルドだろうか。ディカプリオが瀕死の重傷をきっかけに、森の動物へとメタモルフォーズしていくプロセス。そこにはレヴィ=ストロースによって記述されたモチーフが反響しているように、少し思っただけである。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町)ほか全国で上映中
http://www.foxmovies-jp.com/revenant/

 

『山河ノスタルジア』 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)

2016-05-22 10:52:52 | 映画
 映画は、1999年の山西省の地方都市(汾陽市)から始まり、第2章では2014年の汾陽、さらに最後の第3章では2025年のオーストラリア・メルボルン郊外、というふうに舞台を変えていく。始めは「今どき珍しいスタンダードサイズの画面か」と、映画作家の古典的なこだわりに興味を持った。しかし次の章で現代に近づくと、画面はヴィスタサイズに切り替わり、未来である2025年でワイドスクリーンが採用されるに至って、これは映画としての拘泥というより、時代性の説明なのかと、少しばかり落胆した。反比例するように、人物たちの手元で操作されるタブレットの小画面が、重要性を帯びていく。
 しかし、『長江哀歌』や『四川のうた』『罪の手ざわり』といった近作と同様、風景に対する作者の圧倒的な信頼ゆえだろう、スクリーンサイズによる質的変化は、不思議なほどに起こっていない。いや、むしろ人間の孤立感に対する視線が後半になるにしたがって、いっそう深みを増していった。最初の章は3人が同じフレームに入ることの不快さが強調され、第2章では母と子が過ごす限定的な時間が無念の色を濃くしていく。最後には成長した息子と母親世代の香港人女性(ジョニー・トー『華麗上班族』に続いて、半年のあいだに2度もシルヴィア・チャンを見られた!)との交流は描かれるものの、人物は相対的に退き、風景の一部に同化したように見える。特に、オーストラリアにおいて英語で育ったため中国語を忘れ、あまつさえ母親の記憶も名前もあやふやになっている大学生の息子が、なんとも不憫である。
 彼ら1999年世代の、失敗したと言っていいだろう人生が容赦なく明らかとなるが、傷の舐め合いもなければ、言い訳もない。ここに登場する人物たちのすべてに、私は共感した。彼らの佇まい、彼らの青春の輝きだけでなく、彼らの愚かさ、誤った人生選択さえもが美しい。
 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の故郷でもある山西省汾陽では、冬場は黄河の水も凍結してしまう。恋のライバルを爆殺しようと用意したダイナマイトでさえ、凍結した黄河の前では「ポコン」という滑稽な音を立てて雲散霧消する小爆発に過ぎない。賈樟柯映画でしょっちゅう見ることのできる爆竹や打ち上げ花火の乾ききった、滑稽な爆発音に、今回はダイナマイトまでが加わった格好だが、そこにはなんら本質的な違いはない。お大尽に出世しようと、一炭坑夫に終わろうと、化け物じみた黄河の水の前では、塵芥にも満たない。でもそれでいいのである。
 ひとつだけ言いたいのは、汾陽の塔(グーグルで調べたかぎりは、おそらく明末に建てられた「汾陽文峰塔」だと思う)へ雪の中、犬を連れてくる趙濤(チャオ・タオ)のフルショットがあまりにも美しいこと、そして彼女の最後の姿を、10年あまり会っていない息子への思慕であるとか、母性愛であるとか、因果応報であるとかに単一的に還元すべきではない、ということである。彼女はたしかに恋人を裏切って一緒になった夫と離婚し、親権も失い、オーストラリアに移住した息子と縁遠くなってしまった。しかし、彼女は彼女の人生を主体性をもって選択している。犬を連れた趙濤の雪の中の姿を、ただそれじたいとして受容しなければならない。そのことを、あのラストの、再び大音量を取りもどすペット・ショップ・ボーイズ『ゴー・ウェスト』の陳腐なビートが、全面肯定していたのではないだろうか?


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか全国順次公開
http://bitters.co.jp/sanga/

『ヘイル、シーザー!』 コーエン兄弟

2016-05-17 03:00:17 | 映画
 作品そのものが映画として輝いているどうかはあやしい気もするが、映画のあれやこれやをぶちまけたドタバタ喜劇になっている。映画ファンのひとりとして、このバラエティ豊かな一篇を大いに楽しませてもらった。それにしても、カウボーイのロープ芸による円形など形態的な拘泥が目を引く点は、やはりコーエン兄弟らしい。
 1950年代、「キャピトル・ピクチャーズ」なる架空の映画撮影所では、史劇スペクタクル、水兵によるアクロバティックなミュージカル、ドイツ系らしき監督によるセックスウォー・コメディなどが、同時並行で進められている。これら撮影中の作品を見ると、もはや全盛期を過ぎ、陰りを帯びたスタジオシステムの只中にあることを、映画ファンならただちに了解するだろう。特にジョージ・クルーニーを主演に、莫大な費用で撮影されているらしい史劇スペクタクルあたりは、ハリウッドの挽歌の匂いが濃厚に漂っている。
 ジョージ・クルーニーを誘拐する共産主義者のシナリオライター・グループ(レッドパージで地位を追われた書き手たちであろう)に混じって、ヘルベルト・マルクーゼ(ジョン・ブルータル)がスターの前ではにかんだりしている。海辺の別荘で人質の監禁のような研究セミナーのような数日間である。
 くわえ煙草の女性編集者(フランセス・マクドナルド)のスカーフがラッシュフィルムの編集機に巻き込まれて、編集者の首が絞まってしまうとか、トラブル処理に追われるプロデューサーの主人公(ジョシュ・ブローリン)に中華料理店で、ロッキード社のスカウトマン(イアン・ブラックマン)が映画を侮辱しつつビキニ環礁の水爆実験の写真を見せるとか、ナンセンスでヘンテコなシーンが、何度も何度も積み重なっていくのがいい。この作品はどうやら、ひたすら無責任に楽しむようにできているようだ。


TOHOシネマズシャンテほか全国で公開中
http://hailcaesar.jp

『花、香る歌』 イ・ジェヨン

2016-05-11 07:25:34 | 映画
 李氏朝鮮末期に実在したという史上初の女性パンソリ歌手の生涯を描いた『花、香る歌』を、新宿シネマートで見る。原題がいい。『桃李花歌』といって、これはヒロインに厳しい指導をほどこしたパンソリの師匠が、最後の共演時にヒロインに捧げた言葉であり、歌である。桃も李(すもも)も春の花で、パンソリの代表曲『春香歌』からの連想が、師弟愛に応じて広がったものである。
 ヒロインのパンソリ見習い女性を演じるペ・スジは、アイドルグループ「Miss A」のメンバーで、長い期間をかけてパンソリの発声特訓を受けたのちに撮影に臨んだとのこと。愛くるしい顔と、堂に入った大声が素晴らしかった。ただし、彼女のクライマックスたる大舞台での歌唱シーンとなると、いつもオーケストラによるメロディアスな劇伴が被さってしまう。これは非常なる興ざめである。もしかすると、本場韓国の識者が聴けば、彼女のパンソリ発声は、特訓むなしく素のままでは聴けたものではない、という冷徹な判断があったのかも知れない。
 そして、芸道ものとしても、たとえばイム・グォンテク(林権澤)監督による、あのワンカットワンカットの一瞬一瞬が素晴らしかった『風の丘を越えて/西便制(ソビョンジェ)』(1993)あたりに比べると、だいぶウスクチである。日本でも韓国でもアメリカでもヨーロッパでも、演劇と映画のさかんな国では決まって「芸道もの」というジャンルがあって、たとえばジョージ・キューカー『スタア誕生』(1954)にしろ、溝口健二『残菊物語』(1939)にしろ、千葉泰樹『生きている画像』(1948)にしろ、ジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』(1958)にしろ、ジャン・ルノワール『黄金の馬車』(1953)にしろ、そして上述のイム・グォンテク『風の丘を越えて/西便制』あるいは『酔画仙』(2002)にしろ、その酷薄さたるや、正視に耐えぬほどすさまじいものがある。
 ところが、この『花、香る歌』はその点ぬるい。しかしさもありなん、皆が皆『残菊物語』だったら、こっちの身が持たない。芸の厳しさ、その果てにある孤高の歓びも描かれるばかりでなく、今作はペ・スジの清新さも強調せねばならない。
 本作公式HP(URLは下記)によれば、ヒロインと師匠(リュ・スンリョン)の進路に立ちふさがる宮廷の重鎮、興宣大院君(キム・ナムギル)は、朝鮮王朝第26代王・高宗の実父で、日韓近代史の重大問題のひとつ「閔妃暗殺事件」(1895)の首謀者として名が挙がる人物。本作ではこの興宣大院君の失脚は描かれても、(いわば息子の妻である)閔妃の暗殺までは描かない。本作があくまでパンソリの芸事に身を捧げた集団の物語として、話を広げなかったのだろう。
 映画のクライマックスで、宮廷の池に舟を浮かべて、そこでパンソリが演奏されるシーンがある。この情景の素晴らしさは出色だった。韓流ブームの一時代を築いたペ・ヨンジュン主演の『スキャンダル』(2003)という作品があって、ド・ラクロの『危険な関係』を朝鮮の両班(ヤンバン)階級に置き換えたもので、これが意外にいい作品だったのだが、じつは今作『花、香る歌』の監督イ・ジェヨンは、『スキャンダル』の監督である。『スキャンダル』でも両班の庭園内の池に舟を浮かべ、舟上の歌い手が非常に風流な歌を歌っていた。あれは庶民の哀歓を叫ぶパンソリよりももっと上流向けの雅歌だったかと思われる。イ・ジェヨンは自身のフィルモグラフィで2度も、水に浮かべた舟から女声を響かせたことになる。あの『スキャンダル』の歌声は素晴らしかったが、当方素人であるがゆえに、あれがどういうジャンルの音楽だったのか、分かりかねるのが残念でならない。


新宿シネマート(伊勢丹前)ほか、全国で順次公開
http://hanauta-movie.jp

『SHARING』 篠崎誠

2016-05-08 04:57:03 | 映画
 これまで見た篠崎誠の作品の中で、間違いなく最高の作品だと思った。そして、本作を見ながら猛烈な怒りを覚えた。怒りの対象は、大震災以降の5年間の私たちに起こったことのすべて、そして図らずもそれを等閑視した自分自身である。『SHARING』は私たち受け手の心理をもサーチする。
 本作HP(URLは下記)に掲載された識者コメント欄に、精神科医・斎藤環さんの次のような一節があった。「私たちが生きるのは『震災後の世界』ではない。私たちは震災と震災との間、すなわち「災間」に生きる」。この映画のメインモチーフとして登場する「予知夢」は、「あの震災の前日や前週に震災を予知した人々が一杯いましたよ」という不思議発見事件簿なのではない。「予知夢」は、寄せては返す波のごとく、私たちの元を離れていったかと思えば、ドキリとさせる突然さで私たちの眼前に現れる。だから、3.11の悪夢を何度もくり返し見る本作の登場人物たちは、つまり、次のカタストロフィのプレ-イメージを共作しているのではないか。
 私は本作のタイトル『SHARING』を、震災体験からくる心的外傷の共有(とその不可能性)という意味のほかに、まだ現実には誰も見ぬ、次なるカタストロフィの共作という意味でとらえた。まだ起きてはいないことを予知し、その「実在」イメージが各人の脳というスクリーンに投影(映写)されているとしたら、この映画がフィクションなのか、ドキュメンタリーなのかはどうでもよくなる。ドキュメンタリーとは、今ここで起こっていることにカメラを向ける行為である。しかし、これから起こらんとするできごとの映像が、あらかじめ私たちの前に提示されてしまったら? それもドキュメンタリーと認められるのだろうか?
 震災以後の心象風景、さらに私たちが今まさに晒されている危機を映画化するにあたって、篠崎監督はホラーもしくはニューロティック・スリラーのジャンル性を採用した。つまり映画としても興奮させるものを、という篠崎監督の初期から変わらぬ精神がここでも貫かれ、異様なるクロスオーバー的怪物作品が出来上がってしまった。
 そして、映画の主舞台となる大学キャンパスの迷宮性。これは先祖返りでもあるのではないか。篠崎監督の出身校である立教大学の映画サークルS.P.P.は篠崎の在学当時(1980年代)、偉大な先輩である黒沢清や万田邦敏らによって「学園活劇」なる奇妙なジャンルが創造され、立教のキャンパスを使ってゴダール映画のような銃撃戦が展開されていた。本作『SHARING』におけるカメラが、恐れおののいて彷徨う登場人物たちや、誰かの面影を追って走る登場人物たちをダイナミックな移動撮影、手持ち撮影でとらえるとき、私は不遜にも「学園活劇」が亡霊のように、しかも不幸なことに津波や原発事故という最悪な記憶を引き込みつつ、復活してしまったのだと思った。
 これはぜひ、99分のショートバージョンも見てみたくなった。そのバージョンにも、手の平に黒アザのある幼児と女子学生の邂逅シーンはあるのだろうか? 「赤ん坊は生きていたんだ!」と私は心中で叫び、泣いた。あのわずかな光明を、再び目にしたいと思う。


テアトル新宿にて5/13(金)までレイトショー
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