荻野洋一 映画等覚書ブログ

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南海の旅──祇園南海の名品を訪ねて

2011-11-29 23:51:29 | アート
 先日、貧乏暇なしの合間を縫って、寒さのなかなか訪れぬ泉州、そして紀州へとふらりと南下していった。和歌山と大阪・難波のあいだを行ったり来たりするために、中間地点の堺に宿をとった。ようするに「南海 途中下車の旅」といった体である。
 旅の主目的は、祇園南海の作品をまとまって見られる稀な機会を逃さないために、和歌山まで足を伸ばすこと。和歌山市立博物館で《祇園南海とその時代》が開催されていたのである。新幹線で大阪に入り、地下鉄御堂筋線で難波駅に出て、駅構内のサンマルクカフェでまずいコーヒーを飲んでから(サンマルクのコーヒーはたいがい旨くない)、おもむろに南海特急に飛び乗った。

 祇園南海(ぎおん・なんかい 1676-1751)は、江戸時代中期に紀州で活躍した儒者・詩人・画家・書家で、いわゆる文人画の始祖と讃えられる。墨梅、墨竹、山水画、詩、書を能くするが、こうしてまとめて見ていくと、南海のもっとも優れているのは書であると思う。たんに達筆であるというだけでなく、その流線には正道の美がもっとも盛んに露呈されているのだ。
 手元の年譜によれば、紀州徳川家の儒官であった彼は25才の春、「不行跡」「放蕩無頼」のかどで知行召上げとなり、紀ノ川で謫居(たっきょ)するはめに陥っている。謫居の期間はじつに10年におよび(1700-1710)、経済状態は困窮をきわめた。謫居が解かれた翌年、幕府の命により、来日した朝鮮通信使の詩文応接の大役をつとめ上げ、その功をもってついに禄高を回復した。南海が朝鮮通信使の製述官・李東郭(イ・ドングァク)とのあいだで唱和した詩文は『賓館縞紵集』として、現在は和歌山大学附属図書館におさめられている。
 私はこの「不行跡」が何なのか、気になってしかたがない。「放蕩無頼」がいかほどのものであったのか、彼の作品の敏にして清廉たるたたずまいからは、何もわからないのである。一説によれば、婦女暴行の罪との悪しき噂があるが、確かなことは知られていない。この「不行跡」が招いた10年の雌伏こそが、鍵を握るのではないか。たとえ彼の後半生が、紀州の名君・吉宗公の後ろ盾によって、順風満帆な業績に彩られていたにせよである。

 祇園南海をギロギロと睨みつけて疲れきった。夕闇せまる和歌山市から南海電車を北上、堺市内の宿に荷をほどき、再び南海電車を二駅ほど南下。石津太神社のそばに、本物の旨い浪花料理を食わせる店があると聞いた「松(ときわ)」に入店。やがて他の客が引けて、最後の一人となった。店の主人と女将さんによる堺の地理についての解説を佳き肴としつつ、大振りの徳利から杯に差した燗酒を肝に染みわたらせ、泉州の夜は、ぬくもりのような感覚とともに更けていった。

『ムサン日記 白い犬』『フライング・フィッシュ』

2011-11-26 17:25:53 | 映画
 第12回東京フィルメックスにて、韓国映画『ムサン日記 白い犬』、それからスリランカ映画『フライング・フィッシュ』。

 今回の『ムサン日記 白い犬』でデビューを果たした35才のパク・ジョンボムは、イ・チャンドンの『詩(ポエトリー)』(2010)の助監督を務めた新人監督。脱北者コミュニティの救いがたいソウル生活に着目し、襤褸切れが寒風に吹き飛んでいくのをどこまでも凝視し続けたような作品だ。名匠イ・チャンドン(『ペパーミント・キャンディ』のあまりにも苦い人生総括)の作風を継承しつつ、新世代による『息もできない』にも通じるフィジカルな痛感を、ソウルの身を切る冷気ともども画面上に焼き付けようとする。来夏に一般公開予定。

 そして、サンジーワ・プシュパクマーラのこちらも長編デビュー作『フライング・フィッシュ』。34才のプシュパクマーラはスリランカから韓国に映画留学し、すでに短編を何本か撮ったとのことだ。アジアの監督志望者が韓国に留学するという時代なのか。日本は目指されていないのだなあ。
 シンハラ人とタミル人の内戦が続いた東部スリランカの村を舞台に、3組の主人公のそれぞれの破滅的運命を併行して語っていく。しかしこの併行の語りがきわめて不鮮明なため、作品は村の自然と人間のうごめきを静かに眺めるというような体となる。おそらく全編がアフレコなのではないだろうか、サイレントの画面に監督がほしいと思った物音とセリフだけが付け足されている。この付け足しは抽象的かつ審美的で、プシュパクマーラの提示した画-音の品評会のようになった。

岡本健彦 ドローイング展《風神・雷神 and the Tokyo Sky Tree》

2011-11-24 01:57:37 | アート
 フランク・ステラらが活躍する1960年代ニューヨークで活動後、東京、福島、群馬と転居しながら作品製作を続ける岡本健彦のドローイング展《風神・雷神 and the Tokyo Sky Tree》が、東京・日本橋人形町の壱粒舎ギャラリーで11月28日から開催される。
 アクリルや金属板といったツルツルとなめらかな素材の上に塗り込められる、一点の曇りもないあざやかな色彩の混合。岡本の抽象絵画をじっと眺めていると、物言わぬそのマテリアルについつい話しかけたくなってしまう。盟友・荒川修作が世を去ったいま、私たちアートファンが岡本と出会うことは時代の必然だという気がしてならない。

 今春、東日本大震災が金曜に起こった週の火曜に、岡本の大規模なレトロスペクティヴを見に、群馬の高崎を訪れた。いまにして思えば、この列島で「美」ということを純粋に語れた最後の日々であった。あれらのすばらしい作品群に、東京で再会できる。中央区内の小さなギャラリーゆえ、大型のインスタレーションを展示するわけにはいくまいが、小さな紙にラッカーのような塗料で着彩した小品にも、可憐な魅力がある。ぜひ人形町に足を運んで確かめていただきたい。

 アメリカ抽象主義が日本近世の琳派と出会うということが、岡本の近年のもっとも重要なモチーフであるが、これが単なるモダニズムとオリエンタリズムの野合に終わっていない。つまり、琳派のもつ金属的属性(金箔と銀箔が主役である世界)と現代の抽象主義のあいだには、じつはほとんど距離が介在しないということを、岡本は実作で証明しているように思われるのだ。それはちょうど、バッハの『平均律クラヴィーア』や『フーガの技法』が、のちの古典主義やロマン主義といった有象無象をスルーして、現代音楽と最短距離で結ばれ得る、ということをグレン・グールドのピアノ、あるいはエドゥアルド・アルテミフのシンセサイザー(タルコフスキーの劇伴です)が証明したのに近い感覚である。


岡本健彦ドローイング展《風神・雷神 and the Tokyo Sky Tree》
11月28日(月)~12月3日(土) 11a.m. - 7p.m.
壱粒舎ギャラリー(中央区日本橋人形町2-18-4 昭美ビル1階)

『我が道を語る』 賈樟柯など

2011-11-22 01:07:14 | 映画
 開幕した第12回東京フィルメックスにて、中国のオムニバス映画『我が道を語る』。
 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)プロデュースのもと、陳翠梅、陳涛、陳摯恒、宋方、王子昭、衛鉄の男女6人の若手監督(第6.5世代?)が集まり、人物密着ドキュメントを1~2話ずつ担当する。賈も第1話と最終話を監督した。陳翠梅(タン・チュイムイ)はマレーシア華人系の女性監督で、『愛は一切に勝つ』(2006)の人。
 有名無名さまざまな12人の働き盛りの起業家、アーティスト、ソーシャル・ワーカーらにカメラが向けられる。現代中国都市の新しさ。彼らのファッションも髪型も、住居、家具、スマホ、PCも、ほぼすべて現代モードのもの。全エピソードがデジタルカメラ「Canon EOS 5D」で撮影され、例の被写界深度浅めの奥行き豊かな画調が得られている。
 被写体たちはみな、幼少期・青春期に直面した壁を打ち砕き、経済的成功を手にしようとしている。そして彼らは一様に、いま自分たちがリスクを恐れずに前進していること、あえて危険な道を選び退屈な安定を求めていないことを、自信たっぷりに述べる。その活力、その楽天性に対し、斜陽国・日本の観客はどのような視線を向けたらいいのか。嫉妬と嘲りの入り交じった苦笑と腕組みとともに画面を見つめるしかないのだろうか。少なくとも、かつての日本人がアメリカン・ドリームを仰ぎ見た時代ののんきな憧憬とは、もはや無縁であろう。

 欧米諸国や日本が飛躍した19世紀と20世紀を除けば、世界史は有史以来、いや有史以前から良くも悪くもおおむね中国によってリードされた歴史だった。ほとんどの重要な発明は、黄河もしくは長江の流域でなされた。人口の動静や文明発展、インフラ、経済規模の点で彼らがリーダーの座を明け渡した時代は、近代以外にはないと言われており、まさにそんな稀有な時代を私たちは生きてきたのだ。
 同時に中国文化というものは、時の権力による抑圧の不幸と、出世の失敗による嘆息と愚痴、諦念が主成分であり続けたことも指摘しなければならない。真に優れた文物はほとんど、不遇と隠逸、孤高の結果から生まれたと言って過言ではないのである。したがって本作の陰で、より歴史的普遍性に近似した幾千万の愚痴っぽい『我が道を語る』が、再び執拗に語られることになるだろう。


第12回東京フィルメックス 11月19日(土)~27日(日)有楽町・銀座地区にて開催
http://filmex.net/2011/

『コンテイジョン』 スティーヴン・ソダーバーグ

2011-11-21 07:34:04 | 映画
 『チェ』2部作を最後にサボってしまい、久しぶりに見ることのできたスティーヴン・ソダーバーグの新作『コンテイジョン』はそれなりに面白く、いろいろな登場人物の犬死にであるとか、茫然自失したまま取り立てて有効な行為は何も打てないとか、そういう鈍重なる時間経過の塗り重ねが、撮影行為そのものの捕らえどころのなさとして、パンデミックという大規模な主題と対照をなしていた。
 大きな物語を集約的に語ることを、やはりこの人はどうしてもしたくないらしい。依然としてパーツ、パーツで隔離させ、パニック映画をプライヴェート・フィルムの秘密めいたコレクションとして作る。だから、地球がどこぞの町内のように見える。そして、グウィネス・パルトロウが新型ウィルスの最初の犠牲者となる一連は、いま業界で大流行りの7D/5D的な被写界深度浅めの画調。変わりませんな、ソダーバーグは。
 香港の離島に拉致された後のマリオン・コティヤールはなぜ、あれだけのことしかしないのか? 問題はそんな単純な点にあるようにも思われた。どうして普通に撮れないのか? 普通には「撮らない」ことへの説得力ある理由があいかわらず存在しない図々しさも、ソダーバーグらしくてなかなかよろしいのではないか。


新宿ピカデリー、品川プリンスシネマほか、全国で上映中
http://wwws.warnerbros.co.jp/contagion/